サラエヴォ とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋サラエヴォ [2] [3] [4] (ボスニア語:Sarajevo、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。日本語表記においては、一般に「サラエボ」[5]や「サライェヴォ」[6]などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。呼称と表記も参照)。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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| サラエヴォ Sarajevo Sarajevo Сарајево |
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夜のサラエヴォ |
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| 位置 | |||||
ヨーロッパにおけるボスニア・ヘルツェゴビナの位置 |
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ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるサラエヴォの位置 |
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| 座標: | |||||
| 行政 | |||||
| 国 | |||||
| 構成体 | |||||
| 県 | サラエヴォ県 | ||||
| 都市 | サラエヴォ | ||||
| Semiha Borovac (民主行動党) |
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| 人口動態 | |||||
| 人口 | (2007年7月 推計現在) | ||||
| 市域 | 304,065 人 | ||||
| 人口密度 | 5,300 人/km2 (419,030 人/mi2) | ||||
| その他 | |||||
| 等時帯 | 中央ヨーロッパ標準時 (UTC+1) | ||||
| 夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) | ||||
| 市外局番 | +387 (33) | ||||
| [1] | |||||
| 公式ウェブサイト: http://www.sarajevo.ba/en/ | |||||
サラエヴォ [2] [3] [4] (ボスニア語:Sarajevo、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。日本語表記においては、一般に「サラエボ」[5]や「サライェヴォ」[6]などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。呼称と表記も参照)。
2007年7月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は合わせて304,065人である。サラエヴォはまた、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちのひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもあり、またサラエヴォ県の県都でもある。サラエヴォはボスニア地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプスに取り囲まれ、ミリャツカ川(Miljacka)周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教、正教会、カトリック教会、ユダヤ教が何世紀にもわたって共存してきた[7]。旅行ガイドブックのロンリープラネットでは、「世界の都市」ランキングにおいてサラエヴォを43位にランクしている。これは、同じ旧ユーゴスラビア諸国の観光都市であるドゥブロヴニクの59位、リュブリャナの84位、ブレッドの90位、ベオグラードの113位、ザグレブの135位を上回る[8]。
この地域に人が居住を始めたのは先史時代にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀のオスマン帝国の統治下でのことであった。[9]。サラエヴォは近代、何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。1914年にはこの地はサラエボ事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。1984年にはサラエヴォはサラエボオリンピックの会場となり、更に後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた。サラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている[10]。サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である[11]。
目次 |
町はボスニア・ヘルツェゴビナの3つの公用語・ボスニア語、セルビア語、クロアチア語でサラエヴォ(Sarajevo / Сарајево)と呼ばれる。また、トルコ語ではサライボスナ(Saraybosna)と呼ばれている。サラエヴォの呼称は、トルコ語で「宮殿」を意味する「サライ」(Saray)を語源としており[12]、この街がオスマン帝国支配下で重要な町であったことを示唆している。日本語においては、「サラエヴォ」という表記の他にも、「サラェヴォ」、「サライェヴォ」、「サライエヴォ」、「サラエボ」、「サラェボ」、「サライェボ」、「サライエボ」[13] といった表記も見られる。
サラエヴォは、三角形をしたボスニア・ヘルツェゴビナの幾何学的中心に近く、に位置している。サラエヴォはサラエヴォ渓谷の中にあり、ディナール山脈に取り囲まれている。渓谷は大規模に緑に覆われていたものの、第二次世界大戦後の開発と都市拡大の中で失われていった。サラエヴォの町は濃厚な森林に覆われた丘陵地と5つの山に囲まれている。周囲を囲んでいる山々の頂上はそれぞれ、トレスカヴィツァ(Treskavica)の標高2088メートル、ビェラシュニツァ(Bjelašnica)の標高2067メートル、ヤホリツァ(Jahorina)の標高1913メートル、トレベヴィチ(Trebević)の標高1627メートル、最も低いイグマン(Igman)で標高1502メートルとなっている。これらの山々のうち、トレスカヴィツァを除く4つは1984年の1984年冬季オリンピックの会場となった。サラエヴォの平均標高は500メートル程度である。町は丘陵地帯の中にあり、勾配の急な斜面の通りや、高い丘に立ち並ぶ住宅などにその特徴を見ることができる。
ミリャツカ川(Miljacka)は町の重要な地理的特徴となっている。川は町の東から流れ込み、町の中央を通って西へと抜け、ボスナ川(Bosna)へと合流している。ミリャツカ川は「サラエヴォの川」であり、その源流はサラエヴォの東数キロメートル先にあるパレにある。ボスナ川の源泉、ヴレロ・ボスナ(Vrelo Bosne)はサラエヴォ西部のイリジャの近くにあり、こちらもサラエヴォの重要な地理的特徴となっている。ヴレロ・ボスナは、サラエヴォやその他の地域からの観光客の訪問先ともなっている。その他にも複数の小さな川が町やその郊外を流れている。
ボスニア・ヘルツツェゴビナは南東ヨーロッパに位置しており、その首都であるサラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの三角形の国土の幾何学的中心に近い。サラエヴォは、サラエヴォ県に属する4つの基礎自治体(オプシュティナ)、ツェンタル、ノヴィ・グラード、ノヴォ・サラエヴォ、スタリ・グラードからなる。サラエヴォ都市圏にはこのほかにイリジャ、ヴォゴシュチャなども含まれる。都市圏面積は141.5平方キロメートルに上る。
また、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前はサラエヴォの一部をなしていた地域の一部は、紛争後にスルプスカ共和国に編入され、イストチノ・サラエヴォの一部となっている。
サラエヴォは温暖な大陸性の気候であり、北は中央ヨーロッパ、南は地中海の気候区分の間に位置している。ケッペンの気候区分によれば、サラエヴォは亜寒帯湿潤気候と温暖湿潤気候のちょうど境目に位置している。年間平均気温は摂氏9.5度であり、1年で最も寒くなる1月には平均-1.3度、最も熱くなる7月には平均19.1度に達する。観測史上では1946年8月19日には最高気温40.0度に達した一方、1942年1月25日には最低気温の-26.4度に達した。平均的に、サラエヴォでは一年に68回の夏日(気温が摂氏30度以上に達する日)がある。町の典型的な気候やうす曇であり、年間平均の雲量は59%である。最も曇っている月は12月であり、雲量75%となる。逆に最も晴れている月は8月であり、雲量37%である。降水は年間を通して常にある。平均的に、年間170日は雨が降る。サラエヴォは、この地方で盛んなウィンタースポーツに適した気候であり、1984年の1984年冬季オリンピックの会場となった。
| サラエヴォの平均気温 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C | 3 | 5 | 12 | 16 | 22 | 25 | 27 | 28 | 20 | 18 | 10 | 4 | 18 |
| 平均最低気温 °C | -3 | -2 | 2 | 5 | 9 | 12 | 14 | 14 | 10 | 8 | 4 | -1 | 6 |
| 降水量 mm | 51.6 | 55.3 | 36.7 | 67.4 | 68.5 | 72 | 79 | 58.2 | 113.4 | 72.6 | 80.7 | 69.9 | 825.3 |
| 平均最高気温 °F | 37 | 41 | 53 | 61 | 71 | 77 | 81 | 82 | 69 | 64 | 51 | 39 | 60 |
| 平均最低気温 °F | 26 | 28 | 35 | 41 | 49 | 54 | 58 | 57 | 50 | 46 | 39 | 29 | 42 |
| 降水量 inches | 2.03 | 2.18 | 1.44 | 2.65 | 2.7 | 2.83 | 3.11 | 2.29 | 4.46 | 2.86 | 3.18 | 2.75 | 32.48 |
| 出典: MSN[14] 2007-03-05 | |||||||||||||
サラエヴォ渓谷には、ブトミル文化が栄えた先史時代にさかのぼる長く豊かな歴史がある。ローマ帝国に征服される前は、複数のイリュリア人の集落がこの地域にあった[15]。
ローマ帝国統治時代、町の名前はアクアエ・スルプラエ(Aquae Sulphurae、硫黄温泉)と呼ばれ、現代のサラエヴォの郊外の町イリジャにあった[16]。ローマ帝国に次いで、7世紀にはゴート族、次いでスラヴ人が進入した[17]。町はヴルフ=ボスナ(Vrh-Bosna)と呼ばれ、スラヴ人の城塞として1263年から、町がオスマン帝国に征服される1429年まで存続した[18]。
1461年、オスマン帝国のボスニア州の最初の知事となったイーサ=ベグ・イサコヴィッチ(Isa-Beg Isaković)の統治下で、町は大きく発展した。1461年以降、イーサ=ベグ・イサコヴィッチは町の旧市街の建設を監督し、水の供給システムやモスク、屋根つきのバザール、公衆浴場、知事宮殿なども作られた。町はボスナ・サライ(Bosna-Saraj)と名づけられ、大都市へと成長した。この地方は、トルコ語で「宮殿のある平地」を意味するサライ・オヴァス(saray ovası)と呼ばれた[12]。
ガジ・フスレヴ=ベグ(Gazi Husrev-beg)は1521年、ボスニア州の2代目の知事に就任し、町で最初の図書館、マドラサ、スーフィズムの学校、サハト・クラ時計塔(Sahat Kula)などを建設した。
1697年、大トルコ戦争の間、ハプスブルク君主国のプリンツ・オイゲンによる襲撃によってサラエヴォは制圧され、町には疫病がもたらされるとともに焼き払われた。町は後に再建に向かったものの、完全に復旧されることはなかった。オスマン帝国は1850年、サラエヴォを重要な行政の拠点としたものの、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国に征服され、1878年にベルリン条約 (1878年)によってその統治権はオーストリア=ハンガリー帝国へと移された。ボスニア・ヘルツェゴビナは1908年にオーストリア=ハンガリー帝国に併合された。町は、路面電車などの新しい開発をウィーンに導入する前の試験導入に使用された[17][19]。
第一次世界大戦のきっかけとなったフランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィー・ホテクに対する暗殺事件は1914年6月28日に、セルビア人の民族主義者ガヴリロ・プリンツィプによって、サラエヴォにて引き起こされた。戦争に突入すると、バルカン半島での攻勢の多くはベオグラード周辺で起き、サラエヴォは戦時中、大規模な破壊を免れた。第一次世界大戦が終わると、バルカン半島西部はユーゴスラビア王国のもとに統合され、サラエヴォはドリナ州の州都となった。
1941年4月、ナチス・ドイツはユーゴスラビアに侵攻し、サラエヴォを爆撃した。この時、およそ10,500人のユダヤ人、ならびにロマ、正教徒のセルビア人が居住していた。サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナの領土は、ウスタシャによるクロアチア独立国の領土に編入された。ヨシップ・ブロズ・チトーに率いられたパルチザンによる抵抗によって、1945年4月6日にサラエヴォはナチスによる占領から解放された。
その後、サラエヴォは急速に発展し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国における地域の産業の拠点となった。1945年の都市一般開発計画の一部として、サラエヴォ西部にて現代へと続く町の区画が策定され、サラエヴォの都市域が拡大された。サラエヴォの成長がピークを迎えたのは1980年代の初期の、サラエヴォで冬季オリンピックが開催されたときであった[20]。
詳細はサラエヴォ包囲を参照
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエヴォ包囲は、現代の戦争の中でもっとも長期にわたる都市包囲であった。包囲していたのはセルビア人勢力(スルプスカ共和国)のスルプスカ共和国軍(VRS)と、ユーゴスラビア人民軍(JNA)であり、1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。
サラエヴォ包囲は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の間に発生した都市包囲であり、ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍(ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍; ARBiH)に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力(スルプスカ共和国軍)は丘の上に陣取ってサラエヴォを包囲した。セルビア人勢力は、新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナへの参加を拒否し、セルビア人による国家・スルプスカ共和国の樹立を目指していた[21] 。
その結果として、大規模な破壊と人的な被害を生み出した。包囲戦の過程で、12000人以上が殺害され、50000人以上が負傷したものと推測されている。死傷者の85%は軍人ではない市民であった。多くの市民が殺害されたり、移住を余儀なくされたことにより、1995年の時点での人口は紛争前の64%に相当する334,663人にまで減っていた[22]。多くの市民が包囲された町から地下トンネル等を使って脱出した。また、サラエヴォのセルビア人市民の中には、セルビア人勢力支配地域へ逃げ込む者もいた[21]。他方で、セルビア人勢力の占領下となった地域では、ボシュニャク人(ムスリム人)を主体とする非セルビア人の市民が殺害されたり、強制的に追放されるといった民族浄化が行われた[21]。
2003年1月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の法廷では、スルプスカ共和国軍のサラエヴォ=ロマニヤ軍団の第一司令官であったスタニスラヴ・ガリッチ(Stanislav Galić)は、サラエヴォに対する包囲と恐怖狙撃によって、人道に対する罪の罪を認定され、終身刑を言い渡された[23]。罪状の中には、第1次マルカレ虐殺での罪も含まれていた[24]。2007年、ガリッチに代わってサラエヴォ=ロマニヤ軍団の指揮官となったセルビア人の将軍、ドラゴミル・ミロシェヴィッチ(Dragomir Milošević)は、第2次マルカレ虐殺を含む、サラエヴォの包囲と市民への恐怖狙撃によって有罪を認定され、懲役33年を言い渡された。法廷では、マルカレ市場は1995年8月28日に、サラエヴォ=ロマニヤ軍団の地点から120mm迫撃砲弾で砲撃されたものと認定された[25]。
サラエヴォの復興開発はデイトン合意が結ばれた1995年11月以降に始まった。
2003年の時点で、町のほとんどの部分は再興されるか再開発され、紛争による目に見える破壊された建物の痕跡は町の中心ではわずかとなった。第二次世界大戦時に使用された砲弾筒が発掘され、サラエヴォにて洗浄・装飾され、工芸品として売られている。現代的なオフィス・ビルディングや高層建築物が各地で建設されている[26]。
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ユダヤ教のシナゴーグ、サラエヴォ・シナゴーグ(Sarajevo Synagogue)。 |
サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの首都である。また、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちの1つであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもあり、またサラエヴォ県の県都でもある。また、ボスニア・ヘルツェゴビナのもう1つの構成体であるスルプスカ共和国の法律上の首都でもある(スルプスカ共和国の事実上の首都はバニャ・ルカである)。国家、構成体、県はそれぞれ独自の議会と裁判所をサラエヴォの町の中に持っている。これに加えて、多くの外国の在外公館がサラエヴォに置かれている。
サラエヴォは4つの基礎自治体(オプシュティナ)からなっており、それぞれの自治体は独自の自治体政府を持っている。4つの自治体はまた、合同で独自の憲法を持ったサラエヴォ市政府を構成している。サラエヴォの行政府(Gradska Uprava)は1人の市長と2人の副市長、そして内閣によって構成されている。立法府は市議会(Gradsko Vijeće)である。市議会には28人のメンバーがいて、うち1人の議長、2人の副議長、1人の書記官を含む。議員はそれぞれの自治体から、概ね人口比率に従って選出される。市政府にはまた司法府もあり、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の「上級司法検察委員会」で定められた紛争後の法体系に基づいている[27]。
サラエヴォを構成する基礎自治体は、更に地域共同体(Mjesne zajednice)に分かれている。地域共同体はサラエヴォの行政のごく一部を担っており、一般市民が市の行政に参加する機会を持たせることをその主目的としている。地域共同体は街の街区を基盤としている。
ボスニア・ヘルツェゴビナの議会はサラエヴォにおかれており、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において大きな損害を受けている。その損害の影響で、業務を遂行するために、人員や文書は付近にある地上階のオフィスに移動された。議会の復興は2006年末に始められ、2007年に完了した。復興費用の80%はギリシャ・バルカン復興プログラム(ESOAV)を通してギリシャ政府はら拠出され、20%はボスニア・ヘルツェゴビナ政府が負担した。
紛争後の年月がたつと、サラエヴォのの経済は復興・回復プログラムの対象となった[28]。サラエヴォの経済拠点のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行は1997年にサラエヴォで開業し、サラエヴォ証券取引所は2002年に取引を開始した。サラエヴォの重要な生産、行政、観光産業は、巨大な地下経済に結びついている[29]。サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナで最大の経済活動の拠点となっている。
共産主義時代、サラエヴォは重要な産業の中心地であった。紛争後のサラエヴォの生産業には、タバコ、家具、衣類、自動車、通信機器などがある[17]。サラエヴォに本社を置く会社には、B&H航空、BHテレコム(BH Telecom)、ボスマル(Bosmal City Center)、ボスナリイェク(Bosnalijek)、エネルゴペトロル(Energopetrol)、サラエヴォ・タバコ製造(Sarajevo Tobacco Factory)、サラエヴォ・ビール醸造所(Sarajevska Pivara)などがある。これらはいずれも、ボスニア・ヘルツェゴビナで業界最大手の企業である。
また、観光もサラエヴォの経済において重要な産業となっている。
サラエヴォにはまた強力な観光産業があり、2006年のロンリープラネットの「世界の都市」ランキングにおいて43位にランクされている[30]。スポーツ関連の観光産業では、かつての1984年冬季オリンピックの設備、特に、付近のビェラスニツァ山(Bjelašnica)、イグマン山(Igman)、ヤホリナ山(Jahorina)、トレベヴィチ山(Trebević)、トレスカヴィツァ山(Treskavica)のスキー施設を用いている。サラエヴォの600年の歴史は、東西それぞれの帝国の影響を強く受けており、サラエヴォ観光の魅力となっている。サラエヴォは数世紀にわたって旅行者を受け入れ続けている。これは、サラエヴォがオスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の交易の拠点であったことによる。サラエヴォの観光のみどころの一例を挙げれば、ボスナ川の源泉があるヴレロ・ボスナ(Vrelo Bosne)公園、カトリック教会のイエスの聖心大聖堂、ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク(Gazi Husrev-beg's Mosque)などがある。サラエヴォの観光産業は主に歴史的、宗教的、そして文化的な要素に基づくものである。
ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール(Gazi Husrev-begov bezistan)は、1542年から1543年にかけてガジ・フスレヴ=ベグによって建設された、屋根で覆われた市場である[31]。設計に携わったのはラグーサの職人たちである。長さ109メートルにわたって、50を超える店舗が立ち並んでいる。
ガジ・フスレヴ=ベグ・モスクは、ガジ・フスレヴ=ベグ(Gazi Husrev-beg)によって1531年に建てられたモスクであり、美しいオスマン建築の建築物である [31]。モスクを設計したのはミマール・スィナンであり、スィナンはヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋や、イスタンブルのスレイマニエ・モスクを設計した人物である。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、モスクはボシュニャク人の象徴として攻撃対象とされ、サラエヴォ包囲ではガジ・フスレヴ=ベグ・モスクも大きく損傷を受けた。紛争終結後の1996年から修復が始まった。しかしながら、このときの修復資金にはサウジアラビアからのものが多く、修復に際してはワッハーブ派の影響を受けた。修復後のモスクからは色彩や装飾的な要素は取り払われ、白を基調とした質素なつくりとなった[32]。2000年から、モスクを紛争前の姿に戻すための、完全な修復の作業が始まった。単に「ベグのモスク」(Begova džamija)とも通称される。
バシュチャルシヤ(Baščaršija)は、サラエヴォの旧市街のメイン・ストリートで、16世紀にアラブのスークをモデルに建造された商業地区であった[31]。バシュチャルシヤでは金属細工や陶磁器、宝石などが売買されていた。バシュチャルシヤには、1551年にルステン・パシャ(Rustem pasha)によって建てられたドーム状の屋根がついたブルサ・バザール(Brusa bezistan)もある。ここでは、トルコのブルサから持ち込まれた絹製品が売られていた[31]。また、1891年に建てられ、サラエヴォの代表的なシンボルとなっているセビリ(Sebilj)は独特の形状をした水汲み場で、バシュチャルシヤの中央に位置している。その名前は、アラビア語で「道」を意味する「Sebil」に由来している[31]。
アリ=パシャ・モスクは、ハディム・アリ=パシャ(Hadim Ali-pasha)の遺言に基づき、アリの遺産によって1560年から1561年にかけて建造されたモスクである[31]。アリは自らの遺産を使って、自分の墓の隣にモスクを建てることを望んでいた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では大きく損害を受けたものの、終戦後は段階的に修復作業が進められている。
ラテン橋は、旧称をプリンツィプ橋といい、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、