周恩来 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋周 恩来(しゅう おんらい、繁体字: 周恩來, 拼音: Zhōu Ēnlái、1898年3月5日-1976年1月8日)は、中華人民共和国の政治家。字は翔宇。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 周恩来 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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周恩來
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周恩来(右)と鄧穎超(左)
(1954年) |
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| 生年月日 | 1898年3月5日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1976年1月8日(満77歳没) |
| 死没地 | 北京 |
| 所属政党 | 中国共産党 |
| 配偶者 | 鄧穎超 |
| 就任日 | 1954年9月27日 |
| 退任日 | 1976年1月8日 |
| 退任理由 | 死去のため |
| 就任日 | 1946年10月1日 |
| 退任日 | 1954年9月27日 |
周 恩来(しゅう おんらい、繁体字: 周恩來, 拼音: Zhōu Ēnlái、1898年3月5日-1976年1月8日)は、中華人民共和国の政治家。字は翔宇。
建国から死去まで中華人民共和国の政務院総理、国務院総理(首相)として在職。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから“不倒翁”(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に田中角栄首相と日中共同声明に調印したことでも知られている。
目次 |
周恩来は清国の淮安(現在の江蘇省淮安)の官僚地主の家に生まれた。その後清国が滅び中華民国となった2年後の1914年、15歳のとき天津の南開中学校に入学し、3年前に孫文が起こした辛亥革命の息吹に触れる。
南海中学卒業後の1917年に、日本に留学。第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、明治大学政治経済科(旧政学部:現政治経済学部)に通学。父の死亡により一度中国に帰るが、再来日し、京都大学の聴講生となる。ここで酒びたりとなり、友人にたしなめられ帰国した。帰国後、南開大学文学部に入学するが、学生運動に熱中して一度も通学することなく中退。五・四運動に参加し、逮捕されている。
1920年パリに留学する。労働党の研究のためにイギリスに渡り[1]、エディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念し[2]フランスに戻る。その後中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。第一次国共合作が成立した1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人鄧穎超と結婚した。
1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。1931年、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では、自ら自己批判をし毛沢東に主導権を渡すのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。
| 中華人民共和国 |
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主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。
日中戦争(支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表として重慶に駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。日本が降伏した後はそのまま重慶に止まり、毛沢東と共に戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続けた。しかし、これは物別れに終わり、国共内戦が始まった。内戦に勝利した共産党は、1949年に中華人民共和国を建国した。
中華人民共和国の建国後、周恩来は政務院総理(内閣総理大臣に相当)に就任し、1976年に死去するまで27年間この地位にあった。
周恩来は1954年のジュネーヴ会議に中華人民共和国代表として出席し、インドシナ戦争休戦の実現に尽力し、その間にインドのネルー首相と会談して、平和共存・内政不干渉などの平和五原則を発表した。翌1955年にはインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも出席して、新生中国がアジア・アフリカの反植民地主義の立場にあることを世界に示した。
彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。また、その人柄からリチャード・ニクソンやヘンリー・キッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。
文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。文革の勃発時に共産党政治局常務委員(党の最高首脳)だった者の中で、最後まで一度も失脚しなかったのは毛沢東を除けば周恩来と陳雲、朱徳だけであった。但し、後の二人は実際は何の実権も無い名誉職であった。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵のスパイ」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。
その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。
しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。孫維世は毛沢東の妻江青の激しい憎悪の対象であり(江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからだと言われる)、その差し金によって逮捕された孫維世は獄中で拷問を受け、死亡した。その遺骸は全裸で、全身傷だらけだったと言う。しかし周恩来は養女である彼女のために何も出来なかった。この様な仕打ちを受けても毛沢東に協力し続けた彼を批判する声は多い。
転機となったのが1971年の林彪失脚(林彪事件)であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗。ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となって鄧小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。
更にその後、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。後に周恩来自身が侍医に「文革によって寿命が十年縮まった」と語ったと言う。
1972年、膀胱癌が発見され、1976年周恩来は北京の解放軍第三○一病院で死亡した[3]。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第1次天安門事件が起こった。また、その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には宋慶齢も参列した。
鄧小平は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったと言われるが、記者に対してはこう語っている。
「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」
周恩来が、日本留学時に京都の嵐山で失意のうちに作った「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑が、嵐山公園(亀山公園)内にあり、現在では日中友好のシンボル、中国人観光客の観光スポットとなっており、中国要人が関西を訪問した際も大抵ここを訪問する。碑文は廖承志中日友好協会会長が1978年に揮毫したものによる。
「人間・周恩来 紅朝宰相の真実」 金鐘編 松田州二訳 原書房
「周恩来秘録 党機密文書は語る」上下 高文謙 上村幸治訳 文芸春秋
「周恩来キッシンジャー機密会談録」 毛里和子・増田弘監訳 岩波書店
「周恩来伝 1949-1976」上下 金冲及主編 劉俊南・譚佐強訳 岩波書店
「周恩来と毛沢東 周恩来試論」 鳥居民 草思社 POD版
「周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23」矢吹晋編 鈴木博訳 小学館文庫
「周恩来・最後の十年 ある主治医の回想録」張佐良 早坂義征訳 日本経済新聞出版社
「長兄 周恩来の生涯」 ハン・スーイン 川口洋・川口美樹子訳 新潮社
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