ジェームズ・キャグニー とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ジェームズ・キャグニー(James Cagney,1899年7月17日 - 1986年3月30日)はアメリカ合衆国の俳優。本名ジェームズ・フランシス・キャグニー・ジュニア(James Francis Cagney Jr)。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ジェームズ・キャグニー 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| ジェームズ・キャグニー James Cagney |
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| 本名 | James Francis Cagney Jr | ||||||
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| 生年月日 | 1899年7月17日 | ||||||
| 没年月日 | 1986年3月30日(満86歳没) | ||||||
| 出生地 | |||||||
| 職業 | 俳優 | ||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||
| 活動期間 | 1930年 - 1967年 | ||||||
| 活動内容 | 1930年:映画デビュー 1967年:引退表明 |
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| 配偶者 | フランシス | ||||||
| 主な作品 | |||||||
| 映画 『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』『白熱』 |
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| 備考 | |||||||
| 映画俳優組合代表(1942年 - 1944年) | |||||||
ジェームズ・キャグニー(James Cagney,1899年7月17日 - 1986年3月30日)はアメリカ合衆国の俳優。本名ジェームズ・フランシス・キャグニー・ジュニア(James Francis Cagney Jr)。
1930年代隆盛を誇ったギャング映画スターの一人であり、ヴォードヴィル出身であることから唄やダンスもこなした。小柄だが不敵な面構えときびきびとした早口によって強烈な印象を与え、活力に溢れた行動派キャラクターを多く演じて広く親しまれた。
目次 |
1899年、アイルランド系一家の次男としてニューヨークに生まれる。
生活は貧しかったが「喧嘩っ早い父親としっかり者の母を中心に仲のいい幸せな家族であった」と後年キャグニー自身が回想している。1918年に父がスペイン風邪のために死亡すると、彼は幼い弟妹を抱えた家計を助けるため、ウェイターや図書館司書のアルバイトに勤しんだ。
当時から野球やボクシングに打ち込むスポーツ青年でもあった。特にボクシングでは、賞金が出る試合への出場を依頼されるなど、確かな腕をもっていたようである(ただし、この試合への出場は母の反対にあって断念した)。
その後、より高収入を得ようと芸人に転職。ヴォードヴィルやブロードウェイの舞台に出演していった。なお、彼の芸人としての初仕事は、コーラスラインの女性ダンサー役であった。1922年に所属していたヴォードヴィル一座の女優フランシス(愛称「ビル」)と結婚し、彼女と共に全米各地を巡業した。この時期には、同じく下積み生活をおくっていたケーリー・グラントとコンビを組んだこともある。
舞台『Sinner’s Holiday』の主役に抜擢されたことから、俳優としての活動が本格的に始まった。この舞台がきっかけとなって、1930年に大手映画会社ワーナー・ブラザーズに見出されて映画界入りし、同作の映画版で映画デビューをした。
1920年代後半から、禁酒法の影響で蔓延していた密造酒の利権を巡ってアル・カポネに代表されるギャング達の抗争が新聞やラジオで連日報じられていた。そのような社会の動きに目をつけたのがキャグニーが所属したワーナー・ブラザーズであった。同社はエドワード・G・ロビンソン主演の映画「犯罪王リコ」(1930年)を皮切りに、キャグニーやポール・ムニ、ジョージ・ラフトといった個性派の俳優達を起用して、数々のギャング映画を製作していった。
この流れからキャグニー主演で製作されたのが1931年の映画『民衆の敵』である。この作品でキャグニーは、酷薄かつ凶暴なギャングのトム・パワーズを見事に演じて大評判となり、一躍トップスターの仲間入りを果たす(劇中において、パワーズが食卓で情婦の顔に半切りのグレープフルーツを押し付けるシーンは、大変有名になった)。以後ギャング映画の主役の一人として冷酷非情なキャラクターを多く演じた。
『民衆の敵』によってギャングスターとしての地位を築いたキャグニーであったが、それに飽き足らず、コメディや西部劇など次々と新たなジャンルへ挑戦した。1933年の『フットライト・パレード』(主題歌「上海リル」が日本でもヒット)では、ヴォードヴィル時代に培ったダンスを披露し、1935年の『真夏の夜の夢』ではシェイクスピア、といった具合である。
1935年の終わりにはワーナーブラザーズを飛び出して弟と共に独立系映画制作会社「グランド・ナショナル・ピクチャーズ」を設立して『グレイト・ガイ』や『キャグニー ハリウッドに行く』などを製作するが、興行的に振るわず失敗した。
1938年、再び古巣のワーナー社に戻ったキャグニーは『汚れた顔の天使』に出演した。この作品では処刑前にわざと臆病に振舞って、少年たちのギャングへの憧れを断ち切ろうとする男を演じ、これまでの冷酷非情なギャング役とは一味違ったキャラクターを評価されて、ニューヨーク批評家協会賞の男優賞を得て、映画の題名も本人の代名詞となった。その後もギャング映画『彼奴(きゃつ)は顔役だ!』や西部劇『オクラホマ・キッド』、コメディ『いちごブロンド』などで安定した人気を保っていく。その頃まだ無名だったハンフリー・ボガートは、キャグニー作品に悪役・敵役として頻出しており、キャグニーにしばしば「殺されて」いた。
1942年にキャグニーは、「ブロードウェイの父」と呼ばれた興行師ジョージ・M・コーハンの伝記映画『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』に出演する。当初製作側のワーナーは、この役にフレッド・アステアを考えていたようだが、キャグニーはワーナーを説得してこの役を得、見事なダンスと歌を披露した。第一次世界大戦中の愛国心とアメリカン・スピリットを賞賛したこの映画は、第二次世界大戦中の世相とマッチして興行的にも大ヒットを記録しただけでなく、キャグニーに最初で最後のアカデミー主演男優賞とニューヨーク批評家協会の男優賞をもたらす事となった。
彼はこの映画を後の自伝で「最も好きな映画だった」(中でも、映画後半にホワイトハウスの階段を、タップを踏んで下りてくるシーンが一番のお気に入り)と語っており、ギャングスタとーして名を馳せた彼自身がその自伝では自らを『Song & Dance man』と称している。
その後は演技派俳優としても活躍するようになる。自身の最高傑作となったラオール・ウォルシュ監督の『白熱』(1949年)では、マザーコンプレックスで異常性格者の凶悪なギャングを演じたが、母親を仲間に殺され復讐のために脱獄し、ついには石油タンクに火を放って爆死するに至るまでの狂気すれすれな演技が観客を魅了する一方、その暴力描写の凄まじさは議論をよんだ。ただしキャグニー自身はこの作品の演技に満足できず、翌1950年の同種なギャング映画『明日に別れの接吻を』を最後に、ギャング映画から遠ざかる事になった。
1950年代に入ると『ミスタア・ロバーツ』や『栄光何するものぞ』、『千の顔を持つ男』などでも印象的な演技を見せた。最後の映画主演は、ビリー・ワイルダー監督の風刺コメディ『ワン、ツー、スリー』で、当時冷戦の最前線であった西ベルリンを舞台に、コカ・コーラ社社長令嬢が社会主義者のドイツ青年と恋に落ちたことで騒動に振り回されるコカ・コーラ西ベルリン支店長をコミカルに演じた。
1967年に『アリゾナの勇者』のナレーションを最後に引退を発表。その後は『ラグタイム』に特別出演して警察署長を演じた以外は、故郷ニューヨークのスタンフォードビルで50年以上連れ添った妻とともに引退生活をおくった。1986年3月30日心臓発作のため死去。86歳。
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