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アテナイ とは?

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アテナイ(アテーナイ Αθήναι)はギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人古代ギリシア都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。佐賀県ほどの領域を支配し、アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ピレウスを有していた。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


アテナイはてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  アテネ市のこと。こう表記する場合は、古代ギリシアの都市国家(ポリス)としてのアテネを指すことが多い。

出典: 『はてなダイアリー』


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おすすめ度4.0(全レビューの平均)結局、現代政治はここから始め直した方がいいのではないだろうか? 断片的な全67章のうち20章近くに抽選(くじ引き)が言及されるこの古典(索引がありがたい)は、 アリストテレスが記述したものとされている。同著者の「政治学」(大文字の政治体制について論じ たものだが、ヴェネツィアが模範にしたであろう選挙プラスくじ引きの詳細な記述を含む)にくらべ るとこちらはアテナイの実際の政治の具体的な描写のみを記録しており、読みやすく、その分、著者 の謙虚な姿勢がうかがわれる。 アリストテレスは決してアテネを理想だとは考えなかったようだが、それでもここに見習うべきもの を見い出しているようだ。 実際のくじ引きのやり方(器具の記述を含む)など、後の研究者の研究成果も全集(邦訳第16巻) にまとめられた時からさらに追加されているようである。 抽選器に関しては、年代や使い道によって、木製のポータブルなものだったり、石作りの抽選器だっ たり、使い分けていたようだ。とくに評議会選出を解説した第43章、陪審員制度を解説した第63・64 章が興味深い。その他、道路建設係や会計監査官選出にもくじ引きが使われたようだ(第54章)。 資料的には、脚注にあるスターリング・ドゥ博士による抽選器復原図(p283)が貴重だと思う。「丘のう えの民主政」(東大出版)にも転載された図だが、訳者が同博士から図を提供してもらったいきさつ もあとがきに書かれており、こうしたくじ引きを含んだ民主主義のあり方が研究途上であることをう かがわせて興味深い。 研究者以外の一般の人が読む機会は少ないだろうが、民主主義のあり方に興味のある人には、ぜひ一 度は参照して欲しい本である。  (yoji さんのレビュー)

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おすすめ度4.0(全レビューの平均) 従来のアテナイ像は多分に紋切り型であった。大別すれば、アテナイ民主政を理想視し近代民主主義の原点として捉えるか、もしくは奴隷の存在など「古代的限界」を強調するかの2つの見方しかなかったと言えるだろう。本書のアテナイ像はそのいずれでもない。  この本から浮かび上がってくるアテナイの姿は多様性と活気に満ちた、言うなれば人の息づかいが感じられる世界である。若者たちと対話をし、アテナイ民主政を批判したソクラテス。訴追を生業とし、波瀾万丈の生涯を遂げた解放奴隷アゴラトス。民主政下のアテナイで巧みに立ち回った寡頭政支持の富豪市民アントギス。「30人僭主」への復讐に燃えた富裕メトイコイの弁論作者リュシアス。彼等4人の男の生き方を個別的・具体的に追うことで、古代アテナイ社会の実相を描き出している。 アテナイ民主政は市民に多くの権利を与えると共に市民間の平等を追究した。しかしこれを実現するには市民の数を制限する必要があり、民主政の発展にともなって市民と非市民の境界を強化していった。だが市民よりはるかに数の多い非市民を疎外することは、アテナイの国力の弱体化につながる。そこでアテナイ民主政は非市民の取り込みを図るようになる。それが「メトイコイ」の制度化であり、「情報提供」制度であった。 しかし、このような精緻な制度によって自由と秩序、多様性と統一性、「私」と「公」を両立させ、当時としては最先端の政治体制を持っていたはずの古代アテナイ社会はなぜ衰退、滅亡してしまったのだろうか。 市民のみが参政権を持つ限定民主主義に問題があったのではないか。その矛盾を精妙な制度でごまかすことで、ノーブレス・オブリージュを持たない特権階級が成立してしまった。またアテナイ市民団の純血主義も「アテナイ帝国」をポリス(都市国家)に終わらせ、ローマのような開放的な領域国家への成長を妨げた。弁論術を持たない一般市民は弁舌巧みな煽動者に操られやすいという問題もあった。 権利と義務、純血主義、メディアの民衆煽動。いずれも現代日本の民主主義の問題と通じるものがある。古代ギリシアの「公と私」の問題は決して我々と無縁ではない。  (yjisan さんのレビュー)

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


アテナイ(アテーナイ Αθήναι)はギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人古代ギリシア都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。佐賀県ほどの領域を支配し、アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ピレウスを有していた。

目次

アテナイの歴史

アテナイの成立

アカイア人分派のイオニア人がアッティカ地方に定住したのは前2000年ころと推定され、紀元前1200年ころから紀元前1100年ころにかけてドーリア人の侵入をうけ周辺王国は次々と征服された。アテナイは、これを凌いで続く暗黒時代を通して王政を維持し、存続した(もっとも、当時のアテナイは経済的に未熟で土地も肥沃ではなかったためにドーリア人が攻略するだけの価値を見出せなかったからとする説もある)。このころ代々の王家に代わって、移住者の子孫であるピュロス王家が成立する。

アテナイは立地条件を生かし、エーゲ海黒海での海上交易を中心に、商業都市として発展していく。特にソロンの改革によって経済的に活性化された所が大きく、主に陶器の輸出や穀物の輸入など様々なものが扱われていく。また、アイギナコリントスの経済を巡る覇権争いでは、当初はアイギナ側に立ったが後にコリントス側に移ってその優位を助け、後にコリントスが衰退の気配を見せるとこれにとって代わった。更にこの動きに拍車をかけたのはラウリウム銀山(Laurium)の存在である。その発掘の歴史は比較的後代に始まるとされるものの、ギリシア世界では殆どとれなかったを唯一大量にとれる同銀山の本格的な採掘が開始されると、瞬くうちにその豊富な資金力でアイギナ・コリントスに急迫してやがてギリシア最大の都市に躍り出たのである。

ペルシア戦争

ペルシア戦争の展開

詳細はペルシア戦争を参照

海上交易への依存度が強かったアテナイを始めとしたギリシア諸ポリスは、小アジアにまで伸張してエーゲ海の制海権を奪おうとする大国アケメネス朝ペルシアと商業権益の対立を深めることになった。こうした中、当時アケメネス朝の影響下におかれていた小アジアにおいて、イオニア植民市の反乱が勃発した。これをアテナイが支持したことでアケメネス朝のダレイオス1世はギリシアに対して強硬策を採ることになり、ついにペルシア戦争が勃発した。これに対して、一部中立を保ったポリスもあったが多くのポリスは一致結束し、アテナイスパルタを中心としたギリシア連合軍を結成した。そしてマラトンの戦いサラミスの海戦プラタイアの戦いなどでギリシア側が勝利を収め、アケメネス朝ペルシアの侵攻を撃退することに成功した。

全盛期のアテナイ

デロス同盟(「アテネ帝国」)の勢力圏

ペルシア戦争に勝利し海上交易における覇権的地位を確立したアテナイは、ギリシア第一のポリスとなり、政治のみならず経済や文化の中心都市としても発展し、多くの人々がアテネに移り住んだ。また、前の戦争において市民による重装歩兵が都市の防衛の主役となったほか、海戦における軍艦の漕ぎ手として無産市民も活躍したことで彼らも政治的地位を向上させており、直接民主制による民主政治が確立されていった。こうした状況下で、優れた政治的指導者であるペリクレス将軍のもと、アテネは繁栄を謳歌していた。

外交面では、アテナイを盟主としてイオニア地方やエーゲ海のポリスまで含んだデロス同盟と称される軍事同盟が結成された。当初はアケメネス朝の再襲に備えたものであったが、アケメネス朝の脅威が減少するにつれ、徐々にアテネが他のポリスを支配する道具になっていった。こうして出来上がった体制を「アテナイ海上帝国」と呼ぶ事もある。当初はデロス島に設置されていた金庫はアテナイに移転され、同盟の潤沢な資金をアテナイが流用して、公共事業であるパルテノン神殿建設や海軍増強などにつぎ込まれた。

ペロポネソス戦争

ペルシア戦争によってアテナイが急激な経済発展でギリシア第一の都市国家に発展していく一方で、他のポリスは際立った戦果もなく、アテナイの一人勝ちとも思える振る舞いを苦々しく感じていた。アテナイが帝国主義的な振る舞いをするようになるとデロス同盟内のポリスから反発が起こるようになった。そして元々農業国家でペルシア戦争のもう一つの戦勝功績国スパルタは、こうしたアテナイに反対するポリスを支援して両者は激しく対立するようになった。

紀元前431年、アテナイスパルタの間にペロポネソス戦争が開始された。陸戦に強いスパルタであったが、国内に多くの被抑圧民を抱えるスパルタには長期間の遠征が無理であったことから、指導者ペリクレスは籠城戦を選択する。陸戦を耐え抜いて得意の海戦でスパルタを圧倒する作戦であった。

紀元前429年、アテナイ城内に蔓延した疫病(19世紀にはペスト説が有力であったが、実際は別の伝染病であったと考えられる)によってペリクレスが死亡した後、漸次アテナイは劣勢に立たされた。大国ペルシアはアテナイエーゲ海支配を嫌ってスパルタに海軍および軍資金を提供した。戦争は、紀元前404年にスパルタの勝利の内に終結した。

アテナイの衰退

スパルタに敗れた後のアテナイには三十人政権と呼ばれる寡頭制政権が成立し、恐怖政治を敷いた。海外領土および従属国を失ったアテナイの経済力は衰退し、またアテナイの政治は大きく乱れた。 紀元前377年アテナイは国力を回復し再度海上同盟を結成したが、紀元前338年カイロネイアの戦いマケドニアフィリッポス2世に屈服してからはデモステネスの抵抗も空しく政治的独立性を失って、アレクサンドロス大王とそれに続くディアドコイの帝国に編入された。ローマに支配されるようになった後は文化都市としてローマ人の尊敬を受けて栄え続けたが、6世紀のスラブ人の侵入以後は衰退し、東ローマ帝国の一地方都市となった。

アテナイの政治

アテナイ成立の当初は王政だったとされるが、その実態は明らかではない。その後、王政から貴族政(寡頭政)へと移行していった。しかし、商工業の発展にともなって貧富の差の拡大が進むと、一部の富裕化した平民層は、自ら武装して重装歩兵部隊を編成することが可能になった。こうして、ポリスの防衛などに平民も活躍するようになると、彼らは徐々に政治的権利を拡大していき、あいつぐ戦争を通じて身分の区別を超えた市民共同体としてのアテナイが形成されていった。

王政・貴族政

紀元前8世紀頃、アテナイ中心部へ集住(シュノイキスモス)が行われ、これがアテナイの出発点となったと考えるのが一般的である。伝承によれば王政が打倒され、まもなく貴族政(寡頭政)へと移行したとされる。当時、古代ギリシア人は各地に植民活動を行っており、植民市との間で交易が盛んになっていた。こうした中で商工業の発展が促され、一部の平民の富裕化を招く一方で、貧困層の困窮化も深刻化していた。史料上最初の政治的事件は、前630年頃にキュロンが非合法的に権力掌握を図ったというものである。しかし失敗して殺害され、僭主の地位を手にすることはなかった。紀元前624年頃にドラコンによって慣習法が成文化されたとされる。これによって、貴族による法知識の独占が崩されたことは、平民が政治に参加していく前提条件が生み出されたとも考えらている。

民主化の歩み

ファランクス

貧富の差の拡大は、アテナイ社会の深刻な問題となっていた。「六分の一(ヘクテモロイ)」と称される貧困層は債務奴隷となり他ポリスに売却されることもあったため、こうした事態がアテナイの弱体化につながる懸念もあった。一方、アテナイのかなり早期より、富裕な平民は自弁して重装歩兵となりポリス防衛などに活躍して発言力を強めており、身分によって政治参加の区別があることは、当時の社会にそぐわなくなっていた。こうした状況を受けて、紀元前594年にアルコンに就任したソロンは、市民の債務を帳消しにするとともに債務奴隷を禁止させ、アテナイ市民の地位を守るとともに、財産額によって市民の4等級に分け、その等級に応じた政治参加を認めた。これにより家柄でなく財産の多寡が政治参加の度合いを決めることになった。

ところが、ソロンの改革を巡っては、古くからの特権を保持する貴族と改革支持派が対立しそれぞれの居住区から前者は平野党(Pediaei)、後者は海岸党(Paraloi)と呼ばれた。更に後者からは急進改革派である高地党(Hyperakrioi、後に山地党(Diakrioi)と改名)が分離して、ソロンが引退すると3派が激しく争う事になった。紀元前561年に権力を掌握した僭主ペイシストラトスは、山地党の支持を受けて、中小農民の保護育成につとめ貴族に打撃を与えた。僭主を倒したクレイステネスは、紀元前508年に10部族制を創設し市民を再編して五百人会の設置とオストラキスモス(陶片追放)を採用した。

古代民主政の発展と確立

ペルシア戦争に勝利したアテナイは、サラミスの海戦などで三段櫂船の漕手として活躍した下層市民の発言権が強まり、ペリクレス時代に「民会」や「五百人会」等古代民主政の全盛時代を迎えた。全ての公職が市民に解放され均等に割り当てられた。また、経済的に任に堪えない市民に対しては「公職手当」が支給された(後世、ソクラテスプラトンは「市民を怠け者にした」として、これを激しく非難するが、実際に「公職手当」を受けて生活していたのは病弱者や高齢者など労働に耐え切れない市民が大半であった)。

公職は、毎年改選される将軍職を除いて、その地位を希望する市民に対して籤引きで決定された。籤引きは神による選択の現れとも信じられていて、アテナイ人はそれが純粋に民主的であると考えていた(これに対してソクラテスやアリストテレスは専門的知識が必要な決定ですらそれを持たない市民で決められてしまうと批判するが、こうした批判はある程度までは正しいと言わざるを得ない、なぜなら後にソクラテスは専門的な法律知識を有する者が参加していない籤引きで選ばれた裁判官の先入観によって、死刑判決が下されたからである)。

アテナイの経済

初期アテナイ経済

初期のアテナイはギリシアでも後進地域であり、土地は痩せて産業もない都市国家であった。暗黒時代に破壊を免れたのは都市のあまりの貧弱さに侵略者であるドーリア人が攻撃の価値を見出せなかったからだという説さえある。また、それゆえに独自の通貨を持つだけの国力も無くアイギナの貨幣・経済圏の支配下に置かれていた。

アテナイが経済的に注目されることになったのは、ソロンの改革以後の事である。ソロンはアテナイの産業不振の原因をアテナイ市民が商業や工芸の仕事を奴隷の仕事として卑しんでいるからだと考えて、故国を追われて亡命先を求める職人や貿易商人をアテナイに招聘できるように市民権獲得条件を緩和した。また、当時ギリシア最大の商業都市であったアイギナと商圏が重なる事から、アイギナの貨幣圏から離脱してコリントス通貨圏に移った。これによって、外国から招き入れた職人達によって高度な陶芸技術がアテナイに持ち込まれて、アテナイが陶器の産地として知られる事となるとともに、アイギナ商人が及ばないコリントス経済圏に市場を広げる結果となった。

また、続くペイシストラトス時代にはマケドニアから来た鉱夫によってラウリウム銀山の本格採掘が始まった。銀が採れないとされてきたギリシア世界で唯一本格的銀山を保有するアテナイはこれによって独自の貨幣(銀貨)の生産を可能にしてギリシア世界の経済を支配する立場に立ち、食料自給率の低い(推定で約3割から5割)アテナイにとっては貴重な食料や船舶の材料である木材の輸入を可能にした。勿論、銀山で働いていたのは奴隷達であったが、彼らの監督者はアテナイの財政を左右する要職として一流の市民が選ばれたと言う。更にペルシア戦争最中の紀元前483年にラウリウム近くのマロネイアからも大規模な銀山が発見されると、当初は全市民に毎月産銀を分配する計画であったが、間もなく当時の指導者・テミストクレスの提案によって、その産銀を海軍予算にあてる事が了承された。アテナイがペルシアに勝利するだけの海軍力を得たのも銀の成果であり、それは食料や木材の輸入ルート確保にも重要であった。

ギリシア世界の経済支配

ペルシア戦争勝利後のアテナイはデロス同盟の盟主としてその勢力の拡大に力を尽くした。紀元前433年にケルキュアコルキュア)を巡って対立したかつての経済的盟友・コリントスを破り、2年後にはかつてのライバルであったアイギナをデロス同盟の傘下に収めた。これによって、アテナイはギリシア最大の都市国家に上り詰めた。その一方で、アテナイはデロス同盟参加国が収める年賦金を自国財政に公然と流用するようになり、アイギアはじめとする各国の貨幣鋳造権を取り上げてアテナイ貨幣使用を強制していた。

一方で、アテナイにも経済的弱点があった。経済的な台頭が遅かった事もあって、植民地拡大競争では他の都市に乗り遅れてしまったことである。遅ればせながら植民地を創設して「クレールーキア(klèrouchia)」と呼ばれるアテナイ市民権の保証と引き換えに従属義務を負う契約を結んだ都市の建設に乗り出した。しかし、それが十分進まないままにペロポネソス戦争が始まってしまったために、信用が十分置ける都市国家の不足とアテナイ籠城策による人口の過密化とそれに由来する都市問題・食料問題の深刻化、更には指導者・ペリクレスの命すら奪った大疫病の発生など、全てがアテナイ側への不利に働く結果となった。

ペロソポネス戦争とアテナイ経済圏の崩壊

ペロソポネス戦争によって、軍事大国スパルタと同国の経済的劣勢を支えたコリントスを敵に回したアテナイの指導者・ペリクレスは籠城による長期戦を計画する。だが、籠城によって余りにも人口が多くなったアテナイを人口過密からくる諸問題が襲い、自らの首を絞め始めた。更にペリクレスはアテナイの支配地域の農地は肥沃ではなく食料自給率も低いので敵に農地を荒らされても食料は輸入で補えばいいという考えであったが、商工業を卑しむ傾向があったアテナイ市民の中には農園経営者が多く、ペリクレスの死後に籠城の長期化による農地の荒廃に不満を抱くものが続出して、強引な出撃策に出てはスパルタ軍に撃破されると言う戦術的な誤りを犯す事になる。やがて、敵であるペロポネソス同盟に匹敵する面積・人口を誇ることを十分に理解しないままに乗り出したシチリア遠征に国力を注ぎ込んで壊滅し、その隙を突いたスパルタ軍のアッティカ進出、更には同軍の煽動によるラウリウム・マロネイア両銀山における奴隷鉱夫の反乱とその逃亡、さらにデロス同盟加盟国の離反によって、アテナイはその経済を支えてきた銀の生産・船舶・同盟年賦金の全てを失った。そして、制海権を奪ったスパルタ・コリントスなどのペロソポネス同盟海軍はアテナイ海上封鎖に成功して、アテナイ飢餓状態に陥った。これによって、アテナイは降伏へと追い込まれることになった。

アテナイの社会と文化

最盛期のアテナイは、3万~4万人の市民(成年男子で構成・家族を含めると15万人)、奴隷8~10万人、商業や学芸などに従事する在留外国人(メトイコイ)1万~15,000が居住した。男子は7歳になると、私学に通って読み書き、計算、体育、音楽を修得した。成人男子は、戦争や民会への参加、平時にはアゴラ (αγορά)に集って哲学論議に花を咲かせ、体育に汗を流した。女性の地位は低く家庭内に籠もって15歳位で親が決めた30歳位の男性と結婚した。

奴隷は解放されることもあったが、農業、商業、手工業、鉱山業、家内の雑用、公文書の記録・保管、市中警備などあらゆる部門に酷使された。4~5人家族であれば、男子奴隷1名を公共工事に従事させて得る報酬で生活することもできた。

ギリシア各地から学者、芸術家が集まり文化の花が開き、哲学のソクラテスプラトンアリストテレス、劇作家のアイスキュロスソポクレスエウリピデス(→ギリシャ悲劇)、アリストパネス(→ギリシャ喜劇)、彫刻家のペイディアス、歴史家のトゥキディデス、著述家のクセノポンらが輩出し、その後のヨーロッパ世界に強い影響を与えた(皮肉な事に彼らの多くがその後のアテナイの没落を目にして民主制に否定的な思想を唱えていく事になる)。

神話の中のアテナイ

ギリシア神話中では、アテナイオリュンポス十二神の水神ポセイドンと女神アテナが、その当時まだ名前の無かったアテナイの領有権をめぐって争い、それにアテナが勝利したため、女神の名にちなんでアテナイとされたとされている。 その争いとは、アテナイ市民により有益なものを作り出したほうを勝者とする者であり、ポセイドンは泉の中から馬を出し、アテナはオリーブの木を生み出し、オリーブの油の方がより有益であると市民に判定されたとされる。

関連項目


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