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ヒトラー とは?

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アドルフ・ヒトラー: Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)はドイツ政治家

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


ヒトラーはてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  アドルフ・ヒトラー (ヒットラーとも表記) 1889年4月20日生 ナチス(ナチ党:ドイツ国家社会主義労働者党:NSDAP)党首。 ドイツ第三帝国総統? (1934-1945)。 関連:『ウィキペディア(Wikipedia)』.アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)

出典: 『はてなダイアリー』


和英辞典

ヒトラー 別ウィンドウで表示  …  (n) Hitler (P)

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


アドルフ・ヒトラー
Adolf Hitler
アドルフ・ヒトラー

ドイツ国(ナチス・ドイツ)初代
指導者(総統
任期: 1934年8月2日1945年4月30日

ドイツ国(ナチス・ドイツ)首相
任期: 1933年1月30日1945年4月30日

出生: 1889年4月20日
オーストリアブラウナウ・アム・イン
死去: 1945年4月30日
ドイツベルリン
政党: 国家社会主義ドイツ労働者党
配偶: エヴァ・ブラウン

アドルフ・ヒトラー: Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)はドイツ政治家

国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義反ユダヤ主義を掲げる。1933年首相となり、1934年ヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首に就任した。正式の称号は「指導者兼国首相」であり、これは通例、総統と日本語訳されている。軍事力による領土拡張を進め、第二次世界大戦を引き起こしたが、ドイツ降伏直前にベルリン総統地下壕自室で自殺した。「指導者原理」を唱えて民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされる。

日本語表記は、現在では「ヒトラー」が通例だが、以前は「ヒットラー」の表記が主流だった。また、戦前には「ヒットレル」とされたこともある。

目次

経歴

出生

幼少時代
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインとともに

1889年4月20日オーストリアに在る小さな町(ドイツとの国境近く)、ブラウナウで税関吏の子として生まれる。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家であった(認知した父の姓はヒードラーであったが、ヒトラーと改姓。ドイツ人では珍しいが、ヒトラー、ヒドラ、ヒュードラ、ヒドラルチェクなどの姓はチェコ人に見られる)。

アドルフはアロイスの3番目の妻クララ(アロイスの姪と言われている)との間に生まれた。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(私生児、1882年 - 1955年、1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)。同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イーダ(1886年-1888年)、同母兄オットー(1887年 - 数日後死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。

名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。アドルフという名前は、当時のドイツではそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となる。しかし、戦後は一転して不名誉な名前となった。

少年期

当時のヨーロッパでは珍しくないことであったが、父アロイスは非常に厳格で、自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。特に、長子アロイス2世が家出をした後は、アドルフに非常な期待を込め、厳しく躾けた。なお、小学校のころ、後に哲学者となるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが同じ学校に在籍していた。2人が1枚の写真に一緒に写っている写真がある。

少年時代のヒトラーは、成績不良で2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの直感に頼り、努力が足りない」と評されている。1903年に厳しかった父を亡くした後は、学業を放擲し画業に専念する。

美術学生

1905年に実業学校を退学した後、ウィーンで画家を志し、美術大学を受験するが2回とも失敗。教授に作品を見せたときには「君には建築家のほうが向いている」と助言を受ける。その画風は写実的だが独創性には乏しかったとされ、画題として人物よりは建築物や廃墟などの風景などを好んだ。彼の絵は現在もインターネットなどで見ることができる。

1907年には母を亡くしたが、ウィーンでの生活は両親の遺産や自作の絵葉書の売り上げなどによって比較的安定していた。このころのヒトラーは独身者むけの公営寄宿舎に住み、食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔した。彼は毎日図書館から多くの本を借りては独学する勉強家だったと言われ、偏ってはいるものの歴史や哲学・美術などに関する豊富な知識と、アルテュール・ド・ゴビノーヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論反ユダヤ主義などを身につけた。また、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えた。

かつて、歴史家の間では「ヒトラーは両親の遺産を食いつぶし、浮浪者収容所に入ることになった」という説が有力であったが、実際のところヒトラーが生活していた公営寄宿舎はかなり贅沢な施設であった。歴史家が誤解した原因は、ヒトラーが自著『我が闘争』において若い頃に貧乏生活をしていたかのような描写をしたからと思われる。ヒトラーは若い頃の苦労を誇張するために『我が闘争』にこのような誇張した描写を入れたのであろう。

大戦とドイツへの移住

1913年オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住する。1914年に当局に逮捕されたが検査で不適格と判定され兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦で、(大ドイツ主義的)愛国心から熱狂した彼は、また停滞した人生や貧困を打破するためもあって、オーストリア国籍のまま(ドイツ国籍取得は1932年)バイエルン領(1918年まで、バイエルン王国の主権を保持したまま、ドイツ帝国の一領邦として存在した)の志願兵として入隊し、西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊に配属された。

緒戦の8割前後の死傷率の中を生き抜き、後に伝令としての技能を発揮、大戦も終わりに近い1918年8月には一級鉄十字章を授与された。[1]ヒトラーは司令部付きの伝令兵であったため、優秀な働きぶりにもかかわらず叙勲が遅れたのである。しかし結局、階級は伍長勤務上等兵[2]止まりであった。当時のドイツでは優秀な下士官やベテラン兵卒が戦死して不足しており、伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋ったことと、勇敢ではあるが、直属の上官に対し戦功を「自画自賛」する態度と「指導力」の欠如が昇進につながらなかった理由として挙げられている。

ドイツ帝国敗北の知らせを聞いたとき、ヒトラーは塹壕戦での毒ガスで神経を冒され、一時的に視力を失って入院していた。毒ガスの特性によって脳神経に一過性の傷害を負い、また精神的にも傷ついたヒトラーヒステリーと診断され、軍医により催眠術による治療を受けた(このためか、第二次大戦では自軍による前線におけるガスなどの化学兵器の使用を、敵の報復攻撃による損害の大きさも考慮して厳禁している)。『我が闘争』によれば、このときヒトラーは祖国の誇りを取り戻すために、建築家を目指すことを放棄し、政治家を目指すようになったという。喉の負傷による声の変化は戻らなかったため、後の演説にみられるような独特の野太い声になった。

また、この時期にヒトラーミュンヘン革命に参加している[3]。革命の間、ヒトラーレーテ活動家になり、代表代理にまで昇進した。この経験が、後の社会主義への確信や革命家としての自負に繋がったと言える。

政治活動

敗戦後ヒトラーは退院後少しの期間放浪しており、革命勢力に組するなど政治的には不節操な態度をとっていた。のちに軍の情報関係の仕事を続け、激増した新党の調査を担当していた。その一環として参加した「ドイツ労働者党」の集会で演説者をやり込めたのが党議長の目に留まり入党する。50人程度の小党(というより現在の感覚ではカフェに集まって議論するだけのほとんどサークルのようなものであり、事務所すらなかった)であったがその理念に共感し、1920年には軍をやめ党務に専念するようになる。この頃、すでにヒトラーは演説者としての能力を認められており、軍からプロパガンダの講習を受けている(この講習会はドイツ国防軍第4集団、即ちバイエルン国防軍の情報課が企画したもので、反共主義民族主義の宣伝活動家の養成を目的としたものであった。ここでヒトラーは生まれて初めて大学の教室で右翼大学教授知識人の講義を聴くこととなった)。

このなかでもヒトラーの弁舌は興奮してくるとますます冴え、聴衆を引き込むヒトラーは、優れたプロパガンダの才能の持ち主であった。その扇動的な演説によって多くの党員を獲得し、党の要人となったヒトラーは、退党をほのめかすなどして上層部に圧力をかけ、独裁を認めさせる。党名を国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、対抗勢力による通称ナチ)と改め1921年7月29日その党首となる。この頃の大日本帝国では、ヒトラー「ヒットレル氏」として新聞報道で紹介されていた。

ミュンヘン一揆

詳細はミュンヘン一揆を参照

ルドルフ・ヘスらとともに(左/1924年)

1923年11月9日、党勢を拡大したナチ党はミュンヘンで政権の奪取を目論みクーデターを起こす。これは前年にイタリアファシスト党が行ったローマ進軍を真似て行われたものだったが、警察・軍隊いずれの協力も得られず、やむなく前大戦の英雄ルーデンドルフを担ぎ出すが失敗し、州政府によって鎮圧された。この「ミュンヘン一揆」、あるいは「ヒトラー一揆」と呼ばれる事件によってヒトラーは逮捕され、党も非合法化される。

逮捕の後、禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受け、この期間にルドルフ・ヘスによる口述筆記で『我が闘争』が執筆されている。なお、禁錮5年を宣告されたが、判決から9ヵ月後の1924年12月20日に釈放された。

1925年2月27日、党を合法政党として再出発させ、またオーストリア国籍を捨てた。この頃、党内左派で後に宣伝大臣となるヨーゼフ・ゲッベルスが頭角を現した。ゲッベルスは「日和見主義者」としてヒトラーの除名を目論んでいたが、ヒトラーは巧みな弁舌と説得でゲッベルスを味方に引き入れることに成功し、除名を免れている。

権力闘争

その後ヒトラーは合法路線で徐々に党勢を成長させる。当時のドイツは第一次世界大戦の賠償金負担と世界恐慌による苦しい経済状況が続き、大量の失業者で街は溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。その中でヴェルサイユ体制の打破やユダヤ人排除を訴え、アジテーターとしての才能を発揮したヒトラーは圧倒的多数の支持を得て、党内左派(ナチス左派)最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利した。

共産党の排撃を訴え、ソ連のような事態を恐れる資本家からも援助を受けて力をつけたヒトラーは、1932年に正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、共産党テールマン、国家人民党ディスターベルクが立候補。選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」とスローガンにし、ヒンデンブルク1865万票、ヒトラー1339万票でヒトラーは30%の票を獲得。第2回の決選投票でもヒンデンブルク1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラーは敗れるが、37%の票を獲得した。

国家元首就任

首相ヒトラーと閣僚、ナチス幹部(1933年2月)
ムッソリーニとともに(1934年)

ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党が比較第一党になった。同年11月にはパーペン内閣に対する抵抗としてドイツ共産党と共にベルリンでの大規模な交通ストライキを支持しながら選挙を迎え、議席を減らすと見るやストライキを弾圧し、自派新聞で自らの立場のドイツ共産党との違いについて長広舌を振るっている。パーペン内閣はシュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはナチス左派を取り込もうとしたが失敗。グレゴール・シュトラッサーは国会議員を辞職、引退を余儀なくされた。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒトラーはヒンデンブルクや国家人民党の協力を取り付けることに成功し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。

内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生(ドイツ国会議事堂放火事件)。その直後から共産党員や反ナチ的人物が次々に放火の疑いで逮捕された。翌28日にヒンデンブルク大統領に大統領緊急令である戒厳令を発令させた。戒厳令下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、過半数は獲得できなかった。しかし、3月8日に共産党の議席を剥奪し、さらに社会民主党や諸派の一部議員を逮捕したことにより、議会の主導権は完全にナチス党に握られることになる。

1933年3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。1934年6月30日には「長いナイフの夜」によって突撃隊の参謀長エルンスト・レーム、を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清し、独裁体制を固める。

1934年6月14日には、自らの政権運営の手本としており、「イタリアを立て直したファシスト指導者」として当時世界各国で高い評価を受けていたイタリア首相ベニート・ムッソリーニと初会見しているが、ヒトラーを新参者と見下していたムッソリーニは、このときヒトラーを「道化者」と評している。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定して国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体、さらに、8月19日国民投票を行い、89.93%という支持率を得てヒンデンブルク大統領の後任の国家元首として国民の承認を受けた。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspräsident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。公式文書には「指導者兼首相」(Führer und Reichskanzler)という名称を用いた。これ以降、国家元首と政府首班の二役を務めたヒトラーを、日本語では「総統」と呼ぶ。

経済政策

1933年2月1日ヒトラーは4年以内にナチ党の初期からの支持層で国家生存に重要な役割を果すドイツ農民を救い、「経済再建と失業問題の解決」を実現し、「二つの偉大な四カ年計画によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。しかし、自身が「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである」(Hans-Joachim BraunのThe German Economy in the Twentieth Century;Routledge 1990 p.78)と言っているように、ヒトラーは『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎かったが[4]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。

ヒトラー1923年インフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトを経済大臣に迎えた。シャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるクルト・フォン・シュライヒャーの計画を継承し、公共土木事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(Grossraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言する。

アウトバーン
ベルリンオリンピックの聖火

外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日ヒトラーはゲーリングの第二次四カ年計画を支持した。シャハトは猛反対したため、ゲーリングらは経済省から独立した四カ年計画庁を創設する。第二次四カ年計画により、1936年にはほぼ完全雇用になった。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。

ドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られ、ヒトラーは前者に決めた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、このことに関してアルベルト・シュペーアは、第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻すると思ったという。1944年には軍事費は当時のヨーロッパでは最高で、ドイツ経済のほとんどを占めた。1945年に戦争経済は敗戦と同時に崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。

その一方で、カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年ヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(大衆車が一般に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。

ユダヤ人迫害政策

また、映画監督で、その後ベルリンオリンピックの記録映画の監督を務めることになるレニ・リーフェンシュタールに対して、アメリカの黒人選手に有利なために「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが[1]IOCがナチス政権以前にベルリンでの開催を決めていたことから、1936年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を行った。

ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和するものの、国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく。1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策が本格化してゆく。

「生存圏の拡大」

日独伊防共協定の調印式でムッソリーニと並ぶヒトラー

また一方でスペイン内戦への介入、「ニュルンベルク法」制定、ラインラント進駐などの政策を実行した。1936年には大日本帝国との間に日独防共協定を締結しヒトラーが唾棄していたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦に対抗するなど(なお同協定は翌1937年にイタリアも入り日独伊防共協定となった)、ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった。その最終目的は『我が闘争』に示されたように東方における「生存圏」の獲得であった。その目的のため、この計画に批判的であったブロンベルク国防相らを陰謀によって追放し、独立傾向があった軍を完全に掌握した。(ブロンベルク罷免事件)。

その後周辺国の数回にわたる併合(1938年オーストリア1939年チェコスロバキア)を行う。これらのドイツの動きに対してイギリスやフランスアメリカなどは懸念をするものの、直接的な軍事対立を避けるために事実上黙認していた。

その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、ネヴィル・チェンバレン政権下においては軍備を整える時間稼ぎのため、ミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。このためヒトラーはチェコの実質的な併合などの領土拡張政策を推し進めることになる。

第二次世界大戦

独ソ不可侵条約に調印するソ連外相のモロトフ。後列の右から2人目はスターリン

ヒトラーは更にポーランドに対して、ダンツィヒ自由市及び東プロイセンとの間の回廊地帯を要求したが、ポーランドは英仏の保証を受けて抵抗した。こうした中、1939年8月23日ヒトラーは宿敵であるはずのソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の9月1日ポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。

ドイツ軍は空軍の支援の下機甲部隊を主力とした電撃戦によってポーランドをたちまち占領した。1940年に入ると、デンマークノルウェーを相次いで占領し、更に西部ではベネルックス三国の制圧に続いてフランスを打倒してヒトラー自ら第一次大戦の降伏文書の調印場である因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との談判にのぞんだ。しかしイギリス侵攻はバトル・オブ・ブリテンでの敗北により果たせなかった。 1940年7月31日には国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。

1941年にはユーゴスラビアとギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。同年6月22日に始まったソ連侵攻のバルバロッサ作戦においては12月にはモスクワまであとわずかのところまでに迫る勢いであったものの、補給難と冬の到来によってドイツ軍の戦力は限界に達し、後退を余儀なくされた。ヒトラーは陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任して自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁して、何とか戦線の全面崩壊は免れた。

1940年9月に日独伊三国軍事同盟を結んだ日本軍によるイギリス領マレー半島進攻と、それに続くアメリカ、ハワイ真珠湾攻撃の直後の1941年12月11日の演説では「我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、日本に続いてアメリカに宣戦を布告した(なお、日本は663年、白村江の戦いで唐に敗北していた)。その後は遣日潜水艦作戦などを展開するなど様々な形で共同作戦を行うよう指示を行った。

強制移送されるユダヤ人
スターリングラード攻防戦

また、1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示し、ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストを本格化させた。この際に「ヒトラー自身がユダヤ人絶滅作戦を口頭で指示した」という説があるものの、ヒトラー自身がユダヤ人絶滅自体を命じたという証拠書類は存在しない為(ヒトラーがユダヤ人絶滅を命令していないという説も存在する[5] )、その時期や命令方法については、研究者によって見解が違っている[6]。いずれにしても、「わが闘争」でユダヤ人を罵り、その後も対ユダヤ人迫害政策を自国の影響圏において行わせてきた国家指導者であるヒトラーが、ユダヤ人滅亡作戦の進展に賛同こそせよ反対、中止させなかったことは事実である。

詳細はホロコーストを参照

その後、開戦から3年目に入った1942年には、再び東部戦線と北アフリカでドイツ軍は攻勢に転じたが、やがて、東部戦線でのスターリングラード攻防戦アフリカ戦線でのエル・アラメインの戦いなどでの敗北により、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなり、1943年には東部戦線でのドイツ軍の最後の大攻勢であるクルスクの戦いでの攻勢失敗や、枢軸国の一員であったイタリア・バドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれた。ヒトラーは大戦末期は「狼の巣」と名づけた地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発による奇跡の大逆転を望む日々を過ごした。1944年には、ノルマンディー上陸作戦の成功による西部での第二戦線の確立と、東部戦線でのソ連の大攻勢(バグラチオン作戦による中央軍集団の壊滅)などにより、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。

ヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリッヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

1944年7月20日、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、エルヴィン・ロンメル元帥と、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥も、かかわりを疑われて自殺を強要された。

詳細はヒトラー暗殺計画を参照

敗北

1944年12月からのアルデンヌ攻勢では、連合国軍を一時的に大きく押し戻し、ヒトラーの賭けは一時的には成功したかに見えたが、結局は物量に勝る連合国軍に圧倒され、ドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった。その後ライン川を突破されたドイツ軍は、ヒトラーの命により3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量の前に失敗する。

この主要戦線から離れた所で行われた、軍事的に無意味な作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、軍需大臣のシュペーアは聞き入れず、ほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。

大戦中を通じてヒトラーは、しばしば政治上の必要性を重視するあまり戦略的に意味のない地域の確保にこだわったり、無謀な拠点死守命令を出したりして敗北の原因を作った。また形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係が険悪になった。しかし、自殺前に行われた最後の声明に到っても、戦争に負けた原因を国防軍にあるとして非難した。

自殺

ヒトラーの死を伝えるアメリカ軍の新聞

ベルリンの戦いで敗北が迫ると、ヒトラー七年戦争におけるフリードリヒ大王ブランデンブルクの奇跡を引き合いに出して、最後まで勝利を信じて疑わなかったという。

1945年4月29日に、ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と結婚式を挙げる。その翌日、総統官邸地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。ヒトラーは遺言によって、自分の後任の大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党担当大臣にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名している。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用いたが(毒を仰いだという説もあり、真相は不明)、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたため、死亡は側近らの証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった(この数年後ヒトラーの遺灰はソ連の飛行機によって空中散布された)ため、西側諸国にはヒトラーの死亡に関し疑わしい部分が残り、後に「同盟国である日本の潜水艦で逃亡した」、「戦前から友好関係を保っていたアルゼンチンチリなどの南米諸国に潜水艦で逃亡した」といったヒトラー生存説が唱えられる原因となった。

また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、イギリスとアメリカ軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった。そのため、米英ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。

なお、自殺に使われた銃は、ヒトラー専用のワルサーPPKと言われているが、遺体に残っていた傷跡は一回り大きい9ミリ弾のものであったため、暗殺説もささやかれている。

ヒトラー生存説

ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの協力を受け、イタリアやスペイン北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。その上、副官のオットー・ギュンシェやリンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した腹心たちがそれぞれ「銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977」のハインツ・シェッファー艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に正式に否定されている。

それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国大日本帝国にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。その他、TO諜報機関のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもあるが、信憑性はきわめて低い。

俗説と言われているが、晩年のスターリンが「ヒトラーが生存しているのではないか」といううわさが立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻したとされている。

『我が闘争』

ナチズム聖典というべきヒトラーの著書『我が闘