キヤノンのカメラ製品一覧 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ウィキペディア(Wikipedia)記事キヤノンのカメラ製品一覧は、キヤノンの発売してきたカメラ関係の製品の一覧。
銀塩カメラカンノンからハンザキヤノンへキヤノンの歴史は1934年に作られた試作機「カンノン」に始まる。 当時はライカとコンタックスの2大ブランドが市場を席捲していた。そうした中で吉田五郎(1900-1993)はあるアメリカの貿易商の「お前の国には素晴らしい軍艦や飛行機があるのになんでこんなものが作れないのか」という言葉に発憤し、カメラ作りに挑んだ。 実際に手に入れたライカを分解し、その部品を見て「これならできる」と確信した吉田は、妹婿である内田三郎(1899-1982)、内田の元部下の前田武男(1909-1975)とともにキヤノンの前身である精機光学研究所を創設、内田と親交のあった医師の御手洗毅(1902-1984、後のキヤノン初代社長)の支援を受けて、試作機「カンノン」を作り上げた。 しかし考えの違いから吉田は研究所を去ってしまう。一方研究所はカンノンを市場に送りこもうと、レンズや距離計など光学系の設計・製造で日本光学工業(現ニコン)の協力を得て、また販売を近江屋写真用品と契約し、1936年に第一号機「ハンザキヤノン=標準型 ニッコール50mm F3.5付き」を発売した。 レンジファインダーカメラ初期(軍艦型トップカバー)ハンザキヤノン以降、1960年代に入るまでレンジファインダーカメラがキヤノンの主力製品であった。 レンズマウントは、当初はコンタックスのようなボディ側にピントリングを持つバヨネットマウントを搭載していたが、シリーズ最後の目測式レンズ交換カメラとなった「普及型(J型、1939年発売、太平洋戦争により中断し戦後1946年から戦後普及型-J II型として再発売された)」、「普及型(スロー付)(1939年発売、太平洋戦争により中断)」や戦後の距離計連動機「S II型」(1946年発売)に独自のねじマウント[1]が使われるなどの変遷を経て、最終的にはS II型の途中からライカLマウントに切り替わった。キヤノンではこれをライカLマウントとは呼ばず、標準ねじマウントと呼んでいた。 戦後は、対米輸出商品の花形として戦前とは比べ物にならないほど高品質なカメラが開発されていった。「ライカに追いつき追い越せ」という標語を掲げ、前述のS II型から当時のライカが持っていなかった一眼式距離計ファインダーに続き、世界初の変倍式ファインダーを搭載する「II B(2B)型」(1949年発売)を開発し、駐留軍人などに人気を博した。優秀な軍艦や飛行機があるのにカメラが開発できないといわれた日本が、その軍備を使い果たして敗戦を迎えたのを機に日本製カメラの品質を認められることとなったのは皮肉であった。 実用化が難航した1/1000秒シャッターも「III(3)型」(1951年発売)で搭載された。同年には世界初のワンタッチ式フラッシュバルブ取り付けレールを持つ「IV(4)型」も誕生した。 翌1952年には、IV型に完全ダイキャスト化などの改良を施した「IV S(4S)型」を経て、II B型以来の一眼式ファインダーの搭載や変倍ファインダーの内蔵に加え、世界初のX接点によるスピードライト同調を実現した「IV Sb(4Sb)型」を世に送り出した。このカメラはついにライカを超えたとまで言われ、キヤノンを一流のカメラメーカーとして世界に認知させることに大いに貢献した。洗練されたボディデザインから今でもレンジファインダー時代のキヤノンを代表する名機と呼ばれることが多い。1954年にはより完成度を高めた「IV Sb改(4Sb改)型」も発売され、IV Sb型とともに現在でも人気の高い機種となっている。 後期(新型トップカバー)IVSb改型をはじめとする距離計連動カメラで次々に成功を収め、ライカを抜き去るのも時間の問題かと思われた矢先の1954年、ライツからライカM3が衝撃的に登場した。従来通りの品質の高さに加えこれまでとは段違いの機能の高さから他社は次々に廃業・合併、あるいは開発路線を一眼レフカメラへ変更してゆく中、キヤノンはあくまでレンジファインダーカメラにおいての新たな道を模索した。ライカへの対抗心は強く、ライカが持っていない機能を探してはマイナーチェンジをしてでも搭載した。 従来通りの高速・低速2ダイヤル式を維持しながら、軍艦型のトップカバーをやめて洗練された直線的なデザインに変更し、より迅速な巻上げができるとされた底部トリガー巻き上げ、フィルム交換が容易な裏蓋ちょうつがい式開閉、外付けのファインダーなしで35ミリ広角レンズも使用できる新型変倍ファインダーなどを装備した「VT(5T)型」(1956年)を発売してライカM3の対抗機とした。約1年後の1957年、早速当時のライカM型にはないクランク巻き戻し装置を装備し、裏蓋安全ロックを追加した「VT Deluxe(5Tデラックス)」を発売する。 翌年には「VT Deluxe型」のトリガー巻上げを一般的なレバー巻上げに直した「VL(5L)型」を発売した。レバー巻上げの搭載がこれだけ遅かったのはトリガー巻上げにこだわりがあったからであるが、レバー巻上げを望む声も多かったため発売された。 さらにシャッターダイヤルを一軸不回転、標準と中望遠レンズ用アルバタフレームを内蔵しつつさらにファインダー倍率を引き上げた「VI(6)型」シリーズ(1958年~)を発売した。不回転シャッターダイヤルとなったことで、着脱式露出計「キヤノンメーター」に対応した。 また、「V型シリーズ」「VI型シリーズ」と併行して、大幅なコストダウンを図ってより廉価にカメラを供給することを目指した「L2型」「L1型」「L3型」(いずれも1957年発売)を発売、「L3型」ではボディ価格を最高級機種「VT Deluxe型」より26,000円も安価にすることに成功した。翌年にも同様のコンセプトで「VL型」を簡略化した「VL2型」を発売した。1959年には変倍式ファインダーを等倍固定・3重フレーム式に簡略化し、値段もL3より大幅に安くなった「P(ポピュレール、Populaire)型」を発売した。「L3」より安価にもかかわらず、当時高級機にしか搭載されておらずL3にも装備されていなかった1/1000秒シャッター、1軸不回転式シャッターダイヤル、巻き戻しクランク、セルフタイマーを搭載していたため、「低額高級機」として爆発的ヒットとなった。「キヤノンメーター」にも対応している。 コストダウンの技術は高級機にもフィードバックされ、高級機の値段は急激に下がっていくことになった。 その後、ついにM型ライカと同様の採光式ブライトフレームファインダー[2]を搭載、ねじマウント外周への外爪バヨネットマウント追加により史上最高の明るさをもつレンズ「キヤノンレンズ50mmF0.95」や望遠レンズ用ミラーボックスを装着可能にし、距離計連動式35ミリ判カメラで初めてシャッター速度と内蔵露出計を連動させた「7型」を1961年に送り出す。 この「7型」はキヤノンのレンジファインダーカメラの最高峰に位置する機種だが、コストダウン技術が進み「P型」より廉価に供給できるようになった。レンズも同様に価格改定が行われ、キヤノンレンズ交換式レンジファインダーカメラ至上最多の生産台数を記録し、国産レンズ交換式レンジファインダーはもはやキヤノンの独擅場となった。 しかしヒット直後からレンジファインダーカメラは急速に廃れ始め、CdS露出計を持つ後継機「7S型」(1965年)をもってついにキヤノンはレンズ交換式レンジファインダーカメラ開発から撤退することとなり、熾烈な開発競争の間に一眼レフを次々に開発していた日本の他メーカーにキヤノンは大幅な遅れを取った。 レンズキヤノンは戦前からカメラの開発にあわせて、レンズの開発にも取り組んでいた。 戦前には主に日本光学からニッコールが供給されていたが、その一方で自社製のレンズも開発し、社内公募により「セレナー」の名称が与えられた。しかし戦前はセレナーレンズの付いたカメラは発売されず、セレナーを標準レンズとした最初のカメラは戦後のS II型であった。その後ニッコールレンズの供給は無くなり、正式にセレナーはキヤノンカメラ用のレンズとなった。しかし、セレナーの名はIVSb型が発売された1952年ごろから事実上固有の名が無い「キヤノンレンズ」に切り替わって、その後セレナー名は二度と使われなかった。 スクリューマウント用レンズである「キヤノンレンズ25mmF3.5」、「キヤノンレンズ28mm F3.5」、「キヤノンレンズ35mmF1.5」は、当時いずれもその焦点距離で世界最大口径のレンズであった。一方、レンズの価格をコストダウン技術でどんどん安価に設定していき、国内外のカメラメーカーのみならず、相対的に安い価格でレンズを供給していたレンズ専業メーカーをも驚嘆させた。 先述の「7型」用バヨネットマウント用では今日まで一般撮影用ライカ判50mmレンズで史上最大口径を維持し続けている超大口径レンズ「キヤノンレンズ50mmF0.95」をはじめ、超望遠撮影などを可能にしたミラーボックスも開発。ミラーボックス用レンズはヘリコイドユニットの交換によりRマウント用レンズとしても使用可能な設計であった。 マニュアルフォーカス一眼レフカメラRシリーズレンジファインダーカメラ時代末期からキヤノンは一眼レフカメラを開発していたが、レンジファインダーカメラからの転換が遅かったため、他社に遅れを取っていた。特に日本光学には「ニコンF」が報道機関で使われることもあってか、大差をつけられていた。 日本光学のニコンF発表に遅れること2ヶ月の1959年5月、まだ開発の主力をレンジファインダーカメラに置きながらもキヤノン初の一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」が誕生する。ニコンF同様に交換式のアイレベルプリズムファインダーを装備し、外付けの専用露出計を連動させるレールを持っていた。また、レンズマウントに磨耗の恐れが無いスピゴット式[3]の大口径マウントを採用し、当時世界最速作動とされた自動絞り機構「スーパーキヤノマチック」を搭載したレンズに対応していた。マウント名称はRマウントと名づけられた。巻き上げ方式は底部レバー方式で、一般的な上部レバー巻上げより迅速に操作ができるとされた。 しかしプロカメラマンにはニコンFが持つ視野率100%のファインダーが絶大な支持を受け、アマチュアカメラマンにも先発のアサヒペンタックス、ミランダT型・S型、ミノルタSRに先取りされて注目の機会を逃してしまい、キヤノンフレックスは全くの不振に終わることになる。 以後シャッター速度1/2000秒を搭載した「キヤノンフレックスR2000」(1960年発売)、底部巻上げと交換ファインダーを廃して廉価になった「キヤノンフレックスRP」(1960年発売)、セレン光電池による露光計の内蔵に成功した「キヤノンフレックスRM」(1962年発売)を開発するが、いずれも全く評価されなかった。この4機種を「Rシリーズ」一眼レフカメラと呼ぶ。 Fシリーズ前期(FLマウント)売り上げ不振の理由がキヤノンらしからぬデザインの無骨さやスーパーキヤノマチック搭載の代償として存在した巻上げの重さ[4]、使用感の悪さであると判断したキヤノン一眼レフカメラ設計陣は、早くもキヤノンフレックスと決別し新たなマウントを持つ新シリーズ一眼レフを開発することとなる。そのトップバッターは1964年4月に発売された「キヤノンFX」であった。 CdSによる露出計を内蔵し、マウント寸法はRシリーズから引き継がれたものの自動絞り機構はチャージ不要の一般的なものに変更され、マウント名はFLマウントとなった。以前のRレンズはFLマウントカメラにも取り付けは可能だが自動絞りの互換性はない。このFLマウントはレンズを通った光を直接測るTTL測光の時代を見越して開発されていたが、しかしすでに1963年には東京光学(現トプコン)から最初のTTL方式カメラトプコンREスーパー、1964年には旭光学(現ペンタックス)のアサヒペンタックスSPが相次いで発売され、またしてもキヤノンは開発の遅れを痛感することになる。一方内蔵露出計は邪魔であるとするユーザーの声に応え、とりあえずFXからメーターを取り払った「キヤノンFP」を6ヶ月遅れの同年10月に発売する。 その一方、TTL一眼レフでは他社に出遅れた分を得意の新技術による差別化で対抗しようと、他社が考えもしなかった奇想天外な発想のTTL一眼レフを開発することになった。1965年に登場した「キヤノンペリックス」は、米デュポンの開発したマイラーフィルムにハーフミラー加工した「ペリクルミラー」を反射ミラーとして用い、レンズからの光をフィルム面に7割、ファインダーに3割通す、「瞬きしない一眼レフ」であった。ミラーが半透明であることを利用し、シャッター幕直前に絞込みレバー操作で繰り出すCdSセンサーを置き、文字通りレンズからの光を直接測光する機構であった。 このペリックスは大きな話題を呼んだものの、あまりに特殊すぎて売り上げが伸びることはなかった。特にペリックス最大の特徴である半透明ミラーはその機構や特性から「撮影時により多くの入射光を必要とする」「傷や汚れが撮影結果に悪影響を及ぼす」「ファインダーからの入射光に弱い」などの欠点を併せ持っていたため、当初顧客層として狙っていた上級ユーザーにはかえって敬遠された。 翌1966年3月、一般的なクイックリターンミラーを持つTTL測光一眼レフ「キヤノンFT QL」が発売される。部分測光とフィルムローディングを容易にしたQL機構を装備して他社製品との差別化を図る一方、「キヤノンペリックス」にもQL機構を搭載して「キヤノンペリックスQL」としてリニューアルした。しかし、売り上げが伸びたのは「キヤノンFT QL」のほうであった。 Fシリーズ後期(FDマウント)
キヤノンニューF-1 - 1984年のロサンゼルスオリンピック開催記念モデル
「キヤノンFT QL」ではそこそこの売り上げを記録したが、プロ向けの分野において、依然ニコンとの差は開くばかりであった。 この遅れを挽回するために、「プロの使用に耐えうる最高級機を開発すべし」という意見を受け、5年の開発期間を経て1971年に「キヤノン F-1」を世に送り出す。マウントは新たに開放測光が可能で自動露出への対応もできるFDマウントになり、レンズもマルチコートの施されたカラー写真時代のラインナップに切り替わった。細かな調整が不要ですぐに使える各種アクセサリによる膨大なシステムを持ち、シャッター連続10万回動作といったプロの使用に不足のない耐久性や環境性能を実現した。その大きさと重量、堅牢性から「重戦車」と言われたほどである。この「キヤノンF-1」で、ようやくキヤノンの名は多くのプロに認められることになる。 途中マイナーチェンジ(キヤノンF-1改)はあったが、「10年間は不変」と発売時の謳い文句にしたとおり1981年の改良型モデル「キヤノンニューF-1」登場までシステムを変えなかった。オートフォーカスデジタルカメラ全盛の中、いまだにこの「キヤノンニューF-1」を使用し続けるカメラマンも少なくない。 一方、ミドル・エントリークラス市場では、「キヤノンFT QL」のあとに登場した他社の開放測光機が大きなシェアを得ており、特に日本光学の「ニコマートFTN」やミノルタの「SR-T101」に大きく出遅れた状態が続いていた。「キヤノンFT QL」の時代には絞込み測光と開放測光はそれぞれに一長一短があるとされていたが「キヤノンF-1」の基礎開発をしている1~2年の間に、市場は開放測光を求めるようになっていた。 キヤノンは絞り込み測光機しかない現状に危機感を抱くとともに、ニコマートが開放F値の連動に別操作を要していることなどから競争の余地があると判断、「キヤノンF-1」の技術をフィードバックしたキヤノンの中級機で最初の開放測光機「キヤノンFTb」を開発、「キヤノンF-1」と同時に発表した。マウントはまたも変更になったものの、「キヤノンF-1」の評判によって「キヤノンFTb」もかなりの評価をもって受け入れられた。「キヤノンFTb」は後に巻き上げレバーに指当てがつくなどの小改良を受け「キヤノンFTb-N」になった。 一方、当時小西六(現コニカミノルタホールディングス)が一眼レフカメラのAE化(シャッター速度優先)においてリードしており、さらに旭光学からも世界初の電子シャッターによる絞り優先AE一眼レフ「アサヒペンタックスES」が登場、翌1972年には日本光学からも絞り優先AEが可能な「ニコマートEL」が登場する。キヤノンでは後にキヤノンAE-1となる電子シャッターを用いたシャッター優先AE一眼レフを開発していたが、ワインダーやズームレンズ、コンピュータといった先進装備を多数盛り込む予定であったため、開発に時間がかかっていた。そこで、開発期間が短縮できるユニットシャッターに注目、コパルが開発した「コパルスケヤS」を使ったシャッター速度優先AEカメラを開発することになった。「コパルスケヤS」は機械式シャッターだったが、低速シャッターを充実させるため低速制御用機械ガバナーを電子制御に改造し、30秒までのシャッター速度をシャッター速度優先AEで使用できる「キヤノン EF」(1973年)を開発した。コパルのユニットシャッターが使われたマニュアルフォーカス一眼レフはキヤノンではこのキヤノンEFだけだが、ずっと後のEOSシリーズではコパル製のシャッターユニットが積極的に使われることになる。 Aシリーズそしてさらなるカメラの自動化・電子化の流れから、コストパフォーマンスが高く誰でも失敗なく撮れることを目指し、1976年に世界初となるマイクロコンピュータ内蔵AE一眼レフカメラ「キヤノン AE-1」を発表した。量販機としては異例の開発費と期間をかけて、カメラの動作をすべて電子制御化し、徹底的な合理化によるコストダウンでオプションの外付けワインダー(秒間約2コマ)やズームレンズなど当時はプロの道具だった装備を一般化した。ワインダーによる軽快な撮影スタイルを強調した「連写一眼」のキャッチコピーをつけて販売され、過去の不振からは想像できないほどのヒット作となった。 一方、カメラメーカーの間では、キヤノン・コニカなどのシャッター速度優先陣営と、ニコン・ペンタックス・ミノルタなどの絞り優先陣営に別れる傾向が生じ、ユーザーの間ではどちらが実用に有利かという論争が続いていた。 そこへミノルタが世界初のシャッター速度優先と絞り優先の両方のモードを持つ「XD」を発表(1977年)すると、負けじとキヤノンは翌1978年キヤノンAE-1の技術をベースに両優先に加えプログラムAE、実絞りAE、スピードライトTTL・AEといった多彩な露出モードを搭載した5モードAE搭載一眼レフカメラ「キヤノン A-1」を発売、アマチュアカメラマンのシェアをミノルタと争う状態となった。当時ミノルタはレンジファインダー時代のキヤノンのライバル、独ライツと提携しており、不思議な因縁を感じさせられる。 続いて海外需要によって現れた絞り優先測光の異端児「キヤノンAV-1」(1979年)、キヤノンAE-1にプログラム露出などを加えた「キヤノンAE-1プログラム」、来るべきオートフォーカス時代への先鞭としてキヤノンAV-1をベースにCCDセンサーを用いてピント位置を検出・表示するフォーカスエイド機能とマニュアルシャッターを追加した「キヤノンAL-1」(1982年)を開発、Aシリーズはカメラの電子化による超多機能化という目標を達成して終焉する。これらAシリーズで培った電子化テクノロジーは「キヤノンニューF-1」にも生かされることとなった。 Tシリーズ1983年からは、従来の一眼レフの概念にとらわれない新たなコンセプトを模索したTシリーズを開発。良くも悪くも実験的要素の強いカメラが開発されていった。 この年に登場した「キヤノンT50」は、キヤノンの一眼レフカメラとしてはじめてモーター内蔵の自動巻き上げ方式を採用、露出制御は当時の一眼レフ離れの傾向にあわせ、プログラム露出のみとした簡単一眼レフだった。当時キヤノンのコンパクトカメラとしてヒットしていた「オートボーイ」の上位というイメージを狙って「オートマン」という愛称をつけたが、売り上げを伸ばしたのはオートボーイのほうであった。 1984年の「キヤノンT70」では、モーター巻上げに加え初めてカメラ上部に液晶パネルを装備、操作も押しボタンによるものに変化した。シャッター速度優先AEとマルチプログラムAE、実絞りAEを装備し、一眼レフ離れの中でもよく売れた機種だった。 1985年4月には専用レンズ[5]によるオートフォーカスを実現した「キヤノンT80」が登場した。しかしそれはミノルタが世界初の実用的オートフォーカスシステム一眼レフカメラ「α7000」を発表した2ヶ月も後のことだった。キヤノンT80を始めとする、各社の実験的オートフォーカス一眼レフはα7000によってすべて蹴散らされた。 1986年の「キヤノンT90」はルイジ・コラーニのバイオフォルムを取り入れたボディデザインで話題となり、また電子ダイヤルや大型液晶パネルの採用・撮影情報の記録[6]・PCとの接続など当時考えられる機能を満載しつつ、デザイン的・機能的にも後のオートフォーカス機EOSシリーズのベースとなった。「タンク」の愛称で発売され、キヤノンF-1以来のプロユース高級機として人気を博した。その一方で、一刻も早く実用的なオートフォーカス一眼レフを開発してミノルタに追いつこうと、EOSシリーズ開発へ猛進していった。キヤノンT90は、国内向けのカメラとしては最後のFDマウントカメラとなった。 レンズレンジファインダー時代と同じく、マニュアルフォーカス一眼レフのレンズにおいてもマウントがRマウントからFLマウント、FDマウントへと移り変わっていったが、レンジファインダー時代のようにマウント方式や寸法を変えなかったため、最低限の互換性は残った。しかし、度重なるマウント変更は少なからず顧客離れの原因になった。 また、スピゴット式マウントは「確かに磨耗は無いが、着脱が煩雑だ」という声が強かったため、NewFDレンズではカメラ側のマウントを変えることなくバヨネット式マウントのようにワンタッチで装着できる機構の開発に成功している。 機械部分と同様、キヤノンはレンズ技術においても画期的な技術を開発した。蛍石の人工結晶化に成功、1969年に世界初の蛍石採用レンズ(ノートを参照)「FL-F300mm F5.6」を世に送り出したのを始め、実用的な一眼レフ向け超広角レンズ「FL19mmF3.5R」や標準ズームの評判の悪さを挽回した「FD ZOOM 35-70mm F2.8-3.5 S.S.C.」の製品化に成功、あらゆるレンズ製品に非球面レンズやスーパー・スペクトラ・コーティングなど、先進の技術を惜しみなく投入しており、キヤノンニューF-1から投入されたニューFDレンズからは蛍石や非球面レンズなどを組み込んだ高性能高級レンズ群を「Lレンズ[7]」と称した。このLレンズの精神はEOSシリーズにも引き継がれている。 そのほかのマニュアルフォーカス一眼レフカメラ
オートフォーカス一眼レフカメラ(EOSシリーズ)1985年にミノルタ(現・コニカミノルタホールディングス)が世界初のオートフォーカス一眼レフカメラシステム「αシステム」とともに代表機種「α7000」を発表、一眼レフカメラ業界に大きな衝撃を与えた(いわゆる「α-ショック」)。 このときキヤノンでは「キヤノンT80」という、FD互換マウントの専用レンズ限定のオートフォーカス一眼レフを販売したが、まだまだ実験的な要素の強いカメラで、発売がα7000の登場直後であったため販売は不振に終わった。 各社はミノルタの成功に触発されオートフォーカス一眼レフ開発に乗り出すが、キヤノンもそれに追いつかんとばかりにキヤノンらしい完成度の高いカメラを開発した。1987年に投入したEOSシリーズである。「EOS」とは、当時のシリーズ全体の開発コード「Electro-Optical-System」の略であり、ギリシャ神話に登場する女神の名でもある。 他社のオートフォーカス一眼レフとは全く別の開発方針をとり、その中核として旧来のFDマウントシステムを捨て[8]、新開発の大口径完全電子マウント「EFマウント」を採用した。連動爪のような機械的連動機構を完全に廃し、オートフォーカス駆動・AE制御はレンズに内蔵したコンピュータと駆動機構にて行い、レンズ・ボディ間の信号のやり取りは電気信号だけという全く新しいものに切り替えてきた。この新マウントによってこれまで実現不可能だったAE機構搭載のシフトレンズ「TS-Eレンズ」や超大口径レンズ「EF50mm F1.0L USM」を実現することとなり、大口径マウントと超音波モーター(USM)を使う事によって極超望遠レンズ「EF1200mm F5.6L USM」を世に送り出した。 また、先進の技術を他社に先駆けて一早く取り入れており、超音波モーターとそれを使う事で実現したフルタイムMF機構、静粛静穏のサイレント機構、多点測距オートフォーカス機構、多分割評価測光AE機構、EOS 5 QDから始まった視線入力オートフォーカス機構、Image Stabilization(IS)と呼ばれる手ぶれ補正機構搭載レンズ、多層型回折光学素子(DOレンズ)など様々なテクノロジーを開発・採用してきた。特に現行フラッグシップ機「EOS-1V」では45点オートフォーカス、21分割評価測光AE、秒間最高10コマの連続撮影(パワードライブブースター装着時に限る)、防塵防滴機構など最高水準のスペックとなっている。 変わったものでは、キヤノンが1989年に発売したEOS RTおよびEOS-1N RSが挙げられる。この2つのカメラでは、ミラーに「ペリクルミラー」と呼ばれるハーフミラーの一種を使ったカメラであった。ファインダーとフィルムに常に光を分割しているためにミラーの上下をさせる必要がなく[9]、シャッターを開いている最中でもファインダーから像が消失せず、ミラーショックもないため、長時間露光やスポーツ撮影に有利であった。現にEOS-1N RSはミラーを上げないで撮影するモードにした場合、世界で初めて秒10コマの撮影ができるカメラであった。 一方で1993年には初心者にも使いやすく、小型・軽量かつ低価格化を行った「EOS Kiss」を発売、女性、特に母親などこれまでカメラを使ったことのない層を中心に、一眼レフユーザーの拡大にも成功している。 それ以来一眼レフ市場ではニコンと首位争いを続けてきたキヤノンのEOS製品だが、2000年にEOS D30を発売したのをきっかけにデジタル一眼レフカメラの市場に足を踏み入れ、それ以来他のメーカーの例に漏れず、デジタルカメラの市場が主流になってきている。 現行機種過去の代表的な機種
ダンパーゴム劣化EOSの代表的な故障として「ダンパーゴムの加水分解」が挙げられる。ダンパーゴムとは、シャッター幕を受け止めるゴム製の部品で、緩衝・防音の目的でシャッターユニット内部に取り付けられている。このダンパーゴムが加水分解すると、コールタール状に溶け出してシャッター幕などに付着し、そのまま撮影すると「下半分が写らない」など、全体の何割かが写っていないという問題が発生する。これはダンパーゴムの材質に由来する故障であり、キヤノンはこれを「経年劣化によるもの」として有償修理としている。製造から10年程度で症状が出る場合が多い。なお、初期のEOSの場合、メーカーの部品保有期間が過ぎているため修理不可能な機種もあり、修理の際はメーカーに修理可能かどうかの確認が必要となる。EOS650からEOS55までの機種に発生する。EOS55のある製造分からダンパーゴムが対策品に変わったとされている。また、EOS-1、同N、V、EOS 3、EOS620のプロ・ハイアマチュア向け機種に関してはシャッターの構造・材質の違いのためか、この問題は起こらない。 コンパクトカメラコンパクトカメラは1961年の「キヤノネット」に始まる。距離計連動、シャッター速度AE機構を搭載して2万円を切ったキヤノネットは爆発的な大ヒットとなった。発売直後は2週間分と見積もっていた在庫が数時間で売り切れたという。またハーフサイズカメラ「デミ」(1963年)も人気の高い機種で姉妹機種にはレンズ交換可能なものまであった。オートフォーカス時代に入るとアクティブオートフォーカス方式を採用した「AF35M オートボーイ」(1979年)を発売、オートフォーカスコンパクトカメラの代名詞となった[15]。さらにAPSカメラ「IXY(イクシ)」(1996年)では非常でコンパクトでありながら洗練されたボディデザインで好評を博し、APSカメラの代名詞となった。 しかし、デジタル化の波には勝てず、2007年までに、全てのコンパクトカメラの日本国内での販売が終了した。 キヤノネットシリーズ
デミシリーズ35mmハーフサイズ(18x24mm)カメラ。
その他の機種(オートボーイ以前)
オートボーイシリーズオートフォーカスコンパクトカメラシリーズ。赤外線を使用したアクティブ方式オートフォーカスを世界で初めて実用化したカメラである。
IXY(イクシ)シリーズAPS対応コンパクトカメラ。当時の「コンパクトカメラはプラスチック製」という常識を覆すステンレス外装のボディは今日のデジタルカメラのデザインにまで大きな影響を与えた。海外では「IXUS」として販売された。
スチルビデオカメラキヤノンは1986年7月に電子スチルカメラとしては世界初のレンズ交換式一眼レフタイプカメラ「RC-701」を発売した。 デジタルカメラデジタルカメラの原理・仕組みについてはデジタルカメラを参照 デジタル一眼レフからローエンドモデルまで、独自開発の画像処理プロセッサ「映像エンジンDIGIC」が実装されている。 EOSデジタルシリーズ(デジタル一眼レフカメラ)本格的なデジタル時代以前からも、コダックとの提携による既存機種をデジタル化したものは出されていたが、あまりにも高額なため、報道機関などでもごく一部でしか使われていなかった。 本格的な完全自社開発のデジタル一眼レフは2000年の「EOS D30」からになる。独自に新開発したCMOSイメージセンサーや高精度な画像処理エンジンを搭載、なおかつ従来のデジタル一眼レフのイメージを塗り替えるほどの小型・軽量化を実現し、また、このイメージセンサー内製への転換が、現在のキヤノンの優位性を決定付けることとなった。 さらに、プロフェッショナル機種として報道・スポーツ分野向けの「EOS-1D」(2001年)とポートレート・スタジオ撮影・風景写真向けの「EOS-1Ds」(2002年)を開発、特にEOS-1Dsにおいてはキヤノン初の35mmフルサイズイメージセンサーの搭載を実現した。 中級モデルは、EOS D30をベースに600万画素CMOSセンサを2搭載した、「EOS D60」(2002年)へと改良され、さらにボディにマグネシウム合金を採用し堅牢性を高めた「EOS 10D」(2003年)へと進化させた。特にEOS 10Dは20万円を切る価格で発売され、ハイアマチュアを中心に売れた。 そして、2003年には「EOS Kiss デジタル」を発売、かつてEOS Kissが一眼レフユーザーを拡大した時のように、このKiss デジタルによって、デジタル一眼レフでも小型・軽量そして低価格化の先鞭をつけ、一般ユーザーへのデジタル一眼レフの普及に貢献した。なお、「EOS Kiss デジタル」は略して「キスデジ」といわれる。 現行機種
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