エリザベス1世 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋エリザベス1世(Elizabeth I, ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年3月24日)、イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。テューダー朝最後(第6代)の女王。当時弱小国家であったイングランドの独立を維持し、「よき女王エリザベス」と慕われた。別名グロリアーナ(Gloriana、「栄光あるもの」の意)。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 エリザベス1世 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| エリザベス1世 Elizabeth Ⅰ |
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| イングランド女王 | |
戴冠式のエリザベス1世
実際は17世紀に入ってからの製作 |
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| 在位 | 1558年11月17日 - 1603年3月24日 |
| 戴冠 | 1559年1月15日 |
| 別号 | アイルランド女王 |
| 出生 | 1533年9月7日 |
| 死去 | 1603年3月24日 69歳 |
| 埋葬 | 1603年4月28日 |
| 王家 | テューダー家 |
| 王朝 | テューダー朝 |
| 父親 | ヘンリー8世 |
| 母親 | アン・ブーリン |
エリザベス1世(Elizabeth I, ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年3月24日)、イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。テューダー朝最後(第6代)の女王。当時弱小国家であったイングランドの独立を維持し、「よき女王エリザベス」と慕われた。別名グロリアーナ(Gloriana、「栄光あるもの」の意)。
目次 |
1533年9月、ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの間に生まれた。父ヘンリー8世はアン・ブーリンと結婚するため、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚をローマ教皇国に要請したが、法王はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可が下りなかった。ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「独立した帝国」であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。
しかしアン・ブーリンは1536年、反逆罪でロンドン塔にて斬首刑に処せられた。母の処刑後、異母姉メアリー1世同様、エリザベスは私生児扱いとされたが、父王の最後の妃となったキャサリン・パーの嘆願により王女に復権され、キャサリンの元で養育される。
父王の死後、エリザベスは一時ロンドン塔に幽閉されるなど冷遇され続けたが、過激なプロテスタント優遇政策をとらせた異母弟エドワード6世、カトリックへの回帰を宣言してプロテスタントを迫害したメアリー1世らが死去した後、1558年11月17日に即位した。
エリザベスは父の政策を踏襲して再び「国王至上法」を発令、「礼拝統一法」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけた。1569年にはカトリックを信仰する北部諸侯の乱を鎮圧し、1570年に教皇ピウス5世から正式に破門宣告された。以後エリザベスは何度となく、国内のカトリック勢力による暗殺の危険にさらされた。一方、この時代にはフランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなど優れた航海士が生まれた。
1568年、フランス育ちでかつてフランス王フランソワ2世の妃でもあったスコットランド女王メアリーが、スコットランドの内紛でイングランドへ逃げ込んでいた。始めは賓客扱いであったが、メアリーはイングランドに18年半滞在した後、北イングランドで処刑される。エリザベスはメアリーを処刑したがらなかったが、側近達が生かしておくには余りに危険な存在であると主張したのである。メアリーは伯母マーガレット・テューダーの孫であり、イングランド王位継承権を持っていたためである。
カトリック教徒だったメアリーの死後、スペインとの対立が深刻化した。財政難を補うため私掠船に掠奪許可証を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪をさせていたことも理由の一つである。こうして1588年、ついにスペイン無敵艦隊の侵攻を受ける(英西戦争)。イングランドの艦隊は必ずしも盤石ではなかったが、海賊上がりのドレーク提督以下、機動力の高い小型艦と射程距離の長い大砲を駆使し、アルマダ海戦において無敵艦隊を倒し大勝利を収めた。スペイン海軍は嵐にも巻込まれ、スペインに戻ることができた軍艦はほとんどなかったと言う。このアルマダ海戦での大勝利以後、スペインに代わりイングランドが世界貿易を一手に握るようになっていく。
晩年は「囲い込み」によって発生した大量の難民に対処しきれず、発布した「エリザベス救貧法」も効果がなかった。また、対スペイン戦やアイルランドの反乱鎮圧のために軍事費が増大して、社会不安が増加した。逼迫した財政立て直しのため独占許可状を乱発するも、議会の猛反対にあい、やむなく撤回するはめとなった。しかし、この際の演説は「黄金のスピーチ」として今も語りぐさである。
文化的にはエリザベスの時代、ウィリアム・シェイクスピアを始めとする文筆家を多数輩出して一大文化を築いた。
1603年3月、後継者にスコットランド王ジェームス6世(メアリーの息子)を指名し、崩御した。
かねてから「私は国民と結婚しました」と公言し、生涯独身であった事から処女王(the Virgin Queen)と呼ばれている。しかし、実際にはレスター伯ロバート・ダドリー、エセックス伯ロバート・デヴルー(レスター伯とエセックス伯は義理の親子)、ウォルター・ローリー卿など、数人の愛人を持っていた。特にダドリーとは一時は結婚まで考えたが、その妻エイミーが階段から落ちて死亡する事件が起こり、ダドリーとの共謀説が流れたため、結婚を断念した。ローリー卿は新大陸(アメリカ)にエリザベスに因みヴァージニアを建設するなどし好意を得ていたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉される。エセックス伯に対しては、女王が老齢に達していたこともあり寛容であったが、1601年2月、エリザベスに対して反乱を起こすに至り、エセックス伯の処刑を命じた。
歴史家によって分かれるが、
などがある。
未だローマ教皇庁などは、エリザベスが王位に就いた事実はないとしている。「正当な結婚によって産まれた子どもにしか相続権がない」という考え方を適用し、イングランド王位継承権でメアリ1世に次ぐ者はメアリ・ステュアートであったとしているためである。エリザベスを公式に異端と断罪した1570年以降、スペインなど大陸のカトリック勢力はメアリをイングランド女王と認めており、その処刑後はフェリペ2世の娘イサベル・クララ・エウヘニアを女王に擬する動きまでみられた。2001年に出版された“Elizabeth I and her Conquests”でも、統治したかしていないかの議論から始まる。これは一コマ漫画だが、統治したとしている人物はプロテスタントの牧師、していないと主張している方の人物はローマ教皇の姿をしている。
一方で国内におけるエリザベスへの忠誠心と人気は異常に強く、国内の反乱分子として迫害されたカトリック教徒の大半も女王に忠誠を誓っていた。女王の人気は死後も長く保たれ伝説化し、続くステュアート朝の王は民衆からエリザベスを基準に比較されて、低い評価を与えられていた。
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