ジャン=リュック・ゴダール とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard、1930年12月3日 - )は、フランス・スイスの映画監督。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ジャン=リュック・ゴダール 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
ジャン=リュック・ゴダール /
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ゴダールの映画に対する姿勢や根本的な作風は、デビュー当時から今日に至るまで本質的には変化していないと言えるのだが、パートナーや、大まかな作風の傾向により、便宜的に前期・中期・後期の3期に分類することができる。
シネフィルとして数多くの映画に接していた若かりし日のゴダールは、シネマテーク・フランセーズに集っていた面々(フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャン=マリ・ストローブ等)と親交を深めると共に、彼らの兄貴分的な存在だったアンドレ・バザンの知己を得て彼が主宰する映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に批評文を投稿するようになっていた。すなわちゴダールは、他のヌーヴェルヴァーグの面々、いわゆる「カイエ派」がそうであったように批評家として映画と関わることから始めたのだった。
数編の短編映画を手掛けた後、先に映画を制作して商業的な成功も収めたクロード・シャブロル(『美しきセルジュ』『いとこ同士』)やフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)のように、受け取る遺産も、大手配給会社社長の岳父もいないゴダールは、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールと出会うことで、長編処女作『勝手にしやがれ』でやっとデビューできた。公開されるや、一躍スターダムにのし上がる。ジャン=ポール・ベルモンドが演ずる無軌道な若者の刹那的な生き様という話題性のあるテーマもさることながら、即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影など、ヌーヴェルヴァーグ作品の特徴を踏襲しつつも、物語のスムーズな語りをも疎外するほどの大胆な編集術(ジャンプカット)とそこから醸し出される独自性とが非常に評価されたのだった。
ジーン・セバーグが演じた主演女優には、ゴダールは当初は片思い状態で思慕していたアンナ・カリーナを想定していたが、本人の拒絶によりこのことは実現しなかった。しかし『勝手にしやがれ』の成功を背景として2人の関係は親密なものとなり、1961年に結婚。以降アンナ・カリーナは前期におけるゴダール作品の多くの主演女優を務めることになる。
長編第2作である『小さな兵隊』以降、1967年の『ウイークエンド』を1つの頂点として商業映画との決別を宣言する中期に至るまで、1年に平均2作程度という比較的多作なペースで作品を制作し続けるが、多分にスキャンダラスな物語設定や扇情的な数々の発言により、大ヒットとは言えないまでもコンスタントなヒットを続け、ゴダールは名実ともにヌーヴェルヴァーグの旗手としての立場を固めていった。
前期のゴダール作品は、ヌーヴェルヴァーグの基本3要素(即興演出、同時録音、ロケ撮影中心)とはっきりとしない物語の運び以外には、一見すると共通項の少ない多彩な商品群となっている。題材もアルジェリア戦争(『小さな兵隊』)、団地売春の実態(『彼女について私が知っている二、三の事柄』、1966年)、SF仕立てのハードボイルド(『アルファヴィル』、1965年)と広範囲に及んでおり、ほぼ一貫して男女の恋愛劇を描き続けたトリュフォーと比べるとその多彩さは明らかである。
またカメラワークやフレーミングといった映画の技術的/話法的な要素についても、1作ごとに場合によっては同じ作品の中でも異なったトーンが用いられており、この多彩さこそが前期ゴダールの特長であると言えよう。しかし、別な観点から見るならこれらの作品は、「分断と再構築」という2つの機軸によって構成されているという点においてはある種の統一感で貫かれており、事実、表面的な作風が異なる中期や後期に至るまで「分断と再構築」こそがゴダール作品の基底を成している。また、前期においては「映画内映画」の要素を積極的に取り入れていたことも大きな特徴となっている。『軽蔑』(1963年)のように映画の制作自体を作品としたものから、『気狂いピエロ』(1965年)における主演のジャン=ポール・ベルモンドがスクリーンを見ている観客自身に語りかけるような話法に至るまで、様々な「映画内映画」の要素が盛り込まれ、こうしたメタ映画的な構成の目新しさもゴダール人気を煽る一因となっており、一時ゴダール風と言えば映画の「内」と「外」とを意識的に混在させる手法と受け取られたことすらあった[要出典]ほどである。しかし、一般的にはファッションとして受け取られることが多かった[要出典]メタ映画の構造も「分断と再構築」と並んでゴダール(作品)の根本的に重要な要素であり、後期においてそれが更に深化されることになる。
ジャン=ポール・ベルモンドの爆死をクライマックスとする『気狂いピエロ』の大ヒット以降、パリ五月革命に向かって騒然とし始めた世相を背景に、ゴダールの作品は政治的な色合いを強めていく。『小さな兵隊』がアルジェリア戦争を揶揄してのものであったことからもわかる通り、ゴダールは初期のころから政治に対する志向が強く、政治的なテーマや題材をあまり取り上げることがなかった他のヌーヴェルヴァーグの作家達とはこの点においては一線を画していた。
1967年8月に、ゴダールはアメリカ映画が世界を席巻し君臨することを強く批判すると同時に、自らの商業映画との決別宣言文を発表した。
パリ五月革命の予言もしくは先取りであるなどと言われる、マオイズムをテーマとして取り上げた『中国女』(1967年)において既に政治的な表現の傾向が顕著になっていたが、ゴダールを本当の「政治の時代」へと踏み入らせる直接のきっかけとなったのは1968年の「カンヌ国際映画祭粉砕事件」だった。コンテストの必要性の有無を巡る論争を契機として発生したこの事件においては、トリュフォーとルイ・マルとが最も戦闘的な論陣を張り、ゴダールの関与は必ずしも積極的なものではなかった[要出典]。しかし、この事件をきっかけとしてゴダールの周囲や各々の政治的な立場・主張に亀裂が入り、作家同士が蜜月関係にあったヌーヴェルヴァーグ時代も事実上の終わりを告げるに至った。プライベートにおいても女優アンナ・カリーナと1965年に破局が決定的になり、『中国女』への出演を機に1967年にアンヌ・ヴィアゼムスキーがゴダールの新たなるパートナーとなった。この後『ウイークエンド』(1967年)を最後に商業映画との決別を宣言し『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画に復帰するまで、政治的メッセージ発信の媒体としての作品制作を行うようになる。
また商業映画への決別と同じタイミングで、自身が商業的な価値を持たせてしまった「ジャン=リュック・ゴダール」の署名を捨てて、「ジガ・ヴェルトフ集団」を名乗って活動を行う(1968年 - 1972年)。ソビエトの映画作家ジガ・ヴェルトフの名を戴いたこのグループは、ゴダールとマオイストの政治活動家であったジャン=ピエール・ゴランを中心とした映画制作集団であり、この時期のパートナーであるアンヌ・ヴィアゼムスキーもメンバーとして活動に加わった。反商業映画イコール政治映画という図式で語られがちであるが、この時期のゴダールの政治的な映画といってもそれは旧来の政治的プロパガンダの映画とはまるで違い、映画的思考というものの変革を信じ、目指した彼にとって極めて純粋な映画運動であった。1972年、『ジェーンへの手紙』完成をもって同グループは解散、ゴダールはアンヌ=マリー・ミエヴィルとのパートナーシップ体制に入る。
かつて、映画の父エイゼンシュタインは、映画は概念を表現することが出来るものであり「資本論」の映画化さえも可能であるといった。この時期のゴダールはそれを実践するために邁進した[要出典]ともいえる。
1作品ごとに、現代の社会と人間の真実の姿に迫ろうと試み続けてきたゴダールは、ヌーヴェルヴァーグ時代の後期あたりの映画作品からは1作ごとに彼の作品から、いわゆる娯楽性を薄皮一枚ずつ剥ぎ取り、また一般的な芸術性をも剥ぎ取ることでギリギリまで思考を明確にする映画を目指していった[要出典]。その結果、映画は極めて政治的な思想的闘争宣言の表現の場へと異化していく。もはや、同志的な観客のための映画でしかなく、不特定な多数の観客の存在を考慮しない告発の映画であった。事実、彼は一般商業映画館での作品を上映する事ですら、『体制に順応している』として強固に否定するような立場まですすんでいった[要出典]。
前期のゴダールが一言で言えば躍動感と瑞々しさとを特徴とするのに対し、中期のゴダール作品は映画を政治的なメッセージ発信の手段にした為、映像表現は禍々しいものへと変化していった。前期においても文字や書物からの引用は行われていたが中期においてはそれが更に顕著なものになり、膨大な映像の断片と文字、引用(スローガン、セリフ、ナレーション)とが目まぐるしく洪水のようにあふれ、詰込まれた作風が特徴とされる。しかし、中期においてもゴダールは映画を単なるメッセージ発信のための手段として利用するのではなく、映画で何が可能なのか(そして何が不可能なのか)を自省しつつ作品を作り続けていた。例えば中期の皮切り作品と言えるオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(1967年)において、クロード・ルルーシュを始めとする他の監督たちがデモのドキュメンタリーや反戦活動家のメッセージといった直接的な反戦運動を取り上げていたのに対し、ゴダールはパリにおいてカメラを操作する自分自身をカメラに捉え、ベトナムに関する映画を制作することに関する自問自答を延々と撮し続けている。
ローリング・ストーンズが出演し、アルバム『ベガーズ・バンケット』のレコーディング風景が収録されたことで多くの話題を呼んだ『ワン・プラス・ワン』(1968年)においても、様々な場面や場所で多様な人が政治的なメッセージを読み上げるシーンと、試行錯誤しているストーンズのリハーサルシーンとを交互に重ね合わせることにより、当時の政治的な状況を、メッセージとしてではなく映画作品として具体的に体現(再現)する実験を試みている。なお、この映画は本来ならレコーディングは完了せずに終る予定であり、未完であることにこそ本質的な意味があるとゴダールは考えていたのであるが、制作者側の商業的な意図により作品の最後で完成した『悪魔を憐れむ歌』が挿入されてしまった。ゴダールが激怒したのは言うまでもない。この作品はゴダールが活動資金稼ぎを目的として制作されたもので、中期に位置するものの商業映画(イギリス資本)としてゴダールの署名で制作されている。
『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画への復帰を果たしてから以降今日に至るまでが後期に相当するが、後期においてもおおよそ1980年代に相当する「『映画史』以前」と1980年代末から1998年『映画史』の完成に至るまでの「『映画史』の時代」、さらにこれ以降今日に至るまでの「『映画史』以降」に区分けすることができる。
「『映画史』以前」の作品群は、ゴダールの作品の中でも最も馴染みやすいものであると言える。他の時期に比べ物語の筋立てがある程度わかりやすいものになっているし、ゴダールの造形的な才能がいかんなく発揮された美しい映像が惜しむことなく展開されているからだ。トリュフォーをして「彼こそが本物の天才だ」と言わしめたゴダールの映画的なセンスは衆目が認めるものではあったが、前期や中期においてはその期待を敢えて裏切るように画面の審美性から遠離った画作りをすることが少なくなかった。もちろんわざと汚い画面、あるいは粗雑なカメラワークやフレーミングを行った訳ではないだろうが、審美性だけで鑑賞される作品は、ゴダールの映画に対する基本的な姿勢とは相反するものであり、審美性、つまり構図やら画面における構成要素の配置の美しさやらに留まらない、映画としての美しさと価値とを様々な観点から追求し続けていたと言えよう。
しかし、後期においてはこうしたカメラワークとフレーミングにおける実験的な要素は影を潜め、メタ映画レベルの挑戦が主軸に位置されるようになる。その集大成が「映画そのものについて映画で思考し映画で表現する作品」[要出典]である『映画史』であろうが、実際に『映画史』の制作に着手する前の1980年代は、そこに至るまでの試行錯誤の中間地点であると言えるだろう。
試行錯誤とは言ってもそれはゴダールの内的な経緯における話であって、実際にできあがった作品は一般的な意味において完成度の高い、多くの人に対して広く門戸が開かれた作品であると言える。ただし、これはゴダールの作品の中では比較的という注釈付きの表現であり、「分断と再構築」を基本とする作風に根本的な変化はない。むしろ「分断」に関しては「政治の時代」をくぐり抜けたことにより一層の磨きがかかっており、全体の構成や物語の把握のしやすさに関しては前期よりもむしろ困難になっている。しかしこれは今日のハリウッド映画に接するのと同じような姿勢で作品に臨むことを前提とした場合、すなわちまるでベルトコンベアに運ばれるように丁寧で親切なヒントやら手がかり、さらには解答まで準備されたものを受動的に受け取ることを前提とした場合に言えることであり、自分自身で能動的に作品を構築する姿勢で作品に臨むなら、ゴダール作品の「分断と再構築」を基本とする作品構造は、他に比類のない程の確かな手応えを与えてくれるだろう。
一方「『映画史』以前」の段階では、「『映画史』の時代」で大々的に用いられることになるテキストや音楽、音声の「分断と再構築」は、余り積極的には用いられてはいない。クラッシック音楽が基調となっているという点では後期全般に同一の傾向が認められはするものの、「以前」の段階ではまだBGMは画面を彩るものとして活用されており、音声やテキストの多重化は限定的なものだ。従ってこの時点において観客が行うべき再構築の大半は映像的な要素となっている。
しかし、実はその発端は『映画史』の制作着手よりも10年近く前に制作された『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981年)にある。これはローザンヌ市の市制500年を記念して市からの依頼に基づいて制作された作品で、映画を制作すること自体を、記念映画を制作することに関するゴダールの内省をフィルム化した内省録風の作品で、何かについて語った映画ではなく、語ることそのものあるいは「について」と言うこと自体を対象としたメタ構造を持つ作品だった。確かに上述の通り前期においても既にメタ映画的な要素は活用されてはいるが、その時点においては部分ないしは要素あるいは作品に対する味付けとして用いられていたに過ぎない。これに対し『フレディ・ビュアシュへの手紙』は、メタ要素そのものが対象となっているという点で新しく、その後に続く作品の道筋が提示されていたと言えよう。また『フレディ・ビュアシュへの手紙』においては語る私(=ゴダール)の直接的な登場や文字(テキスト)の活用など『映画史』以降を構成する基本要素がいくつも提示されていた。
1989年に第1章と第2章が発表され、1998年に第4章の完成をもって完結する『映画史』的なものが中心となるのが、「『映画史』の時代」だ。ここにおいて「分断と再構築」の構造は更に深化を遂げ、映像、声(台詞)、テキスト、そして音楽がそれぞれのレベルで分断され、1つのシーン(作品)として再構築される。「政治の時代」におけるテキストやメッセージの活用、「『映画史』以前」における映像の「分断と再構築」の深化が一つになって結実したのが「『映画史』の時代」の作品群であると言えるだろう。
ビデオ作品として制作された『映画史』は、一般的な意味における映画史に関するカタログ的な解説ではない。何の修飾詞も付けず「映画史」と題されてはいる[1]が、ここで参照され言及される作品は極めて限定されたものに過ぎない。その構成要素は、1950年代までのハリウッド、ヌーヴェルヴァーグを中心としたフランス、イタリアのネオ・レアリスモ、ドイツ表現主義およびロシア・アヴァンギャルド等、その他ヨーロッパ諸国の作品が圧倒的多数を占めており、非欧米では日本から4人の作家(溝口健二、小津安二郎、大島渚、勅使河原宏)とインドのサタジット・レイ、イランのアッバス・キアロスタミ、ブラジルのグラウベル・ローシャ、台湾の侯孝賢が参照されるのが目立つ程度であり、大方の非欧米圏はあっさりと無視されている。時代的にも著しい偏りが見られ、1970年代以降で取り上げられているのは殆どが自分の作品だけであり、大半が1950年代までの「古き良き映画」だ。
また、映画に限らず音楽や絵画等の美術作品、写真(肖像写真を含む)も膨大に引用されており、その取り扱い方に映画との特別な差異はない(これらについても西欧のもののみが対象となっている)。つまり『映画史』とは一般名詞としてのあるいは教養としての「映画史」ではなく、ゴダール自身の映画を中心とした芸術遍歴と論考とを表現したものであり、(様々な)映画について語る(表現する)ことではなく、映画について表現すること自体を映画によって構成したメタ映画がその本質なのだ。
この基本構造は『フレディ・ビュアシュへの手紙』によって実現されたものと本質的な違いはないが、題材や対象範囲の広さ、「分断と再構築」の深度は比較にならないほどの進化を遂げている。ビデオ作品である利点を最大限に生かし、多重引用やリピートなどが盛んに行われており、ただ漫然と眺めているだけでは多くの参照元の推定すら難しいほどの加工が施されている。そしてこうした再構築もビデオクリップ作品のようにおもしろおかしさを基本に構成されているのではなく、その真偽の程はともかくとしても全4部、各部ごとにAとBとに分けられた合計8章ごとに一定のテーマが設けられ、それに従って引用やらコラージュが成されているので、見る側には極度の緊張と集中とが求められることになる。
ゴダールの1990年代は『映画史』の制作に力を注ぎ続けていたと言えるだろうが、『新ドイツ零年』(1991年)や『JLG/自画像』(1995年)もほぼ同傾向の作品と見なすことが可能であり、まさに「『映画史』の時代」であった。しかし、同時に『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)、『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996年)のように1980年代と似たような構成、すなわち「分断と再構築」とを基調としながらも物語やある種のテーマ性を持った作品も作り続けている。
『映画史』完了後の2001年に制作された『愛の世紀』もこの系列に位置している。2004年にフランス本国で公開された最新作『アワーミュージック』(「私たちの音楽」の意)以降、ゴダールがどのような方向に向かうかは現時点(2004年1月)においては明言することはできないが、「分断と再構築」を手法の基本とし「映画には何が可能か」と言うメタ映画の追求を最終的なテーマとした作品を作り続けていくだろう。つまりゴダールの狙いと目的とするところは実は『勝手にしやがれ』以来根本的な変化はなく、その意味において、彼は終始首尾一貫性を保ち続けている作家だといえる。
このような首尾一貫性、本質的な意味における前衛性、そして常に物議を醸しながら、商業主義と折り合いを付けつつも少ないとは言えない作品を継続的に作り続けていくことが可能な作家は世界中探してもゴダールをおいて他にはいない。ゴダールが世界を代表する映像作家と賞賛され続けている所以である。
詳細はジャン=リュック・ゴダール監督作品一覧を参照。
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