クウェート とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋クウェート (الكويت)、正式名称クウェート国 (دولة الكويت)は、立憲君主制で中東・西アジアの国家。首都はクウェート。1990年にイラクに一時併合された(湾岸危機)。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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| (国旗) | 国章 |

| 公用語 | アラビア語 |
|---|---|
| 首都 | クウェート |
| 最大の都市 | クウェート |
| 独立 - 日付 |
イギリスより 1961年6月19日 |
| 通貨 | クウェート・ディナール (KD)(KWD) |
| 時間帯 | UTC +3(DST: なし) |
| ccTLD | KW |
| 国際電話番号 | 965 |
クウェート (الكويت)、正式名称クウェート国 (دولة الكويت)は、立憲君主制で中東・西アジアの国家。首都はクウェート。1990年にイラクに一時併合された(湾岸危機)。
目次 |
正式名称はアラビア語で、دولة الكويت(Dawlat al-Kuwayt ダウラ・アル=クワイト)。
公式の英語表記は、State of Kuwait。通称、Kuwait。
日本語の表記は、クウェート国。通称、クウェート。クウェイトとも表記される。
16世紀頃より現クウェート領域はオスマン帝国の支配下にあり、統治拠点はバスラにあった。18世紀に入ると、当地にサバーハ家(Al-Sabah)が勃興し、1756年その首長が、名目上はオスマン領であるものの、この地域の統治を開始した。このサバーハ家は、サウジアラビアのサウード家やバーレーンのハリーファ家を輩出したアナイザ族の一派でアラビア半島中部より移動してきたと考えられている。この頃のクウェートは漁業や真珠の採集、交易が主な産業であった。
19世紀に入ると、オスマン帝国は支配を強化するために、この地に軍事介入を繰り返した。その結果1871年、オスマン帝国宗主権を認める形でバスラ州の一部となったが、1899年サバーハ家は中東進出を行っていたイギリスを頼ってイギリスの保護下に入りつつ、独自にこの地域を支配した。1913年にはオスマンとイギリス間で協定が結ばれ、1914年にはイギリスの自治保護領となった。第一次世界大戦においてはオスマンは敗北し、この地域は完全にイギリスの影響下におかれるようになった。1930年代初頭、天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にあった。それは当時、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功、これによって日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐したことがその主たる理由である。それまでにイラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたのでクウェートの首長、サバーハ・アッ=サバーハとクウェート政府は、新しい収入源を探すため石油利権をアメリカメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシャ石油の設立した50/50合弁会社『クウェート石油』に付与した。クウェート石油は1938年2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。イギリスからの独立は1961年のことである。湾岸協力会議加盟国中では唯一議会を保持していたが1986年の勅令で解散した。
以上のような経緯から、2代目イラク国王ガージー1世の頃から、クウェートに対するイラクの主権を主張する動きが断続的に起こり、1980年代以降には、イラクのサッダーム・フセイン大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離され、現在はアメリカ合衆国がそれを引き継いでいる、という旨の発言を繰り返した。さらに石油価格政策の問題もあって、1990年にイラクによって不法に軍事占領された。国際社会は国連で非難決議を出し、この占領状態は1991年の湾岸戦争により終結した。この後、西側各国により民主化の要請が行われ、女性参政権などが考慮されることとなった。
憲法によって立憲君主制を取っているが、首相以下、内閣の要職はサバーハ家の一族によって占められており、実態はサバーハ家の一族独裁による事実上の絶対君主制である。憲法に基づき首長(立憲君主制)、国民議会、内閣の三者を中心とした統治形態が取られているが、首長が議会解散権や首相の任免権を持つなど、首長の権限が強化されているためこれも建国当初から有名無実化している。
議会制度の歴史は他の湾岸諸国よりも古く、1920年代の諮問議会まで遡るとされている。しかし、2007年現在も政党の結成が認められていない。女性参政権は、バーレーンやカタール、オマーンなど他の湾岸諸国が先に確立した。
サバーハ家にはジャービル家とサーリム家という2つの分家が存在し、交互に首長を輩出する慣習が長く続いてきた。しかし2005年にジャービル家のジャービル首長が没してサーリム家のサアド皇太子が即位すると新首長の健康問題を理由にジャービル家を中心とするサアド首長降ろしが行われ、結局サアド首長は退位させられてジャービル首長の弟サバーハ首相が即位した。サバーハ首長は皇太子に弟のナワーフ王子を任命しており、クウェートの支配体制はジャービル家により固められつつある。
1962年、第1回クウェート国民議会選挙始まる。
2006年6月29日、第11回クウェート国民議会選挙行われる。定数2の25選挙区で計50の議席を249人(うち28人女性)の候補者が争った。有権者は34万248人、その内19万5000人が女性。22万3187人投票。投票率は65.6%(前回は男性ばかりで約8割が投票)。2005年の女性参政権獲得後初の選挙で28人の女性が立候補したが初の女性議員は実現しなかった。イスラム主義者を中心とする野党勢力が、改選前の29議席から33議席に増加し、過半数を占めた。7月1日、サバーハ首長は、野党勢力が伸張した国民議会選挙の結果を受け、内閣総辞職を受け入れた。
詳細はクウェートの行政区画を参照
クウェートの国土のほぼ全てが砂漠気候(BW)であり、山地・丘陵などはなく、平地である。島嶼は9つあり、最大のブビヤン島は、本土と橋で結ばれている。夏季の4~10月は厳しい暑さとなり、さらにほとんど降水も無いため、焼け付くような天気と猛烈な砂嵐が続く。だが冬季の12月から3月は気温も下がり快適な気候となるため、避寒地として有名である。ただ、時折雷を伴った激しい雨が降り、道路の冠水が見られることもある。
石油が主要産業であり、世界第4位の埋蔵量がある[1]。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、1994年に戦前の水準まで回復し、現在一人当たりのGDPは世界有数。原油価格の高騰による豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員として働いている。石油収入を利用した金融立国や産業の多角化を目指して外国からの投融資環境を整備したため莫大な雇用が創出され、不足している労働力は周辺外国人が補っている。また、このような砂漠気候では農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している[2]。失業率は1.2%と低水準。
また正確な高さは公表されていないが高さ1,000mを超える超超高層ビルが建設計画中であり、もし完成すれば世界1位の高さのビルとなる。
住民は、アラブ人(クウェート人)が45%、アラブ人(クウェート以外の地域)が35%、南アジア系(印僑)が9%、イラン人が4%、その他が7%である。
宗教は、イスラム教が85%(内訳: スンニ派70%、シーア派30%)と最も多い。その他15%は、キリスト教、ヒンドゥー教などである。
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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