オリックス・バファローズ(Orix Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。大阪府を保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム(京セラドーム大阪)を専用球場(本拠地)、兵庫県神戸市須磨区の神戸総合運動公園野球場(スカイマークスタジアム)を準本拠地としている。
同球団の二軍(ウエスタン・リーグ所属)の球団名はサーパス。本拠地は兵庫県神戸市北区にある北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)で、同市須磨区に練習場と合宿所が設けられている。
2004年シーズン終了後、当時パシフィック・リーグに加盟していた大阪近鉄バファローズと合併、旧オリックス・ブルーウェーブが存続球団となり、2005年シーズンから現在の球団の形となった。このページで取り上げる球団の歴史や各種チーム記録等は存続球団の阪急→オリックスの分について触れるが、解散球団の大阪近鉄のそれらについては大阪近鉄バファローズの項目を参照。
| オリックス・バファローズ |
| チーム名 |
オリックス・バファローズ |
| 会社名 |
オリックス野球クラブ株式会社 |
| 加盟団体 |
パシフィック・リーグ |
| 創設年度 |
1936年 |
| チーム名の遍歴 |
阪急軍(1936年 - 1946年)
→阪急ベアーズ(1947年)
→阪急ブレーブス(1947年 - 1988年)
→オリックス・ブレーブス(1989年 - 1990年)
→オリックス・ブルーウェーブ(1991年 - 2004年)
→オリックス・バファローズ(2005年 - ) |
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フランチャイズ
の遍歴
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兵庫県(1952年 - 2004年)→大阪府・兵庫県(2005年 - 2007年)→大阪府(2008年 - ) |
| 本拠地 |
京セラドーム大阪 |
| 収容人員 |
36477人 |
| オーナー |
宮内義彦 |
| 運営母体 |
オリックス |
| 監督 |
大石大二郎 |
| タイトル |
リーグ戦:12回、日本シリーズ:4回 |
| 優勝年度 |
(リーグ戦)
1967、1968、1969、1971、1972、1975、1976、1977、1978、1984、1995、1996
(日本シリーズ)
1975、1976、1977、1996 |
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プレーオフ
(前後期制)
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5回 - 2勝3敗(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
1973、1974、1975、1977、1979 |
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クライマックス
シリーズ
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1回 - 0勝1敗(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
2008 |
| 表・話・編・歴 |
球団の歴史
西宮時代
阪急軍時代
低迷期
黄金時代
- 1967年、西本幸雄監督の下で長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍、リーグ初優勝。
- 1967年~1969年、1971年、1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツ(ON率いる川上巨人)を倒すことができなかった。
- 特に1971年の日本シリーズ第三戦(後楽園球場)は語り草となっている。この試合は阪急優位の試合となっており、このまま勝てば日本一の可能性が浮かび上がっていたのである。9回表が終わって、1-0とリードしていた。しかし9回裏、絶好調の山田久志が絶不調の王貞治に逆転サヨナラ3点本塁打を浴び、チームは敗退。その後、巨人の3連勝で1勝4敗と敗退したのである。
- 1975年
- 1976年
- 史上初めて前後期ともに優勝し、プレーオフを戦うことなくリーグ優勝を決めた。
- 日本シリーズでは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと対戦。3連勝の後3連敗で窮地に追い込まれたが、迎えた第7戦では敵地後楽園の熱気溢れる満員のジャイアンツファンの大声援を敵に回しながら、ベテラン足立光宏の粘りのピッチングにより4対2で勝利し、ついに念願の「ジャイアンツを倒しての日本一」を達成した。
- 1977年
- 1978年
- 2年前同様に前後期連続制覇を達成しているが、これは10年間続いたパ・リーグの2シーズン制ペナントレースの中で、阪急だけが達成した快挙である。
- 日本シリーズでは広岡達朗率いるヤクルトスワローズと対戦したが3勝4敗で敗れシリーズV4は果たせなかった。またこのシリーズ第7戦では、ヤクルトの主砲大杉勝男の放ったレフトポール際に切れたかに見えた飛球を、セ・リーグ富沢審判がホームランと判定し、上田が1時間19分の猛抗議を行った。
- 1979年
- 前年の日本シリーズでヤクルトに敗れ、上田監督が辞任。後任に梶本隆夫ヘッドコーチが昇格。山田久志が21勝5セーブ、加藤秀司が打率.364 本塁打35 打点104の大活躍で後期優勝を果たすも前期優勝の近鉄にプレーオフで3敗。5連覇はならず無敵の時代は終焉した。
- 1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは反対に、球団経営は悪化した。
- 1982年、阪急西宮球場のスコアボードが関西初の電光掲示板となり「アストロビジョン」として親しまれた。
- 1984年
- 75勝45敗10分で2位ロッテオリオンズに8.5ゲーム差を付けて優勝したが、これが「阪急」としての最後の優勝となった。
- ブーマー・ウェルズが打率.355、本塁打37、打点130の成績で外国人選手として初の三冠王に輝いた。
- 1986年、球団創立50周年を迎え、ファンサービスの強化や戦力の充実により観客動員が伸び、関西パ・リーグ球団で初めて100万人を超える動員(114万5000人・球団発表)を記録した。惜しくも優勝は逃したが、ストッパーとして活躍したアニマル・レスリーが咆哮パフォーマンスで全国的な人気を集めた。
- 1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。黄金期を支えた福本、山田もこの年限りで引退した。この時、小林公平は「(阪急電鉄として)プロ野球チームを持つ使命を終えた」とコメントした。球団譲渡した最大の理由は西宮北口駅前・梅田阪急村の再開発を迫られた為と言われている。ちなみに、阪急電鉄はのちに阪神電鉄との経営統合により、再び球団(阪神タイガース)を傘下に持つことになる(この時、経営母体の変更に伴って「新規加盟」扱いとなり、保証金の供託を求められた)。
- 1989年
- チーム名をオリックス・ブレーブスに改称。オリックスブルーとブレーブスゴールデンイエローを基調にしたユニフォームとなる。阪急側からの球団譲渡の条件を満たすため、その後2年間は「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続された。
- 1988年に完成した神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を準本拠地とすることも発表された。完成した1988年は5月の対南海ホークスとの1試合のみだった主催試合がこの年は14試合、1990年も13試合組まれた。当初1989年はダイエー戦は13試合を全て神戸で行う予定だったが、雨天中止のため2試合は西宮で行われた。
- 南海から移籍の門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なしの2位となった。
神戸時代
- 1991年、神戸に本拠地を移し、一般公募により愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。他にも上田利治の監督退任など「脱阪急」色が進む(上田の後任監督は神戸出身の土井正三)。
- 1992年、田口壮、イチローが入団。後の黄金時代への礎となった。ただ両者ともに土井正三監督の指導方針との折り合いが著しく悪かったため、実力を発揮するのは数年後になる。ただイチローに関しては野手が高卒後2年間で即結果を残すことは野球界において一般的では無いので一概にそうとは言い切れない部分もある。
- 1994年、仰木彬が監督に就任。名将の就任と有望な若手選手の台頭でチームには明るいムードが漂った。イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録(その後2000年に自らが更新)。このイチローの活躍は社会現象にまでなり、その功績に対してオフには正力賞が贈られた。イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり(最終順位は2位)観客動員も球団新記録を大幅に更新した。
- 1995年
- 1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催は不可能かとも言われた。しかし球団を挙げて被災地復興の一躍を担いたいという強い思いのもと、神戸でのペナントレース実施に踏み切った。準備不足が懸念されたものの、「がんばろうKOBE」を合言葉に戦いを挑むチームは目の色が違った。
- 4月19日、野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成。
- 6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となる。7月末に早くもマジック点灯。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では大きく勝ち越した。
- 8月26日、佐藤義則が近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)において史上最年長でのノーヒットノーランを記録。
- 「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日には球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れる
- 被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援によりチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
- 1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたものの、覇者の貫禄を見せて9月上旬には逆転、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決にイチローのサヨナラ安打で勝利を収めてリーグ2連覇、「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでも巨人を4勝1敗と圧倒し、地元神戸で日本一に輝いた。観客動員数は過去最高の179万4000人を記録。
- 1998年、この年のドラフト会議で、「ダイエー以外の指名ならば大学へ進学する」と意思表明していた沖縄水産・新垣渚に対して1位指名を強行、当時の福岡ダイエーホークスと競合の末に交渉権を獲得。新垣側は入団拒否を言明してオリックス球団側の担当スカウトだった編成部長三輪田勝利の接触すら拒むなど難航を極めた。この状況を当時のオリックス球団社長だった井箟重慶など球団上層部が厳しく叱責した結果、ケアのしようがないほど精神的に追い詰められた三輪田が11月27日に那覇市内で投身自殺に追い込まれる事件を引き起こしてしまう(遺書はなかったが、これらの事情から三輪田の死は職務遂行上の自殺であったと断定され、翌1999年に労災認定が認められた)。
- この時、井箟は三輪田の自殺を受けての記者会見の席上で「球団に責任があったとは思っていない」と暴言を吐いて大きな問題となり、激しい非難にさらされた。また新垣本人や家族・学校関係者にも痛烈な批判が続出した。
- 2000年
- ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸に改称する。
- 4位に終わり、12年ぶりのBクラス転落を喫する。シーズンオフにイチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。これ以降、主力選手の流出が相次ぎ、チームは急速に弱体化の一途を辿る。
- 2001年、またしても4位に終わり、本年を以て仰木が勇退。また、「イチロー後」を担える存在が台頭せず、集客力・話題性の低下が露となる。
- 2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と投高打低に陥り、阪急時代以来の39年ぶり2度目の最下位。
- 2003年
- 石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が壊滅し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録し2年連続最下位となる。規定投球回数到達者もゼロだった。
- 本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。
- 2004年
- 前年まで西武ライオンズを率いた伊原春樹を監督に招聘、ダイエーから村松有人をFAで獲得、阪神で実績を残したムーアを獲得するなど、積極的にチーム改革に取り組み期待を集めたものの、いざシーズンを迎えるとまたしても投手陣が崩壊(防御率5.65)、3年連続最下位。近鉄との球団統合もあり、伊原もこの年限りで辞任する。
- 9月、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年~1992年:近鉄監督、1994年~2001年:オリックス監督)が監督に復帰。史上最年長・69歳での監督就任となる(2005年4月29日に70歳の誕生日を迎え、史上初の70歳台の監督となった)。
合併後
- 2004年
- 12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった。球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。
- 近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになった(球団事務所は2006年オフに大阪市に移転した)。
- ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、同じく神戸も本拠地に据えながら、両球場共に30試合余りを開催。2005年、Yahoo!BBスタジアムはネーミングライツ契約切れと、Yahoo!BBの親会社であるソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、スカイマークスタジアムに改められた。
- 2005年
- 合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰により、チームの成績は前年最下位から、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをしたものの結局4位でシーズンを終え、プレーオフ進出を逃がす。
- 仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に70歳で逝去)。2006年から中村勝広GMが監督に就任。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。
- 12月19日、プロ野球実行委員会はオリックスの専用球場を2006年度からスカイマークスタジアムに変更する事を承認した。しかし、大阪ドームとのダブルフランチャイズの変更はせず、双方の球場で34試合ずつを主催する。その後オリックス(正式には子会社のオリックス不動産)が大阪ドームの施設を買収する方針を固めた。
- 2007年
- 協約上はダブルフランチャイズ制であったが、京セラドーム大阪を専用球場とし、大阪48試合、神戸22試合(他東京ドーム遠征2試合)を開催。
- 1月6日 前川勝彦が大阪市内で女性をひき逃げし、さらに無免許(過去にスピード違反で免許取り消しになっていた)であったことが発覚、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。球団は1月18日前川を懲戒解雇処分とし、前川は5月7日懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。
- 1月17日 球団と6度に渡る契約更改で交渉決裂した中村紀洋を解雇。他球団のチーム編成も完了した時期に解雇しており、選手会が野球協約に照らし合わせても問題のある交渉ではないかと厳しく糾弾する事態となった。
- 2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。
- レギュラーシーズンに入っても、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すなど、優勝争いはおろかAクラス(=プレーオフ進出)争いにすらただの1度も加わる事無く、他のパ・リーグ全5球団に負け越し、合併からわずか3年で最下位に逆戻りした。
- 他球団とのトレード等により入団した鴨志田貴司、長田昌浩、辻俊哉、ダン・セラフィニ(シーズン途中に退団)はおよそ期待外れの結果に終わった。その一方でトレード等により他球団へ移籍した谷佳知、早川大輔、中村紀洋らは移籍先で活躍し、ファンをはじめ、宮内オーナーも球団の編成方針を厳しく糾弾した。
大阪時代
チーム成績・記録
1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
- リーグ優勝 12回
- (1967年~1969年、1971年、1972年、1975年~1978年、1984年、1995年~1996年)
- 日本一 4回
- (1975年~1977年、1996年)
- Aクラス 33回
- (1953年、1956年、1958年、1964年、1967年~1969年、1971年~1979年、1981年、1983年~1984年、1986年~1987年、1989年~1999年、2008年)
- Bクラス 37回
- (1936~1943年、1946年~1952年、1954年、1955年、1957年、1959年~1963年、1965年、1966年、1970年、1980年、1982年、1985年、1988年、2000年~2007年)
- 最多勝 88勝(1956年)
- 最多敗 92敗(1963年)
- 最多引分 11分(1971年、1979年)
- 最高勝率 .678(1978年)
- 最低勝率 .353(2003年)
- ※リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 40.0ゲーム(1959年)
- 最高得点 758点(1985年)
- 最多本塁打 184本(1980年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .285(1994年)
- 最低打率 .185(1943年)
- 最高防御率 2.57(1940年)
- 最低防御率 5.95(2003年)
歴代本拠地
スポンサー
歴代監督
太字は優勝達成監督。
- 1936年~1937年 - 三宅大輔
- 1937年 - 村上実(第1次)
- 1938年~1939年 - 山下実(第1次)
- 1939年 - 村上実(第2次)
- 1940年 - 山下実(第2次)
- 1940年~1942年 - 井野川利春
- 1943年~1947年 - 西村正夫(第1次) ※1
- 1947年~1953年 - 浜崎真二
- 1954年~1956年 - 西村正夫(第2次)
- 1957年~1959年 - 藤本定義
- 1959年~1962年 - 戸倉勝城
- 1963年~1973年 - 西本幸雄
- 1974年~1978年 - 上田利治(第1次)
- 1979年~1980年 - 梶本隆夫
- 1981年~1990年 - 上田利治(第2次) ※2
- 1991年~1993年 - 土井正三 ※3
- 1994年~2001年 - 仰木彬(第1次)
- 2002年~2003年 - 石毛宏典
- 2003年 - レオン・リー
- 2004年 - 伊原春樹
- 2005年 - 仰木彬(第2次) ※4
- 2006年 - 中村勝広
- 2007年~2008年 - テリー・コリンズ ※5
- 2008年 - 大石大二郎 ※6
- ※1 ここから阪急ブレーブス
- ※2 ここからオリックス・ブレーブス
- ※3 ここからオリックス・ブルーウェーブ
- ※4 ここからオリックス・バファローズ
- ※5 2008年5月21日まで指揮、残り試合は大石大二郎が代行(8月1日まで)
- ※6 2008年8月2日より監督に昇格
- 無し
- 近鉄では鈴木啓示の1番が永久欠番に制定されていたが、合併時に消滅した。近鉄・オリックス両球団にとっても、永久欠番の扱いは合併時の課題だったが、鈴木本人が永久欠番を継続しない事を了承した。
- オリックスでは欠番としてはいなかったものの、阪急時代の福本豊の7番をつける選手はいなかったため、しばらく空き番になっていた。(今は濱中治がつけている)
準永久欠番
- 51:イチロー
- 7年連続首位打者を獲得した偉業を讃えて欠番になったもの。ファンからは「51番をつけたいという選手は出てこないだろう」と言われている。事実、2005年に監督として復帰した仰木彬に、イチロー自身が「51番は監督につけてほしい」と勧めたが、仰木も「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられん」と断っている。
歴代の球団歌・応援歌
- 阪急軍
- 阪急ブレーブス
- 阪急ブレーブス応援歌(歌:ロイヤル・ナイツ) - ブレーブスファンに最も愛された。阪急西宮球場でこの歌を歌い、チームや本拠地への愛着を強くしたファンは多い。
- 阪急ブレーブス団歌(歌:ロイヤル・ナイツ) - 「阪神タイガースの歌」と同様に歌詞が「