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| (国旗) | (国章) |

| 公用語 | スペイン語 |
|---|---|
| 首都 | ハバナ |
| 最大の都市 | ハバナ |
| 独立 - 日付 |
スペインより 1821年9月15日 |
| 通貨 | キューバ・ペソ |
| 時間帯 | UTC -5(DST: なし) |
| ccTLD | CU |
| 国際電話番号 | 53 |
キューバ共和国(República de Cuba)、通称キューバ(Cuba)は、カリブ海の大アンティル諸島に位置するラテンアメリカの共和制国家である。島国であり、ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、ケイマン海峡を隔てて南にはケイマン諸島とジャマイカが、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国のフロリダ州が存在する。首都はハバナ。
日本の本州の半分ほどの面積を持つ島国である。地理的には北アメリカに含まれるが、広義の中央アメリカにも含まれる。「アメリカ合衆国の裏庭」と俗に呼ばれたりするが、裏庭どころではなく、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとラテンアメリカを結ぶ要路に位置している。アメリカ州初の社会主義共和国として独自の道を歩んでいるため、「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。
目次 |
正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称、Cuba(クーバ)。
公式の英語表記は、Republic of Cuba。通称、Cuba(キューバ)。
日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ(玖瑪、玖馬、久場、古巴)。スペイン語で Cuba をクーバと発音するので、クーバと呼ぶ人もいる。
国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン(Cubanacan、現在のオルギン)が由来であるとされている。
詳細はキューバの歴史を参照
キューバには、当時アラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民がおり、温厚な性格の先住民は原始的ながら平和な暮らしを続けていた。
1492年10月27日、クリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。
インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。
スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷産業を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、スペイン領アメリカ植民地第三の都市としてとして発展したハバナには大学や要塞が建設された。
19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はプエルト・リコなどと共に僅かに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、駐キューバスペイン軍を強化した。
また隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、酷い混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。 その後サン・ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると砂糖に加えて、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。
最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・セステベスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ十年余りに渡って続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。 しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。
1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティ自身は同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫ったある日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして1898年に(スペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。
1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。
「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年、1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。
不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。
1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。
1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、カストロらの政治犯に恩赦を与えた。カストロは、恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定により、キューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。
メキシコ亡命後、カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師の“チェ”エルネスト・ゲバラ(Ernesto "Che" Guevara Lynch)と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。
革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。 その後、2月半ばにカストロが首相職に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、精糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。
バティスタ政権という傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。
1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻事件)。
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共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
1962年2月3日にアメリカのケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。
なおアメリカは、1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。
アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもブッシュ大統領の所属する共和党主導で行なわれた。連邦財務省の試算によれば、2002年に合法的にキューバを訪問したアメリカ人は約16万人で、うち半数はキューバ系アメリカ人、ほかに人権団体、教育関係者、ジャーナリスト、外交官など。それ以外に罰金・禁固刑のリスクをかえりみず、カナダ、メキシコ経由で違法にキューバ渡航する者も多いと財務省当局はみている。レーガン大統領の時代、罰則は25万ドルの罰金と10年の懲役へと引き上げられている。渡航禁止が解除された場合、初年度の渡航者は100万人に達すると財務省は試算。
国連総会は11月4日、アメリカの42年間におよぶ対キューバ通商禁止解除を求める決議を可決(賛成179、反対3、反対はイスラエルとマーシャル諸島、アメリカ合衆国。この決議は今年で12回目)。アメリカ上院はさらに、外交委員会が渡航禁止解除を決議(11月6日)。
ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さない。キューバとの通商はフィデル=カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないというのがブッシュ政権の説明。
アメリカが農産物を輸出する国として、2年前、キューバは第208位であったが、現在は第35位を占めるまで急上昇している。また、かつては世界で有数の砂糖生産国であったキューバも、現在さとうきび畑の大部分を転作化、先頃開かれていたハバナでの国際貿易フェアで、米国からの参加者に砂糖の輸入を打診した。
表向きは経済制裁を継続していたはずのクリントン政権時代にハバナの米国利益代表部は大改築を行ない、現在は巨大なビルへと変貌している。
2006年7月31日、カストロ国家評議会議長(79)は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊のきつい日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。また、権限を数週間、弟のラウル同評議会第一副議長兼国防相(75)に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。
2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領は、カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した(→白色テロ)。
2007年5月、テキサス州エル・パソの連邦地裁は、キューバ航空機爆破に関与した革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放。
2007年10月30日、国連総会はアメリカに対し、トリチェリ・キューバ民主化・ヘルムズ=バートンの三法廃止と経済封鎖解除を求める決議を、1992年 - 2007年の16年連続で採択(賛成184ヶ国、アメリカ、イスラエル、マーシャル諸島、パラオは反対、ミクロネシアが棄権)[1]。
2008年2月19日、フィデル・カストロ国家評議会議長、退任。軍の最高司令官も退任する。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。
2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。
2008年8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(デフォルト)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。[2] なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。[3]
詳細はキューバの行政区画を参照
歴史的に、キューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1977年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州(Provincia)と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、更に州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。
キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。住民はまず、次に、議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執