さよならジュピター とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋『さよならジュピター』(英題:Bye-bye, Jupiter)は、1984年に公開された東宝と株式会社イオの共同製作による日本のSF映画(特撮映画)およびその原案をノベライズしたSF小説。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
小松 左京 /
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地球に接近したマイクロブラックホールを、木星の爆発により、軌道変更させようとするプロジェクトを軸に、さまざまな人間模様を描く。人類生存のために木星破壊も辞さない技術者グループと自然保護を訴える反科学の宗教集団との対立劇に、主役とヒロインの『ロミオとジュリエット』的恋愛要素が加わり、光線銃によるアクションなども盛り込まれたが、映画作品としての評価は低い。
当時、石ノ森章太郎ら原案の『宇宙からのメッセージ』などの東映の興行的大失敗により消え掛けていた日本のSF実写映画の火を灯し続けるため、小松左京は個人資産を持ち込んでまで本映画への投資を行った。小松の著作権管理会社「イオ」は本作の製作のために当時設立されたものである。
しかし、制作費が当初予算の1/3程度に抑えられた(実質製作費は6億円、宣伝費等を含めた総制作費は10億円)上に、予定していた映画監督の死去などの不運も重なり、当初の詳細なストーリーやプロットを活かしきる事ができずにヒット作とする事ができなかった。小松によると、配給収入は8億円であり、制作費の回収も未達という興行的失敗という結果に終わった。ビデオがある程度売れ、フジテレビに放映権が売れて地上波のゴールデンタイムで放映されたものの、小松はある程度の借金まで抱える事になった。
小松が執筆した小説版は、初期の映画の脚本を基にしたノベライズである。登場人物や地球の未来社会も綿密に描かれており、むしろこちらの方が評価され、1983年にSFファンの投票によって決定される星雲賞の日本長編部門賞を受賞している。
また映画内において、ブローチ型自動翻訳機(主演の三浦友和によるアイデア)や薄型ディスプレイ(株式会社SONY中央研究所より貸与)、木星大気圏突入型探査機(NASAのガリレオ探査機で実現)プロット面のテクニカルな要素において、多くの小ネタが提示されている。
西暦2125年、太陽系外縁の開発に着手していた太陽系開発機構(SSDO)は、エネルギー問題の解決と開発のシンボルとして、2140年の実現へ向けて「木星太陽化計画」(JS計画)を進めていた。その前線基地であるミネルヴァ基地で、計画主任・本田英二は長らく音信不通だった恋人マリアと再会を果たす。過激な環境保護団体「ジュピター教団」の破壊工作グループのメンバーとして。
英二は宇宙言語学者ミリセント・ウィレムに協力し、木星探査艇「JADE-III」で数万年前に太陽系を訪れた宇宙人の母船「ジュピターゴースト」の探査を行う。
一方、英二の友人であるパイロット・キンと天文学者・井上を乗せて彗星源探査に向かっていた宇宙船「スペース・アロー」が謎の遭難を遂げる。計画責任者のマンスールの調査の末、原因はブラックホールとの接触によるものであり、しかも太陽に衝突するコースをとっている事が判明する。
太陽系を救う方法はただ一つ、木星太陽化のプロセスを応用して木星を爆発させてブラックホールに衝突させ、そのコースを変更する事だった。少年科学者カルロスらと共に木星爆破計画を進める英二。一方マリア達は、爆破阻止のために最終段階を迎えていたミネルヴァ基地に侵入する…。
1977年、アメリカではSF映画『スターウォーズ』が公開され、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のヒットも手伝って、日本ではSFブームが巻き起こる。『スターウォーズ』の日本公開は1978年となり、日本でもヒット間違いなしと言われており、この公開前に日本でも『スターウォーズ』に便乗したSF映画が各社で作られた。東宝では『惑星大戦争』、東映では『宇宙からのメッセージ』である。実は『惑星大戦争』の制作前に、東宝側から小松左京に原作提供の申し入れがあったのが、本作を制作するきっかけとなった。かねてから日本でも『2001年宇宙の旅』に匹敵する本格SF映画を作りたいと念願していた小松は、即席の便乗企画でなく、改めて本格的なSF映画をということで、東宝と合意。東宝は急遽、『惑星大戦争』を制作し、1977年12月に公開した。
以前、1976年にアニメ制作会社東京ムービーに依頼されて、テレビアニメの原作として考えていたストーリーを原案に、小松は1977年暮れから、当時の若手SF作家を中心に集合をかけ16回に及ぶブレーン・ストーミングを行なった。参加したメンバーは、豊田有恒、田中光二、山田正紀、野田昌宏、鏡明、伊藤典夫、井口健二、横田順彌、高千穂遙といった面々で、当時の日本SF界の中核が動員された。NASAのボイジャー計画の最新の木星の探索データが取り入れられ、また、ハードSFで知られるSF作家の石原藤夫にも声がかかり、映画に登場する天体の軌道計算という考証面で協力した。軌道計算のシミュレーションは、当時出始めの8ビットCPUのパソコンで行なわれ、映画の宣伝も兼ねてパソコン雑誌でも紹介された。その結果は木星の質量でブラックホールの軌道を変えたとしても、ブラックホールの影響を吸収しきれず、地球の公転軌道が大きく変わってしまうというものであった。いくつかのシミュレーションがあり、条件によってなんとか人類の生存が可能な状況になるものもあった。
1979年半にシナリオの初稿は完成。併せてアメリカでの著作権登録も行なう。これは、初稿が上映時間3時間を越え、外国人俳優数百人を要するというスケールの大きさから、小松がアメリカとの合作も視野に入れたためである。後に現実にアメリカの映画会社から原作を買い取りたいという申し出があったが、アメリカ人を主役とし、小松を制作には関与させないという契約条件で、合作ではなくアメリカ映画として制作するというものだったため、小松が断ったという逸話がある。あくまで小松は日本人の手で本格SF映画が作りたかったのである。以後、4度目の改稿からは監督を務めることになる東宝の橋本幸治も加わって登場人物とストーリーを刈り込み、6度の改稿の末、撮影用の台本は完成した。
映画化に先駆けて、映画の初稿脚本を原作としたノベライズを1980年から週刊サンケイに連載したが、豊田有恒、田中光二、山田正紀との連名で発表されていた。これは小松が多忙で執筆できない場合に備えたものだったが、結局代筆がされることはなく、単行本化の際には小松単独の名義になった。連載中の1981年、小松は本作制作のために、株式会社イオ(個人事務所)を設立し、本作を東宝とイオの共同制作とする。小松は脚本執筆のみでなく、総監督として現場の指揮も執ることになり、映画化の全般に責任を負う体制を敷いた。
1983年3月に撮影用台本は完成。小松の『日本沈没』映画化作(1973年)を監督した森谷司郎を再び監督に予定していたが、森谷の死去に伴いその助監督だった橋本幸治を監督に起用。特技監督は、新鋭の川北紘一が務め、4月に特撮、5月に本編がクランクイン、7月末にクランクアップ。編集や合成、音響制作作業を経て、完成したのは1983年10月のことである。
本作は、特殊撮影において『2001年宇宙の旅』や『スターウォーズ』を意識しており、これらの作品で使われた撮影技術を取り入れて、日本映画の技術的な遅れを取り戻すとして、精巧なモデルの製作やモーション・コントロール・カメラなどの新技術導入の経緯がパンフレットなどで紹介された。
本作に登場する宇宙船のプロップの大半は、当時まだ学生だった小川正晴を中心とする小川模型グループ(現:オガワモデリング)が製作。宮武一貴のデザインを再現したプロップ群は東宝川北組の特撮とも相まって現在も高い評価を受けている。ミニチュアモデルはオガワモデリングが長い事保管していたが、後に譲渡され2004年から放送されたテレビ特撮番組『幻星神ジャスティライザー』に流用された。また、1985年に開催された国際科学技術博覧会(つくば科学万博)の三菱未来館の未来映像にも使用されている。
日本の特撮映画では初めてロボットアームを使用してモーション・コントロール・カメラによる撮影を行った。日本には映画撮影用の専用機はなく、ロボットはアマダ製の工業用(「アボット」の愛称)を流用した。それでも精密機器には変わりなく、スタッフは扱いに非常に気を使ったが、掃除のおばちゃんがパネルの上で雑巾を絞っていても大丈夫で、アマダの技術者は「こいつは意外とたくましいんですよ」と胸を張ったという。その一方で、日本特撮の伝統芸である「吊り」によるミニチュアワークも随所に見られる。この「吊り」もブルーのワイヤーを使うことで、ブルーバック合成すると完全に見えなくなるような新しい試みもされている。
ミニチュアと実写の合成では「ダイレクト・マット・プロセス」という手法も使われた。フィルム撮影した画像の合成は撮影後のポストプロダクション作業の光学合成工程で行われるのが通例だったが、「ダイレクト・マット・プロセス」は撮影後の合成を経ずに撮影時点で一度に合成してしまう技術である。ミニチュア・実写それぞれに独立したレンズを向けてフレーミングを合わせ、双方の映像をハーフミラーに導いて合成し、それを撮影する。ポストプロダクション合成と比べて、撮影条件の制約は大きく、合成の修正も利かないが合成コストを低くできる利点がある。脱出用宇宙船「フラッシュバード」の船窓からコクピット内部が見える場面の合成にこの方法が用いられた。
当時まださほど精度の高くなかったCGも積極的に使用された。モニタ表示画面の殆どはパソコンで製作したものだが、撮影当時、世界に数台しかない三菱総合研究所所有のスーパーコンピュータ「Cray-1」で製作された物も一部含まれている(小松と親交のあった同研究所の牧野昇の計らいでコンピュータが空いている定時終了後の時間帯に無償で借用できた。CG製作ソフトは同研究所の予算で購入してもらい、所員もボランティアとして手伝っている)。これらはCGだけでなく、コンピュータ自体についても専門家ではない素人同然のイオの若手スタッフが作った物である。アメリカのCG製作者に発注した木星の爆発シーンは、NASA所有のボイジャー惑星探査機の画像デジタルデータを基に、日本映画で初めてCGを実景として使用したものである。またビデオ合成も検討されたが、当時の解像度ではスクリーンにかけると「まるでスダレ」(小松談)だったのでボツとなった。
映画のゲーム化を盛んに行っていたポニーキャニオンのポニカレーベルにより、映画とタイアップする形でコンピュータゲーム化が行われている。
2006年3月に月曜日から金曜日の23時55分から0時まで5分のラジオドラマ番組『小松左京DRAMANCE ~さよならジュピター~』がジャパンエフエムネットワーク系列のラジオ局で放送された。出演は、松尾貴史、イッセー尾形。
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