エリック・クラプトン とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋エリック・パトリック・クラプトン CBE(Eric Patrick Clapton CBE、1945年3月30日 - )はイングランドのサリー、リプリー出身のギタリストでブルース&ロックミュージシャンである。身長177cm 「スローハンド」というニックネームが有名である[1]。 ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第4位[2]。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 エリック・クラプトン 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| エリック・クラプトン | |
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| 基本情報 | |
| 別名 | スローハンド |
| 出生日・地 | 1945年3月30日(63歳) |
| ジャンル | ブルース ブルースロック フォークロック ハードロック サイケデリックロック レゲエ |
| 担当楽器 | ギター |
| 活動期間 | 1963年~現在 |
| 共同作業者 | ヤードバーズ クリーム ブラインド・フェイス デレク・アンド・ザ・ドミノス |
| 影響 | B.B.キング ロバート・ジョンソン アルバート・キングなど |
| 公式サイト | ericclapton.com |
| 著名使用楽器 | |
| ブラッキー ブラウニー |
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エリック・パトリック・クラプトン CBE(Eric Patrick Clapton CBE、1945年3月30日 - )はイングランドのサリー、リプリー出身のギタリストでブルース&ロックミュージシャンである。身長177cm 「スローハンド」というニックネームが有名である[1]。 ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第4位[2]。
目次 |
ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと共に、3大ギタリストと呼ばれていた。今もロックやブルースのギタリストの多くに影響を与え続けている。
クラプトンのプレイは、ブルースに影響を受けることから出発している。特にアルバート・キング、ロバート・ジョンソン、エルモア・ジェイムズなどのブルース・ギタリストから受けた影響は、彼のプレイ、音楽性によく現れている。クリーム時代の"Strange Brew"で披露したアルバートを模倣したソロなどはそのいい例である。1990年代以降ポップ色を強めたあとも、彼のプレイの根底には常にブルースがある。
クラプトンの功績は、「アフリカからアメリカに奴隷貿易によって連れてこられた黒人たちが起源の黒人の大衆音楽」=「ブルース」を、白人の感覚で解釈し直したことにある(ホワイトブルース)。ブルースの精神をロックと融合させることによって、より広い世界で鑑賞できる音楽に発展させた。また、ギターを単なるヴォーカルの伴奏から脱皮させた功績も大きい。
クラプトンのキャリアは、ルースターズから始まる。クラプトンは1963年1月から8月まで在籍。その後、ケイシー・ジョーンズ・アンド・ジ・エンジニアズに参加。程なくロンドンでも注目を集めていたバンド、ヤードバーズに迎えられる。1963年の秋である。ヤードバーズでのプレイが認められ、その存在が注目されるようになったが、バンドはポップ路線を志向するようになり、クラプトンは他のメンバーと意見が対立。1965年にバンドを去ることになる。直接の原因は、「フォー・ユア・ラブ」のレコーディングの際、クラプトンが推薦する曲を他のメンバーが無視し録音しなかったことに腹を立てたと言われる。(その後、前述のジェフ・ベック、ジミー・ペイジが相次いで「ヤードバーズ」に参加する。)
ヤードバーズ脱退後、ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズに参加。ここでクラプトンは、ヤードバーズ以上にストレートなブルースの世界を追求している。オーティス・ラッシュ、フレディ・キングらのナンバーをプレイするメイオール時代は、クラプトンの原点的なものと言えるだろう。彼らのナンバーはその後のキャリアにおいても度々取り上げられ、また本人たちとの共演も行っている。この頃、ロンドンの街中に“CLAPTON IS GOD”の落書きが現れ、「ギターの神」と呼ばれるようになった。(ただし、クリスチャンであるクラプトン本人は、このあだ名をけっして望んでいない)。
その後、ジャック・ブルースやジンジャー・ベイカーらと「クリーム」を結成。メンバーの即興演奏をフィーチャーしたジャム・セッションや実験的な音楽で、ビートルズに対抗できる唯一のバンドと言われた。しかし、才能をぶつけ合い素晴らしい演奏が生まれる一方で、メンバーのエゴの衝突により人間関係が悪化、バンドは空中分解する形で解散。その直後、スティーヴ・ウィンウッドや先のベイカーらとブラインド・フェイスを結成し、1枚のアルバムを残して解散した。
クラプトンは新天地を求めてアメリカに渡り、南部のミュージシャンと組んだデレク・アンド・ザ・ドミノスを経て、様々なセッションにギタリストとして参加する一方、本格的なソロ活動をスタートした。現在もソロ活動を続け、自ら作曲し歌い(当然、ギターを弾き)、適時にヒット曲を出す。1974年9月14日付のシングルチャートではボブ・マーリーのカバー曲である、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(I Shot The Sheriff)でナンバー1を獲得しているが現在の所、クラプトンのシングル第1位は、この1曲のみとなっている。
1970年代には薬物依存症、1980年代にはアルコール依存症、交通事故、胃潰瘍、愛妻パティ・ボイド(親友でもある元ビートルズのジョージ・ハリスンの前妻)との別離を経験。
1990年代初めには、イタリア人女優との間にもうけた初めての子供が、ニューヨークの高層マンションの窓から転落死するといったように、数々の災難に遭い人生の辛酸を味わったが、そのたびに立ち直り、そうした経験を糧にますます演奏に奥行きを加えて、世界の第一線のミュージシャンとして活躍を続けている。かつての多くの音楽仲間が薬物で命を落とし、あるいは加齢とともに音楽活動から遠ざかる中で、生き残ったクラプトンが1980年代末ごろを境に音楽活動に再び本気で取り組みはじめた意義は大きい。
1991年、自らのバンドを従え、ジョージ・ハリスンのバックバンドに徹して参加し、日本だけのツアーを敢行。途中、ジョージの休憩を兼ねて、自らの楽曲を演奏するコーナーもあった。ジョージの世界ツアーの呼びかけに対して、亡くなった自分の息子の為の楽曲の録音をツアーの為にキャンセル。ジョージとしては、これが最後のライヴツアーとなった。そして亡くなった自分の息子に贈った歌が名曲「ティアーズ・イン・ヘヴン」(Tears In Heaven)である。なお、この曲は1992年に全米シングルチャート第2位を記録している。さらに1993年には年間最優秀曲に選ばれ、この歌が収録されたアルバムも最優秀アルバム賞を獲得。
1996年、映画『フェノミナン』にカバー曲、「チェンジ・ザ・ワールド」を提供している(元々はカントリー・シンガーのウィノナ・ジャッドが歌っている)。この曲でクラプトンはグラミー賞のソング・オブ・ジ・イヤーを獲得している。ちなみにプロデューサーはベイビーフェイス。
世界各国でのツアーを行い、来日公演も多数(2006年秋=17度目)。クラプトン本人は大の日本好きであることも知られており、ツアーでなくプライベートでも格闘技イベント(PRIDE)を観戦するためなどで来日している。
また、20世紀末頃から何度かあった「来日は今回が最後」発言についても、「『最後』という言葉を使うと、客が沢山入ると思った。」という、本人のインタビューでの回答があったことから、ツアーを続けていることへの「言い訳」とも、単なる「ジョーク」ともいわれている。「『大規模な』ツアーは最後になる」と言っただけであったが世界中のメディアが屈解して報道してしまったのが真実である。
ただ「クラプトン引退」とまで報じられた2001年のワールドツアーを最後に、「ティアーズ・イン・ヘブン」や「チェンジ・ザ・ワールド」などの90年代のヒット曲は演奏しなくなる。
イギリス女王即位50周年式典のライヴでは、ジョージ・ハリスン死去への追悼として、元「ビートルズ」のポール・マッカートニーと共に、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスを演奏し、当時の録音同様リードギターを担当し、加えて特別にリードボーカルも担当する。
1999年、かねてから自身の所有するドラッグ更生診療所「クロスロードセンター」への資金捻出のために所有するギター104本をニューヨークのクリスティーズのオークションに出品した。その中には「愛しのレイラ」をレコーディングしたストラトキャスター「ブラウニー」が含まれていた。2度目のオークションは2004年6月24日に開かれ、出品された56本の中には彼の使用したギターで最も有名で長年愛用したブラッキー('56年製のフェンダー・ストラトキャスター)の愛称を持つギターも含まれ、当初の落札予想価格を大幅に越え最終的に95万9,500ドル(およそ1億520万円)の価格がつけられ「世界一値段の高いギター」となった。エリックは友人でもあったジミ・ヘンドリックスがライブパフォーマンスでよくギターを壊すことから、彼へのプレゼントとして、ツアー先で楽器店に立ち寄る都度、程度の良いストラトキャスターを見つけては購入していた(ジミ・ヘンドリックスは左利きのフォームでギターを弾くが、右利き用のストラトキャスターをそのまま流用していた)。ツアーが明け、エリックが買い求めた幾本ものギターをプレゼントする直前に、彼はドラッグ・オーバードーズで死んでしまったため、結局プレゼントするにはいたらなかった。エリックは自身が買い求めた同じ型のギターをパーツごとに分解し、それぞれのパーツで最も良いものを1つずつ選んで一本のギターにしたのがブラッキーだという逸話も、世界一値段が高くなる要因を作ったともいえる。
2004年11月3日、イギリス政府より、ナイトの爵位に次ぐとされる、「大英帝国第三級勲位」(CBE)が授与された。
2005年にはクリームの再結成ライヴが5月に4公演(5月2、4、5、6日)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール、10月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで3夜連続で当時のオリジナルメンバーで行われた。また同年1月19日に愛・地球博のテーマソングとして作詞、作曲を手がけた「Say What You Will」をSMAPが、「友だちへ~Say What You Will~」としてカヴァーし発売した(日本語詞は竹内まりや) 。
日本でのアルバム売り上げは1999年発売のベストアルバム『BEST OF』が200万枚[3]、1992年発売のライブアルバム『アンプラグド』が120万枚[4](全世界では1500万枚)など。
なおトンカツが大好物である。来日したときには自ら「世界一お気に入りのレストラン」と称する原宿のトンカツ屋へ足を運ぶが、注文するのはチキンカツである。また来日中は寸暇を惜しんで買い物をするのは有名な話で、ブランドシューズであるレッド・ウィングのショップには来日ツアー中何度も訪れて(時には一人で訪れた)日本のみのモデルを合計10足以上買っていった(本人によると日本のサイズ=インチではなくセンチサイズが丁度いいらしい)[要出典]。またアルマーニに寄って棚一列全部買い占めたなどという逸話がある。
詳細はエリック・クラプトンの作品を参照
ギターコレクターであり、何百本ものギターをコレクションしたりオークションに出している。それらギターの中でもとりわけ使用頻度の高いものを挙げる。
| アルバム |
|---|
| エリック・クラプトン - 461 オーシャン・ブールヴァード - 安息の地を求めて - ノー・リーズン・トゥ・クライ - スローハンド - バックレス - アナザー・チケット - マネー・アンド・シガレッツ - ビハインド・ザ・サン - オーガスト - ジャーニーマン - フロム・ザ・クレイドル - ピルグリム - ライディング・ウィズ・ザ・キング - レプタイル - ミー&Mr.ジョンソン - バック・ホーム |
| ライヴ・アルバム |
| エリック・クラプトン/レインボウ・コンサート - エリック・クラプトン・ライヴ - ジャスト・ワン・ナイト〜エリック・クラプトン・ライヴ・アット武道館〜 - 24ナイツ - アンプラグド〜アコースティック・クラプトン - ワン・モア・カー、ワン・モア・ライダー〜ベスト・ライヴ |
| バンド |
| ヤードバーズ - ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ - クリーム - ブラインド・フェイス - デラニー&ボニー&フレンズ - デレク・アンド・ザ・ドミノス |
| プロデューサー |
| トム・ダウド - グリン・ジョンズ - フィル・コリンズ - ラス・タイトルマン - サイモン・クライミー |
| 関連人物 |
| ジョージ・ハリスン - アルバート・リー - ネイザン・イースト - アンディ・フェアウェザー・ロウ - ビリー・プレストン - スティーヴ・ガッド |
| 関連項目 |
| エリック・クラプトンの作品 - ブラッキー |