ギリシャ正教会 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ギリシャ正教会(―せいきょうかい)は、以下の三通りの意義に使われる、キリスト教の教派・教会組織を指す言葉。本項では下記1番の用例による、ギリシャ共和国に存在するギリシャ正教会について詳述する。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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目次 |
| ギリシャ正教会 | |
| 創設者 | 使徒 |
|---|---|
| 独立教会の宣言 | 1833年 |
| 独立教会の承認 | 1850年(コンスタンディヌーポリ総主教庁により) |
| 現在の首座主教 | イエロニモス2世 |
| 大主教庁所在地 | アテネ(ギリシャ) |
| 主な管轄 | ギリシャ |
| 国外の管轄 | ─ |
| 奉神礼の言語 | ギリシャ語 |
| 聖歌伝統 | ビザンティン聖歌 |
| 暦 | 修正版ユリウス暦 |
| 概算信徒数 | 10,000,000人 |
| 公式ページ | ギリシャ正教会公式サイト(ギリシャ語・英語) |
ギリシャ正教会(ギリシャ語:Εκκλησία της Ελλάδος、英語:Church of Greece)は、自主管理による正教会の独立教会のひとつ。アテネに大主教座を置き、主としてギリシャ共和国の信徒を管轄する。ただし、ギリシャ共和国領とは完全には一致せず、クレタ島はコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。ギリシア国外のヨーロッパ、アメリカ合衆国などに移民を中心にして成立した教会の多くも、アテネ大主教の管轄下ではなくコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下にある。
日本では、ギリシャ正教会がコンスタンディヌーポリ全地総主教庁の管轄下にあって完全な独立教会では無いかのように理解している言説がまま見られるが、ギリシャ正教会は確かにコンスタンディヌーポリ総主教庁と密接な関係はあり総主教制は敷かれていないものの、完全な独立教会であり、その位置付けはキプロス正教会と同様である。
コンスタンディヌーポリ総主教庁とギリシャ正教会のアテネ大主教庁は、西方教会との関係や北ギリシャの教区の管掌問題等を巡って微妙に見解の差が発生する事もあり、完全に傘下にあるかのような解釈は誤りである。また、コンスタンディヌーポリ総主教は民族的にはギリシャ人であっても、トルコ国民である事がトルコ政府の求める要件とされており、ギリシャ正教会から直接にコンスタンディヌーポリ総主教が選立される事は現在ではない(かつてはメレティオス・メタクサキスのような例はあったが)。
ギリシャの正教会はローマ帝国時代以来の由緒をもつが、ギリシャ人の居住していたペロポネソス半島からアナトリア半島にかけての地域を管轄する教会は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現代ギリシャ語:コンスタンディヌーポリ、英語:コンスタンティノープル)に座すコンスタンディヌーポリ総主教のもとにあり、中心地は現在のギリシャの領土内ではなかった。1453年にコンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)はイスラム教徒のオスマン帝国の支配下に入り、前後してギリシャ人を含む正教徒の居住地域の多くがオスマン帝国領になったため、オスマン帝国はコンスタンディヌーポリ総主教を保護して国内の正教徒を統制する政策をとった。
しかし、19世紀初頭にギリシャ人の民族意識が高まると、1821年にオスマン帝国の意を受けたコンスタンディヌーポリ総主教の慰撫を振り切る形で現在のギリシャの地で民族蜂起が起こり、ギリシャは王国として1830年にオスマン帝国から独立を果たした。これにともない、新生ギリシャ王国内の正教会は、アテネ大主教を首座として、旧宗主国オスマン帝国の影響下にあるコンスタンディヌーポリ総主教からの教会独立を宣言、1850年に至って総主教の側から承認を受け、相互に独立を承認した教会の関係になった。ただし、ギリシャ正教会の首座主教は「総主教」ではなく「アテネ大主教」のままである。
2008年1月28日に、首座主教であるアテネ大主教フリストドゥロスが肝臓ガンで永眠した[1]。69歳。
後任のアテネ大主教としてイエロニモス2世が選立され[2]、2008年2月16日に着座した。
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