アグネス・チャン とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋アグネス・チャン(Agnes Miling Kaneko Chan、中国名:陳美齡(チャン・メイリン)、日本名:金子 陳美齢(かねこ チャンメイリン)、1955年8月20日 - )は、イギリス領香港(当時)生まれの歌手、大学教授、エッセイスト、小説家、日本ユニセフ協会大使。カトリック信者で、洗礼名が「アグネス」、苗字が「陳」(チャン)。教育学博士の学位を持つ。血液型AB型。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 アグネス・チャン 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
松野宏軌 /
最安値(新品): ¥ 3,639
最安値(中古): ¥ 2,429
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 陳美齡 アグネス・チャン |
|
|---|---|
| 出生 | 1955年8月20日(53歳) |
| 職業 | 歌手、タレント、エッセイスト、教育学者 |
| 各種表記 | |
| 簡体字 | 陈美龄 |
| 繁体字 | 陳美齡 |
| ピン音 | Chén Měilíng |
| 注音符号 | ㄔㄣˊ ㄇㄟˇㄌㄧㄥˊ |
| 和名表記 | アグネス・チャン |
| 発音転記 | チャン・メイリン(広東語) チェン・メイリン(北京語) |
| ラテン字 | Chan Meiling/Chen Meiling |
| 英語名 | Agnes Chan |
アグネス・チャン(Agnes Miling Kaneko Chan、中国名:陳美齡(チャン・メイリン)、日本名:金子 陳美齢(かねこ チャンメイリン)、1955年8月20日 - )は、イギリス領香港(当時)生まれの歌手、大学教授、エッセイスト、小説家、日本ユニセフ協会大使。カトリック信者で、洗礼名が「アグネス」、苗字が「陳」(チャン)。教育学博士の学位を持つ。血液型AB型。
目次 |
中学生の時に始めたボランティア活動で、ギターを手に募金を集めた。これが噂になり、香港のフォーク歌手のオムニバスアルバムへのレコーディングの話が出た。1971年にこの『Second Folk Album』と題するオムニバスアルバムで、姉のアイリーン・チャンと共にジョニ・ミッチェル作の「The Circle Game」をカバーした結果、評判が良く、シングル化もされて大ヒットした。この時期、アイリーンは香港の映画界で人気を得、日本でもテレビドラマ出演などを果たした。
1972年には姉アイリーンらと張徹監督の映画『年輕人』『反叛』に出演、映画が配給されたマレーシア、タイなどの東南アジアで人気が出た。香港のテレビ番組で知り合った平尾昌晃によって日本に紹介され、1972年11月25日にワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」で日本デビュー。当初の衣裳はロングスカートであったが、ミニスカートに変えてから人気が急上昇した。日本語ができなかった当時、事務所で食べる出前の食事には、中国系だからと毎回のように中華丼ばかりが用意されたために嫌いな食べ物になったという。
1973年、「草原の輝き」で日本レコード大賞新人賞を受賞するなど、高く澄んだ歌声と、愛くるしいルックス、たどたどしいが一生懸命日本語で歌う姿勢が受けて、人気アイドルとなった。同年の「小さな恋の物語」が大ヒットし、オリコンチャート1位を獲得。だが、前作の「草原の輝き」の印象が強烈すぎるせいか、この曲は世間一般での印象が薄く、テレビの懐メロ番組でも歌われることは少ない。
1974年、「草原の輝き」が春の選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選ばれる。また、ブロマイドの売上成績第1位に輝く。この頃、コンサートのバックバンドとして鈴木慶一とムーンライダーズを起用、司会は植田芳暁。上智大学国際学部に入学したが、父の勧めもあって、1976年に芸能活動を休んでカナダのトロント大学へ留学(編入学)、社会児童心理学科に入ったが、父は翌1977年に他界し、卒業する姿を見せることができなかった。 亡父は家訓として「本土の上海出身者はけっして信用するな」と子供達に言い聞かせていた。アグネスの父は上海出身者に騙されて酷い体験したので本土から香港へ逃れて来たのかもしれないとTVのトーク番組で告白している。
1976年のさよならコンサートの前からホットケーキがコンサートに参加。1978年にトロント大学を卒業後、8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。
1979年に香港で、初の広東語アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本ではゴダイゴとのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。1984年国際青年年記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』の主題曲「愛のハーモニー」から徳間ジャパンにレコード会社を移籍。
1985年、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。同年4月、北京首都体育館で5万4千人を動員して宋慶齢基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤カセットテープが販売された。同年、日本テレビの『24時間テレビ』のために、旱魃による食料不足状態にあったエチオピアを取材。
1986年、元マネージャーの金子力(現所属事務所社長)と結婚し、カナダで長男を出産した。翌年には仕事を再開したが、仕事場に中国人ベビーシッターと共に子供連れで現れる為、芸能界でもおおいに顰蹙を買い林真理子が論評『いい加減にしてよ、アグネス』で批判した。これを端初にアグネス論争が起き、「アグネス」が新語・流行語大賞大衆賞を受賞するほどの社会的論争となり、日本の働く母親、女性の立場を再考させるきっかけとなった(なおアグネスは独身時代に週刊平凡で「結婚したら仕事を辞める事ができる。」と話した事がある)。
1988年、飛鳥涼(現ASKA)作詞・作曲の歌「LIFE」でポニーキャニオンに移籍。1989年には米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学、現地で次男を出産。東京大学とスタンフォード大学の卒業生の10年後の姿を調査し、日米両国の男女間格差の実態をまとめ、1994年教育学博士号(Ph.D.)を取得した。この時の論文は『この道は丘へと続く』と題して2003年に日本でも出版された。
1992年前後、フジテレビ系「たけし・逸見の平成教育委員会」に生徒役として数回ゲスト出演した。国語の問題に関しては「中国語ではこう言いますよ」などと答えたことで、北野武や逸見政孝から「国語の授業って言っても、ここは日本なんだから、日本の国語で答えて下さいよ(要旨)」などの突っ込みを入れられていた。
1994年、目白大学の助教授に就任(その後、客員教授)。国際コミュニケーション学を担当。主な教え子に猫ひろしがいる。猫は「アグネス・チャンの日本語が片言だから、コミュニケーションがとれないの」とネタにしている。
1996年、香港にて三男を出産。その後もエッセイスト、共栄大学客員教授として日本全国で講演を続けた。1998年、NPO団体である日本ユニセフ協会大使に就任する(後述)。カナダで長男、アメリカで次男、香港で三男を出産し、家族がみんな国籍が違う事について問われると本人曰く「戦争があれば国境が変わり、本人の意思には関わらず国籍が変えられてしまう。いざという時に家族全員が平和な国に逃げられるように家族にいろいろな国籍を持たせたいからだ」と話している。
2000年には日本クラウンに移籍し、ロングヘアをやめてイメージチェンジして、「この身がちぎれるほどに」を歌うなど、ムード歌謡の分野で歌手活動に力を入れるようになった。8月に台場小香港に香港雑貨店「CHAN'S」を出店(現在はネット通販のみ)。
2002年には小説『パーフェクト・カップル』、『銃弾の指輪』を出版し、作家活動も開始した。翌年には月刊『すばる』に短編小説の連載もしている。2005年にリリースした、初のセルフカバー曲『草原の輝き2005』はアサヒ飲料十六茶のコマーシャルに使われた。同年9月に発売された『しあわせの花』は、手話を取り入れた振り付けで歌った。10月には広島大学の主宰する「ペスタロッチー教育賞」の14回目を受賞。
2006年2月、ジャッキー・チェンとのデュエット曲を含む英語盤CD『 Forget Yourself』をアメリカで発売した。12月には日本デビュー35周年を記念するコンサートの第一弾が行われた。年末に香港で唾液腺腫瘍の摘出手術を受けるも、その後早くも年明けから芸能活動を再開。
2007年には平和をテーマにした自作曲など3作のシングルとアルバム、それに著作を発売。また、日本各地で日本デビュー35周年のコンサートツアーが行われた。同年9月には北京の人民大会堂でのチャリティーコンサートが予定されていたが、中国共産党の指示を受けて延期された。その時に空いたスケジュールで受診した検査で初期の乳癌が発見され、10月に摘出手術を受けて無事成功、わずか1週間で芸能活動を再開している。人民大会堂万人礼堂でのコンサートは10月31日に行われ、同会場での初のポップス系コンサートとなった。
平和をテーマにした曲の第一弾は、自らピアノを弾きながら、山本伸一の詞にメロディーを付けた『そこには幸せがもう生まれているから』。カップリング曲の『みんな地球に生きるひと』は歌詞も自作である。『ピースフルワールド』の作詞も山本伸一。なお、「山本伸一」は池田大作のペンネームであることや、2007年11月、創価学会の本部幹部会に出席した為、創価学会との深いつながりを指摘されている[1][2] 。
2008年4月6日、中野サンプラザホールで開かれた、日本でのデビュー35周年記念の「世界へとどけ平和への歌声」コンサートの終演後、レコードチャイナの単独取材に応じ、2008年3月に発生したチベットでの暴動について「私には口をはさめない。歌だけで解決できないかもしれない」と話した。北京オリンピックの聖火リレーに対する、世界各地で起こった抗議活動については、「なぜ(五輪が)あるか最初に戻って考えないといけない。選手が一生懸命練習した生涯の夢をかけて集まって競い合う、人間の美しい姿と努力にみんなで感動するという祭典なので政治的なことは持ち込んでほしくない」「中国の漢民族もチベットの人々も、平和な形で解決できることをすごい望んでいる」「まず子どもたちが生きていけること。だれも死なないこと。それを望みたい」と発言した。1989年の天安門事件の際にも、各国の中国への経済制裁案に反対し、中国共産党系留学生や知識人と同一の立場を取っている。最近は政治問題に関しては、中国共産党の政策をはっきり批判することはなく、共産党政府擁護の議論を展開することが多い。
1998年に日本ユニセフ協会大使に就任したアグネスは、これまでにタイ、スーダン、東ティモール、フィリピン、イラク、モルドバ、レソト、インドを公式訪問し、現地で目にした子どもたちの窮状を伝えるほか、『わたしが愛する日本』などの著作で、平和を目指す提言を行っている。アグネス本人は「私が九八年にユニセフの大使になった」[3]、「私が大使に誘われたとき、ユニセフから『私たちは一番弱い子供の声になりたいの。だから、一緒にやってくれませんか』と言われた」[4]と語っている。
なお、「日本ユニセフ協会大使」とは、国際連合児童基金と協力協定を結んでいる民間の協力団体「財団法人日本ユニセフ協会」が任命する称号であるのに対し、黒柳徹子やオードリー・ヘプバーンらが務める「ユニセフ親善大使」は、国際連合傘下の「国際連合児童基金(UNICEF)」が任命する称号である。
日本ユニセフ協会#問題点も参照
児童ポルノについて、2008年3月11日、元法務大臣森山眞弓らとともに衆院第2議員会館で開いた記者会見の場で「子どもへの性的虐待は犯罪。ポルノを持ってもだめ、漫画を買って読んでもいけないと訴えていくべき」と発言し、森山は「自民党の小委員会では単純所持は禁止の方向で一致しており、今後具体的に進めていく」とした。アグネスはNHK『視点・論点』で、「漫画の中で、アニメの中で、子供たちは虐待されている、搾取されている」「私は子供たちの人権を守りたい」「表現の自由を守りたい」と述べ、児童ポルノの規制を訴えた[5]。。
他に、本人出演のカラオケDVD、カラオケLD、カラオケVCDがいくつかある。
| ハナ肇とクレージーキャッツ(1955年 - 1993年) |
|---|
| ハナ肇(リーダー)・植木等・谷啓・犬塚弘・安田伸・石橋エータロー(1971年脱退)・桜井センリ(1960年加入) |
| ザ・ドリフターズ(1964年 - 活動中) |
| いかりや長介(リーダー)・高木ブー・仲本工事・加藤茶・志村けん(1974年加入)・荒井注(1974年脱退) |
| ザ・ピーナッツ(1959年 - 1975年) |
| 伊藤エミ(姉・ハーモニー)・伊藤ユミ(妹・メロディー) |
| キャンディーズ(1973年 - 1978年) |
| 伊藤蘭・田中好子・藤村美樹 |
| ザ・タイガース(1968年 - 1971年) |
| 沢田研二・岸部修三・森本太郎・瞳みのる・加橋かつみ(1969年脱退)・岸部シロー(1969年加入) |
| アグネス・チャン(1972年 - 1976年) |
| ザ・ワイルドワンズ(1966年 - 1971年) |
| 加瀬邦彦・鳥塚しげき・島英二・植田芳暁・渡辺茂樹(1968年加入) |
| 天地真理(1971年 - 1978年) |
| スパーク3人娘(1962年 - 1965年) |
| 園まり・伊東ゆかり・中尾ミエ |