ヒューストン とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋ヒューストン(Houston)は、アメリカ合衆国テキサス州南東部に位置する都市。1,953,631人(2000年国勢調査)の人口を抱えるテキサス州最大、全米第4の都市である。ハリス郡を中心に10郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は約470万人(2000年国勢調査)にのぼる。サンベルトの中心都市の1つとして高い成長を続けており、2006年の推計では市域人口約214万人、都市圏人口約554万人に増加している[1]。市域面積は1,500km²におよび、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
ウェス・アンダーソン /
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| ヒューストン市 City of Houston |
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ダウンタウンのセスクィセンティニアル・パークに立つ ジョージ・H・W・ブッシュの銅像 |
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| 愛称: "Space City(宇宙の街)" | |
| 位置 | |
テキサス州におけるヒューストンの位置 |
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| 座標: | |
| 歴史 | |
| 市制施行 | 1837年6月5日 |
| 行政 | |
| 国 | アメリカ合衆国 |
| 州 | テキサス州 |
| 郡 | ハリス郡 フォートベンド郡 モンゴメリー郡 |
| 市 | ヒューストン市 |
| 市長 | ビル・ホワイト(民主党) |
| 地理 | |
| 面積 | |
| 市域 | 1,558.4 km2 (601.7 mi2) |
| 陸上 | 1,500.7 km2 (579.4 mi2) |
| 水面 | 57.7 km2 (22.3 mi2) |
| 水面面積比率 | 3.70% |
| 標高 | 13 m (43 ft) |
| 人口動態 | |
| 人口 | (2000年現在) |
| 市域 | 1,953,631 人 |
| 人口密度 | 1,301.8 人/km2 (3,371.7 人/mi2) |
| 都市圏 | 4,715,407 人 |
| その他 | |
| 等時帯 | 中部標準時 (UTC-6) |
| 夏時間 | 中部夏時間 (UTC-5) |
| 公式ウェブサイト: http://www.houstontx.gov/ | |
ヒューストン(Houston)は、アメリカ合衆国テキサス州南東部に位置する都市。1,953,631人(2000年国勢調査)の人口を抱えるテキサス州最大、全米第4の都市である。ハリス郡を中心に10郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は約470万人(2000年国勢調査)にのぼる。サンベルトの中心都市の1つとして高い成長を続けており、2006年の推計では市域人口約214万人、都市圏人口約554万人に増加している[1]。市域面積は1,500km²におよび、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。
ヒューストンは1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマン、ジョン・カービーのアレン兄弟によってバッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍、サミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日、ヒューストンは正式に市制施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港[2]を前面に抱え、コンチネンタル航空のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く国際都市でもある[3]。
このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ、オーケストラ、バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている[4]。
ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にSpace City(宇宙の街)という公式な別名がつけられた[5]。地元住民はこのほか、Bayou City(バイユーの街)、Magnolia City(マグノリアの街)、H-Townなどと呼ぶこともある。
目次 |
1836年8月、ニューヨークの不動産起業家、オーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27km²)の土地を購入した[6]。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した[6]。ヒューストンは翌1837年6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した[7]。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都、およびハリスバーグ郡(現ハリス郡)の郡庁所在地となった[8]。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された[9]。
1860年頃には、ヒューストンは綿花の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した[8]。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、ガルベストンやボーモントの港へと通じていた。南北戦争中、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた[10]。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取ってバイユー網の拡張に努めた。
1900年にガルベストン・ハリケーンが上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった[11]。翌1901年、ボーモントの近くのスピンドルトップ油田で石油が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った[12]。さらにその翌年、1902年には、当時の大統領セオドア・ルーズベルトがヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万ドル(当時)の計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、1914年、大統領ウッドロウ・ウィルソンはヒューストン港を開港した。1930年には人口292,352人を数え、サンアントニオとダラスを抜いてテキサス州最大の都市になった[13]。
第二次世界大戦が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成ゴムの需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された[14]。地元の造船業も増産し、市の成長を促した[15]。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは第一次世界大戦の最中に設置されたものであったが、航空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった[16]。1945年、M.D.アンダーソン財団はテキサス医療センターを設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。1948年、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた[7][17]。1950年代に入り、エアコンが普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった[18][19]。1961年には有人宇宙船センター(1973年にジョンソン宇宙センターに改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。
1970年代に入ると、北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した[20]。1973年の第一次オイルショックで原油価格が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、1980年代中盤に入ると原油価格が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに1986年のチャレンジャー号爆発事故が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から1990年代以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。
ヒューストンは北緯29度45分46秒西経95度22分59秒に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市は総面積1,558.4km²(601.7mi²)である。そのうち1,500.7km²(579.4mi²)が陸地で57.7km²(22.3mi²)が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの標高は約15mである[21]。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる[22][23]。
ヒューストン地域の大部分はメキシコ湾西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置するニューオーリンズほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているヒューストンは、洪水の被害に見舞われやすい[24]。かつては水道水源を地下水に頼っていたが、地盤沈下を引き起こしたため、ヒューストン湖やコンロー湖などの地表水を用いるようになった[25][7]。
バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。
ヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。
ヒューストンの夏の日中の気温は摂氏30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が華氏90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ[26][27]。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる[28]。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない[29]。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てでエアコンを効かせている。1980年には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された[30]。ヒューストンにおける観測史上最高気温は2000年9月4日に記録した摂氏42.7度である[31]
一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏10度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏7度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である[32]。
ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピカル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え[33]、死者はテキサス州だけで20名を数えた[34]。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した[35][36]。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分(可航半円)に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。
2008年9月13日にテキサス州ガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し[37]、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした[38]。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。
| 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平均気温(C) | 10.6 | 12.8 | 16.7 | 20.6 | 23.9 | 27.2 | 28.9 | 28.3 | 26.1 | 21.1 | 16.1 | 12.2 | 20.6 |
| 降水量(mm) | 99.1 | 73.7 | 88.9 | 91.4 | 142.2 | 129.5 | 86.4 | 94.0 | 109.2 | 119.4 | 94.0 | 91.4 | 1,219.2 |
ヒューストン市内での位置は概ね、環状線I-610の内側か外側かで分類される。I-610の内側には業務・商業集積地が形成され、第二次世界大戦前に建てられた古い住宅が主に建っている。近年では、人口密度の高い、職住近接型の住宅地の再開発が進められている。I-610の外側は郊外型の住宅地が広がっている。第2環状線となる州道環状8号線は、I-610よりもおよそ8-12km外側を走っている。この州道環状8号線のさらに外側に、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線の建設が進められており、1994年に一部が開通している。
アメリカ合衆国内でゾーニング規定のない都市の中では、ヒューストンは最大の人口規模を抱える都市である。しかし、ヒューストンは他のサンベルト諸都市と同じようなしかたで発展してきている[40]。ヒューストンにおいては、法的契約の付帯事項が都市計画において、民主度はやや低くなるものの、ゾーニングとほぼ同じような役割を果たしている[41]。1948年、1962年、1993年と3度にわたって住宅地と商業地をわける試みがなされたものの、3度とも否決されている。そのため、市中心部に一極集中型のビジネス街が形成され、郊外に住宅地が広がるという形ではなく、市内の複数の地区が発展している。ダウンタウンには市最大のビジネス街が形成されているが、ダウンタウンの10km西、ヒューストンきっての高級住宅街であるアップタウンにも大規模なビジネス街が形成されている。このほか、ミッドタウン、エナジー・コリダー、グリーンウェイ・プラザ、ウェストチェースなど、住宅地と商業地、ないし工業地が混在する職住近接型の地区がいくつも形成されている。
ヒューストンのダウンタウンには、総延長約11kmにわたる地下トンネル通路が整備されている。この通路はダウンタウンのビルを結ぶもので、コーヒーショップやレストラン、コンビニエンスストアもある。この地下通路システムによって、通行者は夏の暑さや降雨を気にすることなく、ビル間を移動することができる。
1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJPモルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000m²に及ぶ[42]。
ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ・タワー(当時の名称はトランスコ・タワー)は都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある[43][44][45]。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000m²を超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000m²はクラスAのオフィススペースである[46]。
ヒューストンは市長制を採っている[47]。ヒューストンは特定の権限を委譲されている[47]。ヒューストンを含め、テキサス州内においては、すべての市政選挙は党派を特定せずに行われる[48]。ヒューストンの市政選挙で選ばれるのは市長、会計監査官、および14名からなる市議会の議員である[49]。
2007年現在の市長は民主党のビル・ホワイトで、2期目を務めている[50]。ヒューストン市長は市の管理者の長であり、最高責任者であり、公式な代表である。市長は市の全般的な管理業務、および法律・条令の施行に責任を負う[50]。1991年の住民投票の結果により、ヒューストン市長の任期は2年と定められ、連続多選が認められるのは3選までとなった。1997年、リー・P・ブラウンが市長に就任し、ヒューストン市史上初の黒人市長が誕生した[51]。
ヒューストン市議会議員選挙においては、市は9つの選挙区に分けられている。この9つの選挙区は、もともとは1837年にヒューストンが市制を施行した際の区が基になっている。各選挙区から1名ずつがまず当選となり、残る5議席はワイルドカードとして市全体から選出される[49]。このシステムは、1979年にアメリカ合衆国司法省が義務付けたものが基になっている[52]。現行の市の認可条件では、市域人口が210万人を超えたときには、市議会議員選挙の選挙区は2区増やされ、11区に改組されることになっている。2006年の推計ではヒューストンの市域人口は214万人に達しているため、次の市議会議員選挙で選挙区の改組が行われる可能性が出てきている。
ヒューストンの治安はヒューストン市警によって守られている。ヒューストンは「犯罪都市」と呼ばれることこそないものの、その犯罪率は決して低くはない。殺人の発生率が高く、全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位である[53]。ヒューストンにおける2005年の犯罪発生件数を2004年と比較すると、非暴力的犯罪こそ2%減少しているものの、殺人発生件数は23.5%増加し、336件を数えた[54]。その原因の1つとしては、ハリケーン・カトリーナで大被害を受けたニューオーリンズからの避難民がヒューストンに大量に流入したことが挙げられる[55]。カトリーナの襲来後、2005年の11月・12月においては、前年度の同時期に比べて殺人発生率が70%増加している。
ヒューストンにおける2006年の殺人発生件数は379件[54]、発生率は人口100,000人あたり17.24件で、2005年の16.33件より増加している[56]。この人口100,000人あたり17.24件という数値は全米平均の約2.5倍にあたる。アメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストンはギャングがらみの犯罪にも直面している。1996年現在、ヒューストンには380のギャングが存在し、少年2,500人を含む8,000人が加わっている。
ヒューストンはエネルギー産業、こと石油・天然ガス産業では世界的にその名を轟かせている。また生命医学分野や、航空・宇宙開発分野でもよく知られている。全米最大級の貿易港であるヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの存在もヒューストンの経済に大きく寄与している。こうした産業都市としての強みから、GaWC(Globalization and World Cities Study Group and Network/邦訳: グローバリゼーションと世界都市の研究グループおよびネットワーク)による1999年版のレポートにおいて、ヒューストンはガンマ世界都市(二次的な存在の小規模世界都市)であると位置づけられた[57]。世界中の多くの場所とは違い、エネルギー産業に従事する住民の多いヒューストンでは、原油やガソリンの価格の高騰は経済に好ましい影響を与えるものであると見られている[58]。
スーパーメジャーと呼ばれる6大石油会社のうち、4社がヒューストンに主要な業務拠点を置いている。オランダのハーグに本社を置くロイヤル・ダッチ・シェルの米国法人、シェル石油会社はダウンタウンのワン・シェル・プラザに本社を置いている。エクソンモービルは本社こそダラス・フォートワース都市圏のアービングに置いているものの、同社の上流部門と化学部門はヒューストンに置かれている。サンフランシスコ・ベイエリアに本社を置くシェブロンは、エンロンの本社ビルになる予定だった40階建てのビルを2003年に買収し、同社のヒューストンオフィスをそこに置いている[59]。また、シェブロンの子会社であるシェブロンパイプラインの本社はヒューストンに置かれている[60]。コノコフィリップスは本社をヒューストンに置いている。また、これら石油メジャーの存在だけでなく、ヒューストン都市圏には油田設備の設置やサービスを主事業とする企業も集中している。中には数千人から10,000人以上の従業員を抱える大企業もある[61]。
こうしたヒューストンの石油産業・石油化学産業の中心地としての成功はヒューストン港の存在によるものが大きい[62]。ヒューストン港は外国貨物取扱量全米一で、総貨物取扱量では南ルイジアナ港に次いで全米2位、全世界でも10位にランクされる大規模な貿易港である[2][63]。
ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(Gross Area Product、GAP)は3,255億ドル[64]で、オーストリア、ポーランド、サウジアラビアなどの国内総生産(GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない[64]。主に石油や天然ガスの生産による鉱業は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、1985年の21%からは大幅に減っている。オイルショック後の原油価格暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える[65]。
ヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である[66]。フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている[67]。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している[68]。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。
国際的にその名を知られているテキサス医療センターはヒューストンにある。テキサス医療センターは世界最大級の医療研究機関の集積地である[69]。テキサス医療センター内の45機関すべてが非営利団体である。これらの機関は治療、予防医学、研究、教育、地域・国家・国際コミュニティの福祉と、医療とその研究に関わるあらゆる側面をカバーしている。センターには著名な病院13院をはじめ、特別機関2機関、医学校2校、看護学校4校、歯学校、公共保健学校、薬学校があり、医療・保健関連のあらゆるキャリア・パスが用意されている。テキサス医療センターはまた、ライフ・フライトと呼ばれる、救急ヘリコプター派遣のシステムが創設された地でもある。複数の機関が連携しての移植手術プログラムも開発されてきた。心臓外科の手術においては、テキサス医療センターは世界で最も術例が多い[70]。
テキサス医療センター内にある医療・保健関連の学術・研究機関の中で著名なものには、ベイラー医学校、テキサス大学ヒューストン保健科学センター、メソジスト病院、テキサス子供病院、テキサス大学M・D・アンダーソンがんセンターなどがある。ベイラー医学校は、1900年に「ダラス大学医学部」としてダラスに設立され[71]、1903年にベイラー大学に統合された後、1943年にテキサス医療センターに移転してきた。同校はUSニューズ&ワールド・レポート誌による医学校のランキングでも上位10位以内に入る高評価を得ている医学校である。テキサス大学ヒューストン保健科学センターは保健教育の博士課程では全米1位である。テキサス大学システムに属するもうひとつの機関、テキサス大学M.D.アンダーソンがんセンターは1990年代以降、がん治療に特化した病院としては全米で1、2を争う存在である[72]。メソジスト病院は全米の優れた病院の1つに数えられ[73]、心臓外科手術、がん治療、てんかん治療、臓器移植など幅広い分野で世界的にその名を知られている[74]。
ヒューストンの玄関口となる空港はダウンタウンの北約37kmに位置するジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港(IATA: IAH)である[75]。単に「インターコンチネンタル空港」とも呼ばれるこの空港の2006年の年間利用旅客数は42,550,432人を数え、同じテキサス州内のダラス・フォートワース国際空港にこそ及ばないものの、全米ではニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に次いで8位、全世界でも17位であった[76]。同空港はヒューストンに本社を置くコンチネンタル航空最大のハブ空港である。コンチネンタル航空はヒューストンからアメリカ合衆国内外182都市へ1日700便以上を飛ばしている[75]。同空港と日本の成田国際空港との間の直行便もある。2006年、アメリカ合衆国運輸省は、インターコンチネンタル空港はアメリカ合衆国内10大空港の中で最も高い成長を遂げている空港であると発表した[77]。2007年初め、アメリカ合衆国税関・国境警備局はインターコンチネンタル空港をアメリカ合衆国外からの旅行者に対する入国港湾のモデルと位置づけた。テキサス・ルイジアナ・ミシシッピ・アラバマ4州の南部をカバーするヒューストン航空管制センターは、インターコンチネンタル空港の敷地内に置かれている。
インターコンチネンタル空港は1969年に開港したが、それ以前はダウンタウンの南西約13kmに位置するウィリアム・P・ホビー空港(IATA: HOU)がヒューストンの空の玄関口としての役割を果たしていた。1967年まではヒューストン国際空港と呼ばれていたこの空港は、現在では近距離・中距離の国内線や、企業・個人のチャーター便などを主とし、インターコンチネンタル空港を補完する役割を果たしている。同空港に発着する旅客機の8割はサウスウェスト航空の便で占められている。サウスウェスト航空はインターコンチネンタル空港を利用せず、ホビー空港のみに航空機の便を発着させている。同社はヒューストン