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詳細はキリスト教諸教派の一覧を参照
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている[3]。
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。例えばフランスでは9割以上が信者であるが、積極的に信仰実践しているもの(教えを守る、教会に行く)は7割であるといわれる。
アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[4]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている[5]。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%[6]であり、中国は公式統計は不詳だが無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも道教・仏教が主であってキリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。また、中央アジアでは正教会、西アジアでは東方諸教会の信徒が少ない割合で存在している。韓国・フィリピンを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいすれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
日本国内ではキリスト教の信徒数は約200万人程度と言われ、神道約1億600万人あるいは仏教約9,600万人という数字に比すと少数派に留まる。G8の国々では信仰の自由が保証されているため、G8ではキリスト教を国教とする国は皆無であるが、人口構成上キリスト教徒が多数派でない国はアジアの一員である日本だけという特徴がある。
また、信仰形態に着目した分類として、次のような区分が用いられることもある。
キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。正統教義では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする[7]。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である[8][9]。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。 信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり[10]、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在のキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[11]。
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認する教派(セクト)は、多数派から「異端」と呼ばれることもある(自称することはない)。
「神概念を多神論的に解釈する」、「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」、「キリストの十字架(贖罪死)と復活を認めない」、「聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする」、「キリストを被造物とする」などの特徴がある。
聖霊を神の活動力とし、キリストを被造物とする理由からエホバの証人が、三位一体を否定し聖書以外に聖典を持つ理由から末日聖徒イエス・キリスト教会(蔑称モルモン教)がこれに該当し、多くの正統キリスト教から異端とされている。
歴史的には、異端と正統の違いは、視点の違いが含まれていた点にも留意されたい。
モルモン教については末日聖徒イエス・キリスト教会を参照
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教(イスラーム)は類縁関係を強調されることがある。唯一神信仰を持ち、聖典の一部を共有しているからである。
キリスト教はユダヤ教の一宗派として誕生している。『福音書』や『使徒言行録』に描かれているとおり、ナザレのイエス自身もその弟子達も皆がユダヤ人でユダヤ教徒であり、エルサレム神殿で礼拝を行い、その宣教活動も主にユダヤ人を対象としたものだった。当時のユダヤ教には多くの立場が存在し、神殿祭儀を中心にしていたサドカイ派、禁欲主義のエッセネ派、在俗の律法主義を担ったパリサイ派などが活動しており[12]、イエスの信奉者達の集団もそうした一宗派と見なされた。今日、彼らはパリサイ派のヒレル学派と似た立場にあったと考えられているが、それはキリスト教の特徴とされる博愛と慈愛の強調や、ナザレのイエスが示した律法の尊重はヒレル学派の特徴でもあったからである[13][14]。とはいえ、イエスの死後のかなり早い時期にステファノがエルサレムで論争の末に殺害されたことなど[15]、ユダヤ教主流派とイエス信奉者たちとの軋轢は存在した。正統的なユダヤ教の教義からは、ナザレのイエスという男が神の子であったというイエス信奉者たちの見解は容認しがたいものだったのである。
1世紀頃のローマ帝国内におけるユダヤ人は、全人口の1割程度を占めていたという推定があるほどに、ユダヤ属州外でもユダヤ人は勢力を誇っていた。そして、ユダヤ教の信仰生活に興味を示してユダヤ教に改宗する異邦人も多かっただろうとされている[16]。しかし、こうした異邦人への宣教活動はキリスト教で盛んとなり、ユダヤ教をはるかに上回る異邦人改宗者をキリスト教は獲得することになる[17]。『使徒言行録』に記されたように、キリスト教は改宗者への割礼を強制しなくなり、厳しい食物規制も緩め[18]、それがギリシャ語圏の人間も改宗しやすくさせたものと考えられている[19]。
そしてユダヤ教は神殿崩壊後の1世紀末にヨハナン・ベン・ザッカイの指導の下、神殿中心の体制を放棄して各地のシナゴーグを中心としたコミュニティに重きを置く体制に移行し[20]、世界宗教への指向を放棄して民族主義宗教の中に戻っていった[21][22]。こうしたユダヤ教再編の中で80年代にはキリスト教はユダヤ教から正式に閉め出され[23][24]、またキリスト教側もユダヤ人からの入信者が激減して異邦人入信者が多数を占めることで、ユダヤ教から離脱していくのである[25]。また、ヘレニズム思想と最終的に折り合うことができなかったユダヤ教とは異なり、キリスト教はそれに成功してローマ・ヘレニズム文化の中で独自の思想を発展させた[26]。ユダヤ教の聖典はそのままキリスト教にも用いられて『旧約聖書』となり、ユダヤ教の典礼や習慣の多くがそのままキリスト教に引き継がれたが、キリスト教の教父たちはユダヤ人たちがキリストを十字架刑に追いやったとしてユダヤ人を厳しく糾弾し、これがキリスト教社会におけるユダヤ人差別を準備することになる[27]。
イスラームはユダヤ教やキリスト教の影響を受けて成立した。イスラームはこの2つの先行宗教を共通の始祖アブラハムを戴くアブラハムの宗教であり、信徒は唯一神から啓示を受けて聖典を授かった啓典の民であるとして、根本的にはイスラームと異ならないものとしていた。イスラームによれば、モーセなどの旧約の預言者も、イエスもアッラーフの預言者なのである[28]。そして、アッラーフはユダヤ人やキリスト教徒に対してそれぞれに『聖書』を与え、アラビア人には『クルアーン』が与えられたのだとしている[29]。
しかし、ムハンマドが口述する『クルアーン』にはユダヤ教とキリスト教に関する誤解が多く含まれており、メディナのユダヤ教徒はこれを嘲笑したという[30][31]。政治的にもユダヤ教とイスラームは対立するようになり、624年にはそれまでエルサレムに向かって行っていた礼拝(キブラ)がメッカに向かって行われ始め、ユダヤ教から独立した宗教を形成していくことになる[32][33]。続いて、イスラームはキリスト教とも対立関係に入り、それ以降に口述された『クルアーン』にはユダヤ教とキリスト教に対する罵倒が頻繁に登場するようになる[34]。
この後の長い歴史の中でキリスト教やイスラームはユダヤ教を差別し、キリスト教とイスラームも激しい敵対を繰り返した。現代の政治や社会問題にも、これらの宗教間対立は暗い影を落としている。
信者は、古代教会に直接連なる教会では、平信徒と聖職者に分かれる。聖職者は、輔祭(助祭)・司祭・主教(司教)の三階級に大別される。大司教、枢機卿、教皇等の区別は、教会の組織的発展の結果、教会行政的必要性から、主教職が細分されたものである。一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、聖職者を設けず、信徒のなかから教職として牧師をおくものが多い。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。
伝統的な教会においては、女性は聖職者になることができない[35]が、プロテスタントでは女性教職は珍しくない[36]。現代では教派によらず、聖職・教職に就くには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが一般的である。
一部の教派では神に生涯を捧げる信者がいる。これを修道者という。修道者は必ずしも聖職者ではなく、多くは平信徒である。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士・修道女はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道者となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが修道生活に入る。準備段階、またまれに修道者となった後で、世俗の生活に戻るものもある。
一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会員制という。欧米では洗礼記録により、必要に応じて信者であることの証明(洗礼証明書)を受けることが出来る。日本の教会では教会籍という制度で、洗礼による教会員の新規入会、転会、死去などを記録、管理する例が多い[37]。
教会員の多くは、居住地近隣の教会に所属するが、自宅からもっとも近くの教会に属す義務があるわけではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では信者が10人前後の場合もある。
複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。カトリック・正教会・聖公会など監督制教会の場合、教区の中心となるのは、主教(司教)座聖堂である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけで一教派をなすものを単立教会という。単立教会は原理的にプロテスタントである。教義の近い単立教会が連合した協力組織も存在する。
信徒が自分の籍を置いていない教会の礼拝に参加することは、同じ教派の教会でなくても、まったく問題はない。また転居などに伴い、同一教派の教会から他の教会に移籍すること(転会)も必要に応じて行われる。これに対して、所属教派自体を変えることは、場合によっては宗教を変える(改宗)に等しいインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多くは単に転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものも有効と認めるが、他の秘跡については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。
キリスト教徒も参照
本項ではキリスト教徒の生活について解説する[38]。 キリスト教の信者をキリスト教徒またはクリスチャン(ハリスティアニン)という。『使徒行伝』によると、この呼称は1世紀半ばにアンティオキアで初めて用いられた。原義はキリスト支持者というほどの意味である[39]。日本ではかつて「キリシタン」と呼ばれた[40]。
多様化する現代のキリスト教世界において、キリスト教信者の一般的な生活を描くことは、それが細部に及べば及ぶほど、困難である。以下の記述は最大公約数を述べたものであって、これに当てはまらないキリスト教徒も一定数いる。
クリスチャンの範囲については、伝統的には洗礼を受けたもののみを信者とみなしているが、最近では特に自由主義神学といわれるキリスト教徒のなかに、(少数ではあるが)キリストを信じているものは洗礼の有無によらずクリスチャンであると主張するものもいる[41]。またプロテスタントのなかには洗礼を行わない教派もある。
将来的に洗礼を受けることを前提に、教会と交わる者を求道者(きゅうどうしゃ、カトリックおよびプロテスタントの用語)、啓蒙者(正教会の用語) などという。洗礼を受けるための条件やその式次第などは、教派によって異なる。詳しくは、洗礼の項を参照。
信者が行う祈祷行為のうち、司祭や牧師らにより執行される公のものを公祈祷・典礼・奉神礼等という。信者でないものも列席することができるが、聖餐には与ることが出来ないのが一般的である。ほとんどの教派では定期的な公の礼拝を行う。公の礼拝は形式があらかじめ定められていることが一般的である。典型的な形を示すと、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式がなされ、また司祭や牧師らによる説教が行われる。ここでの祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではない。聖餐のあと、短い祈りがあり、終了が告げられて礼拝が終わる。礼拝全体の時間は、教派によって異なるが、1時間から2時間ほどである。ほとんどの教派は日曜日を重視し、これを主日と呼んで共同の礼拝を行うが、少数ながら土曜日を公の礼拝の日とする教派も存在する。詳しくは、祈祷・典礼・奉神礼の項を参照。
信者となったものは、それぞれの教派の聖餐に与ることができる。パンとぶどう酒がキリストのまことの肉と血になるという聖体の教義をもつ教派では、これを、ミサ、聖体礼儀と呼ぶ。他教派の類似の儀式に参加を許されるかどうか、また自教派が特定他教派の類似の儀式に参加を許すかどうかは、それぞれの教派によって考え方を異にする。またプロテスタントの教会のなかには、洗礼を受けていないものにも聖餐への参加を許すものがある。
最初期の教会では、ミサ(聖体礼儀)などの礼拝行為への参加、定期的な断食などの義務があった。これと歴史的に連なる伝統的な諸教派では、信者に、年に決まった数以上の聖体拝領・断食・告悔(痛悔)の義務などの信仰実践が教会法によって義務付けられている。その一方で、現代は各教派とも、あまりこうしたことを強調しない傾向がある。それぞれの教派ごとに課せられる信仰実践の義務と恩沢については、秘跡および各教派ごとの記事を参照されたい。
公の礼拝行為のほかに、ほとんどの教派では、私的な祈りを共同で行う会や勉強会などを開いている。こうした会合はあまり大々的に宣伝されることがないが、たいていの場合、信者以外でも参加することが出来る。宿泊を伴うものもある。修道院をもつ教派では、教会のほか、修道院でも修道会に所属しない一般信者を対象にそうした集まりを主宰することがある。
信者は所属する教会を中心に、年齢別・性別の任意団体に加わることができる。児童たちは一般の礼拝と別に開かれる日曜学校(教会学校)に参加して簡単な教義を教えられ[42]、青年会、婦人会や壮年会が分担して施設の清掃・維持・修繕、典礼の補助、教会の運営、他教会との交流行事などを行っている[43]。多くの教会では、こうした団体への参加は義務ではない。
また、教義上の義務ではないが、キリスト教は、隣人や貧者への善行を伝統的に奨励しており[44]、このため病人や旅行者あるいは貧者を対象とするキリスト教関係者の慈善活動は古来より盛んに行われた。現在慈善の意でもっぱら使われる「チャリティー」はラテン語で愛(ギ・アガペー)を意味するカリタスが英語化したものである。このような流れは、現代における社会福祉活動にも少なからず繋がっている。
詳細はキリスト教の歴史を参照
紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。
ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウスによりローマ帝国の国教とされ、キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒するに到った。
キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。ただし教会歴史学者の多くは、第1回から第3回までを「異端の糾弾」として捉えて、第4回と第5回のみを「分裂」としてみている。しかしこの捉え方は、中世以降に多数派となったカトリックや正教会が自己の正統性を主張する観点に立ったもので、わずかな信徒数を残すのみとなったネストリウス派ならびに単性論教会、そして完全に消滅したアリウス派を「異端」として一方的に蔑視しており、中立的な歴史観ではない。
最初(1回目)の分裂は4世紀半ばのアリウス派とアタナシウス派の分裂である。厳格な一神教論(唯一神教)に基づいて創造神である聖父のみ唯一神(イザヤ書43章10節)として神性を認めて被造物キリストの人性を主張したアリウス派は、神学・教義も強固だったうえ、最初のローマ皇帝の入信(コンスタンティヌス1世の受洗)やゲルマン人に多くの信徒を得るなど歴史的な意義も大きかった。しかし、西暦325年の第1ニカイア公会議で三位一体論に基づいたアタナシウス派の聖子キリストの両性(神性・人性)が正統教義とされ、アリウス派は異端とされた。その後もガリア地方などでゲルマン人の信徒を拡大して一時的に教勢は増したものの、やがてローマ教皇下でアタナシウス派が積極的な布教活動に出て、中世までにはゲルマン人がアリウス派からアタナシウス派(中世以降のローマ・カトリック教会)に改宗していったため、今日ではアリウス派の教会・信徒は、もはや消滅している。
2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派の離脱である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。431年のエフェソス公会議でキリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされ、ネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで多くの信徒を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国にも伝道した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア東方教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。
3回目の分裂は、東方教会におけるエジプトやシリアの教会といった非カルケドン派(東方諸教会、いわゆる単性論教会)の離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され一つの神性を持つという単性論は、451年のカルケドン公会議で異端とされた。但し、これらの教会は自らの教義を「単性論」とみなす事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明した為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。現在、非カルケドン派諸教会にはアルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会等がある。
4回目の分裂は、東西教会の分裂(大シスマ)である[45]。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ全地総主教が相互破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。西方教会側からは分裂の主な要因を政治的・文化的な問題、つまり西ローマ帝国崩壊後に神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国に独立・挑戦したこととみなす傾向が強いが、東方教会側は教皇首位説などについての教義的な要因を主なものと看做す傾向が強い。但し、1054年の「相互破門」は20世紀になって両教会から相互に解かれているが、分裂の解消にまでは至っていない。
詳細は東西教会の分裂を参照
5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア東方教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、非カルケドン派であるエジプトのコプト正教会・その姉妹教会エチオピア正教会・シリアのシリア正教会(ヤコブ派)・コーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。
ユダヤ教内の一分派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度上手く適応していった。
まず、『使徒言行録』の中にも描かれているように、キリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部にいる異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。
当時のヘレニズム・ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、プリュギア起源のアッティス教、ペルシア起源のミトラ教、あるいはギリシア起源のディオニュソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている[46]。
キリスト教は皇帝崇拝を拒否したことでローマ帝国内で迫害されたが、こうした競合宗教から抜きん出た発展を遂げて国教化される。これについては、キリスト教化された後の護教論的説明かもしれないが、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることにキリスト教が成功したからだと説明されている[47]。また、いったん公認されていたキリスト教の特権を破棄したことで有名な「背教者」ユリアヌス帝も、キリスト教徒は救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な