ギリシャ独立戦争 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ギリシャ独立戦争(ギリシャ語:Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語:The Greek War of Independence)はオスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争。1830年のロンドン議定書によって列強により独立が合意され、最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約によりギリシャの独立は承認された。ギリシャでは3月25日を独立記念日としている。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ウィキペディア(Wikipedia)記事ギリシャ独立戦争(ギリシャ語:Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語:The Greek War of Independence)はオスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争。1830年のロンドン議定書によって列強により独立が合意され、最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約によりギリシャの独立は承認された。ギリシャでは3月25日を独立記念日としている。
反乱のはじまりオスマン帝国は14世紀から15世紀にかけて東ローマ帝国を征服し、イオニア諸島を除いたギリシャ全土をその支配下においていた。18世紀に入るとヨーロッパにおいてナショナリズムが高揚し、同時にオスマン帝国の勢力に翳りが目立ち始めた。 1814年に3人のギリシャ人商人がオデッサにおいてフィリキ・エテリアと呼ばれる秘密組織を結成した。この組織は西ヨーロッパにおける親ギリシャの世論を背景に、イギリスおよびアメリカに移住したギリシャ人社会とロシア政府からの密かな支援を受けており、オスマン帝国に対する反乱を計画していた。組織の指導者には、ロシア帝国の軍人でファナリオティス出身のアレクサンドロス・イプシランディスがついた。 1821年3月6日にイプシランディスに率いられた一隊がルーマニア国境のプルト川を越え蜂起した。同月23日にはペロポネソス半島南部の都市カラマータを反乱軍が掌握した他、パトラ、マケドニア、クレタ島、キプロスなどでも反乱の火の手があがった。オスマン帝国の当局は反乱を全く予期しておらず、ペロポネソス半島を中心とした地域が反乱軍の支配下に入った。 オスマン帝国の反撃とエジプトの参戦オスマン帝国は直ちに反乱の鎮圧を目指したが、反乱軍とオスマン帝国との争いは決着がつかず、1825年になり、スルタン・マフムト2世はムハンマド・アリーにより統治されていたエジプトに助けを求めた。アリーはシリア地方の割譲を条件に参戦し、近代化された海軍を用いてエーゲ海の諸島を直ちに占領した。 ヨーロッパ諸国の対応ヨーロッパではギリシャの反乱に対する同情が広がっていた。ギリシャは西ヨーロッパ文明の源であり、当時盛んだったロマン主義の観点からも、キリスト教諸国が一致してギリシャ独立支援にあたることが支持されていた。バイロンに代表されるヨーロッパの義勇軍が組織され、ギリシャに赴いていた。 このような世論に対し、オスマン帝国の過度の弱体化を好まないヨーロッパ諸国の政府間では、ギリシャの自治国化を軸に問題を解決しようとしていた。示威行為のために英仏露は艦隊を派遣している。1827年10月20日、ペロポネソス半島西南にあるナヴァリノ湾に停泊していた英仏露合同艦隊とエジプト・オスマン帝国艦隊との間に偶発的な争いが生じた(ナヴァリノの海戦)。この海戦において、数的には劣勢であった英仏露合同艦隊が、オスマン帝国艦隊を壊滅させることとなった。これはギリシャ独立戦争の転換点となったが、このような海戦を予期していなかった英国政府によって艦隊司令官は解任された。 1827年にはフランス人の将軍に指揮された1万の反乱軍がペロポネソス半島においてオスマン帝国の軍隊を打ち破った。ギリシャ軍はペロポネソス半島を根拠地にしてアテネ、テーベなどギリシャ本土を占領した。 ヨーロッパでは当時ポーランド独立革命(失敗)、ベルギー独立革命、フランス7月革命など、各地で民族独立運動が繰り広げられていたウィーン体制の動揺期であり、その評価は欧州でも割れた。欧州諸国民の世論は概ね独立の支持であり、しかし一方で体制は反動期であった。 結局、ヨーロッパ列強はギリシャの独立を支持することに至り、ウィーン体制に亀裂が走ったのである。しかもこれは、バルカン半島のイスラム教徒の支配を覆する土台となったのである。 独立そのころ北方からは、正式に宣戦布告したロシア軍が南下し、苦戦の末イスタンブル北西の都市アドリアノープルを占領した。ロシア軍の独走を嫌うイギリス・オーストリアの仲裁によって1829年、露土間にアドリアノープル条約が結ばれた。 このバルカン半島のオスマン帝国領の処遇を扱った条文の中で、ギリシャについては自治国としての独立が保証されたが、ギリシャにおけるロシアの影響力が増大することを懸念したイギリス・フランスは、その影響力を弱めるためにもギリシャの完全独立を主張した。そのため、1832年のロンドン議定書によって完全独立が認められた。 しかし、英・仏・露の三国は、互いに牽制しつつもギリシャへの影響力を維持したいと考え、1832年6月11日に開かれた会議でギリシャを君主国とすることが正式に決定され、同年7月にオスマン帝国およびヨーロッパ列強の間で調印されたコンスタンティノープル条約で、ギリシャの独立が正式に認められた。 列強はウィーン体制にこだわり、あくまでも共和制の樹立に難色を示し、ギリシャ人の支持のないまま、強制的に王政へと移行された(ギリシャ王国)。列強は、英・仏・露の三国とのつながりが薄いヴィッテルスバッハ家のバイエルン王子オットーを、ギリシャ王オソン1世として即位させた。独立した領土もペロポネソス半島周辺に限定されたため、ギリシャ人の対トルコ闘争は継続されることになった。 関連項目
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