サザンオールスターズ とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィを参照。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 サザンオールスターズ 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
サザンオールスターズ /
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| サザンオールスターズ | |
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| 基本情報 | |
| 別名 | サザン、SAS |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック ポップス |
| 活動期間 | 1978年 - (1978年 - 1985年 1988年 - 1993年 1995年 - 2000年 2003年 - 2006年、2008年) (活動休止を含めた厳密な活動期間) |
| レーベル | ビクター音楽産業 (1978年 - 1983年) ビクタータイシタ (1983年 - ) |
| 事務所 | アミューズ |
| 共同作業者 | 高垣健 新田一郎 八木正生 小林武史 角谷仁宣 |
| 影響 | ビートルズ エリック・クラプトン リトル・フィート |
| 公式サイト | STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!! |
| メンバー | |
| 桑田佳祐 (ボーカル、ギター) 関口和之 (ベース) 松田弘 (ドラムス) 原由子 (キーボード、ボーカル) 野沢秀行(パーカッション) |
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| 旧メンバー | |
| 大森隆志 (リードギター) (1978年 - 2001年) |
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サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィを参照。
目次 |
1978年のデビュー以来30年にわたって日本のポップミュージックのトップを走り続けるバンドである。楽曲はロック色の強いものから、バラード、民族音楽・郷土音楽からテクノ・デジタルロックまで幅広いレパートリーの楽曲があり、題材は愛・セックス・郷土愛・ユーモア・社会風刺など多岐にわたる。老若男女幅広い層のファンを持ち、芸能界にもサザンのファンであると発言した芸能人が数多く存在する。代表曲は1970年代に「勝手にシンドバッド」、「いとしのエリー」、1980年代に「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」、1990年代には「希望の轍」、「涙のキッス」、「エロティカ・セブン」「愛の言霊 〜Spiritual Message」などのミリオンセラーを発したほか、2000年代に入っても「TSUNAMI」「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」がヒットするなど多数にわたる。1970年代から4つの年代全てで50万枚以上のヒット作を生み出し、うち3年代でオリコンチャート1位作品がある。
各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり[1]、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される[1]。初期の頃は“温泉あんまももひきバンド”、“ピストン桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中”、“桑田佳祐とヒッチコック劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが[1]、最終的には原由子参入の際、桑田の友人が風呂の中で安易に思いついたという「サザン・ロックとファニア・オールスターズを組み合わせた」“サザンオールスターズ”を使用する[2]。この「オールスターズ」には、これ以上バンド名を考えるのが面倒で、また、メンバーチェンジがあってもいいように流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名という意味もあった[2]。また、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた[2]。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年4月11日と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。
その後、幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わりメンバーはデビュー時の6人に固まった[1]。この編成は、サザン・ロックの雄・リトル・フィートの、リードギター・サイドギター・ベース・ドラムス・キーボード・パーカッションの6人編成と同じという所以もある。当時はセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、コンクール出場が決定した際になって突如参加することになったという経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「今現在も正式メンバーではない」ともいわれている[3]。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる[2][4]。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年から1977年までを「夜明け前」と呼称している。当初は独特の奇抜な音楽性が敬遠され、大手事務所は敬遠していたが当時新興事務所であったアミューズの大里洋吉社長が「フォークソングの時代は終わりこれからはロックの時代が来る。」という判断の下でスカウトした。ただしメンバーの大里に対する第一印象は大里の項目にあるとおりあまりいいものではなかったという。 1978年6月25日にシングル『勝手にシンドバッド』でビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルに全く当てはまらない、衝撃的な印象を残す。年内には同曲のスマッシュヒットで一躍スターダムにのし上がった。だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言[5][6]ジョギングシャツ+ジョギングパンツスタイル、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった[2]。デビューに際し当時はテレビ出演拒否のフォークシンガー等のアーテストが多い中で事務所側はあえてザ・ベストテン等の音楽番組に積極的に出演させ、ドラマ、CM等のタイアップを図る等のやり方でお茶の間層の取り込みを狙うという戦略をとっていた。
だが、翌年の3月25日に発売した3rdシングル『いとしのエリー』の発表後から「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[7]。しかし、その中での多忙な生活は桑田を苦しめ、一時期ノイローゼになるほどに疲れきっていたと語っている[1]。そのような中“FIVE ROCK SHOW”と銘打って「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」と発表することになる[8]。
1980年、“FIVE ROCK SHOW”計画がスタート。「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれもスマッシュヒットには至らなかった。この間1981年発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[9]。
アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。1982年、1月21日に発売したシングル『チャコの海岸物語』が大ヒットした。桑田は当時人気絶頂であったアイドル・田原俊彦の声色を意識して歌うなど、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった[10]。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。
その後アルバム『綺麗』の頃は少し売り上げを落としたが、翌年のアルバム『人気者で行こう』は代表曲『ミス・ブランニュー・デイ』のシングルヒットもあり好調な売り上げを記録、そして1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。長期にレコーディングを重ねたこの濃密なアルバムは、サザン史上最高のアルバムとして評されている[1]。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。
1988年6月25日、デビュー10周年の日にシングル『みんなのうた』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。このシングルから小林武史がアレンジ、プロデュース業に加わっている。前年に桑田はソロアルバムで小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[11]、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。
翌年にはシングル『さよならベイビー』でデビュー11年目にして初のオリコンシングルウィークリーチャート1位を獲得した。桑田は映画『稲村ジェーン』の監督も手掛け、その主題歌『真夏の果実』は売り上げ的に大ヒットにはならなかったが、現在では夏をイメージさせるJ-POPの定番曲となるほどの人気を博している。
この頃から楽曲製作に関しては「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー+マニピュレーター」という図式が成り立つようになり、現在では「桑田の密室芸」、「ワンマン製作」などとも言われている。特に小林とタッグを組んでいた時などはその傾向が色濃く見られたが、パートナー関係が離れてからも製作はそのようなメンバーで進むようになった[12]。小林はまた桑田とともに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[13]。
1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年、7月21日に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』『涙のキッス』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した[14]。
1993年には『エロティカ・セブン』がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[15]。そんな中、1994年には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[16]、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿らが中心となって活動するap bank fesへの出演など、作品面以外での交友が続いている。
1995年、関口が長期の休養から復帰し、5月22日にシングル『マンピーのG★SPOT』で活動を再開。これ以降プロデュース名義はサザンオールスターズとなった。直後に発売されたシングル『あなただけを 〜Summer Heartbreak〜』はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年に『愛の言霊 〜Spiritual Message』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。
しかし、1997年あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロックなどを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベストアルバムリリースブームの中『海のYeah!!』を発売し、大ヒットを記録した。しかしほぼ同時に発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や、上記のハードロックを意識した作品であったため、過去のアルバム3作連続で記録したミリオンを僅かに下回る結果となった。1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したが、シングル『イエローマン 〜星の王子様〜』は、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。
1999年9月26日、27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ『可愛いミーナ』の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。翌2000年、1月26日にシングル『TSUNAMI』を発売。この曲は前述のイベントから生まれた曲であり、「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。このヒット以降、サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。
切ないラブバラードのこの曲は、当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり、日本音楽史上記録的な大ヒットとなる。再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングル売り上げランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位に付けている。かねて何度も逃したレコード大賞も獲得した。この曲を機にサザンはセールス低迷から脱け出し、続く『HOTEL PACIFIC』もヒットを記録、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。
一方、そのライブが終了した直後大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。シングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンを超える大ヒットを飛ばした。
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げ、発売から25年のブランクを置いてオリコンウィークリーチャートで1位を記録。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施するなど、幅広い人気を見せつけている。
7月23日、シングル『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし活動再開。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い、復活をアピールした。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売、2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催し、サザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。
2008年、30周年に伴うシングル発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべく、『サザンオールスターズとしての活動を無期限休止にする』ことも発表した(2006年のTHE 夢人島 Fes.を最後に、実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。期限を設けない活動休止は、原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年~1986年(活動休止は1988年夏まで)以来2回目のことである。
この活動停止については、発表の当日にNHK総合テレビジョンの『NHKニュースおはよう日本』がこのニュースを報じた他、民放各局で大々的に取り上げるなど、日本のミュージシャン・ユニットの話題としては異例の報道や特集がなされ、反響を呼んでいる状況である。
桑田自身は『活動休止の理由は、より新しいものをつくるための充電期間』としている。また、『今のままでも活動を続けようと思えばできるが、それではサザンという看板にぶらさがっているだけで、甘えているだけになってしまう』とも語った。また、『(サザンの)解散は絶対にない』と断言している。