ファシスト党 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋組織 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ファシスト党 出典: 『はてなダイアリー』 ウィキペディア(Wikipedia)記事
ファシスト党(ファシストとう、Partito Nazionale Fascista)は、戦間期イタリア王国における政党。国家ファシスタ党(こっかファシスタとう)とも表記される。ベニート・ムッソリーニのもとで一党独裁体制を確立、第二次世界大戦の敗北とともに崩壊した。ファシスト党による政治体制をファシズムと呼ぶ。
党名の由来と党員構成「ファッショ (fascio)」とはイタリア語で「束」、「結束」を意味し、1919年にファシスト党の前身「イタリア戦闘者ファッシ(Fasci Italiani di combattimento)」がその組織名として用いている(fasciは、fascioの複数形)。古代ローマ時代のラテン語まで語源をさかのぼると、共和政ローマの執政官の権威の象徴であった杖の一種(束桿、ファスケス)を意味しているとされる。 「ファッショ」の語は19世紀後半以降、社会運動の結社の名にしばしば用いられており、「イタリア戦闘者ファッシ」結成段階ではまだ特定の意味をもつものではなかった。 ファシスト党(1921年成立)の党員は、共産主義革命の防止を目的とした中間層・農民中心の雑多な集団であった。「イタリア戦闘者ファッシ」に参加したのは、第一次世界大戦の勃発に際してイタリア参戦を主張したグループ、また、大戦の勇士として知られた選抜突撃隊の兵士たち、さらに、ジョルジュ・ソレルやフィリッポ・マリネッティの影響を受けた未来派のメンバーであり、イタリア社会党や革命的サンディカリスムの系譜をひく戦闘的分子も含んでいた。復員兵士が多く、その党勢の拡大に果たした役割は大きい。左翼革命を怖れる資本家・地主・軍部・官僚などの支援を受けて勢力を拡大した。 ファシスト党誕生の背景第一次世界大戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。また、資源に乏しく経済基盤の脆弱であったイタリア王国は、その戦費を外債に依存したため財政難にみまわれた。経済危機も深刻で、大量の失業者が生まれ、ロシア革命の影響も受けて、労働者のストライキや農民の小作争議がひろがり、社会主義勢力が拡大した。物資不足から激しいインフレーションも起こって民衆の生活を直撃した。あたたかい歓迎と安定した暮らしを夢みてイタリアのために戦った兵士たちは、経済混乱にあえぐ祖国に帰り、新たな失業者の一群、余計者の集団として、むしろ冷たい視線を浴びることとなった。 折から1919年から1920年にかかては、労働者のストライキや農民の小作争議が頻発して社会不安が増加していたのである。 歴史「イタリア戦闘者ファッシ」から政権獲得まで第一次世界大戦前のベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党内では正統派マルクス主義というよりはジョルジュ・ソレルの思想に影響を受けており、党主流の社会改良主義的な路線とは一線を画し、その批判者として頭角を現した。1912年には社会党執行委員に選ばれ、党の重要な日刊紙「アバンティ! (Avanti! )」[1]の編集長にまでなっていたが、1914年夏、第一次世界大戦がはじまると、伝統的な平和主義から「イタリアの絶対中立」を唱えた党の方針に反対、戦争とその帰結にこそ革命の展望があるとする立場から11月「ポポロ・ディタリア (Il Popolo d'Italia )」[2]を創刊して、イタリアが英仏協商側に立って参戦すべき[3]との意見を主張してイタリア社会党を除名された。また、14年末からはイタリア各地でうまれた参戦主義者団体「革命行動団」の指導者となった。 1919年3月23日、ムッソリーニはミラノで、復員軍人を主体にして、革命阻止と国粋主義の立場で「イタリア戦闘者ファッシ」を組織した。創立大会の出席者は145人といわれ、復員将校のほか、地主や資本家の子息である右翼学生が多く、上述のように「未来派」の影響を受けた青年も多かった。創立大会宣言では、イタリアの領土の拡大を主張している。 1919年から1920年にかけて、北部イタリアの諸都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなどの小作争議も起こって社会不安が醸成されていた。 戦闘者ファッシは、当初は、王政の廃止、戦時利得の85パーセント没収、労働者の経営権への参加、最低賃金制、大土地所有者の土地の農民への分与などサンディカリスム的な綱領を掲げていた。そうしたなかで、1919年11月の総選挙ではイタリア社会党が全体の3割にあたる180万票を獲得して154議席を確保したのに対し、戦闘者ファッシの獲得票は5,000票たらずであり、1人の当選者も出なかった。 1920年になるとストライキは激化し、9月には北イタリアで社会党左派(1921年1月、イタリア共産党を結成)の指導のもと50万人の労働者が工場を占拠し、農民も各地で地主保有地を占拠するなど、あたかも革命前夜を思わせるような情勢となった。社会党指導部の不決断により工場占拠闘争が敗れ、革命的情勢は退潮に向かったものの、ポー平原のボローニャ県とフェラーラ県では、農業労働者による農業協約改訂闘争が勝利し、社会党も10月の地方選挙で引きつづき優位に立って2,000以上の自治体を掌握した。こうした、零細農民や労働者の直接行動に危機感を抱いた地主、土地を得た中小農、都市の中間層は、自由主義政府の支援を求めた。しかし、それがかなわないと知ると、彼らは戦闘者ファッシと連携して武装行動隊(squadra)を編成し、20年秋より直接行動の挙に出た。 ムッソリーニも黒いシャツを制服として使用させた「黒シャツ隊」を武装行動隊として編成して、こうした革命的な動きを暴力的に鎮圧した。これにより、中産階級・資本家、軍部、地主層などの支持を広げて資金や武器を得て1921年5月の総選挙ではムッソリーニふくむ35名の下院議員を当選させ、同年11月、戦闘者ファッシは政党「ファシスト党」(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組、ミケーレ・ビアンキ(it)を書記長とした。1922年5月と8月の2度にわたり、政府軍に代わってゼネラルストライキを鎮圧し、軍や資本家の支持を不動のものとした。さらに1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーリは「政権がわれわれに与えられるか、われわれがそれをとるかだ」と演説し、28日、4万人のファシスト党員がビアンキ、デ=ボーノ、デ=ベッキ、バルボの「ムッソリーニ四天王」と称される4人の幹部に率いられてナポリなどからローマにむけて進軍する示威行動、いわゆる「ローマ進軍」をおこなった。ムッソリーニ自身はこの進軍に参加せず、ミラノに待機した[4]。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は10月30日ムッソリーニに組閣を命じ、首班指名を受けて政権を授与された。彼は翌31日、ミラノから寝台列車でローマにはいった。こうして、史上初のファシズム政権が成立した。 独裁体制の確立ムッソリーニは、1923年ファシスト党に有利な新選挙法を制定、1924年にはユーゴスラヴィアと直接交渉でフィウーメを獲得[5]し、ファシズム政権最初の外交的勝利となった。1925年から26年にかけて結社や治安・行政権の集中に関する諸法律を制定、1926年11月にはファシスト党以外のすべての政党の解散を遂行して、ファシスト産業組合を設立して労働組合を統制し、言論の自由をきびしく制限して一党独裁制を確立して、イタリア王室、軍部、財界などの支持を得て独裁体制をととのえた。なお、ファシスト産業組合は1927年、「労働憲章」によってファシスト労働組織として確定された。 1928年9月には、首相ムッソリーニを議長とするファシズム大評議会(ファシスト党の最高議決機関)を正式に国政の最高機関とし、国家と党の一体化を完成し、強力な統制経済によって経済危機をのりこえようとした。1929年には教皇ピウス11世とラテラノ条約を結び、ローマ教皇庁との和解が成立し、イタリア王国はカトリックを唯一の宗教とすることを認め、ローマ教皇の主権下にヴァチカン市国がイタリアから独立することを承認した。これにより、1870年以来つづいてきた教皇庁とイタリア王国の対立は解消し、ファシスト党はカトリック教徒の支持を確保したこととなる[6]。ムッソリーニは、ローマ教皇庁に対し、小中学校におけるカトリック教育の義務化、聖職者の徴兵の免除、教会の葬祭・婚姻の統制などを認めるなど大幅に譲歩し、これらと引き替えにファシスト独裁体制の威信を高めることに成功した。 ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、「古代ローマ帝国の復興」を掲げたが、これは単なる士気向上が主目的であり、現実味の片鱗もない話ではあった。経済危機を打開するために膨張主義政策に着手し、1927年にはアルバニアを保護国とし、1935年10月にはエチオピアへ侵攻した(第二次エチオピア戦争)。しかし、予想以上の苦戦を強いられたイタリア軍は当時でも禁止されていた毒ガス兵器を使用し、そのことを国際連盟で追及されると、イタリアは「エチオピア人は文明人と認められない」という無茶な理論で応えている。なお、1938年、ムッソリーニは人種法を制定している。 経済政策の面では、1922年から1925年にかけてアルベルト・ステファニ(it )が政府のコストを削減し、民間企業をほとんど国有化することなく、一時頻発したストライキをおさえ、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して、特にマフィアの活動を押さえ込んで犯罪件数を減少させた。所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家のなかにも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える向きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルさえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかし、1929年の世界恐慌の影響により失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までには、イタリアはソビエト連邦に次いで国有企業の多い国となった。1939年3月、議会を廃止して全国組合協同会議にかえ、全体主義の組合国家体制としている。 枢軸の形成と第二次大戦への参戦1935年のエチオピア侵攻によって国際的に孤立[7]していたイタリアは、1933年に国際連盟を脱退して孤立の度を深めていたナチスドイツと結びつく余地があった。独伊はその後、1936年7月にはじまったスペイン内戦に揃って介入し、同年10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。1937年には国際連盟を脱退している。もっとも、オーストリアを自国の勢力圏と考えていたムッソリーニは、38年3月のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)には、内心、相当な難色を示していたという。 1939年4月イタリアがアルバニアを併合すると、再び英仏を中心として大きな非難を呼び始めた。これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約に調印した。 ただし、同年9月ヒトラーのポーランド侵攻によってはじまった第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。イタリアはイギリスとの交渉を根気強く進めていたのだが、ポーランド侵攻によって、それまでのムッソリーニの努力は水泡に帰し、英米などの世論もファシスト党を世界平和を乱す社会悪と認識していった。 もはやイギリス、アメリカとの交渉は不可能となり、ドイツがフランスを占領しようという対仏戦末期の1940年7月10日、イタリアもドイツの勝利に乗じようと正式に英仏に宣戦布告を発し、第二次世界大戦に参戦、さらに日本とも関係を強めてアジアにおけるファシズムの影響力を強め、戦後世界でのイタリアの発言力を高めようと40年9月には日本も含めての日独伊三国軍事同盟に調印した。 宣戦布告とともに北アフリカではリビアからエジプトへ、バルカン半島ではアルバニアからギリシャへ侵攻を開始したが、参戦準備がきちんとなされないまま性急に軍事行動を開始したことなどから、どちらも反撃にあい逆に侵攻を受けるありさまであった。 ムッソリーニ失脚と党の解体連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使で、指導者のムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、1943年7月24日、5年ぶりにヴェネツィアで行われたファシズム大評議会において、連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。「統帥権の国王への返還」の動議に対し、ミュンヘン会談や三国軍事同盟調印に参加したひとりで、ムッソリーニの女婿でもあったガレアッツォ・チアーノ外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、過半数の賛成を得て成立した[8]。ムッソリーニは翌7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨を報告したその場で憲兵隊に拘束され、即座に投獄された[9]。 ムッソリーニの失脚により、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の解散を命令、ピエトロ・バドリオを首相に任命した。 ファシスト党の流れを汲む現代政党イタリアにおいては、第二次世界大戦後もファシスト党の流れを汲む一定の勢力(イタリア社会運動)が存在した。現在のイタリアの極右政党国民同盟も、穏健化してはいるがファシスト党の影響を残している。国民同盟の穏健化は国民から評価され、1994年のフォルツァ・イタリアによるシルヴィオ・ベルルスコーニ政権誕生へとつながった。なお、国民同盟はかつて、ベニート・ムッソリーニの孫娘アレッサンドラ・ムッソリーニが所属していた。アレッサンドラは国民同盟を離党後、極右政党「行動の自由 (Libertà di Azione) 」(現在の名称は「社会行動 (Azione Sociale)」)を結成し、また欧州議会選挙に向け、他のネオ・ファシスト運動と連携して会派「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を組織して2004年には議席を獲得、彼女は欧州議会議員となっている。 党歌
脚注
関連項目
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