同性愛 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋同性愛(どうせいあい)とは、男性同士または女性同士の間での親愛や性愛、その性的指向を指す。 同性愛の性質を持っている人のことを同性愛者、英語でホモセクシュアル(homosexual)という。 常用的には、男性同性愛者をゲイ(Gay)、女性同性愛者をレズビアン(Lesbian)と呼ぶことが多い。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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同性愛に対して異性愛を「ヘテロ・セクシュアル」(heterosexual)、両性愛を「バイ・セクシュアル」(bisexual)という。また、性的対象を持たない無性愛は英語でasexualと表記し、代表的な辞書には「エイセクシュアル(アセクシュアル、ASEXUALの英語訛り)」という発音が掲載されているが、日本では「ア・セクシュアル」と言うことが少なくない。ここで重要なのは英語および欧米語ではHomosexualは性的指向に重点がおかれるが日本語では愛情感情に重点があることである。
ゲイという単語は、稀に男性だけでなく女性の同性愛者も含んだ「同性愛者一般」という意味で用いられることもあり、さらに性的少数者一般を「ゲイ」という言葉で代表させる用法があるが、今日では誤りとされる[疑問点 ]。性的少数者一般を指す単語としては、LGBT(I)が推奨されている(詳しくは下記用語参照)
ホモという略語は、とくに同性愛者でない異性愛者の間では頻繁に使われているが、一部の異性愛者同士が同性愛者を見下す際にも多く使用される。ホモという言葉に差別的ニュアンスが含まれるのはこのためである。(参考:ホモフォビア)
男性同性愛者のことを特にゲイと呼ぶ。広義には性別を問わず同性愛者全てを含むが、日本語社会では単にゲイという場合は、後述のレズビアンと区別し、男性同性愛者のみを指すことがほとんどである。ただし、アメリカ合衆国などの英語圏ではゲイが男性同性愛者を指す場合とレズビアンも含め全同性愛者をゲイと呼称する場合がある。
英単語の「gay」に由来する。この単語は「陽気な」「派手な」などの意味を持つ。この単語が同性愛者を意味するようになったのは少なくとも19世紀以降で、おそらく実際にはそれ以前からだと考えられている。ヴィクトリア朝のイギリスでは、売春婦・男娼が「gay」と呼ばれていた(これは彼らがgaily、つまり「派手に」「華やかに」着飾っていたからである)。それが語源となり、全ての男性の同性愛者を指して用いられるようになった。
女性同性愛者のことをレズビアンと呼ぶ。
日本では「レズ」という略語も用いられるが、歴史的に含まれてしまった侮蔑的ニュアンスを嫌い、意図的に「ビアン」と略す者もいる。男性同性愛者ほど顕在的なものではないにしろ、レズビアンに対する嫌悪感を抱く人も存在する。
語源はギリシアのレスボス島に因む。古代ギリシア時代にこの島に住んでいた詩人のサッポーが、少女の教育を担っていたと考えられる宗教的女性結社の指導者で、アプロディタ女神への讃歌や官能的な恋愛の詩を多数作り、古代において恋愛詩の閨秀詩人として著名だったためである。サッポー自身が女性同性愛者だったという明確な証拠はない。伝説では、サッポーは美青年への恋に失恋したため、崖より身を投げて自殺したともされ、またその作品からしても、同性愛だったかどうかは疑問が存在する。しかし後世、混同が起こり、女性同性愛は「サフィズム」とも呼ばれている。
雑誌やマンガ等における男性同性愛や、ポルノ雑誌の「レズもの」における女性同性愛者などに対しては、往々にして異性愛者のホモフォビアが反映しているという指摘や、娯楽的観点を重視しすぎており現実の同性愛者に対する誤解・偏見を招くという批判もある。また、男性ヌードの媒体が少ない日本においては、ゲイ産業にその捌け口を求める女性が少なからず存在することが、異性愛者と同性愛者とのトラブルの火種となっているとも考えられる。一方で、やおいに女性としての性愛への視点を見いだす女性同性愛者の存在や、これらの作品をきっかけとして同性愛運動に関心を抱くヘテロセクシャルの人も多く、単純に評価を下すことはできない。
「生育環境が同性愛感情を育む要因を持っており、よい出会いに恵まれたならば、異性愛感情を抱いた可能性がある人」を同性愛者と定義する考え方がある。言い換えるなら、「生物学的にどうしても異性愛感情を抱き得ないというわけではない人」である。
フロイトの考えによれば全ての人間はこの意味での同性愛者である。これは、彼が「先天的にはいかなる対象とも不可逆的に結びついているわけではない幼児性欲が、後天的にいかなる対象に結びつけられるか」が同性愛/異性愛を決定すると考えていたことによる。ただし、フロイト自身はこの意味で同性愛者という言葉を使ったことはない。
より穏当な意見の人々からも、同性愛に抑圧的でない文化においては同性愛感情を経験したことがある人が多く見られることから、この意味での同性愛者の割合は極めて高いと見積もられている。
ただし、この定義における「同性愛者(ホモセクシャル)」は「異性愛者(ヘテロセクシャル)」と背反な概念ではないため、その大部分は「両性愛者(バイセクシャル)」とみなすこともできる。「両性愛者」を除く狭い意味での「同性愛者」、すなわち「生物学的にどうしても同性以外に恋愛感情を抱き得ない人」はより少ない。厳密なパーセンテージについては諸説あるが、人口の10パーセントを超えるとする報告は最近では見られない。
同性愛感情を有している、もしくは有していた人のことを同性愛者と定義する考え方もある。
上で述べたようにこの定義における同性愛者の割合は文化依存性が高い[要出典]。 しかし、同性愛に抑圧的な文化においては、調査の回答者が同性愛感情の経験を隠そうとする可能性も高い。この意味での同性愛者の割合は実は安定しており、それを公にする人の割合が異なるだけではないかという指摘もある。
唯一確実だと見なされていることは、この定義のもとで、同性愛者が人口の100パーセントを占める文化や、0パーセントの文化は知られていないということである。
Wellingsが1994年のイギリスで行った調査によれば、この意味での同性愛者は人口の約6パーセントだった。両性愛者を除く狭い意味での同性愛者は男性の約1パーセント、女性の約0.5パーセントだった。
同性間の性行為、すなわち同性同士での性的な接触を取り上げて、その経験の有無によってHomosexualityを定義しようとする考え方もある。ただし、この場合日本語においては同性「愛」となっているので言語上の問題がある。また、異性愛者に関しては、性行為がなくても異性愛者と呼ぶことを(異性愛者とも呼ばないほど自然に)受け入れるのに対し、同性愛者を性行為の経験の有無によって定義するのは非対称であり、整合性はないといえ、同性愛をもっぱら性行為のみに限定しようとする多数派意識の反映という指摘もある。
この定義を、感情経験といった主観的なものに比べて科学的な優れた尺度であると考える人もいる。しかし、幾つかの点で問題もある。
そのため、同性愛の生物学的な側面を検討する上ではこの定義は役に立たないと考える人もいる。
また、同性愛感情が無くても同性間の性交行為をすることは可能であるので、このことが統計的なズレをもたらしている可能性もあると指摘される。単なる興味本位や、制度的な強制、売春、強姦、刑務所や寄宿舎などで異性と接する機会がない場合など、そのような事態は実際に知られている(参考:機会的同性愛)。
この定義における同性愛者の割合については様々な報告がある。
これは定義とは言いがたい物ではあるが、これは同性愛であるとする、ないとするで意見が分かれがちである。いわゆる同性の画像、映像に性欲を抱く人、同性の身体やその一部に性欲を抱く人のことである。
多くの場合、(同性に対して恋愛感情を持つ)同性愛者から見ると、「これは同性愛には含めない」と考える人が多く、(同性には一切性欲を感じない)異性愛者から見ると、「これは同性愛の一種である」と考える人が多い様だ。
英米の調査では人口の8%(12人に1人)の割合で同性愛者が存在しているという。性的少数者(性的マイノリティー)は、おおよそ概念上で少数者とされているものであり、実際はそれほど少数ではないと考えられる。 概念上マイノリティーとなる最大の理由は、多くの同性愛傾向を持つ人々が、その偏見から、社会的に及ぼす影響や自身が被る不利を考慮し、同性が好きであることは普通に言い出せる現状にはないと個人的レベルで判断した結果、隠すための努力をする、隠すために最善を尽くすことを選択するからである。 一般世間において異性愛規範や結婚規範が強いために、同性愛者でありながらそれを隠すために異性と交際したり、結婚をして子供をもうけたりしている者も決して少数派ではない(偽装結婚)。このケースでは配偶者も夫や妻が同性愛者であることに気づかないことが多い。
(これまでに存在した同性愛の歴史などについては下記項「#文化・宗教における同性愛の位置づけ」を参照)
同性愛をただその方向に習癖として流れたのだと考える向きは未だ根強いが、同性愛はそうあろうとしてあったり、認知するからあるものではなく、傾向として無意識的にあるものだということがわかっている。
同性愛傾向について『私にはそういう趣味はない』といったような言い回しをすることには大きな語弊がある。同性愛は性的指向であり、意志によって始めたり終わらせたりすることができるような類のものではまったくないからである。
しかし、こうした無意識の性傾向が、いつ頃からどのように形成されるのかについては、脳説(下記参照)、ホルモンシャワー説など諸説、多くの推測や研究があるものの、未だ断定に至るようなメカニズムはわかっていない。
現在、同性愛は国際医学会やWHO(世界保健機関)、日本精神神経医学会といった専門医による見解(下記項参照)によって、治療の対象外であり疾病ではないというのが有力となっている。
しかし、一部でこれを治療が極めて困難な精神的な病だと考えている人もいる。一部の心理学の分野では、男性同性愛者のケースにおいて、妊娠時における母親方のストレスや幼少期における長期にわたる父性方の愛情欠如、あるいは父性そのものの存在の無知、コミュニケーション不足、暴力、それらから受ける心的ショックなどによって同性愛になるという学説がある。この心理学における説(同性愛者が訴えた説ではない)は、男性同性愛者当事者においても、幼少期における経験談などから多くの一致を見ることができるとする当事者は少なくないという。
ただ、この心理学の説のように男性の愛情のない環境が原因で同性愛の傾向性が形成されていったと仮定しても、それは幼児が意識的に同性愛になることを選考するのでなく、可逆性の低い傾向性を環境によって無意識に備えたということでしかないため、性的指向という部分では変わりはないといえる。
同性愛に関し、多方面からさまざまな研究が成されている今日において、性的指向理論自体を合理的に覆すのは困難になっているのは現状としてあるといえる。
この説は、化学物質が開発されるずっと以前から同性愛が存在することに関しては何ら意味をもたないため、同性愛の存在そのものに関する根源的な原因説ではない。
環境ホルモン説は週刊誌やいわゆる実用書、また陰謀論的テクスト等によく登場する説であり、医学界・心理学界等の大勢の評価を得ている説ではないが、概ね19世紀以後に開発・使用された人工的な化学物質が人間および動物の同性愛化に影響を与えているという説である(現時点においては、少なくともいわゆる環境ホルモンの人体への影響は極小のものであると考えられており、この点に関して、本説は疑似科学に近い説であるという見解が有力である。環境ホルモンの項目参照)。
本説がもしも事実であれば、一般販売されている農薬汚染・肥料汚染された食品、化粧品や石鹸、ペンキ等の工業品などを通じて、同性愛傾向を備える可能性が高くなるということになるが、これには遺伝子の持つ免疫力の強さに応じて個人差が出るという。つまり、この裏づけには人の遺伝子の免疫力への影響度そのものの検証データが必要となってくる。しかし、現在までのところこうしたことに関する信頼性の高い確実なデータが提示されているわけではない。また現状として現代社会においても、それらの製品によって、何ら影響を受けた形跡のない異性愛者がほとんどであることからも、この説の信憑性は現段階でなかり低いものとなっている。
いずれにしても、化学物質と同性愛傾向に関するこうした説のソースのほとんどは週刊誌等であり、いわゆる科学的検証に耐えうる説であるというには程遠いのが現状である。
同性愛など人間の性的な傾向は、自律神経をつかさどる脳の機能に規定されている可能性が有力であり、さかんに研究がなされている。特に有名なものとしてはスウェーデンの研究がある。 [1] -->
現在、国際医学会やWHO(世界保健機関)、DSM-4などでは、同性愛は「異常」「倒錯」「精神疾患」とはみなさず、治療の対象から外されている。同性愛などの性的指向については発達障害などとは別のもので、矯正しようとするのは間違いとの見方が主流となっている。 一人一人の中で、「同性指向」と「異性指向」がある一定の割合で存在しているというのが人間という「種」の基本的性質であり、そのパーセンテージは自分の意志で簡単に変えたり選んだりできない可変性の低いものになっている。
また、日本精神神経医学会は、「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」という見解を宣言している。ただ同性愛そのものが病気でなくても同性愛が原因で思い悩めば精神の病気である。精神病院に一定期間通院して申請すれば実際精神障害者手帳も降りるし、障害基礎年金も降りる。
同性愛者は異性装をすると信じていたり、異性装者は同性愛者であると信じていたりする人がいる。
身体的に男性の性同一性障害者(MtF-GID)とゲイを混同していた場合、一定数のゲイが女装をしているように見えたり、身体的に女性の性同一性障害者(FtM-GID)がレズビアンの中にとけ込んでいることにより、レズビアンの服装傾向がより男性的に見えるという可能性がある。
しかし、実際には大部分の同性愛者は異性装をしない。性同一性障害者とは異なり彼らは心理的に身体と性認識が一致しているため、もともと異性の服を着る性的傾向にない。総体的に異性装が標準であるかのような感覚は、一部の者や限られた場所にしか通っておらず、まったく無関係の者が非常に多い。
ゲイ・タウンの文化の中には、ドラァグ・クイーンのように故意に奇異な女装をしてショーとして見せ、面白がるという習慣がある。無論、こうしたイベントやクラブを好まず、まったく出向かない男性同性愛者は多く、一部には、ゲイ・パレードの服装やパフォーマンスなどによるデモンストレーションのし方に対して批判的なゲイもいる。すなわち、極少数のゲイが見せ物として女装をするのである。そのほか、異性愛者好みのゲイが、パートナーとの違和感を和らげるために異性装をするケースがある。
男装をするレズビアンもまた、多いというわけではない。男性的な服装を好むレズビアンも一定数存在しているが、現在の日本の文化では、かなりボーイッシュな服装であっても女性の服装として通例になっているため、見えにくい。
当然ながら露出度の高低で性的指向は判断できない。
一部の男性同性愛者がゲイ・クラブ(ゲイ・タウン)やゲイ・パレードなどのイベント、及び限られた男性同性愛者専用の場所などにおいて、身体を露出させることでアピールを行うことがある。オーストラリアのマルディグラと呼ばれるゲイ・イベントでは、体を鍛えたり、夜のクラビングで体のラインを際立たせて見せるために小さめのシャツを着ることで、街中で自分の体のアピールを行う。しかし、一般公共の日常場面においても、常時、敢えてセックスアピールを欠かさずに露出度の高い服装をするという傾向は、最近の日本ではほとんど見られない。
一般的にイメージされがちな、お笑い芸人のレイザーラモンHGに見られるような感覚の服装ひとつを例にとっても、人によっては、これが「ゲイのステレオタイプ」ですらない。
同性愛者の服装には、異性愛者同様、極めて広い個人差があるというのが総体的な実際である。
ゲイならば必ずしも女性的というわけではない。大部分のゲイは見た目や立ち居振る舞いでは異性愛者の男性と区別がつかない。ある一個人を先入観なく見たとして、女性的と感じる例はそれほど多くはない。むしろ行動において男らしさを過剰なほど強調するゲイも少なくないし、外見においては異性愛者の男性よりもいかつい男性的な要素を強調するゲイが目立つ。短髪・髭・筋肉を強調して男臭く決めたゲイ男性のことをさして「いかにもホモらしい」という意味で、イカホモと呼ぶことがある。
しかし、内面的、文化的に男性的とされる性質がやや薄い傾向が全体的に見てあるという説がある。一部のゲイの間で使われる独特の、極端化され強調された女性言葉の存在がある。これが一般にもっともよく知られる俗にオネエ言葉と呼ばれるもので、「……だわ」「……よね」といった、現代日本にあってはむしろ女性は使うことが少ない極端な女性言葉である。当人が必ずしもそれを女性的な言葉と意識して使っているとは限らないが、端から見てゲイの女性性を裏付けるように見えるのは事実である。一部の当事者においては、女性性が強いゲイが、その指向を隠そうという意識が極度に薄く、オープンな場合、その女性性は周囲にかなりはっきり感じられるほど強く、もっといかにもわかりやすいものになるはずであるとしている。無論、必ずしもすべてのゲイに顕著ではないオネエ言葉であるが、わかりやすくインパクトも強いためか、メディアなどを通じ一般にゲイのプロトタイプ的な傾向として認知されてしまっている。
オネエ言葉ほどではないものの、語尾やイントネーションの女性性、また、話し方だけではなく、何気ない仕草や日常動作の体の動き方などの女性性などもゲイに多い特徴として挙げられる。異性愛者の男性においても、男性語を使わない優しい口調で物腰が柔らかく、温厚で低姿勢な態度をとる人々は少なからず存在するが、先にも述べた、オネエ言葉のプロトタイプ的傾向認知同様、女性性がゲイに顕著な特徴であるという感覚が一般にあるために、行動に女性性が漂うこと、あるいは男性性が希薄なだけでゲイである可能性を疑われる事態が発生する場合がある。
大部分のゲイは、ゲイに対する社会の差別意識が根強いため、自分が同性愛者であることを公に知られることを恐れている。不当な差別から身を守るために自分の女性性は見せないようにすることが多い。そう考えた場合に男らしさを過剰なほど強調するのもこうした差別への防御反応であるという見方もできる。ただ実際に無意識的に女性性が薄いゲイも割合存在しているため一概にはまとめることはできない。主にオネエ言葉を使い、仕草が女性的なゲイがゲイとして一般社会に認知されやすい傾向にある中、同性愛のこうした繊細さには、しばしば同性愛者同士でさえ盲目になってしまうことさえあるほどである。
このようにゲイは男らしさから女らしさまでをさまざまな割合と形で内包しており、その幅広さはポジションによってはマイノリティー(性的少数者)の中のマイノリティーといったところに位置してしまうこともある。しかしどんな当事者にとっても自分本来の恋愛観や性に対する傾向は意識的には周りと違うと判ってはいても、異性愛者にとっての通念と同じく無意識なものであることには変わりはない。
レズビアンに関してもほぼ同様である。しかし服装に関して言えば、女性の場合は社会的に許容される服装の幅が比較的広いため、伝統的な基準では相当に"ボーイッシュ"な服装でも男装とは見なされないので、男性の場合とは少々事情が異なる。
行動に関しても、異性愛女性の中に男性的な振る舞いをすることを好む者が存在するのと同様に、男性的なレズビアンは一定数存在すると見ることもできる。
「異性装」ではないにしても「ボーイッシュ」という程度の男性的な服装が女性全体に比べて有意に多いと言う指摘もある。しかしレズビアンの中にはFTMの性同一性障害者が紛れ込んでいる(ゲイとMTFは比較的はっきりと区分されている)ため、「レズビアンは男性的傾向の強い人が多い」という印象が増幅されている可能性がある。
特にレズビアンに対し、男性恐怖症ではないかという誤解が見受けられる。この誤解にもとづいて、男性恐怖症が治れば男性と付き合えるという「助言」をする異性愛者もいる。実際には男性の友人を持っているレズビアンは少なくないのであり、男性嫌悪を抱き女性のみのつきあいを望むレズビアン(セパレイティストと呼ばれる)はかなり限られた存在である。また、過去に男性との交際も経験し、しっくりこなかったなどの理由で自分がレズビアンであるという自覚を持った人も多い。
女性恐怖症のゲイもまた、多いというわけではない(逆にゲイであれば女性と良い友だちになれると思い込むのも早計である)。『ゲイ 新しき隣人たち』(モートン・ハント著、窪田高明訳、河出書房新社)では、男性同性愛者の場合、約半数はいずれかの時点で女性との性交を経験しており、女性に関心も性的感情もまったく抱いたことのない男性のゲイは、全体の四分の一にすぎないとしている。
一般的な異性愛の「男役」「女役」の性役割の概念を同性愛者に適用していうならば、そのような状態に近いカップルとそうでないカップルが存在するということになる。しかし、基本的に同性愛者が恋愛対象として惹かれるのは同性であり、同性として惹かれるポイントがなければ成り立たないということである。また、必ずしも同性である相手に異性的なものを見出して惹かれ合っているとは限らない。 同性愛カップルに男役と女役を見出そうという視点は、「恋愛に於いては両人の間に異性性が横たわっている」という異性愛者の一般的な概念上の視点で同性愛カップル両人の差異を咀嚼した結果、概ね「一方が男性として、他方が女性として振る舞っている」と判断するものであると考えられる。実際には、一般的な男女の概念を同性愛者に完全に当て嵌めるこは難しい。
人は文化的、内面的の両方で男性的な部分と女性的な部分とを複雑な割合で内包している。同性愛カップルにおいて、両人に内包されるこうした男性的な部分の度合い・女性的な部分の度合いが完全に一致するということは当然のことながら希である。一方が相手に比べてやや男性的で、相手がやや女性的であるというような、異性関係的なものがあるカップルから、ほとんどそうしたものがない友情の延長上にあるような、兄弟のようなカップルまであり、そのバランスは人によりさまざまである。
セックスの際に、「男役」と「女役」に近い概念があるが、これもおおよそ性別的な概念というよりも、「リードする側」と「される側」というものに過ぎないと考えるのが妥当である。一般に前者は タチ(または セメ)、後者は ネコ(または ウケ)と呼ばれ、どちらも可という者は リバ と呼ばれる。こうした役割概念は人によっては、あまりはっきり持っていない者もおり、また相手や気分によって役割が頻繁に入れ替わるという者も少なくない。当然ながら、こうした「行為」の役割は、外見上のイメージ(見た目の男性性・女性性)及び、精神的な役割などと必ずしも一致するというものではない。
ところで、男性同性愛者はセックスの際、アナルセックス(肛門性交)を行うというイメージが一般的にあるようであるが、すべての男性同性愛者がアナルセックスをするわけではない。一部の当事者においては、アナルセックスに嫌悪感などがあったり、まったく興味を示さず、しないという男性同性愛者は少なくない、としている。
人間以外の生物においても同性愛と解釈できる行動は決して珍しいものではなく、オス同士で互いに精子をかけ合うクジラをはじめ、猿や昆虫の間で見られた等多数の例が報告されている。2006年にノルウェーのオスロ自然史博物館では、世界で初めて「生物の同性愛」をテーマとした展示会が開催された。同性愛的行動が確認された動物は1500種以上であり、そのうち500種の同性愛が立証されている。
くわしくは動物の同性愛
同性愛に対する文化・宗教の態度は様々である。文化・宗教で同性愛に言及する場合、そのほとんどは男性同性愛への言及であり、女性同性愛についての記述は非常に限られている。同性愛を公認したり、寛容な文化であっても、生殖により子供が作れるわけではないことなどから、同性愛が異性愛と同等に位置づけられないことが多い。
同性愛に対する宗教上の解釈も人や宗派によりさまざまであるが、同性愛を禁じない仏教に比べ、概ね欧米の伝統的な文化では同性愛は否定的に評価されている。同性愛を表向き禁止している文化・宗教は幾つか存在し、例えば、アブラハムの宗教の中の少なからぬ宗派は同性愛を禁じている。欧米の否定的評価は、この宗教的倫理によるものである。
キリスト教の中でも比較的保守的な宗派においては、『レビ記』で不倫や刺青を入れること、豚肉を食べること等と並んで男性間の性行為を死刑と定めている(20章13節)ことなどを根拠に同性愛を禁じている場合が多い。そのためヨーロッパでは中世・近世を経て近代に至るまで、同性愛者に対する厳しい迫害が行われ、多数の者が処刑された。現代では、同性愛は異性愛と同様に神の意思に従った自然な存在であると考える進歩的な宗派もある。同性間の性的行為についても、容認している教派と許されないとする教派に分かれる。
また、イスラム教も教義上は同性愛については否定的な見解を示している信者が少なくない。クルアーンの7章80節~81節と26章162節~166節には、預言者ルート(聖書ではロト)が男性に性欲を抱く人々を非難する記述がある。これを受けてイスラーム教国では同性愛が犯罪として処罰の対象となり、現在でもサウジアラビアやイランのように同性愛者を死刑に処する国や地域も存在する。その一方、前近代イスラームにおいて同性間性行為が許容された地域があり、同性間性行為を謡った詩なども多く詠まれている。現代では同性愛差別に反対しているムスリムも存在する。
一方、仏教においては、源信著『往生要集』に同性愛者が落ちる地獄についての記述があるのを除けば、ほとんどの宗派が同性愛を禁じていない。
無論、今日の日本で、一般に向けて強制的に行使すれば、人権侵害やテロ行為等の犯罪となるような宗教上の禁止事項に実質的な意味はまったくないが、禁止や罪となる理由が「聖典に書かれているから」といったものである以上、これにより聖典の信頼性が問われることはやむを得ないところがある。現時点では、聖典の作成者、及び作成経緯などを含め、その成立については、各宗派の信者からの推定のみに留まっており、諸説に実証があるというわけではない。すなわち、「神」が判断したのではなく、「神」の判断と思い込んだ考え方の異なる複数の人間の判断である可能性が聖典には常に横たわっている。「神」と呼ばれる存在の解釈ひとつをとっても、あらゆる宗派や教義によって多少、もしくは大きく異なっており、一貫しているわけではない。(参考:宗教戦争)
歴史的には、中世から近世初期にかけての日本の武士や、古代ギリシア・古代ローマのように、男性間の同性愛行為が制度化されていたり、公然と行われた文化も存在する。
古代ギリシアでは、制度化されていた少年愛を同性愛として含めると、同性愛は単なる恋愛・性愛のバリエーションの一つだったともいえる。異性愛との区別自体が無く、同性と肉体関係を持っても同性愛者という概念自体が存在しなかったという。当時のギリシアにおける自由民成人男性の性対象は女性、少年、奴隷、外国人のうちどれを選んでもよく、むしろ生涯で片方の性にしか性欲が湧かないことは通常ではないとされていたという。但し、制度少年愛における同性愛的関係は、概ね成人男性と思春期前後の少年のあいだで結ばれるもので、成熟した男性同士の関係は必ずしも多数派ではなかったことから、これらが集団の結束を強固にする目的があったり、何らかの意味で現代的な同性愛とは異なるものだと指摘する見方もある。その一方では、アレクサンドロス大王やローマのユリウス・カエサルなどは最愛の相手は男性であり、女性との結婚は政略的なものだったという史録もある。
ニューギニアではサンビアなどメラネシアの幾つかの社会で通過儀礼の一環として男性同士のフェラチオや肛交が定められているという。但し、これは同性どうしの行為という意味では一般的であるが、これが社会的な義務観念であることから、「性愛」ないし「愛情」をともなう同性愛の行為であるとは必ずしもいえない。
日本においても、場所や状況によっては同性愛が公然と行われた。古くから寺院においては、女人禁制の掟があり、女性と性交渉をすることは禁じられていたが、同性間での性交渉を禁じる掟というものはなく、同性を性的対象と見なすことには隔たりがなかったという。
平安時代末期には貴族や武士の間にも男色が広がり、中世の武家社会では主従関係の価値観と重ね合わせられ、衆道が大いに流行した。戦国時代の武家社会では、織田信長をはじめとして名だたる武将の多くが寵愛する小姓を男色相手にしていたという。同性を性的対象と見なさなかった豊臣秀吉は、むしろ例外的な存在だったと言われている。秀吉が農民出身のため武家社会における男色の風習になじめなかったこともその一因として考えられるが、庶民や農民階層においても、男色行為は行われていた。[2]男色は江戸時代に入っても町人の間で流行するが、江戸時代中期以降薩摩藩など一部を除いて下火になっていった。
肛門性交を違法化する「ソドミー法」のようなものを掲げる国や地域も存在する。
日本では、1872(明治5)年に発令された「鶏姦律条例」および1873(明治6)年に発令された「改定律例」では男性同士の肛門性交(鶏姦)が犯罪とされた(後者の第266条では懲役刑)。しかし、1880(明治13)年に発令された刑法ではこのような規定がなくなった。現代日本においては、少なくとも法の上では同性愛は犯罪とは定義されていない。 [3] 日本法令索引 明治前期編
日本において同性愛に関する判例として東京都青年の家事件がある。
この事件では、同性愛者の権利を擁護する団体の公共施設の利用を「同性愛者同士による性的行為」ないし「青少年の健全な育成に悪い影響を与える」として拒否した事に対する民事訴訟事件だったが、1審の東京地方裁判所(1994年3月30日判決)は東京都の処分は不当なものだったと認め、「同性愛は異常性欲の1つではなく異性愛と同様に人間の性的指向の一つである」として、東京都の処分は社会の偏見によるもので、地方自治法が禁じる正当な理由無く不当な差別的扱中による違法行為とした。
控訴審の東京高裁(1997年9月16日判決)は「一般国民はともかくとして、都教育委員会を含む行政当局としては、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益を十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心だったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。」として、行政側の処分は同性愛者という社会的地位に対し怠慢による無理解から、不合理な差別的取り扱いをしており違憲違法だったとして東京都の敗訴が確定した。そのため、日本の裁判所は同性愛は人間の持つ性的指向であり、異常なものではないとの司法判断を示しているといえる。
1989年のアメリカ保健社会福祉省調査によれば思春期の自殺者のうち約30%が同性愛者を含めたセクシャルマイノリティである。また、ロンドン大学の調査ではイギリスの同性愛者・両性愛者の3人に2人がうつ病や他の精神疾患を抱えやすいという結果が出ている。日本でも、同性愛者の約6割が自殺を考えたことがあるという研究結果[要出典]があり、同性愛者の置かれた社会状況が同性愛者の精神状況に影響を与えているものと思われる。
古来から、通過儀礼として社会的に同性愛が認められている場合を除き、自己が同性愛者であると公に明かす行為には、ためらう人が多い。ゆえに、同性愛者同士のコミュニケーションは時・場所が異性愛者同士のそれと比べて少なく、ウェブサイトの掲示板や、同性愛者を客層とするバーなど狭い範囲に限られている。 近年では、自己に誇りを持とうとするための運動として、ゲイ・パレードのようなイベントや、インターネット上でのコミュニケーションや、同性愛者への差別意識(参考:ホモフォビア)撤廃などを訴える運動が行われている。
関連事項:ゲイ用語、レズビアン用語、 ゲイ雑誌、ゲイ・タウン、ゲイ向けゲーム、男性向けホストクラブ、発展場、 ホワイトリボンキャンペーン、 東京都青年の家事件
この中には実際に同性愛・両性愛者である事を公表している者の他に、テレビの世界だけで実際は異性愛者と見なされている者も含まれる。またステレオタイプな同性愛者のイメージを過剰に演出したようなキャラクターが強調されがちである。なお、ハードゲイなる言葉がゲイ用語として日本のゲイコミュニティの中で認知されているわけではない。