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千葉ロッテマリーンズ(ちば - 、Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にある千葉マリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。
球団の歴史
東京・仙台・川崎時代
毎日
大毎・東京
- 1957年シーズンオフ、成績が低迷していた大映野球・大映ユニオンズを吸収合併し毎日大映球団・大毎オリオンズ(だいまい - )と改称。大映社長の永田雅一がオーナーに就任。
- 1950年の優勝以後、西鉄と南海に水をあけられていたが1960年に2度目の優勝を遂げる。この年監督に就任した西本幸雄のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾るが、日本シリーズ対大洋ホエールズでのバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた。
なお、この年を以って毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が完全に球団経営を掌握する事になる。
- 1962年より本拠地は永田が私財を投じて東京・南千住に建設した専用球場・東京スタジアムに移転。
- 1964年、チーム名を東京オリオンズ(とうきょう - )に改称。マスコットに「桃太郎」を採用した。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていない事に永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。
だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため毎日側が不快感を示し、結局この年のシーズンを最後にオリオンズへの支援を打ち切った。経営権は完全に永田側に移譲されたが、正式球団名は「毎日大映球団」を維持した。またこれまでのスポーツニッポンに代わり、東京スポーツが関連新聞[要出典]となる。
ロッテ
- 1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、チーム名をロッテオリオンズに改称。ただ正式な球団買収ではないので球団の経営は従来どおり毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
- 1970年パ・リーグ優勝。東京スタジアムでの優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。日本シリーズは読売ジャイアンツに敗れる。
- 1971年1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、正式球団名もチーム名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。
- 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局1972年シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京スタジアムは閉鎖され、本拠地球場を喪失した。
- 1973年から、仙台市宮城野区の宮城球場(現・クリネックススタジアム宮城=東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地)を暫定的に本拠地とし(1974年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(この期間の詳細については後述。また歴代本拠地も併せて参照)。
- 1973年、日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは日本ハムに売却される事になった(現北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズの経営に参画するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。
- 1974年に金田監督の下で有藤道世、山崎裕之、弘田澄男、投手では成田文男、村田兆治、木樽正明らが活躍しリーグ優勝・日本一。この時の日本シリーズ(対中日)主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフ(いずれも阪急戦)は宮城で開催された)。また日本一を決定した後の凱旋パレードも、東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。
- 1977年、神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、既に横浜への移転が内定していた大洋ホエールズと共に本拠地として使用できるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンからの川崎移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。
- 1978年から本拠地は川崎球場に落ち着いた(宮城球場では引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)。観客動員は少ないながらも1980年の張本勲の3000本安打、1985年~1986年の落合博満の2年連続三冠王、1988年10月19日ダブルヘッダーの死闘(第1試合は近鉄勝利、第2試合は引き分け。西武のV4が決定)などはチームはもちろんパ・リーグ全体に大きな光をもたらした。
- 1982年以降は、投手陣が振るわず、チームが低迷する。特に、1985年は落合の三冠王以外にも西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割をマークし、チーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したくらいであり、チームも2位を確保したものの、優勝した西武からは15ゲームも話された。
- 1987年から女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。これにより観客動員数が10万人ほど増えたという。このことはトリビアの泉でも紹介された。
- 1989年、二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から、埼玉県浦和市のロッテ浦和球場に移転。その後1998年には現在の球団寮が竣工した。
- 1991年に内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句にファン拡大作戦を実施した。
千葉時代
低迷期
- 1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズに決定した(Marinesは英語で海兵隊を意味する)。
- 1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まされることとなる。
- 1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
- 1995年のシーズンは10年振りのAクラス入りを果たす貯金10の2位で終了。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、当時監督であったボビー・バレンタインが広岡達朗GMとの確執から解任される。ファンはバレンタインの退団を惜しみ、広岡やフロントを「暴挙」と非難。
- バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも5位に沈み、広岡・江尻ともにこの年限りで辞任。
- 1998年にはプロ野球記録となる18連敗を喫し話題となる。この記録は大東京軍が1936年に16連敗を記録して以来62年間(2リーグ分裂後は1970年に同じく16連敗を記録したヤクルトアトムズ以来28年間)破られていなかった。当時の監督は近藤昭仁で、1998年シーズン終了後の監督退任会見では「今度やるときはもっと強いチームでやりたい」と発言し、物議をかもした。
- その後山本功児が1999年に2軍監督から昇格、現在の投手王国の形成、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。しかし、この山本功児が監督のころにドラフトで獲得した渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入りに大きく貢献している。
- 2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌2003年のキャンプ中に家庭事情等により退団というアクシデントにも見舞われる。
第2次バレンタイン監督時代
- 2004年、バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。プレーオフ進出を後一歩のところで逃すも勝率5割を記録した。
- 2005年
- 2005年は開幕から前年に引き続き今江敏晃、西岡剛が台頭し、好スタートをきる。上位から下位までつながる打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。
- 2005年から導入されたセ・パ交流戦(インターリーグ)では初代チャンピオンとなる(毎日時代の初代日本一に続いて2つめの初代王者の称号となった)。
- この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic(奇跡無用)! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。
- 8月17日の西武ライオンズ戦に勝ち10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。
- 8月28日の対オリックス・バファローズ戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスが確定した。
- 9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。
- 10月22日からの日本シリーズでは阪神タイガースを4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。この優勝によって「優勝から最も遠ざかっていたチーム」の汚名を返上した(しかしシーズン1位の汚名はまだ返上していない)。
- 11月10日から東京ドームで行われた初めてのアジアシリーズに出場。初戦で李の古巣である三星ライオンズ(韓国代表)を6-2で下すと翌日は興農ブルズ(台湾代表)に12-1の7回コールド勝ちを収め、ロッテOBのジム・ラフィーバー率いる中国棒球協会選抜チーム(通称チャイナスターズ、中国代表)との対戦を待たずに決勝進出を決めた。チャイナスターズ戦は3-1で勝利し、決勝では三星を5-3で下して勝利、1・2軍合計で年間6冠の完全優勝を達成した。
- このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代の日本シリーズ・セパ交流戦・アジアシリーズと3つの初代王者の称号を手に入れた事になる。
- また11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。
- 2006年
- 2007年
- 3月24日の開幕戦(千葉マリンの日本ハム戦)が降雨コールドで引き分けに終わり、パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事となる。翌日も延長12回で引き分け。開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。
- 投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により、事実上YFKは崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦が、シーズン終盤にクローザーに回り、2年目の川崎雄介とルーキーの荻野忠寛がしっかり穴を埋め、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が2ケタ勝利の記録が途切れるなどの不振で大きく期待を裏切るも、渡辺俊介が不振から脱却し、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。
- 一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、最終的には1位の日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。
- クライマックスシリーズ1stステージでは福岡ソフトバンクホークスを2勝1敗で下したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退し、2年ぶりの日本シリーズ出場を逃した。
チーム成績・記録
1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本一を示す。
- リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)※
- 日本一 3回(1950年、1974年、2005年)
- アジアシリーズ優勝 1回(2005年)
- インターリーグ優勝 2回(2005年、2006年)
- 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)
- 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)
- Aクラス 24回(1950年~1952年、1954年~1957年、1959年、1960年、1968年~1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年)
- Bクラス 35回(1953年、1958年、1961年~1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年~1994年、1996年~2004年、2006年、2008年)
- 最多勝 85勝(1955年)
- 最多敗 85敗(1963年)
- 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)
- 最高勝率 .704(1950年)
- 最低勝率 .361(1983年)
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝。また、2005年はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで西武、ソフトバンクと連破して優勝となっているため、12球団で最もリーグ1位から遠ざかっている(かつての横浜ベイスターズ(大洋ホエールズ)の38年に次ぐ歴代2位)。
その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
- 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
- 最多本塁打 193本(1971年)
- 最小本塁打 56本(1953年)
- 最高打率 .287(1985年)
- 最低打率 .232(1965年)
- 最高防御率 2.40(1956年)
- 最低防御率 5.12(1983年)
- 最多連勝 18(1960年)
- 最多連敗 18(1998年)
チームの特徴
- 1983年まで、前身を含めて当時の12球団では唯一、年間最下位がなかった。前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、年間通算での最下位は1983年が史上初である。ただし、それ以降は低迷が続き、1988年から1998年までの11年間で6度も最下位に甘んじている。
- チームの生え抜き選手が監督に昇格する巨人や阪神、広島などと比べ外様監督が多いことでも知られている。このため、生え抜き監督は西本幸雄・戸倉勝城・山内一弘・有藤道世・八木沢荘六の5人しかいない。但しコーチはオリオンズ・マリーンズOBが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本(厳密に言えば、山本は巨人出身であるため生え抜きではない)も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。
東京・仙台・川崎時代
- 以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星は毎日新聞社の社章に因んでいることからつけられた。
- 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
- 旧球団歌は「わがオリオンズ(毎日球団の歌)」。これはマリーンズに名称が変更されるまで、オリオンズの歌であった。他に「ビバ!オリオンズ(作詞・作曲:郷伍郎、編曲:小六禮次郎)」や「われらロッテ親衛隊」などがあった。また最近になってオリオンズ時代の球団旗をモノトーン調にし、ロゴを「LOTTE Marines」にしたユニークな応援旗も確認されている。
千葉時代
- 1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被る為に、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、コラムニスト・綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連は無い。なお公募の際「オリオンズ」票が多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
- 選手の補強には比較的消極的ではあるが、球団は生え抜き球団をかなり意識しているためであり、スカウトの行動範囲が広く、中学野球に足を運びスカウト活動をすることもある。
- 交流戦は2005年、2006年と2年連続優勝。セントラル・リーグの各球団が千葉マリンスタジアムの特色である強風に不慣れである等の要因が大きいとは言え、セ・リーグに対し強い得意意識を持っており、特に2005年から2007年にかけては、読売ジャイアンツに対して13勝3敗と完全にカモにしていた(2006年は6戦全勝、しかし2008年は4戦全敗)。交流戦はマリーンズ上昇のきっかけになっているが2006年度は一度は浮上したもののその後失速、低迷した。
マスコット
- 初代マスコットは東京オリオンズ時代の桃太郎である。
- 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。
- 3代目マスコットはピンクのユニフォームのころのカモメのマスコット(名称不明)である。現在のマーくんとは容姿が異なる。
- 現在のマスコットであるマーくんは4代目。
- 球団マスコットはカモメがモチーフ(その姿からアヒルに間違えられる事もあるという)。マーくん(5歳)、リーンちゃん(4歳・マーくんの彼女)、ズーくん(3歳・マーくんの弟)の3人。いずれも背番号なし。マーくんはユニフォーム姿、リーンちゃんはポニーテールでピンクのサンバイザーに白のトレーナー若しくはピンク系のスタジャン・白またはピンクのプリーツミニスカ姿、ズーくんは前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーとハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。マーくんは2008年1月の年始イベント「初投げ・初売り」で、鏡割りをした樽の清酒を、未成年でありながら成年のファンと一緒に飲むという荒業を披露している。全員がチーム・マイナス6%メンバー(744号・745号・746号)。
- 2005年8月3日、イワトビペンギンをモチーフにビン底メガネをした謎の新マスコットが突然デビュー。8月24日にこのマスコットの名前が「クール」と正式発表された(ペンギンであることからロッテのガム「クールミントガム」が名前の由来と思われる。前述のマスコットと同様、背番号なし)。クールは「1992年にマリーンズの前身ロッテオリオンズのマスコットになるべく川崎球場にやってきたものの、当時すでにチームは千葉に移転しており、その夢は叶わなかった(通常背中に「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたオリオンズ時代のユニフォームを着用しているのはそのため)。そのことを知るべくもない彼はチームを探して日本や世界中をあちこち探し回っていたが、14年目の2005年にようやくロッテオリオンズが千葉ロッテマリーンズと名前を変えていることを知り、千葉へ行った。しかしチームには前述のカモメをモチーフとしたマスコットがいるため、彼はビジターチームのファンを盛り上げることでスタジアム全体を盛り上げる役目を担うことになった」という設定。試合中は相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、ビジターファンからは今一つ受け入れられなかったようで登場からわずか1ヶ月でテコ入れ。メガネからサングラスに変更し、悪のマスコットとして正マスコットの座を奪い取ろうとするポジションに落ち着いた。2007年4月にはメインキャラクターを差し置いてテーマ曲『COOLだぜ!』(作詞・作曲・演奏 伝承歌劇団-エウロパの軌跡-)まで作られている。チーム・マイナス6%メンバーでもあり(546号。マーくん・リーンちゃん・ズーくんより古株)、背中にはチーム名と「環境戦士COOL」のネーム。運転免許(普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。
- イベント限定で、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
営業・ファンサービス
2003年より元福岡ダイエーホークス球団代表・瀬戸山隆三が球団代表に就任すると、積極的なファンサービスに尽力するようになる。特に千葉マリンスタジアムの球場内は千葉市、駐車場などの球場外の敷地は千葉県の管理となっている為(スタジアムのある区域は県立幕張海浜公園の一部である)、当時は売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態であった。これを県・市の協力を得て改善し、スタジアム敷地内に売店・屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドを設けるなどしており、セ・パ交流戦の際これを見た阪神タイガース前オーナー・久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また京葉線の最寄り駅である海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。現在のマリーンズの営業力向上に貢献したのは瀬戸山を中心としたフロントの努力も大きく、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」という声も多い。
ファンサービスに積極的になったのは、2004年に勃発したプロ野球再編問題による副産物ともいえる。オリックスと近鉄が合併するのに伴い、球団数が奇数になることからもう1球団を削減する構想が浮上し、千葉ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰されたのが一つのきっかけだった。かつて川崎球場で施設難に苛まされていたロッテを誘致した千葉市だが、移転後はロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などもあいまって、球団側と行政側との間には溝が生じていた。故に施設の改修・増設にはあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。しかし先の再編問題でロッテが千葉を去る可能性が生じたのをきっかけに行政側に危機感が生まれ、県・市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは球団を千葉マリンの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在は球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。なお、プロ野球チームが指定管理者になるのは千葉ロッテマリーンズが初となった。(他にオリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地・クリネックススタジアム(旧フルキャストスタジアム)も都市公園法に定める「管理許可制度」適用により各々の球団が球場を運営・管理している)
- 「花火ナイター」は毎年恒例となっており、夏休み期間中(7月下旬~8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後には花火の打ち上げが行われる。
- 2007年度は平日のナイターは18時15分開始、週末は準薄暮で18時からの開始となる。
- また、この時期になると京成グループ(京成電鉄・新京成電鉄・北総鉄道)の車両で「花火ナイター号」が運行される。
- 始球式を行う著名人は、以前は親会社のCMに出演しているタレントが多かったが、千葉に移ってからは地元ラジオ局、bayfmのパーソナリティも行うようになった。また、始球式はプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。
- 試合開始前には一塁ベンチ上でサイン会が行われ、先着順で参加できる。
- チア・パフォーマーチームM☆Splash!!がホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。
- 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたのが話題となったが、それに先駆け、マリーンズではファンを「一軍の25人に次ぐ26人目の支配下選手」として、背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれにならってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる以前から行っている。
- 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「Take Me Out to the Ball Game」が演奏されていた(現在は公式応援歌「