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山崎孝 /
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ユーゴスラビアはセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でJугославиjа。
日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。
ユーゴスラビアは「南スラブ人の土地」を意味し、国家の名称は1929年のアレクサンダル1世の統治時代に、それまでのセルビア=クロアチア=スロベニア王国が国号を改め、ユーゴスラビア王国として使用されたことに始まる。

詳細はユーゴスラビア王国を参照
第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラブ人王国の設立を目指すことを表明した。
1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラブ人王国の構想に加わりセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)が成立した。
新しい王国の下では、地方行政の区分けが自然の川や分水嶺によって設定され、セルビア人やクロアチア人といった民族の違いによる地域の区分は全く無視された。それに加え、中央集権国家を目指した王国はベオグラードのセルビア人が中心になって運営されたたため、クロアチア人の不満は大きいものとなった。
1929年には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。1931年に新憲法を布告し、セルビア人至上主義と国王独裁を強めた。このため、クロアチア人の不満はいっそう高まる事になった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。当時、この暗殺はクロアチアの民族主義者の手引きによるものと考えられたが、真相はわかっていない。
アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかしこの妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの独立を目指した。
当初ユーゴスラビア王国政府は親独路線を採り、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟したが、これに反対する国軍が3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を取り消す一方で、ナチス・ドイツへの抵抗を明確にし、4月6日未明にソ連との不可侵条約に調印したが、条約調印から6時間後にはドイツ軍がイタリア、ハンガリー、ブルガリア等の同盟軍と共にユーゴスラビア侵攻を開始し、4月17日にユーゴスラビアは降伏した。ナチス・ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャに拠る政権を新しい地域の為政者として同盟を結んだ。またセルビア地域には、軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。
ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、強制収容所にセルビア人を連行して虐殺したと言われる。のちに大量の遺骨が地中から発見されており、真実と推測されている。
ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が弱く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対しての抵抗運動をリードしたのはヨシップ・ティトー率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。
詳細はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を参照
大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したティトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にコミンフォルムを追放されて以降、ソ連のコントロールから外れ、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立して、断交と国交回復を繰り返した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約に加盟せず、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて、ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。
社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。
第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と表現された。 7つの隣国とは、イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアのこと。6つの共和国はスロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア。5つの民族はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人。4つの言語はスロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語。3つの宗教はカトリック、東方正教、イスラム教。2つの文字はラテン文字とキリル文字のことである。
このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、ティトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた憲法が施行された。
1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。
東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める改革を提案したが、セルビアとモンテネグロはこれに反発し、対立が深まった。
詳細はユーゴスラビア紛争を参照
1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、第二次世界大戦中のウスタシャとチェトニックの関係を思わせるような相互による略奪、虐殺、強姦を繰り返す状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア・クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化した。
詳細はユーゴスラビア連邦共和国を参照
1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。
クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアがこれらの地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民を強力に推進したため、コソボの民族バランスが大きく崩れた。これに危機感を抱いた多数派のアルバニア系の住民に抵抗運動が激化し、1998年独立強硬派のコソボ解放軍(KLA)と鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。介入したNATO軍による空爆などを経て、2000年にユーゴスラビア軍はコソボから撤退し、和平協定に基づき国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK)が設置された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に引き渡された。
一方、その人口規模の小ささから独立を選択しないで、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒である。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事コマンド、外交機関などを連邦政府から独立させ独立の外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設ける事を提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体されゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結する事を条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく独立を諦める気配を見せようとしなかった。
このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。
これによってユーゴスラビアを構成していた6共和国はそれぞれ完全に独立する事になった。
すべてカラジョルジェヴィチ家。
1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。
1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があった事から、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。
1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。
詳細はユーゴスラビア王国の地方行政区分を参照
1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。
詳細はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分を参照
1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。
1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。
1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。
また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。
セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内のうちアルバニア人の多い南部にコソボ自治州、ハンガリー人などの多い北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。
宗教はスロベニア人、クロアチア人は主にカトリック、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人は主に正教会、更にイスラームを信仰するスラヴ人はムスリム人と呼ばれた。
言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア独立前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解する事ができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。
詳細はユーゴスラビアのスポーツを参照
サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第一回大会から出場している。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等がある。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。
1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。しかし1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990年イタリア大会では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。
しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して国際サッカー連盟、欧州サッカー連盟はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン<