便利なキーワード検索サイト ことなびトップページへ
デル株式会社







ことなびTOP  サイトマップ  ことなびとは?



便利!NINJA TOOLS
→FC2検索 用語 Wikipedia YouTube

ビートルズ とは?

 ページ内リンク   ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事  ↓Yahoo!知恵袋

ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリスリヴァプール出身のロックバンドである。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


ビートルズはてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  [The Beatles] ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人による、ロックに限らず、音楽の歴史を変えたバンド。 1962年10月レコードデビュー。初期はラブ・ソングを歌うアイドル・バンドとして熱狂的な人気を得るが、「ラバー・ソウル」「リボルバー」以降の後期は、実験的なスタイルも意欲的に取り入れ、音楽的洗練とあいまって、その音楽スタイルを認める人間の層も幅広くなる。 アメリカでの成功から世界ツアーを敢行、1966年には武道館で日本公演を行っている。かれらの ...

出典: 『はてなダイアリー』


和英辞典

ビートルズ 別ウィンドウで表示  …  (n) Beatles (P)

ノースウエスト航空 のマイルは、国内航空会社のマイレージと違って無期限!! 格安パックツアーでも
100%マイルが付くのでお得!! 国内往復分15000マイルを貯めて沖縄や北海道へ!!


関連商品

音楽  アビイ・ロード別ウィンドウで表示

ザ・ビートルズ /  最安値(新品): ¥ 2,088  最安値(中古): ¥ 1,500 
おすすめ度5.0(全レビューの平均)ビートルズ11作目にして、実質最後のアルバム。 このアルバムを一言で言い表せようとしたら「美しい」と言う言葉が一番適切ではないかと思います。 ジョンのハードな「カム・トゥゲザー」でアルバムの幕を開けた後、 ジョージの名バラード「サムシング」への曲の流れなどは綺麗だと感じます。 またこのアルバムでは、ポールの才能を再認識させてくれます。 もうこのアルバムを製作している頃になると、ジョンやジョージはビートルズの活動にあまり意欲的ではなくなっていました。 その中ポール一人が必死に頑張っているという感じをこのアルバムでは受けます。 特にB面のメドレーの部分ではポールの才能が遺憾なく発揮されていると感じます。 もちろん、ジョンの「カム・トゥゲザー」「アイ・ウォント・ユー」、ジョージの名曲二つ「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」も素晴らしいです。 ですが、やはりこのアルバムの主役はポールだと思います。 ポールは何とかして、ビートルズを美しく終わらせたかったのだと思います。 ポールはそれだけ「ビートルズ」を愛していたのだと思います。そして、本当にこれほどまでに素晴らしいアルバムに仕上げました。 このアルバムは世界の音楽史を大きく塗り替えたビートルズを締めくくる素晴らしいアルバムだと思います。  (mercury1124 さんのレビュー)

DVD  イエロー・サブマリン別ウィンドウで表示

最安値(新品): ¥ 6,660  最安値(中古): ¥ 4,800 
おすすめ度5.0(全レビューの平均)

音楽  A Hard Day's Night別ウィンドウで表示

The Beatles /  最安値(新品): ¥ 1,508  最安値(中古): ¥ 1,370 
おすすめ度5.0(全レビューの平均)

本  大人のロック!特別編集 ザ・ビートルズ1962-1966「赤の時代」の衝撃 (日経BPムック)別ウィンドウで表示

日経エンタテインメント! /  最安値(新品): ¥ 1,575  最安値(中古): ¥ 1,574 
おすすめ度5.0(全レビューの平均)




ウィキペディア(Wikipedia)記事


ザ・ビートルズ
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド
リヴァプール
ジャンル ロック
リヴァプールサウンド
サイケデリック・ロック
ブルースロック
ロックンロール
活動期間 1960年 - 1970年
レコード上での再結成1994年 - 1995年
レーベル EMI
キャピトル・レコード
アップル・レコード
パーロフォン
オデオンなど
事務所 NEMSエンタープライズ
アップル・コア
共同作業者 ジョージ・マーティン
影響 エルヴィス・プレスリー
チャック・ベリー
バディ・ホリー
ジーン・ヴィンセントなど
公式サイト アップル・コアによるサイト
EMIミュージック・ジャパンによるサイト
メンバー
リンゴ・スタードラムス
ジョージ・ハリスンリードギター
ポール・マッカートニーベース
ジョン・レノンリズムギター
旧メンバー
ピート・ベスト (ドラムス)
スチュアート・サトクリフ (ベース)
  

ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリスリヴァプール出身のロックバンドである。

(個々のアルバムやヴィデオ作品については別項ビートルズの作品を、個々の楽曲に関してはビートルズの曲名一覧を参照のこと。)

目次

概要

ビートルズは世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したグループアーティストとされる。イギリスのリヴァプールで結成され、アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代ポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティストとして、その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。1960年代日本グループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4[1]と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

ビートルズの音楽的ルーツ(基本)は米国黒人(チャック・ベリーリトル・リチャードシュレルズなど)のリズム・アンド・ブルースロックンロール、およびそれをルーツ(基本)とした白人(エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーなど)のロックンロールとされる。

バンド名の由来

「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフ[2]が考えた名前で、造語である。自分達の敬愛するロックンローラーバディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかって、同じ昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、甲虫類複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いつき[3]、クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。

ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ、でも字を見るとビート・ミュージックというわけさ」

バンド名を「ビートルズ」とした頃、ギグを取り仕切っていた者にその名前を嫌われ[4]「ギグに出たかったら『ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー』という名前に変えろ」と言われ、ギグに出る為にお互い譲り合うという形で、「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」しばらくしてロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていた時期がある。「ビートルズ」の前に「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていたのはこうしたいきさつからである。

メンバーと基本パート

担当楽器

上記のように「ギター2本、ベースギター、ドラムス」が初期においての基本的な楽器編成であるが、中期から後期にかけては、リンゴ以外のメンバーの担当楽器は曲によって実に流動的である。

主にリードギタリストはジョージが多いが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。

ジョンのリード・ギターはポール作「ゲット・バック」や、自作「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは、ジョン作「涙の乗車券」(フェイド・アウト・パート)、自作「バック・イン・ザ U.S.S.R.」、ジョージ作「タックスマン」(間奏部とラスト)などのリードギターを弾いており、「ブラックバード」などのアコースティック・ギターのナンバーと併せ演奏例が多い。ジョージは、特に初期において、演奏面での未熟さが指摘される。なお彼はチェット・アトキンス奏法など、早いうちから他人のカヴァーのギター・スタイルを用いていた。ビートルズ時代の中期~後期においては彼のリードギタリストとしての役割は大きく減少した。特にアルバム「Help」当時からリードギターをジョージではなく、ポールが担当することが多くなり、この傾向は解散時点まで続いた。すなわち、少なくともビートルズの初期~後期前半においてジョージのテクニックを評価する論評はなかった。 ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分では、ジョン、ジョージ、ポールの3人によるギター・バトルを聞くことができる[5]

また、ジョンとポールはピアノなどの鍵盤楽器をしばしば演奏している。ジョン作の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのイントロのメロトロンはポールの演奏である。主にピアノはポール[6]、オルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器はジョン[7]というパターンが多くみられる。ジョンの演奏はリズムギターの延長であり、基本的に両手でコードを弾いている。一方、ポールはよりテクニカルな演奏を行なっている。

ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」など 中期から後期の作品で、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当する曲も存在する。例えば「レット・イット・ビー」では、ジョンが6弦ベースを演奏している。

ジョージが「ノルウェーの森」でインド楽器シタールを導入し、それがビートルズがインド音楽の影響を受ける端緒となったことは良く知られている。またジョージが演奏した他のインド楽器には、「ゲッティング・ベター」や、「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどがある。ただし、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとの決別とともにインド音楽への傾注は急激になくなった。

モーグ・シンセサイザーは、アルバム『アビー・ロード』において、ジョージにより導入された。単音しか出せないが、現在の(アナログ)シンセサイザーの元祖でもある、当時の最新楽器である。ジョージ自作の「ヒア・カムズ・ザ・サン」や、ジョンの曲「ビコーズ」で演奏され、ポールが自作「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。

他、1968年のリンゴの脱退騒動[8]に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」、それとは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスはポールが演奏している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。ジョンのサックス[9]など、珍しいパターンもある。

メンバー以外のポップス・ミュージシャンによる演奏としては、エリック・クラプトンが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のリードギターを弾いているのが特に有名である。他にはレヴォリューションでのニッキー・ホプキンスエレクトリックピアノビリー・プレストンによるアルバム『レット・イット・ビー』中のエレクトリックピアノハモンド・オルガンなどがある。また、番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏などで、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。

作詞作曲とリード・ヴォーカル

ジョンとポールが主に作詞作曲を行なう。またジョージやリンゴも後期になるにつれ作詞作曲を行なうようになる。リードヴォーカルはジョンまたはポール、あるいは2人一緒にとることが多いが、自作曲を中心にジョージも、またリンゴもリード・ヴォーカルをとる。

多くのヒット曲をはじめ、オリジナル曲の8割以上の作詞作曲はジョンとポールの共作としてクレジットされている。しかし、実際にはクレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはない。純粋な共作曲は十数曲しかなく(それも前期に集中している)、2人のどちらかが単独で作った曲、両方が参加していても片方がアドヴァイス程度のサポートしかしていない曲が殆どである。二人のクレジットの曲で、ジョンとポールのどちらが主に作ったかの簡単な判断は、どちらがリード・ヴォーカルを担当しているかに注目すれば、比較的簡単である(殆どの場合、主な作者がリード・ヴォーカルを担当している)。

ビートルズ結成当初から、2人の友情の証として、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」(初期のレコードアルバムで見られる表記)と連名にする約束が2人の間で取り交わされていたからであろう。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。この約束をジョンは比較的律儀に守っており、1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。彼等の作品は全米、全英ともNo.1になった曲が最も多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。

レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、ジョージの作品が21曲、リンゴの作品が2曲、レノン=マッカートニーとリンゴとの共作が1曲、全員の共作1曲が含まれている。『ビートルズ・アンソロジー』のシリーズには、ジョンとジョージとの共作のパターンも、例外的に存在する[10]

その他の関係者

現在のキャバーン・クラブ
現在のキャバーン・クラブ
  • マル・エヴァンズ - ビートルズのロードマネージャー。ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていが、アスピノール1人では仕事が大変なため2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年死去。
  • アレン・クライン - 1969年に就任したビジネスマネージャー。アメリカ人の会計士で、1965年からローリング・ストーンズのビジネスマネージャーを勤め[15]ビートルズ以上の契約をレコード会社と結ぶなどその手腕を買われ、無秩序状態で破産寸前だったアップルを再建すべく雇われた。やり手ではあるが悪評も多く、その強引な手法、アーティストより自身の利益を優先するなど「悪名高き男」とも呼ばれる。

来歴

デビューまで

1957年3月、ジョン・レノン、バンド「クオリーメン」結成。

1957年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行われたクオリーメンのコンサートをポール・マッカートニーが観る。共通の友人の紹介によりジョン・レノンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を完璧に歌い、ジョンに誘われクオリーメンのメンバーになる。

1958年2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなしバンドに加わる。

1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。

1959年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。

1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入(リヴァプール・カレッジ・オブ・アート時代のジョンの親友、もともと画家志望で音楽をやっていたわけではないが、絵が売れるとその金でベースを買ってバンドに入るようにジョンが誘いバンドに加入。その為そこからベースを覚えていったという、ベースの腕前は素人)。バンド名が「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。

1960年4月23、24日、ジョンとポールの2人は「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏する。

1960年5月、ソロシンガーのバックバンドをつとめるツアーに出る(この時、それぞれが芸名をつけていた。ジョン「ロング・ジョン」、ポール「ポール・ラモーン[16]」、ジョージ「カール・ハリスン」、スチュアート「スチュアート・ド・スタール」)。

この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた、ドラマーのいないステージではポールがドラムスを叩いたこともあった。

1960年8月、ドイツのハンブルクでの仕事が入り新たにドラマーが必要になり、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。バンド名を「ザ・ビートルズ」とする。ハンブルクではリンゴ・スターがドラムスを努める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」も出演していて、リンゴと付き合うようになる。

1961年4月〜7月、この2度目のハンブルクでの巡業の途中で、スチュアートが画家に専念するために脱退。

1961年6月22、23日、ハンブルクではトニー・シェリダンのバックバンドとしてもステージに上がっていたことが縁で、ドイツでシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売[17]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのヴォーカルの「いい娘じゃないか」インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた[18]

1961年12月10日、ブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。

1962年1月1日、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格となる。

この頃、ピートがステージを休むことが数回あり、そんな時はリンゴが代役としてドラムスを叩いていた。

1962年4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。

1962年6月、パーラフォン・レーベルとコーディング契約を結ぶ。

1962年8月15日、ピート・ベストが解雇され[19]、リンゴ・スターがビートルズのメンバーになる。

1962年10月5日、レコードデビュー。

デビュー当初から初期

ビートルズのデビューが決まり、曲を録音する段階で、ジョージ・マーティンは誰をメイン・ヴォーカリストにするか悩んだという。当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リード・ヴォーカリスト&バックコーラス、又は、リード・ヴォーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったためである。その他、スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。マーティンは当初はポールをリード・ヴォーカルとして押し出すつもりであったが、結局ジョンとポールの2人を押し出すことに決定した。デビュー曲は「ラヴ・ミー・ドゥ」でイギリスではそこそこのヒット曲だった。また、英国での2回目のシングルレコードのプリーズ・プリーズ・ミーのNo,1ヒットから英国ナンバー1のグループになる。また、英国でのデビュー・アルバムの『プリーズ・プリーズ・ミー』もイギリスで30週間ナンバー1の記録を達成している。この記録は未だに誰からも破られてはいない。そして、彼等のセカンド・アルバムの『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表になり、このアルバムもまたイギリスで『プリーズ・プリーズ・ミー』に替わり22週間の間ナンバー1になり、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの1位を占領した。

一方ブライアン・エプスタインの営業努力にもかかわらず、「ラヴ・ミー・ドゥ」、「プリーズ・プリーズ・ミー」、「フロム・ミー・トゥ・ユー」及び「シー・ラヴズ・ユー」は、アメリカでは全くヒットしなかった (大手レーベルからの発売さえできなかった) 。しかし「抱きしめたい」がアメリカでナンバー1になり大成功して以降、上記4曲も加えてビルボードの上位を占める等、アメリカもビートルズ旋風一色となった。

1964年,アメリカで
1964年,アメリカで

それを含め大ヒット曲の連発で、ポピュラー音楽の歴史が彼等によって塗り替えられて行く事となる。また、「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。 また、ヴォーカルの方面では「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などの、ジョンとポール二人で歌っているうちの、「どちらがリード・ヴォーカルのメロディーなのかわからない曲」や、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「最初はジョンやポールがリード・ヴォーカルだが、いつの間にかハーモニーやバックコーラスに回り、リード・ヴォーカルが交代してしまうパターン」などの形態がある(これらは主に二人の声の高低をカヴァーしたことに起因する)。コンサートツアーの方はアメリカで成功したため、他の国での成功をも確信したことからため、世界ツアーに行く事になる(当時はアメリカで大ヒットするだけでは不十分だった)。1964年のオーストラリア公演では、リンゴが扁桃腺炎の為、一時期リンゴの代役としてジミー・ニコルがドラマーとして参加する。またリンゴが復活し、オーストラリアのアデレード公演の際、ビートルズがアデレード市のタウン・ホールに出現した時は30万人のファンがタウン・ホールに詰め寄せたという。

日本公演

日本公演は、読売新聞社中部日本放送の主催によって1966年6月30日から7月2日にかけて5公演、東京・日本武道館において行われた。初日は夜のみ、2・3日目は昼および夜の各2回公演であった。

(入場料金) A席:2100円、B席:1800円、C席:1500円 ※警備の都合上アリーナ席はなし

ビートルズ来日に、警備は相当厳重になり、警視庁は大規模な警備体制を取り約3万5千人の警備員と機動隊が出動した。また安保闘争を除けば警視庁創設以来の大規模な警備体制となった。公演では当初、初日のステージの様子が録画されテレビ放送されることになっていたが、(マイク・スタンドの不備等)ビートルズ側の主張によりその映像は放送されず、急遽、翌7月1日昼の部のステージが収録されて、その日の夜9時から日本テレビ系列にて放送された本放送に使われた(番組の詳細はザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)を参照)。7月1日公演分の録画(白っぽい衣装)は、放送終了後エプスタインが持ち帰ってしまったため、近年何度かされた再放送や、1986年に日本国内のみで正式発売されたビデオなど(今は廃盤)は、6月30日公演分の録画(ダークな衣装)である。当時開発されたばかりの2インチ高画質カラー・ビデオテープで収録されたこの公演はとても鮮明な画像で残されており、数少ないカラーのビートルズのコンサート映像の中でも世界的に類を見ないものであるため、日本国内のみで正式発売されたビデオは海外のファンの間ではかなりの高額で取引されている。しかし、現在では版権等の問題があるため、2006年現在このビデオの再リリースは不可能といわれている。

ちなみに7月1日の映像はDVDアンソロジー・エピソード5』で2曲のみ見ることができる。全曲は非公式ビデオ・DVDでしか見ることができないが、見所として「アイ・フィール・ファイン」の冒頭でジョンがギターフィードバック音を出している部分が挙げられる。また、このDVD『アンソロジー・エピソード5』には、ほんの数秒ではあるものの、当時ビートルズの広報を担当していたトニー・バーロウによって撮影された、7月2日昼の部のカラー8ミリ映像も収録されている。他にも非公式に撮影された6月30日と7月1日(昼の部)のカラーの8ミリも存在するようである。今のところ存在が確認されている日本公演の映像はこの3ステージ分のみであるが、実はこの時、東京オリンピック開催時とほぼ同じ規模だったと言われるビートルズ日本公演の警備の模様を記録した『ビートルズのすべて』と題された記録映画が、警視庁によって製作されている。

6月30日と7月1日午後では収録方法も大きく変わっており、初日の映像では殆ど客席を写すことは無いが、1日のはかなりしつこく客席を写している。基本的なカメラ割りは同じだと考えられるが。また、音声のミキシングも大きく異なっており、ポールのベースの音が極端に大きくなったり(本来のヴァランスだと思われる)、観客席の声がよりリアルに聞えるようになった。

タレント志村けんは、7月2日昼の部の公演を2階前列で見た際に、テープレコーダーで録音[20]。また同日夜の部では、ジョンがサングラス[21]をして公演をした珍しい日でもあった[22]。当時はPA(拡声)システムが整備されておらず、あまりの大歓声に演奏者であるビートルズ及び観客には良く演奏が聴こえなかったという。これは日本公演に限らずビートルズのどの公演にも当てはまるのだが、そのため、勘で演奏をしていた部分もあり、ワンパターンの決まり切った演奏(特にドラムス)しかできなかったらしい。

この日本公演に関して言えば、武道館のアナウンス用スピーカーからも演奏を流していたのと、欧米諸国に比べファンが騒ぐことなく比較的おとなしく演奏を聴いていた(実際には、「席を立ち上がったら即退場」という規制が敷かれていたことと、1階のアリーナ席には警察官および関係者以外立ち入り禁止だったため2階のスタンドより上にしか観客はいなかった)ため、演奏自体はおおかた聴こえていたようである。しかしながら、「まったく聴こえなかった」という人と「いや、ちゃんと聴こえた」という人とどちらの証言も多数あるため、客席の位置によって聴こえた場所と聴こえなかった場所があった可能性は非常に大きい。RCサクセション仲井戸麗市は著書『だんだんわかった』で、高校生時代に見たこの公演の様子を書いており、リンゴの「アイ・フィール・ファイン」のバスドラムの踏み方が完璧で本物だった、と記している。

6月30日公演の映像を見る限りでは、「アイ・フィール・ファイン」他でジョン・レノンが歌詞を間違えて歌い、それを聴いたポールが首をかしげたり、苦笑いするシーンを見ることが出来る。と言うことは、ステージ上では意外に自分たちの音(声)が聞こえていたのでは無いかと推測できる。当時PAは無く当然ステージ上に返しも無い為、恐らくアリーナ上に設置されたスピーカーからの音が舞台上に届いていたのであろう。 舞台上の集音は楽器に関しては全くされていないようで、テレビ収録があった6月30日と7月1日のみ、ギターアンプ前とドラムスに集音用マイクが設置されているが、それ以降はマイクが置かれているのを見ることが出来ない。ということは、舞台上のスピーカーからはヴォーカルのみが出ていて、楽器は生音だけだったと考えられる。館内の音響設備からも音を流していたと言うことは、客席天井からも音が出ていたということであり、スピーカーに近い席に座っていた人、または、舞台上の東京音響が設置したスピーカーの近くに座っていた人にはかなり聞えていたと考えられるが、席によっては全く聞えなかった事は十分考えられる。

今でこそ東京ドーム同様、武道館でのロックコンサートは頻繁に行われているが、当時は佐藤栄作首相や、元朝日新聞記者で政治評論家の細川隆元らが、「神聖なる日本武道館でロックバンドが演奏することなどけしからん」という意見が多数を占めていた(特に細川は、テレビ番組などで差別用語まで使い罵倒を繰り返していた)。実際に、公演会場を後楽園球場よみうりランドへ変更することも検討された。これに対しポールは「僕らは演奏をしに来ただけだよ。例え日本の舞踊団がイギリス王立の会場でパフォーマンスを行ってもイギリス人は伝統を汚されたとは思わない。」と反論。ジョンも「闘うよりも音楽を演奏する方が平和でいいよ。」「僕らはここでやってくれと言われたからやるだけで、別にボクシング場でもどこでも僕らは構わない。」とコメントしている。

司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ内田裕也望月浩桜井五郎ジャッキー吉川ブルーコメッツブルージーンズ寺内タケシは所属事務所渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した直後のため出演していない)、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。前座の模様は版権の関係でビデオ化されたことはないが、映像自体は残されており、時折テレビでも一部が放送されることがある。ザ・ドリフターズの演奏は当時放映されておらず、日本テレビいつみても波瀾万丈加藤茶が出演した際に初めて公開された(6月30日版)。6月30日・7月1日昼の部両日共に記録されているが7月1日は当時放送分に公開されたきり、一度も放映されていない。7月1日のVTR全てをビートルズサイドが持ち帰ったためとされている。7月2日の演奏は、写真が残されているのみで公式な映像・音声は2008年一つも発見されていない。

しかしこの日本公演は、アメリカでの1964年1965年の公演に比べると、ライヴとしては決して良い出来とは言えなかった。音程は外れていたし、マイク等の機材も品質の良い物ではなかった。ライヴ前の記者会見でジョンが「ビートルズを聞きたい人はレコードを聞いてください。ビートルズを見たい人はコンサートへ来てください。」と言っていたことを考えると、始めからまともに演奏する気がなかったことが窺える。そして、ライヴでの再現が不可能・困難な曲を多く含んだアルバム『リボルバー』のレコーディングを来日前に終えているという事も考慮すると、ビートルズは最早ライヴ活動に対する執着心を感じていなかったのではないかという事が考えられる。(初日の演奏で日本のファンが演奏を聴いてくれていると知ったメンバーが翌日のステージでは恥ずかしい演奏は見せられないと本気の演奏をしたという証言もある)

初日公演翌日の7月1日の朝刊では、全国各紙一斉にこの日本公演の模様を大々的に報じた。どの新聞社も一通り公演の様子を伝えてはいるものの、ビートルズの演奏よりも熱狂する少女や厳重な警備体制に焦点を定めた社会記事的な扱いをしており、また数ある新聞社の中でも朝日新聞は、「1曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』から始まり、『ヘルプ』、『プリーズ・プリーズ・ミー』とヒット曲が続くと少女たちの熱狂は頂点に達した…」などと、実際の演奏曲とはまったく違う明らかな予定稿を載せていた。このことからも、当時の日本のマスコミは「ビートルズそのもの」よりも「ビートルズが巻き起こす社会現象」に関心が強かったことが窺える。

メンバーの投宿に際しては、警備上の理由からなかなか決まらず、唯一名乗りを挙げた「東京ヒルトン」(後のキャピトル東急ホテル。2006年11月30日に閉館)に落ち着いた。

なお、来日時に日本航空ダグラスDC-8機のタラップを降りてくる時に、4人のメンバー全員が「日本航空」のロゴの入った法被を着用していたが、これは、「宣伝のために自社のロゴの入った法被を4人に着用させろ」との日本航空の宣伝部の命を受けた客室乗務員が、「日本の伝統衣装を着用すると日本のファンが喜ぶ」といって着用させたものだった。

ザ・ビートルズ日本公演を見た主な著名人

日本公演を見た主な著名人とその職業・所属は下記のとおり。ほとんど著名人が単純にビートルズが好きで見に行ったわけではなく、招待されて観に行った者や、ビートルズ人気に理解出来ないためその実体を見てやろうという懐疑的な者や、ビートルズの熱狂の渦の中に身を置いてみたいということで観に行ったようである。太字は当時の職業・所属であり、その後の著名人の人生に影響を与えている要素が見受けられる。50音順、前座出演者は除く。