吾妻鏡 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋『吾妻鏡』(あずまかがみ、あづまかがみ。東鑑。)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を中心に、編年体により記す。成立時期は、鎌倉時代末期の13世紀末から14世紀初頭、およそ西暦1300年頃と推定される。編纂者は不明ながら、幕府中枢の複数の者であることは確実と見られている。全52巻(ただし、第45巻を欠く。)の写本が残る。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 吾妻鏡 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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『吾妻鏡』は、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)まで、87年間を描く。本書の記述は、1180年(治承4年)4月、以仁王によって出された東国の武士に挙兵を促す令旨(りょうじ)が、源頼朝のいる伊豆の北条館に届くところから始まり、1266年(文永3年)7月20日に、鎌倉を追われた第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を退位するところで終わる。その間には、治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱を経て、北条泰時の執権政治の始まり、更に13世紀半ば、1246年(寛元4年)の宮騒動と翌年の宝治合戦を乗り切った北条時頼による得宗家幕府単独支配の達成がある。こうした武家政権や社会の動きを、将軍の年代記として日記形式をとり、吾妻鏡体とも称される変体漢文で記述されている。収録範囲としては、当初から宗尊親王の将軍退位までで終わる予定であったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のまま中断との説が有力である。
初代将軍・源頼朝から第3代将軍・源実朝までの源氏三代の記述については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもあり、北条得宗家についてはその活躍や善政が高らかに強調される。この傾向は、特に北条泰時に関する記述に著しい。
本書編纂に際して参照するために収集された文献は、本書が編纂された鎌倉時代後期の西暦1300年頃に残る広範囲の文書類と見られる。その中心となるのは、大江氏、三善氏、二階堂氏ら、鎌倉幕府を支えてきた文筆の家(鎌倉幕府のテクノクラート)に残る幕府の記録、歴代文筆官僚の筆録、日記を中心に、北条諸家、縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。このため、かなりの範囲で、鎌倉時代後期における認識が混ざっていると考えた方が無難であり、また一部には、明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もある。特に、前半の源氏三代記については、『愚管抄』や『玉葉』など、同時代の公家の日記と突き合わせながら、慎重に研究に用いられる。
本書の写本のうち、最も有名な「北条本」の目録では巻数は全52巻であり、第24巻までが源氏三代で、そのうち15巻が頼朝将軍記である。源氏三代記以降の主人公は、北条得宗家である。ただし第45巻は欠落し、それ以外にも巻数すらふられずに年単位で欠けている部分が計12年もあり、そのうち連続する3年は「吉川(きっかわ)本」や「島津本」などの写本には存在している。したがって、全52巻とは元々の巻数ではない。
「北条本」の目録は、ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られるが、その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるのみであったと推測されている。それを複数の者が別々に収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。 編纂当時の本書名は不明であるが、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。
分量の面からいえば、六国史最大の『日本三代実録』の約2倍におよぶ。
近代の『吾妻鏡』研究の出発は、星野恒が1889年(明治22年)の『史学雑誌』 創刊号に発表した『吾妻鏡考』からである。星野恒が『吾妻鏡』を取り上げたのはそれまで支配的だった『平家物語』などをベースとした歴史観に対する反証としてだったが[1]、しかし、その考察態度は、逆に『吾妻鏡』の記述に対しては無批判に信用するかの傾向が見られた[2]。それに対し、9年後の1898年(明治31年)に原勝郎が「史学雑誌」第9編第5,6号に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を発表し、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調して、安易に盲信することへの警鐘を鳴らす。
その後、大正時代に入って、当時の帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)の二人の研究者、和田英松と八代国治が、それまでは知られていなかった「吉川本」その他の諸本を紹介しながら、原勝郎の問題提起をさらに推し進め、『吾妻鏡』が当初思われていたような同時代の記録ではなく、鎌倉幕府の政所や問注所に残る記録のみならず、京の公家の日記類まで参照しながら後世に編纂されたものであり、またそのなかには多くの誤りや曲筆が含まれることを明らかにする。八代国治が1913年(大正2年)に著した『吾妻鏡の研究』は、以降の研究のベースとなった。
戦後の1960年代以降、それまで定説となっていた八代国治の成立2段階説に対して、笠松宏至、益田宗らの反論が起こった。益田宗や平田俊春は、『吾妻鏡』における『明月記』の利用のされ方や、『玉葉』と『吾妻鏡』との関係についての検証を進める。さらに1980年代以降、五味文彦がそれらの指摘を踏まえながら、『吾妻鏡』のベースとなった日記・筆録の推論を行うなど『吾妻鏡』原資料の追究を行った。同時に、現在に伝わる諸写本の研究も進んでいる。
明治時代の歴史学者星野恒は、『吾妻鏡』の記述のほとんどを日記(即時の記録)と解し、原勝郎はその説に異を唱えた。しかし、原も後半は日記だろうと推定した。この両者の見解に対して、1912年(大正元年)に和田英松は、『吾妻鏡古写本考』[3]の中で、その全てが後世の編纂であるとし、編纂の時期は北条政村・北条時宗が執権・連署の時代(13世紀後半)と推定した。
1913年(大正2年)、和田の同僚であった八代国治は、『吾妻鏡の研究』[4]において、将軍記の首書(袖書)にある以下の3点に注目する。
以上の各点から、『吾妻鏡』の編纂は、1290年(正応3年)から1304年(嘉元2年)の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが1290年(正応3年)以降であり、それ以前は1241年(仁治2年)以降1304年(嘉元2年)までのどこか、ということになる。
それに対して八代国治は、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とはその編纂態度に大きな隔たりがあるとして編纂二段階説を唱える。そして1205年(元久2年)6月22日条の記事の末尾に「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)」とあることに着目し「前三代将軍記は文永2年(1265年)3月28日から同10年(1273年)5月18日の間に於いて編纂したるものと考ふるは至當のことと信ず」[5]と述べる。それは北条政村が左京権大夫(左京兆はその唐名)であった期間である。そして後半の三代将軍記については、宗尊将軍記の袖書から1290年(正応3年)から1304年(嘉元2年)の間とした。
長らくそれが定説とされてきたが、1960年代以降、笠松宏至や益田宗が、八代国治の2段階説はそれを裏付ける積極的な証拠に乏しいとして、全てを1290年以降、1300年頃から1304年(嘉元2年)の間とした。その理由は以下の3点にまとめられる。
以上の点から八代国治の編纂2段階説は根拠を失い、1980年代以降、笠松宏至や益田宗の説が支持され、2000年(平成12年)の五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』においても、これを踏襲している。
『吾妻鏡』を読むとき、それが「日記」形式、つまりあたかも現在進行形のように書かれていることも手伝って、ついそれが真実と思ってしまうか、あるいは曲筆があっても編纂者は実は全てを知っていて、政治的思惑、配慮から筆を曲げたと思われがちである。しかし、鎌倉時代後期の編纂者が集めた原史料は、ある意味玉石混合で、リアルタイムな史料、原本そのものもあれば、何世代もの筆を経た鎌倉時代後期における認識や、先祖の遺徳顕彰の加わったもの、ほとんど物語の様な記述など、異質な史料を「日記」形式にまとめていったものと見られる。その中で、後世の編纂物や伝承から採ったと思われる実例を以下に見ていく。
治承・寿永の乱(源平合戦)については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分では、情報の正確さに、かなりの開きがある。特に、源義仲(木曽義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。
例えば、1181年(養和元年)8月13日条の記述に、木曽義仲追討の宣旨が出されたとある。『吾妻鏡』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも、このときに義仲追討の宣旨が出されたとの記述がある。しかし、宣旨が出されたとされる当時の公家の日記、例えば『玉葉』の1181年(養和元年)8月6日条や、『吉記』の同15日条、翌16日条などには、「信乃の国逆徒」(しなののくにぎゃくと)とはあっても木曽義仲の名はない。この段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であって木曽義仲ではない。京の公家の日記に初めて義仲の名が登場するのは、それから2年後の『玉葉』1183年(寿永2年)5月16日条が初見である。
『百錬抄』や『吾妻鏡』の編者には、後に木曽義仲が北陸道から京に攻め上ったという知見があることから、北陸での戦いは木曽義仲の進路を塞ぐためとの予断がある。義仲追討の宣旨は、その予断のため、編者に誤解が起きたのであろうと、上杉和彦は指摘している[10]。後世から見れば、平家に立ち向かったのは、源氏の源頼朝と木曽義仲との印象が強いが、実際には当時の平家支配に対して、九州、熊野、近江など、全国で各種勢力が蜂起しており、単純な「源氏対平家」ではなかった[11]。
頼朝は挙兵直後、石橋山の戦いに敗れて船で房総の安房に渡る。このとき頼朝の右筆・藤原邦通は、安房には渡っていない。北条時政も一旦は安房へ渡ったが、すぐに甲斐に向かい、頼朝に同行していない。この時期、つまり1180年(治承4年)8月29日条から同年10月6日条の鎌倉入りまでの出来事は、どこから伝えられたのか。もちろん三浦氏もその候補に上がるが、このとき大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた二人の有力御家人が居る。上総介広常と同族の千葉常胤である。
上総介広常は、後に頼朝の命により殺されたが、その理由も事件のあらましも『吾妻鏡』では明らかではない。おそらくは、編纂者も知らなかったのだろう[12]。ただし、上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれる。
その最たるものは、1180年(治承4年)9月19日条の、上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話である。『将門記』の古事をひきながら、広常は場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。広常が内心思ったことを、なぜ後世の編纂者が知り得たのだろうか。このとき上総介広常が率いてきた軍勢は、『吾妻鏡』によれば2万騎であるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には1千騎とあり、『吾妻鏡』が一番誇張が大きい。
一方、千葉常胤が『吾妻鏡』にどう描かれているかを見ると、1180年(治承4年)9月9日条で常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり」と感動して涙ぐむ。そして、頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用されるのも、このときの千葉常胤の献策である。しかし、千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手でないことは、『吾妻鏡』に書かれておらず、相馬御厨についての古文書で明らかにされている。
千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にいうような両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、彼らにとっては上総介となった平家の家人・藤原忠清や、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されている。それは、関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである[13]。
1192年(建久3年)8月5日条には、征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまでの頼朝の安堵状を回収して政所発給の下文を新たに与えようとしたところ、千葉常胤は「頗る確執」し「常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して、特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、千葉常胤を顕彰するその下文の文面が載せられている。『吾妻鏡』には記載はないが、小山朝政もまた特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったらしく、その実物が発見されている。そちらは極めて簡潔な安堵状らしいものであるに対して、千葉常胤への下文はその文言があまりにも異様である。これらの事情から、この記事は、千葉氏に伝わる先祖顕彰の家伝が『吾妻鏡』編纂に用いられたものと見られている。以上各点などを考え合わせて、この期間を詳細に伝えられる家である千葉氏が、先祖顕彰の家伝を資料として提出した可能性が高く、あるいはそれらを元に「頼朝挙兵記」のような形で原型が出来上がっていた可能性も指摘されている。
なお、千葉氏の他にこの間頼朝に同行していたのは三浦一族であり、後に一族が滅んだ宝治合戦で北条側に付いて生き残った佐原三浦氏の祖・佐原義連の顕彰記事も、上総介広常に絡んで1181年(治承5年)6月19日条などに見られる。
大江広元に関して、これまで最も注目されてきたのは、1185年(文治元年)11月12日条の、広元が「守護地頭」設置を献策したという下りである。かつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。
そして、同年11月28日条には、北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したとある。しかし、同じ事実を書き記した九条兼実の『玉葉』には、「守護地頭」とは書かれていない。『玉葉』は、「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと」と伝える。
1960年(昭和35年)に石母田正は、「鎌倉幕府一国地頭職の成立」[14]などでこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。そして、この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り[15]、この「守護地頭」設置の時期は「国地頭制」として守護制の前段階と解されるようになった。
北条時頼について八代国治が指摘するのは、1263年(弘長3年)11月22日条の卒去の記述である。時頼の「頌云」[16]の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。しかし、別人の遺曷を本人の遺曷として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである[17]。その例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺曷があり、そこでも妙堪の遺曷が使われている[18]。なお、蘭渓道隆が人の遺曷の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人による遺曷は別に存在する。
北条時頼の遺曷に戻れば、『吾妻鏡』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺曷として『吾妻鏡』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263年)から、吾妻鏡の編纂時期まで3~40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」[19]とする。
『吾妻鏡』の中では、人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は北条時政の後妻で悪名高き牧の方とされ、北条義時は1205年(元久2年)6月21日条で畠山重忠の謀殺に反対し、父時政に「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」と熱弁をふるう。これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。原勝郎はこれを評して「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし」[20]と述べている。
『吾妻鏡』の曲筆のもっとも甚だしいのが頼家将軍記である。源氏が三代で終わったのはこういう不肖の息子が居たからかだと誰しも思うが、それが真実の姿であった証拠は何もなく、逆に曲筆と疑われるものは無数にある。曲筆の確実な根拠は、源頼家の最期に関する事情である。頼家が将軍の座を降りたのは『吾妻鏡』によると1203年(建仁3年)9月2日の比企能員の変の直後、9月7日条での頼家出家であり、9月10日条で源実朝が将軍を継ぐことを決定したとある。そして、その頼家の死は翌年の7月19日条とある。
しかし、1203年(建仁3年)9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が、同年9月7日早朝に京の朝廷に到着し、実朝を次期征夷大将軍に任命するよう要請していることが、近衛家実の『猪隅関白記』、藤原定家の『明月記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などによって知られている。『吾妻鏡』によれば、頼家が存命どころか、まだ出家(引退)もしていないにもかかわらず、すでに死亡したと報告していたことになる。この当時の鎌倉と京は、普通の使者ならば2週間、至急の知らせでも約1週間かかり、早馬を乗り継いでも9月1日か2日に鎌倉を出発していなければならない。仮に9月2日に鎌倉を発ったとしても、比企能員の変は同日夕方近くに起きた事件であり、いずれにせよ、変事の前に使者は鎌倉を発っていたことになってしまう。したがって、この間の事情について、『吾妻鏡』の記述には曲筆があると断定できる。
1185年(文治元年)11月25日から翌1186年(文治2年)3月27日頃まで、北条時政は頼朝の代官として在京していた。この頃より1187年(文治3年)頃までは、京と鎌倉の間で緊迫した政治折衝が行われていた時期であり、『吾妻鏡』には院奏や院宣、頼朝から公卿への手紙などが多数掲載されている。
そうした院宣のひとつに、後白河法皇が北条時政を褒める一文が間に挟まっている。1186年(文治2年)5月13日条にある5月6日付けの院宣である。この時政顕彰の文を飛ばして読むと、非常に文意のはっきりした院宣らしい文章になり、龍福義友[21]は、これを「時政顕彰の為の捏造[22]」と推定する。また、それとも関連する1186年(文治2年)5月20日条にある頼朝の院奏の趣旨の前半は、『吾妻鏡』編纂者が想像で補ったものとされ、これには物的証拠がある。同年4月20日に頼朝が出した院奏の実物が、九条家の古文書の中から発見されているのである[23]。『吾妻鏡』の記述と院奏の実物の主題は同じであるものの、主張している内容は全く異なる。同年5月6日の院宣に出てくる「去月廿日の御消息」は編纂者の元にはなく、しかしそれに言及しなければ話はつながらないと想像で補った(偽造した)ものであろうと見られている。
この時期は鎌倉幕府の性格を決定する非常に重要な時期であり、『吾妻鏡』はその最も重要なまとまった史料であるが、そのなかには以上のような例も混在し、非常に注意深く読んでいかなければならない箇所とされる。
北条泰時の顕彰で象徴的なものが1200年(正治2年)4月8日条である。女院殿上人であった若狭前司保季(藤原保季)が、御家人の郎従(武士)の妻と白昼密通していたところへ、夫が六波羅から帰ってきた。怒ったその武士が太刀を取って保季を追い、斬り殺した。その武士を捕らえてあるが、どう裁いたらよいだろうと京の六波羅から鎌倉に早馬が来る。それに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。それも白昼路上で行うなどもってのほか。直ちに厳罰に処すべきである」と言ったとする。
事件そのものは、実は藤原定家の日記『明月記』同年3月29日条に書かれており、泰時が語ったという台詞は藤原定家の感想を写したものである。この他にも、北条泰時の顕彰記事は数限りなくある。
1241年(仁治2年)11月29日条と翌30日条にはこう書かれている。有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことからあわや一戦にという事件が起った。北条経時は、この事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと、配下の者を武装させて差し向けた。それに対して経時の弟の北条時頼は、酒の場での喧嘩だからと静観していた。
二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、兄の経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨(軽率)なり、暫く前に来るべからず」と怒った。一方、弟の時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒めて領地を与えたというのである。時頼が15歳のときである。兄の北条経時は、祖父泰時の後を継いで19歳で第4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、直後に死亡する。そして『吾妻鏡』は、そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだと言っている。
吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録 」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。ここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。
地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。しかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。1205年(元久2)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。それらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。有力御家人の伝承の項で触れた1192年(建久3)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。
次は公文書類である。それらは政所などの役所に保管されていたものもあろうが、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が、政所や問注所の執事の家に伝えられて『吾妻鏡』の編纂時に利用されたと思われる。 1232年(寛喜4)12月5日条に、北条泰時が「所処に散在」してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。頼朝将軍記に多数見られる朝廷からの院宣などもそこに含まれていたと思われる。 1185年(文治元年)12月6日条にある「院奏の折紙状」は『玉葉』が情報源とも見られていたが、平田俊春はこれを詳細に検討[24]して、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうと推定し、以降それが定説となっている。
大正時代初期の八代国治は、『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他京系の多く史料が原史料となっていることを見つける。そして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所計29ヶ所を具体的に紹介した。その内、藤原定家の『明月記』が史料として使われている部分が非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。それらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定した。
八代国治が指摘した文献との関係ついては、先に触れた通り『玉葉』については否定され、また五味文彦は『平家物語』や『承久記』、そして平田俊春が戦前に主張[25]した『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それらの元となった史料合戦記などを利用したのではないかとする。そうした修整はあるものの『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認され、後に佐藤進一は『飛鳥井教定記』も原史料のひとつに加えている[26]、五味文彦は『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性があるとする。
最後に1番重要な、ベースとなる原史料「幕府事務官僚の日記・筆録」を、各将軍記毎の特徴と合わせて見ていくと次のようになる。
ベースとなる原史料の種類・著者を推定することの最も困難な時期が、ちょうど源平合戦の時代、1180年から1184年頃である。この時期は非常に物語性が強く、読み物としても面白いが、それだけに原資料の姿が現れ難い部分である。この時代全般に渡って、いくつかの御家人の家に伝わる文書や家伝のようなもの、場合によっては「頼朝挙兵記」とでもいうような、既に出来上がっていた物語などが相当利用されていると推定されている。挙兵当時からの右筆として藤原邦通が知られるが、1184年頃から藤原俊兼、二階堂行政、大江広元、三善康信ら、朝廷に仕えていた中・下級実務官僚が相次いで鎌倉に下り、後に政所となる公文所や、問注所の担い手となる。その中で五味文彦は奥州合戦で軍奉行でもあった二階堂行政の筆録がベースと推定する。
二階堂行政の子で初めて政所執事となった二階堂行光の筆録をベースに、三善康信や、和田合戦で軍奉行であった二階堂行村の記録などにより補ったと思われる。ただし二階堂行光の筆録がベースであると言ってもかろうじて痕跡が確認出来るという範囲である。この頼家・実朝将軍記の時期は北条氏を正当化する曲筆が非常に多い。『明月記』が利用されているのもこの時代の部分である。
読み物としても面白かった源氏三代将軍記と比べてその文章は大きく異なり、儀式に関する記事、天変地異、祭礼・祈祷に関する記事が多くなる。八代国治はそれを評して「叙事は平凡にして、文章も流暢ならず、日記を読むが如く無味乾燥にして興味少なし」[27]という。
原勝郎は、建暦前後より延応の前後まで(1210 - 1240年前後)、俗にいう尼将軍の時代から将軍藤原頼経の代、執権は北条泰時の時代については、諸家の筆録をベースに一人が編纂したように見受けられ、また源氏三代将軍記に比べれば信用に足るとする。そして延応前後より終りまで、つまりほぼ藤原頼嗣将軍記以降は筆録そのままだろうと考えた。現在までの研究ではそれは否定されるが、しかし原史料が比較的生の形で残っているということは確かである。この時期のベースとなった筆録については、五味文彦は恩賞奉行(恩沢奉行)の中原師員と、同じく恩賞奉行で承久の乱の軍奉行であった後藤基綱のものが中心とする。
八代国治や原勝郎が指摘した文章・内容の「つまらなさ」が極まったのがこの時期である。しかし事実の記録としては逆に信頼度は高いといえる。五味文彦は、この部分は御所奉行の筆録が中心で、1263年(弘長3)7月5日までは二階堂行方、その後は御所奉行を引き継いだ中原師連の記録と推定している。
直接の編纂者について、八代国治は政所と問注所の執事である三善康信の子孫(大田、町野)、大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫達ではないかとした。
八代国治は『明月記』と『吾妻鏡』の突き合わせを行い、1211年(建暦元年)11月4日条が『明月記』同年10月23日条を若干縮めて書いたものであることを発見する。更に翌年の1212年(建暦2)7月8日条には「たまたま造営の事有り。すべからく上臈の上卿宰相弁これを奉るべきか」と『明月記』同年7月27日条の丸写しがある。それらに「善信申して云く」とあるのは三善康信のことである。八代国治はこの2件とも三善康信の評、または献策と偽装されており、そのことからも三善氏の子孫たる町野・大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかと推測した[28]。
また、三代将軍源実朝が河野通信に与えたとされる御教書の記事は、1297年(永仁5)の永仁の徳政令に関わる偽文書を元に書かれたものであることは先に触れたが、その 1205年(元久2)閏7月29日条にも「善信奉行す」とある。元となる偽文書が作成されてから編纂推定年代までは非常に短く、編纂者以外の創作が入り込む余地は無い為、三善氏の子孫が編纂者の一人として確実視される。
大江広元の筆録からと思われるものには、同じ文章を分割したと思われる1209年 (承元3)10月15日条と1214年(建保2)5月7日条があり、行政では1186年(文治2)10月3日条などがある。 顕彰した部分も確かに見られる。例えば大江広元では既に見てきた守護地頭の献策などである。ただし石母田正が指摘したように、編纂者の手による曲筆とは言い切れない。しかし大江氏については、これも先にも触れたとおり北条泰時が大江広元時代の記録を広元の孫の長井泰秀に送ったという記事があり、長井氏に伝えられたその記録が『吾妻鏡』編纂に利用されたことは確実と見られている。
二階堂行政の子孫については、その子二階堂行光の顕彰記事に1204年(元久元年)9月15日条があり、行光が白河院の古事を語り「相州殊に御感」という。そのとき行光が語った古事は『十訓抄』1の24話にあるものと同じであり、それを元にした後付の創作かもしれない。しかし六波羅探題の武士とも言われる『十訓抄』の編者同様に、行光もその古事を知っていたのかも知れず、断定は出来ない。 また『金槐和歌集』から収録したと思われるものに、1213年(建保元年)12月19日条から翌20日条にかけての二階堂行光と三代将軍源実朝の和歌のやりとりがあり、将軍実朝が「再三御感に及ぶ」という下りがある。しかし行光顕彰の意図は明らかとしても、事実と相違する曲筆という訳ではない。三善康信の場合と比べれば、非常におとなしいものである。しかし二階堂氏は『吾妻鏡』の記事のベースと想定される筆録の著者に多数現れることと合わせて考えると、確定は出来ないものの、その関与は濃厚と推測されている。
五味文彦は1989年に著した『吾妻鏡の方法』の章「吾妻鏡の構成と原史料」において、ベースとなる筆録に二階堂行政・二階堂行光、二階堂行村、後藤基綱、中原師員、二階堂行方、中原師連を推測した。そして2000年の『増補 吾妻鏡の方法』では次の2点のアプローチも加えた。
これに『吾妻鏡』の編纂推定年代を重ね合わせると太田時連がまず候補の筆頭として上がる。文筆の家ではもっとも露骨に顕彰されている三善康信の子孫で、1293年(永仁元年)から1321年(元亨元年)まで問注所執事であり、おそらくはその時期寄合衆でもあったろう。
次は二階堂行貞である。「ベースとなる筆録」に上がった二階堂行政、行光、そして出産記事に登場する行盛、行忠の系統・二階堂信濃家でこの時期に該当するのは行貞であり、行貞は1290年(正応3)の行忠の没後に22歳で政所執事に就任したが、3年後の平禅門の乱の直後に罷免され、ほぼ10年後の1302年(乾元元年)に政所執事に返り咲いている。寄合衆にも同時に就任したと見なされる。
大江氏では長井宗秀が該当し、1295年(永仁3)時点から寄合衆にその名が見える[30]。その3人が幕府の主要ポストに顔を揃えるのは行貞が政所執事に返り咲いた1302年である。
もちろん「ベースとなる筆録」には中原師員・中原師連親子が推測されており、その子孫でこの当時政権の中枢にいた摂津親致や、三善氏の矢野倫景、北条氏では金沢貞顕や北条時村の元から少なくとも史料提供は相当なされていると見られるが、編纂への関与の程度は不明である。
『吾妻鏡』編纂時期に鎌倉幕府の政策を決定していたのは寄合衆であるが、その構成を知る手がかりに、1295年の太田時連の記録『永仁三年記』、1309年(応長元年)の金沢文庫の古文書[31]などがある。これに1302年(乾元元年)当時の引付頭人などから主要要人を加えてみると、北条一門の北条師時、北条時村とその孫北条煕時、大仏宣時とその子大仏宗宣、金沢貞顕、普音寺基時らの先祖は、生誕記事や顕彰記事で『吾妻鏡』の中にきちんと位置づけられている。 例外は本来得宗家に次いで家格が高いはずの赤橋家であるが、しかし赤橋義宗は1277年(建治2)に没し、嫡男赤橋久時はそのときまだ5歳。『吾妻鏡』編纂の中心時期とみられる頃には赤橋家は寄合衆は務めていない。
実務官僚としては、1295年(永仁3)の寄合出席者[32] に大江氏の長井宗秀、二階堂行藤、三善氏の矢野倫景らが見えており、1302年(乾元元年)11月段階では二階堂行藤の後任として二階堂行貞が加わったと推定される。
1309年(応長元年)の寄合衆には、他に姻戚で安達時顕、得宗被官では長崎高綱、尾藤時綱らが見える。1302年(乾元元年)当時の幕府要人には得宗被官は現れないが、その裏で得宗家を支える存在であったろう。その長崎氏の祖平盛綱には顕彰記事があり、尾藤氏は北条泰時の代に最初の家令として記されている。つまり1302年前後の幕府・得宗家を支える主要メンバーの家の形成が『吾妻鏡』の中にきちんと織り込まれていることがわかる。
編纂年代と推定される1300年頃はいわゆる「得宗専制」の時代である。
北条得宗家の寄合衆を実態とする鎌倉幕府はこの時期、進むべき道が見出せなくなっていった[35]。と同時に平安時代の後期、院政期頃に形を成してきたいわゆる「イエ」の概念が、京の公家社会では家格の形成、家業・家職の固定化から、更には家芸の固定化にまで及んでいく[36]が、武家社会の側にもそちらに向かわざるを得ない要因を抱えていた。分割相続による御家人の零細化である。そうした状況からの保身が、嫡男による単独相続への傾斜として現れる。ある面では「家」「家督」の確立とも言える。 それらが相まって、得宗家の確立とそれを取り囲む北条庶流の家格の形成が、同時に