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この項目では日本のミュージシャン&コントグループについて記述しています。アメリカのコーラスグループについては
ドリフターズ (アメリカ)をご覧ください。
ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本のミュージシャン、後にコントグループである。略称「ドリフ」。1970年代から1980年代中頃をピークに、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活躍。現在もCM出演等で活動している。
概要
一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
いかりやが正式リーダーに就任した2年後の1966年にはビートルズ日本公演の前座を務め、僅か40秒の演奏時間ではあったが、前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、ドリフターズだけはビートルズと同じステージで演奏した。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。
コント55号(萩本欽一・坂上二郎)、三波伸介、笑福亭仁鶴、桂三枝、横山やすし・西川きよしと共に1970年代から1980年代にかけて日本のお笑いをリードしてきたエンターテイナーである。
当たりギャグは「8時だョ!全員集合」の欄を参照。
所属事務所
いかりや長介がリーダーに就任した当時は渡辺プロダクションに所属。1979年より渡辺プロダクションより分社した「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)で、デビュー当初より在籍していた。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システムから発売された。
メンバー構成
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。初期のメンバーには、現在、催眠カウンセラーの吉田かずおが在籍していた。ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現・すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることは無い。さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定は無く、現在4人の構成となっている。
いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。
芸名の由来
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格に当たる「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇だった。ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたようだったが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)。
ミュージシャンとしてのドリフ
前期バンド時代はともかく、新生ドリフはカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけた川口真のアレンジは、独自の「ドリフサウンド」を作り上げた。また、1970年の「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。彼らの「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、時代を考えるととてつもない大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。
後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったため、音楽とは程遠い存在になったが、音楽活動はメンバー各個人のみで継続されており、全く音楽活動を休止してしまったわけではなかった。これは、高木ブーが日本屈指のウクレレ奏者であることや、加藤茶がドラマーの実力を度々番組内で披露していることからもわかることである。また最近では、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。
2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援に来た事は過去にも度々あった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となったが、往年のヒットメドレーは大好評を得た。だが、いかりや長介亡き今日、ドリフにとってはこれが現時点で歌手として最初で最後の紅白出場となる見通しである。
コメディアンとしてのドリフ
元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後の彼らのキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。
70年代になると「クレイジーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。これは、クレイジーキャッツと同様、「歌」や「コント」等、何でも出来たためである。
お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。
志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「いかりやから加藤を中心として4人共にいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。
後期は、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり、振り回されるという笑いのパターンだった。イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。それまでの荒井の人気の高さと同時に、志村を前面に押し出すまでの他のメンバー、特にいかりやと加藤の力量とキャリアによるサポートによるものであり、この頃には3枚目としての仲本も強調されてきた。一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れる事がしばしば見受けられた。リハーサルでダメ出しをされても、生放送のドサクサに実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を若干ながら崩すこととなる。
撮影用ではあるがケーキや鶏卵、牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗中傷をネタにすることはなく、かつ素人いじりをしなかった。また、トーク中心のギャグは、たとえ優秀な通訳がいたとしても日本人以外には受けないが、ドリフは体を張ったギャグや音楽ネタが中心であるため、老若男女を問わず日本人以外からの受けも良い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。日本だけでなく、台湾等でも彼等は人気がある。
「8時だョ!全員集合」、「ドリフ大爆笑」、テレビ朝日「ドリフと女優の爆笑劇場」等の番組にゲスト出演した一流俳優、一流女優、アイドル歌手、演歌歌手までが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることをバーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも許されたばかりか、ドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながら喋って笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあり、まさにドリフに対する信頼の高さをうかがわせた。
メンバー
加藤茶
詳細は加藤茶を参照
(1943年3月1日 - 、本名加藤英文、かとう ひでゆき)
- 1962年メンバー入り。1964年のドリフ再結成当初では最年少だった。いかりや没後、現行ドリフでは最も古いメンバー。ドラムとボケ担当。
- 志村が東村山音頭でブレークするまではメンバー内の一番人気であり、いかりやのギャグの落ちの期待を一身にかけられていた。その期間ドリフを引っ張っていき、メジャーに押し上げた功労者でもある。グループ内ではいかりやとぶつかることもあったが、メンバーの人間関係の調整役の役割を果たしていた。加藤はいかりやの弔辞を読んだ。
- 1964年、後述するドリフ内部のクーデターの際、小野ヤスシ等と共にドリフを抜ける予定だった。
- 荒井が脱退宣言をするまでが絶頂期であり、当時国民的人気者だったが、本人は限界を感じていた。
- 志村がブレークした後は志村の後手にまわることが多かったが、それは本人が疲れと限界を感じていたため自ら志村のサポートに回った結果である。実際、「志村がいて助かった」と公言している。
高木ブー
詳細は高木ブーを参照
(1933年3月8日 - 、本名高木友之助、たかぎ とものすけ)
- 1964年荒井と同時にドリフ入り。自称、いかりや没後の四代目リーダー。初期ではリードギター担当。最も印象が薄いが、「ドリフの中では最も音楽性が高い」とのいかりやの評価もある。
- 本人がNHKのトーク番組に出た際の証言によれば、元々お笑いというよりも音楽を求めてのドリフ参加だったため、志村がレギュラー入りしグループのお笑い色が濃くなってきたときに辞めそうになったという。
- ドリフが音楽活動をやめた理由を「志村がギターで自分がキーボードになった。しかし、自分はキーボードが荒井ほど弾けなかったのでドリフは音楽活動をやめた」と発言している。
- 1984年9月14日、「全員集合」のリハーサル中にアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱したこともある。
仲本工事
詳細は仲本工事を参照
(1941年7月5日 - 、本名仲本興喜、なかもと こうき)
- 学習院大学卒。東京商工会議所に内定が決まっていたが、高木に誘われ1964年に内定を蹴って高木、荒井の次にドリフ入り。しかし、高木の説によれば東京商工会議所でサラリーマンをしていた仲本の元に、脱退する小山威の後釜として高木からの誘いの電話が入って1965年にドリフ入りしたという。どちらが正しいかは不明。初期のドリフでは、ギターとロック系ボーカル担当。ビートルズの前座で「ロング・トール・サリー」のボーカルを取ったのも彼である。
- コントでは、「要領のいい、リーダーに媚を売る役」、「内心、何を考えているのか分からない役柄」を演じる事が多く、全てのメンバーにしっかり合わせられる器用さがあった。また、学生時代に体操部で身につけた床運動(マット体操)での軽快な身のこなしも有名だった。
- 1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1ヶ月、書類送検の上略式起訴された。賭けた金額は当時の金額で約100万円だった。
志村けん
詳細は志村けんを参照
(1950年2月20日 - 、本名志村康徳、しむら やすのり)
- 1968年、いかりやに直々に懇願しドリフの付き人となる。しかし、1年余りであっけなく脱走。志村の著書では、あくまで「社会勉強の為の休養」となっている。その後、加藤の口添えで出戻り。加藤の付き人兼加藤家居候を経て、お笑いコンビ「マックボンボン」を結成し、日本テレビ「ぎんぎら!ボンボン!」も担当したが、人気が出ず2年余りで解散。しかし、脱退する荒井の後釜として1973年12月にドリフ見習いとなり、1974年4月に正式メンバーになる。
- 交代後2年近くはギャグが受けずスランプ状態に陥っていたが(かといって全然受けなかったわけではない。)、東村山音頭で一気にブレークして子供たちの人気を獲得し、さらに新たなネタやギャグを連発。やがてドリフ内では加藤を超える人気者になった。
- 映像では荒井の脱退後にキーボードを弾いていたとはいえ元々コメディアン志望であり、ミュージシャンと呼んで良いかどうかは疑問が残るが、ソウル・ミュージックに精通している。
- ドリフメンバー内では、荒井がいた頃の全員集合で加藤が担当していた役(一人になったとき、幽霊やミイラが出てくるパターン)、及びいかりやの代わりの突っ込み役を担当。
- ジャングルでの残留日本兵、探検隊コントでは、志村がライオンを発見するが、ほかの人間が振り向くとライオンが消え、ライオンが顔を出すと会場の子供たちが一斉に「志村〜、うしろ、うしろ!!」と絶叫する定番コントがあった。
- 仲本同様、1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1ヶ月、書類送検のうえ略式起訴された。
- 70年代からビートルズのレコード収集家としてコレクター界では有名で、所有している種類や枚数は海賊盤を含めかなりの数に及び、マニアだと言われている。自身の番組内にビートルズナンバーをたびたび使用している理由の一つでもある。
元・新生ドリフメンバー
いかりや長介
詳細はいかりや長介を参照
(1931年11月1日 - 2004年3月20日、本名碇矢長一、いかりや ちょういち)
- ドリフの三代目リーダー。1962年にドリフのメンバーとなり、1964年より正式リーダーとなる。新生ドリフでは最古参メンバーだった。ベース、ツッコミ(時にはボケ)担当。
- コントでは、わざと嫌われ役汚れ役の権力者を演じ、加藤(後には志村)の仕返しというパターンで笑いを取ることが多かった。
- ワンマンな一面があり、他メンバーと衝突することもあったが、新生ドリフを立ち上げてメンバーの采配により、メンバーを見事にまとめた。
荒井注
詳細は荒井注を参照
(1928年7月30日 - 2000年2月9日、本名荒井安雄、あらい やすお)
- 元・正メンバー。1964年高木と同時にドリフ入り。ドリフ入りした当初は「リーダーより年上では何かと問題がある」ということで、加入後しばらくは高木とほぼ同年代(1934年生まれ)とサバを読んでいた。なお、当初はドリフのメンバーですら彼の正確な年齢を知らなかった。
- レパートリーの少ないキーボード(ピアノ)担当。いかりやの著書によれば、いかりやは彼のレパートリーの少ないことを知らないままヘッドハンティングしたことを後悔したという。
- コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、シカトし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンがウケた。「なんだ、バカヤロー!」と「This is a pen!」のギャグは伝説となっている。
- 1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。荒井が久々に出た「ドリフ大爆笑」のドリフの歴史を面白可笑しく紹介するコント(保存版・ドリフの隠された秘密)ではいかりやが「ふてぶてしい態度と陰険な性格がメンバー全員の反感を買って、永久追放の憂き目に遭う」と脱退理由を語った。
- 荒井の亡くなる直前の2000年の正月放送の「フジカラー・フィルム」のCM撮りで6人ドリフとして15年3ヶ月ぶりの久々の全員集合となり、大きな話題となった。さらに、田中麗奈との共演もあった。七福神をモチーフとしたもの。撮影自体は、その前年の暮れ頃と推測される。しかし、彼ら6人が出演した最後の映像となった。
すわしんじ
(現・すわ親治)(1952年11月14日 - 、本名諏訪園親治、すわぞの ちかはる)
- 元付き人・見習い。幻のドリフ第六の男。ファンの間では「5人のメンバー+荒井+すわ」をドリフメンバーと認識する人が多いが、正式なメンバーではない。日劇でのドリフ公演では、すわを含めた6人構成のコントが披露されていた。
- 1970年頃、加藤の運転手として採用され、1972年頃にそれから付き人に昇格。「(荒井時代の)全員集合」に志村より先に出演し、「奇声を上げながらやたら走りまくったあげく加藤のクシャミでズッコケるブルース・リー」役で受ける。その役のインパクトが強く、ファンの多くは荒井脱退後は正メンバー昇格と思っていた。グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。結果としては先輩に当たる志村がドリフに加入することとなった。その後、正メンバーになることなく1985年にドリフを辞める。いかりやは、メンバー昇格を延ばし延ばしにした結果すわを脱退に追い込んでしまったと悔やみ、その才能を惜しんでいた。
- 2001年でのNHKの特別歌番組で、ドリフターズが全員集合した際、歌やコントをするにあたって、彼も一緒に集合をかけられた。元付き人の特別出演というよりメンバーの一人としての扱いに近かった。同番組、ドリフのコーナーの最後の歌の時に「馬」の扮装で出演。伏線は後述する「主な出演番組」の項目の「飛べ!孫悟空」を参照。
- いかりやの葬儀のときには、残された4人の現メンバーとともにいかりやの棺を運んでいた。
ドリフターズ前期バンド時代のメンバー
ドリフは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には、現在のドリフ構成からは考えられない大御所ミュージシャンが在籍していた。
- 岸部清(1931年1月3日 - )
- 初代リーダー。元、東京ウエスタンボーイスのメンバー。マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。1960年、桜井輝夫にリーダーの座を譲り、渡辺プロマネージャーを経て、現在は芸能事務所「第一プロダクション」社長。MPA音楽出版社協会副会長、音事協の名誉理事を兼任。
- 山下敬二郎(1939年2月22日 - )
- ドリフ脱退後にブレークし、一世を風靡したロカビリー歌手。平尾昌晃、ミッキー・カーチスと並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。
- 井上ひろし(1941年8月23日 - 1985年9月12日)
- 水原弘、守屋浩と並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手。長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。映画「青春を賭けろ」にも出演。代表曲は「雨に咲く花」。
- 坂本九(1941年12月10日 - 1985年8月12日)
- 雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月にドリフの正メンバーとなり、ボーカルをやっていた。同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演し、12月に「パラダイスキング」に移籍の形で脱退。なお、「8時だョ!全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。
- 桜井輝夫
- 2代目リーダー。ボーカル担当。1964年頃、リーダーの座をいかりやに譲り脱退。
- 寺内タケシ(1939年1月17日 - )
- 日本でのエレキギターの神様。
- 田中良夫
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。テナー担当。桜井がいかりやに形式的にリーダを譲り完全にコミック色が強くなった頃に脱退。
- 三好明
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。ピアノ担当。桜井がいかりやに形式的にリーダを譲り完全にコミック色が強くなった頃に脱退。
- ポン青木
- 1960年メンバー入り。ビブラフォン担当。いかりやがドリフに加入して暫くの後に脱退。いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。脱退原因は不明。
- 高松秀晴
- 1962年頃木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。
- 木の実ナナ(1946年7月11日 - 、本名池田鞠子)
- 高木の証言によれば元メンバー。本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。1962年頃専属シンガーだった。彼女は、いかりや、加藤等のバックミュージックの元前歌を歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。
- 小野ヤスシ(1940年2月11日 - )
- 元・正メンバー(1960年 - 1964年)。ボーカル担当。1964年にいかりやとそりが合わず、ドリフを脱退。後述するクーデターにより、現ドリフメンバー構成となるきっかけを作った人物である。小野脱退以後のメンバー構成が、世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだった事を知っている人は少ない。脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテットを結成。1970年よりソロ活動となり、バラエティーで活躍。加藤の親友であり、1993年加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成。
- 飯塚文男(1940年11月23日 - 2003年3月27日)
- 小野ヤスシと共にクーデターを起こし脱退。ドンキーカルテットを結成。後に11PMの水曜日のレポーターとして活躍。
- ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )
- いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテンボーイズ」から、いかりやに誘われ1962年ドリフ入り。1964年、小野ヤスシと共にクーデターを起こし脱退し、ドンキーカルテットを結成。現在は芸能界の他、催眠術師として、執筆活動や催眠法のクリニック等で活躍している。
- 猪熊虎五郎( - 2001年11月4日)
- ドンキーカルテットに移籍。後に声優もこなしたが芸能界から引退。
- 小山威
- 二代目リーダー桜井の腹心。ギター担当。桜井が正式にドリフから身を引いたと同時期に脱退。彼と入れ替わりで仲本が加入したのか、仲本加入後も在籍していたかは定かではない。
- 綱木文夫
- 二代目リーダー桜井の腹心。サックス担当。ナベプロのオーナーの要請でドリフに参加。後述するクーデター後も暫くはドリフに在籍し、新生ドリフがお笑いを確立する前のれっきとした正メンバーだった(1964年 - 1966年頃)。彼は正メンバーとして残りたがったが、ドリフが渡辺プロに移籍して数年でいかりやからお笑いができないとして脱退を命じられる。
関係者
ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされそうになった芸能人を紹介する。
- 水木一郎(1948年1月7日 - )
- 「徹子の部屋」出演時の本人の証言によれば、1963年頃付き人をやっていた。
- 一の宮はじめ
- ドリフの振り付けを担当した。当時の振付師の草分け的存在で西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」やジュディ・オングの「魅せられて」も彼の振り付けによるもの。最近は専門学校で俳優の育成の他、脚本家としても活躍している。
- 井山淳
- 元付き人。1972年に志村が結成したマックボンボンの最初の相手方。志村と共に、「ぎんぎら!ボンボン!」にTV出演していた。また1969年、ドリフの映画「ドリフターズですよ!全員突撃」にガードマン役として出演。マックボンボンの失敗により失踪。
- 福田正夫
- 元付き人。志村が結成したマックボンボンの井山失踪後の相手方。自衛隊出身であり、自分はコンビを組まなくてもやっていけると強気で、コンビ結成後の練習に身が入らずマックボンボンは自然消滅的な形で解散の道をたどる。
- 桑田佳祐(1956年2月26日 - )
- サザンオールスターズは、デビュー当時コミックバンドと思われていた。いかりやは桑田に目を付け、TBSプロデューサー居作昌果を通して高木が辞めそうになった時に桑田にドリフ加入を打診していた。
- 居作昌果(いづくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)
- 元TBSテレビプロデューサーで、独立後テレビ制作会社「タイクス」を設立、同社の代表取締役社長を務めた。「8時だョ!全員集合」や前枠番組の「お笑い頭の体操」、「クイズダービー」をプロデュースした。2005年4月10日没。享年72。
- 井澤健(1935年9月9日 - )
- ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、影のドリフメンバーと呼んでいた程ドリフに貢献した人物。現在ドリフの所属するプロダクション「イザワオフィス」社長兼ワタナベエンターテインメント社長。
- 久世光彦(1935年4月19日 - 2006年3月2日)
- 元TBSテレビプロデューサーで、作家・演出家。演出面でいかりやのコントに感心し、いかりやの弟子となった。荒井の芸能界復帰に力を尽くした。「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」、「ムー一族」などのテレビドラマの演出を手掛けたことで知られる。2006年3月2日没。享年70。
- たかしまあきひこ
- 音楽面のブレーン的存在。ドリフ及び志村の冠番組の大半で作曲を担当。「全員集合」の少年少女聖歌隊コーナーではピアノ伴奏者として出演もしていた。
- 山田満郎
- 全員集合のコントの仕掛けを作っていた美術スタッフ。後に番組の回顧として「8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術」を執筆。
- ビートルズ
- 来日公演の際にドリフが前座をつとめた。演奏曲は「ロング・トール・サリー」。6/30夜公演、7/1昼公演ともに映像が残されている。当時テレビでドリフの演奏が見られることはなかったが、近年になり日本テレビ番組「いつみても波瀾万丈」に加藤茶、高木ブーが出演した際にその一部が放映されついに日の目を見た。
- 小泉孝太郎
- いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。そのときの父・小泉純一郎のコメントは「力をつけてもらわないと…」だった。
ドリフの歴史
前期バンド時代
以下、雑誌「ミュージックライフ」、いかりや長介著「だめだこりゃ」、高木ブー著「第5の男」、および加藤茶の証言等を元に極力矛盾が少なくなるように整合させた、いかりやが正式リーダーになるまでの経緯を紹介する。なお、新生ドリフ結成の解釈には、おなじみ5人のメンバーが揃った時と、桜井輝夫と小山威が抜けた時である渡辺プロ移籍時の2通りがあるが、本記事ではイザワオフィスの公式発表に従い後者とする。
- サンズ・オブ・ドリフターズ
- 1957年(1955年または1956年説もある)、「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成(参考[1])。岸辺清がリーダー。メンバーは、グループ名は、アメリカのThe Driftersに傾倒していた岸辺が、自分達のグループをDriftersの息子たちと自負して命名したという説がある。駐留米兵相手のウエスタンバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。後期には、桜井も加入。なお、初代リーダーは大野という説もある。大野と親交のある高木は[2]にて、いかりやが3代か4代目のリーダーと語っている。大野が初代とすればいかりやは4代目となる。
- この時のメンバー:岸辺、大野義夫、多田正幸、新井利昌、鈴木修、根本節夫、吉田博、能勢武、清水一夫、斉藤任弘、山下敬二郎
- 井上ひろしとザ・ドリフターズ
- 1958年、山下の脱退と共に、名称を「ザ・ドリフターズ」に変更。山下の代わりのボーカルとして井上ひろしが付き人より昇格。一時期は坂本九も在籍。当時ドリフは、ロカビリーが売りのバンドであり、井上のバックバンド的な存在だった。
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ
- 1960年、井上の独立と共に、岸辺から桜井へとリーダーが交替し、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」となる。また、ポン・青木、小野ヤスシが加入。当時はロックバンドだったが、この頃から音楽主体のコミカル路線を歩むこととなる。寺内タケシも在籍していたことがある。
- この時のメンバー1:桜井、青木、小野、※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の5人
- この時のメンバー2:桜井、寺内、青木、田中、三好、小野、※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の8人
- この時のメンバー3:桜井、青木、田中、三好、小野、小山、※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の10人
- 碇矢と加藤の加入
- 1962年二代目リーダー桜井がグループのお笑いを強化するため、「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」のベーシスト碇矢長一(当時は芸名でなく本名)をヘッドハンティングした。その直後に「クレイジー・ウエスト」(ミッキー・カーチスのバンド)のメンバーだった加藤英文(同じく当時は芸名でなく本名)もドラマーとして参加。そして、桜井より碇矢がリーダー代行という形で、「ザ・ドリフターズ」を本格的なコミック・バンドとして再々編して出発することになる。
- 碇矢がメンバー入りしドリフがコミックへと完全に方向転換した際、青木とコミックを嫌うメンバー(田中、三好)は脱退し、代わりに飯塚文男とマウンテン・ボーイズのジャイアント吉田に加え、猪熊虎五郎もメンバー入りした。当時のメンバーの中には、加藤もいたが、小野も、フィーチャーリングボーカリストとして在籍していた。さらには、桜井がボーカルを行ったり、木の実ナナや高松秀晴がドリフ演奏の下で前歌を歌うこともあった。これが、現在我々が知っているドリフの母体、原形である。
- この時のメンバー1(昭和38年頃):桜井、青木、田中、三好、小野、小山、いかりや、加藤、※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の10人
- この時のメンバー2:桜井、小野、小山、綱木、いかりや、加藤、猪熊、飯塚、吉田の9人
- ドンキーカルテットとの分裂
- 1964年桜井はライブに出演しなくなり、オーナーの立場となった。桜井はオーナーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は依然雇われリーダーの形式だったが、碇矢の影響力が強まり、碇矢は練習の鬼と化した。そのワンマンぶりに対し小野は一種のクーデターを起こし、吉田、猪熊、飯塚を誘って脱退して、「ドンキー・カルテット」を結成する。彼らの脱退に際して加藤も誘われ悩んだが、小野から「ドリフに残った方が良いのではないか?」とのアドバイスを受けていた。また、碇矢からも残留の説得、及び説得時の碇矢の顔の迫力により残留を決めたそうである。残されたメンバーは、リーダー(代行)の碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、サックスの綱木だった。ここで、オーナー桜井の腹心を除いた実質のメンバーは、碇矢と加藤だけだった。
- この時のメンバー1:桜井(オーナー)、小野、小山、綱木、いかりや、加藤、猪熊、飯塚、吉田の9人
- この時のメンバー2:桜井(オーナー)、小山、綱木、いかりや、加藤の5人
- 高木・荒井・仲本の加入
- 主力メンバー大量脱退でピンチになった桜井を含むドリフの母体側(逆にいうなら「残された側」)は、この時点で急遽「シャドウズ」、「パップコーン」などに在籍していた高木友之助を引き入れ、さらに「クレイジー・ウエスト」のピアニストだった荒井安雄が加入し、正メンバーだったギターの小山が抜けた後に「クレイジー・ウエスト」でのボーカル経験もあった仲本コージ(ジェリー藤尾のバンド「パップ・コーン」にも在籍)が参加し、ご存知の5人のメンバーが揃った。1964年9月頃のことだった。この当時は綱木が正メンバーとして在籍し、ドリフは6人構成だったことはあまり知られていない。綱木在籍時の6人ドリフのブロマイドがある。写真→[3]写真後方左が綱木。
- この時のメンバー:桜井(オーナー)、いかりや、加藤、高木、荒井、仲本、綱木の7人
- 新生ドリフ誕生
- 桜井はバンドを渡辺プロに譲り、碇矢が正式に三代目リーダーとなる。それからしばらくして、在籍の意思あるも笑いのセンス無しとして、綱木が碇矢に強制脱退させられる。ドリフといえば通常、桜井の影響が無くなり碇矢が正式にリーダーに就任したこの時期以降のことを指す。しかし、新生ドリフターズは結成当初は正メンバーとして綱木文夫がいたので6人構成であり、5人となったのは新生ドリフ結成後2年経った1966年頃である。TVでいかりやが「ドリフ40周年」と言っていたが、西暦を数えるとちょうどこの年に当たる。なお、渡辺プロに移った年が1965年という説もあることや、加藤の「20歳でドリフに入った」との証言(彼が入ったのは19歳で、1964年の秋は21歳)から、ドリフ再結成(新生ドリフ結成)年の解釈に疑問も残る。
- この頃までは、ドリフターズはジャズ喫茶出演が中心で、全国的には無名に近いバンドであり、かろうじて加藤の「カトちゃんぺっ」のギャグがTV放映でわずかに知られていた程度である。
- この時のメンバー1:いかりや、加藤、高木、荒井、仲本、綱木の6人
- この時のメンバー2:いかりや、加藤、高木、荒井、仲本の5人
※1965年以前は、各文献で記述と年代の矛盾があり、正確な年次は不明な部分がある。ドリフは、渡辺プロとイザワオフィスの公式発表では1964年の新生ドリフ結成、小野や加藤の出演するバラエティー番組では1960年の桜井輝夫とザ・ドリフターズ結成、坂本が紹介される番組では1957年のサンズ・オブ・ドリフターズ結成を起源として紹介されている。
新生ドリフ時代
- 全員集合まで
- 渡辺プロ移籍直後、事務所の先輩ハナ肇に芸名を付けられる。その後に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」と名乗ることもあった(短期間ながら、初期には「いかりや長一とザ・ドリフターズ」だったこともある)。
- 初期新生ドリフは、ポスト「クレージーキャッツ」を自負するコミックバンドとしてジャズ喫茶出演やTV出演を行っていた。1966年はビートルズの前座を務めるほどだった。ちなみに、当時高校生の志村けんがこの前座を観客として見ていた、とする記述が居作昌果の著作などに見られるが、志村本人は否定。また志村が隠し撮りしたビートルズライブの写真からも志村が見たのはドリフターズが出演しなかった日であることがわかる。後述する『大正テレビ寄席』出演の頃からコントに軸足を移すようになる。この番組で、後のライバルとなるコント55号と出会う。この頃から徐々にドリフの人気が高まる。そして、1967年には映画『なにはなくとも全員集合』で初主演を果たす。
- 1968年、『大正テレビ寄席』や『あなた出番です!』を見ていたコメディアン志望の志村康徳が付き人として加入。この頃のドリフの番組は、コント55号に押され気味だった。
- 全員集合開始から荒井注脱退まで
- 1969年、居作昌果の誘いにより『8時だョ!全員集合』のメインを努め、コント55号に人気の面で圧倒し、ドリフは一躍スーパースターとなった。と同時に、全員集合は俗悪番組のレッテルを貼られ、ドリフは人気と引き換えにPTAの目の仇にされる。この番組を見ていたお笑い好きのバンド青年、諏訪園親治が1970年に加藤の運転手として加入、2年後に見習いとして全員集合に出演。
- 1973年秋、荒井が体力の限界を理由に脱退宣言を行い、志村が荒井の後釜として見習いとなる。加藤の証言では、そのとき加藤も抜ける予定であり、二人で脱退宣言をする約束をしたらしいが、先に荒井が脱退宣言をし大騒ぎとなったため、加藤は辞められなくなってしまった。また、荒井の後釜選びのとき、加藤がいかりやに志村を推薦し、悩んでいたいかりやも付き人の中で最も才能のある志村を選んだ。ファンは「荒井の後釜はすわである」と思っていた人が多く、当時無名の志村が後釜ということで違和感を覚えた人が多かった。当時、すわは付き人の中で最も世間に顔が売れており、かつ全員集合ではブルース・リーのものまねにより人気が出ていた。
- 志村けん加入から全員集合終了まで
- 全員集合終了後
- 全員集合終了後には、ドリフメンバーが全員揃っての活躍は一時停止状態となる。これをもってドリフターズが事実上解散したとする文献もある。そして、加藤と志村は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』、いかりやは俳優、高木はミュージシャン、仲本は舞台とそれぞれの活動に励むようになる。
- こぶ茶バンドとして、加藤・仲本・高木によるステージが地方巡業された。
- 志村のゴールデンタイムのレギュラー番組が終了すると、ドリフ大爆笑にて徐々に5人のコントが復活するようになる。
- 平均年齢60歳を超えた頃からは「ザ・ドリフターズ」として全員集合することは少なくなったが、メンバー個人での活動は減るどころか、それぞれテレビドラマや映画、トーク番組やCM出演などで色褪せることのない活躍ぶりをみせていた。1999年末に富士フイルムのテレビCMで荒井を含めて、久々の6人による「全員集合」となりドリフの健在ぶりを見せた。荒井は2000年2月8日に肝不全のため死去。2003年12月8日、「ドリフ大爆笑」の最新オープニングの収録に臨み、4年ぶりに5人揃っての「全員集合」となった。2004年3月20日にはリーダーのいかりやがリンパ節がんのため死去。解散は最後の1人が死ぬまでしない模様。
TV出演
主な出演番組
(ドリフターズ全員出演のものに限る)
- 『ホイホイ・ミュージックスクール』(1962年 - 1965年、日本テレビ系)
- ドリフ初のレギュラー番組。鈴木ヤスシと木の実ナナが司会のオーディション番組。ドリフは1964年5月より、コーナーレギュラーで音楽コントを披露していた。この番組で全員集合など座付き作家となった田村隆や以後の日テレドリフ番組を全て演出した白井荘也と出会うことになる。初めの頃は小野等も出ていたが、前述したクーデターの後には出演メンバーの変遷が見られ、後におなじみの5人のみの出演となる。この番組の後、ドリフはTVレギュラー出演が増える。
- 『歌え!一億』(1965年、フジテレビ系)
- 伊東ゆかりとドリフによる歌謡番組。視聴率が伸びず、スポンサーと局スタッフを集めた会議にて、高木が大いびきをかきながら居眠りをしてしまい、スポンサーを怒らせて番組終了となった。
- 『あなた出番です』(1966年 - 1969年、日本テレビ系)
- 伊東とドリフによる、オーディション番組。後に『ドリフターズ大作戦!』と番組名が変更される。『歌え!一億』の雪辱を果たし、視聴率がアップした結果、ドリフに海外旅行のプレゼントがあった。それまで、メンバーにも秘密だった荒井の真の年齢が、パスポートに生年月日を記入する際に加藤に盗み見され暴露される。
- 『大正テレビ寄席』(1966年、NETテレビ(現テレビ朝日系))
- 牧伸二の司会で渋谷東急文化会館にて収録。毎週日曜日の正午に放送された。「3分に1回笑わせる」事をキャッチフレーズとして、様々な芸人による芸を披露した公開演芸番組。いかりやは、この番組で東西の寄席芸人やストリップ小屋のコメディアン、キャバレー主体の芸人といったあらゆるお笑い芸人と知遇を得て懇意にし、また彼等の様々な芸に触発され自分達のコントの形態を研究。その結果、今日に至るドリフのコント戦略の方針が出来上がった。また、コントグループとしてのドリフの知名度が上がった番組でもある。