ギロチン とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ギロチン 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
片山 憲太郎 /
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ギロチン(仏: Guillotine)は、1792年4月25日にフランスで正式に処刑道具として認められたものである。刃が斜めになっており刃についているおもりによってすばやく切り落とすことができ、従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされる。
ギロチンの全高は約5メートルほどである。首を挟む場所は地面から37センチメートルほどの高さにあり、ギロチンは4メートルの高さから40キログラムの刃が自由落下することによって首を切断する。
当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もが処刑されていた。平民は絞首刑が適用されることになっており、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行された。当時の斬首には斧や刀が用いられていたが、死刑執行人が未熟練であったりした場合、囚人の首に何度も斬りつけるなど、残酷な光景が展開され犠牲者に多大な苦痛を与えることも多かった。 内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンはこれを見かね、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分に関係せず同じ方法が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタンの提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、ギヨタンの再度の提案と説得によりその案が採択された。
外科医のアントワーヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにするなどの改良を加えた。
なお、首と同時に両手首も切り落とす形状のものも存在する。当初は、設計者のルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」や「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前をとった「ギヨティーヌ(Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。正式名称は「Bois de Justice(正義の柱)」という。
ルイ16世やマリー・アントワネットはこれによって処刑された。また、恐怖政治を主導し、受刑者をギロチン台に送り続けたマクシミリアン・ロベスピエールも最後はギロチンで斬首された。このように、フランス革命期すべての党派を次々と呑み込み処刑する状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。
ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが大切に保管していたと回想録に書かれているが、後にサンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたサンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した。 しかし、アンリ=クレマンはこの直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。この当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではない、そのためサンソンは横領罪に問われることは無かった。 一度、質から出されたギロチンは再度売られたという。サンソンが売り払ったギロチンは交流のあったイギリス人の手に渡り、イギリスのマダム・タッソー館にマリーアントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示されている。現在でも蝋人形館の説明書きにそう書かれている。
ギロチンの開発に関しては死刑執行人であるシャルル=アンリ・サンソンの回想録に詳細な記述が残されている。
1791年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、死刑の方法は斬首のみになった。この直後にサンソンが法務大臣に斬首の難しさと問題点について意見書を提出した。これには、斬首は非常に難しく、全員を斬首することは難しいと記されていた。この意見書は法務大臣から国会に提出され、アントワーヌ・ルイ博士に斬首の研究を依頼した。
サンソン回想録によると、この時にサンソン、ルイ博士、ルイ16世の3人で非公式に検討会が開かれたという、この時にルイ16世が、刃を直角三角形の定規のような斜めの形にすることを提案した。
1792年3月17日にルイ博士から国会に報告書が提出され、国会はこれを採択した。試作品が作成されることになり、サンソンが知り合いのチェンバロ製造業者であるトビアス・シュミット (Tobias Schmidt) に960リーヴルで発注した。当時の一般市民の平均年収が400リーヴル強だったといわれている。シュミット工房はこれ以降、フランス死刑執行人の元締めであるサンソンとの関係からギロチンの製造独占権を得て、フランスだけでなくドイツなどの周辺諸国にも輸出するギロチン独占製造メーカーとなる。ギロチンは楽器製造の副業として製造されていた。
同年4月17日にギロチンの実験がおこなわれた。ルイ博士は当初は半円月の刃を提案していたため2種類の刃が作成されたが、実際に死体を使用した実験がおこなわれた結果、斜めの刃が採用された。
1793年6月13日にギロチンを各県に1台ずつ配置することが政令で決定した、当時のフランスの行政区分に従い、83台のギロチンがトビアス・シュミットに一台812リーヴルで発注された。この時に熾烈なギロチン受注の利権争いが発生したが、サンソンとルイ博士の後ろ盾によりシュミットの独占権が守られた。その後も改良型ギロチンを売り込む業者や、ダンピング・政治活動によってギロチン利権を得ようとする業者は後を絶たなかったが、最終的にシュミット工房が最後まで独占権を守り続けた。
ギロチンは人間の背丈よりも高い台の上に設置され回りから良く見えるようになっていた。 1792年に助手を勤めていたシャルル=アンリ・サンソンの次男ガブリエルがこの台から転落死するという事故が起きた。 これ以降は回りに手すりが付くようになった。
ドイツではフランスのギロチンを元に改良型が作られた。 主な改良点は柱が金属製となり、死刑囚を拘束するための可動式の台が設けられたことである。 ドイツのギロチンはフランス式より小型で230cmの高さから落下させる。 そのため、全高は260センチ程しかない。
フランス革命当時のギロチンは固定設置式ではなく組み立て運搬式だった。ギロチンは使用しないときは死刑執行人の家に分解した状態で収納されており、死刑を行う通達を受けると、死刑執行人の助手たちが指定された場所へ運び込んで組み立てていた。死刑執行が終わると再び分解して収納するのが普通だった。当時は公開処刑であり、裁判所の判決しだいで死刑を実施する場所が変わったため、死刑執行人は毎回、違う場所へギロチンを搬入する必要があった。
後にソビエト連邦では馬車の荷台に据え付けたような形の移動式ギロチンが作られ、各地を巡回して全土を処刑場と化した。 さらに後年にはトラックの荷台に据え付けた自走式ギロチンという物まで作られている。
シュミット工房のギロチンはフランスの植民地にも輸出され、インドシナの植民地がフランスから独立した後も使用され続けたことがあり、インドシナ戦争当時やベトナム戦争当時の南ベトナムで使用されている。ベトコンのゲリラがギロチンで処刑しているという話はここから来ている。
なお、シュミット工房は2008年現在もフランスでバイオリンやピアノの製造を行いながら存続している。
ギロチンが登場するまで、フランスには160人の死刑執行人と、3,400人の助手が存在していた。これが、ギロチンの導入後は減少の一途を辿り、1870年11月には、1人の執行人と5人の助手が、フランス全土の処刑を一手に担うようになった。
フランスでは、第二次世界大戦直前の1939年まで、ギロチンによる公開処刑が行なわれていた。 しかし、フランス革命でのギロチンがあまりにもやり過ぎた反省からか、その後は積極的に目立った場所でやらなくなり、 1800年代には刑務所の門前で早朝に実施するようになり、広場などで白昼堂々と行う事はなくなっていた。 1939年6月17日にジュール=アンリ・デフルノーによってパーセイルズで行われた死刑執行が最後の公開処刑となった。この処刑は盗撮され、映画館で公開された。これに問題を感じた法務省は、以降の死刑執行を非公開に切り替える事になる。そのため、これがフランスにおいて唯一映像に記録されたギロチンによる処刑映像となった。
ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯から欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビ (Hamida_Djandoubi) というチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。
ドイツ帝国(1871年~1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ワイマール共和国(1919年~1933年)からナチス・ドイツから西ドイツで死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。 特にナチスドイツ時代の1933年~1945年にかけては16,500人がギロチンにかけられ、史上最多を極めた。ナチス占領下のフランス・ポーランド・オーストリアでは、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。 西ドイツになってから1949年に死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。
東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1990年のドイツ統一に伴い廃止された。
フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。
現在ではヘントにあるフランドル伯の城にギロチンが展示されている。
1900年以降になってギロチンを導入した、それ以前は斧による斬首刑がおこなわれていた。 しかし、1910年11月23日に行われたヨハン・アルフレッド・アンデの死刑が最期の死刑になってしまったため、スウェーデンではたった一回しか使われなかった。
アルジェリアやベトナムなどフランスの植民地でも使用されていた。
ギロチンは公開処刑で使用されることが多く、19世紀のフランスでは大勢の市民がギロチンによる公開処刑を娯楽として楽しんでいた。有名な愛好家の名前も知られている。
ギロチンによる公開処刑が有名になると、ギロチンのミニチュアが玩具として販売されるようになり、子どもたちが捕まえてきた生きた鳥やネズミの首を切り落として遊んだ。ゲーテが5歳になる自分の子どものためにギロチンの玩具を買ってくれるように母親に送った手紙が現存している。なお、ゲーテの母親はこの依頼を憤然と拒絶している。
ギロチンの製造権はトビアス・シュミットが独占していたため、このような玩具のギロチンもトビアス・シュミットしか製造することが出来なかった、トビアス・シュミットはギロチン利権で財産を築いている。 そのため、フランス革命の裏ではギロチンの権利を巡るギロチン利権争いとも言うべき物が起きていた。
フランス革命200周年記念式典などのイベントでギロチンの実演が行われることが現在でもある。 ただし、実演と言っても切られるのは藁人形である。
フランスでは死刑執行人の人員削減に伴って、死刑執行人が所有していたギロチンが売却されていった。 特に、ルイ16世の首を刎ねたというギロチンは何度も競売にかけられた記録があるなど、真贋の怪しいギロチンも数多く出回った。 現在でもシュミット工房がギロチンの製造販売を行っているため、個人が新品のギロチンを購入することは可能である。価格は時価である。
日本国内では明治大学博物館に唯一展示・収蔵されており、見学することができる。
1996年にジョージア州の下院議員が電気椅子に代わる死刑執行方法としてギロチンを導入する法案を出したが廃案となった。 電気椅子や薬殺で死んだ死刑囚は臓器提供者となることが出来ないため、臓器を傷つけないギロチンを採用すべきだと提案していた。
斬首後の意識については数多くの報告が残されている。 ギロチンで処刑された後に、生首が瞬きをすることがある。化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエは、自身がフランス革命で処刑されることになった時、処刑後の人に意識があるのかを確かめるため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言し、実際に瞬きを行なった。しかし、これは筋肉の痙攣によるものとされており、斬首の瞬間に血圧が変化し意識を失うので、意図的に瞬きをするのは不可能というのが通説である。
その後も追試が行われたことが何度かあり、議会の依頼によってセギュレ博士が実験をおこなっている。 この実験では瞳孔反応と条件反射を確認したが、死後15分は反応があったとする報告を行っている。 意識の有無については確認手段が無いため不明のままであった。
1905年6月28日にBeaurieux博士がHenri Languille死刑囚に対して実験を行いレポートを発表した。
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