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定額山善光寺 /
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| 善光寺 | |
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本堂(国宝) |
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| 所在地 | 長野県長野市元善町491 |
| 位置 | 北緯36度39分41.95秒 東経138度11分15.71秒 |
| 山号 | 定額山 |
| 宗派 | 無宗派 |
| 本尊 | 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏) |
| 創建年 | 伝・皇極天皇3年(644年) |
| 開基 | 皇極天皇(勅願) |
| 別称 | 信州善光寺、信濃善光寺 |
| 札所等 | 西国三十三箇所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所(各番外札所) |
| 文化財 | 本堂(国宝) 三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財) |
善光寺(ぜんこうじ)は長野県長野市大字長野に位置する無宗派の仏教寺院である。
目次 |
山号は定額山(じょうがくさん)。古えより、四門四額(しもんしがく)と称して、東門を定額山善光寺、南門を南命山(なんみょうさん)無量寿寺(むりょうじゅじ)、北門を北空山(ほくくうさん)雲上寺(うんじょうじ)、西門を不捨山(ふしゃさん)浄土寺(じょうどじ)とする。
天台宗と浄土宗の別格本山ともなっている(日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている)。
天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊により運営されている。大勧進の住職は「御貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が歴代住職を勤めている。大本願はこの手の大寺院には珍しい尼寺で、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職(大本願では「上人」という)を迎えている。現在は鷹司家出身の鷹司誓玉が121世法主となっている。
本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、絶対の秘仏であり、その姿は寺の住職ですら目にすることはできない。
本堂の中の「瑠璃壇」と呼ばれる部屋に、絶対秘仏の本尊が厨子に入れられ安置されている。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっている。朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができる。
善光寺本堂は1953年(昭和28年)3月、国宝に指定された。また、山門(三門)と経堂は重要文化財である。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている「瑠璃壇」という小部屋の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が体験できる(有料)。
長野は善光寺の門前町として発達した都市なので、古くから長野盆地を「善光寺平」と称していた。
また、日本百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、結願したら、長野の善光寺に参るといわれている。
江戸時代には「お伊勢参り」の帰りには「善光寺参り」を行う場合もあった[1] [2]。
善光寺の本尊である秘仏、「善光寺式阿弥陀三尊」は、欽明天皇の時代に百済の聖明王から献呈されたものとされ、紆余曲折を経て推古天皇の命により本田(本多)善光の手で初め飯田市に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。「善光寺」の名はこの本田善光の名から付けられたと伝えられ、また初めに遷座したとされる場所には元善光寺が現在も残っている。善光寺のある地域は5世紀頃から百済や高句麗出身の人たちが移住した地域としても知られ、「善光寺」の名については百済最後の王の息子で日本に定着した百済王氏の始祖である「善光」の名前からつけられたとの説もある。
中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。
戦国時代、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。一説には、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊は越後国直江津(現在の上越市)に移され、その寺跡には十念寺(浜善光寺)が大本願別院として法燈を伝えている。
本尊は、さらに織田信長の手で岐阜へ、豊臣秀吉により京の都へ、更に徳川家康の手で尾張へ移されるなど転々としたが、1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃へ帰された。
北京オリンピックの聖火リレーも参照のこと
7年に1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に1度)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳され、毎回多くの参拝客が訪れる。
前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置されている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運んでくる。
期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱(えこうばしら)が五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益(りやく)があるといわれている。
2003年(平成15年)の開帳は、同時期に甲府市の善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、稲沢市の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳もあり、話題となった。
平成の修復を記念して、平成20年4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開が行なわれた。 内部には、四国八十八箇所の各寺院の本尊の代像が安置されている。 また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。 落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。
長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。
現在の長野市は、善光寺の門前町を起源として発展した都市である。
元来、善光寺参道付近から現在の信州大学教育学部付近にかけての緩傾斜地が長野と呼ばれていたらしい。中世末には水内郡長野村という村名が現れ、善光寺境内から門前町も含め、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する区域を領域としていた。長野村は1601年(慶長6年)に周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村とともに善光寺領とされた。
善光寺門前の参道は北国街道のルートともされ、門前町は同時に宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現長野市大字南長野)、権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。
善光寺町は、北国街道のルートとされた善光寺南側参道を中心に形成された門前町・宿場町であり、町年寄の支配下にあった八町およびその枝町と、大勧進および大本願の支配下にあった両御所前の2町、さらに善光寺本堂南側堂庭から成り立っていた。八町とその枝町、および両御所前に属していた町は次の通りである。
さらに、隣接する松代藩および幕府領の各村のうち町場化した次の区域も善光寺町の一部とされた。
前述の通り、善光寺町(善光寺宿)とは門前町・宿場町を構成する各町の総称であり、検地帳上の公的な村名は長野村(または妻科村、権堂村)であった。それは明治維新後の水内郡長野村あるいは妻科村、権堂村を経て現在の長野市につながっている。言い換えると、「善光寺町」とは本来「長野村の一部」を総称する地名であり、「長野」の旧称が「善光寺」であったわけではない。
善光寺町内の各町は、明治以降に改称されたり(桜小路→桜枝町、天神宮町→長門町、堂庭→元善町、長野村後町→東後町、妻科村後町→西後町など)、新たに起立したもの(旭町、県町、南県町など)を含めて、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による上水内郡長野町または同郡妻科村(1881年(明治14年)に南長野町)、鶴賀村(1885年(明治18年)に鶴賀町)内の通称地名として、さらに1889年(明治22年)の町村制施行による上水内郡長野町(1897年(明治30年)に長野市)の大字長野、大字南長野、大字鶴賀内の通称地名として現在も使用されている。
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