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孝明天皇 とは?

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孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日1831年7月22日) ‐ 慶応2年12月25日1867年1月30日))は、江戸時代末期の天皇(121代、在位:弘化3年2月13日1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日)。統仁(おさひと)。幼称は煕宮(ひろのみや)。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


孝明天皇はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  第121代天皇。諱は統仁(おさひと)。 幕末期の天皇で保守的な人物だった。倒幕派に暗殺されたとの説もある。 学習院を創立したことでも知られる。

出典: 『はてなダイアリー』


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おすすめ度5.0(全レビューの平均)日本人の幕末観には司馬遼太郎の諸作が圧倒的に強い影響を与えているが、司馬本人が本書で書かれたような幕末の朝廷・幕府・諸藩の動向を知らないはずはない。司馬の大胆な解釈、つまり一部の諸藩と朝廷の動向の無視が、彼の描く魅力的な明治維新像として結実した。 本書は、そこで消された声なき声を拾い集めることで幕末の新視点を提示する。 慶喜の直情的なキャラクター、幕臣と慶喜の距離、朝廷と一会桑の関係、幕府と朝廷の双方を支持した諸藩、薩長のそれぞれ内部での強硬派と穏健派の闘い、英仏の動向、それぞれ複雑に影響しあい、明治新政府は樹立する。一ついえるのは、薩長の一貫した武力討伐運動の成果が明治維新であったということでは決してないということだろう。著者も薩長の役割、志士達のリーダーシップを否定するものではないが、幕府政治を終らせた最も大きな要因は薩長ではなく世論、もっと言えばペリー来航にはじまる日本全体の大きな空気の変化であったと解釈することが、フェアな幕末理解なのだろう。敗者から歴史をみる面白さを伝える良書。  (picander さんのレビュー)

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


孝明天皇
第121代天皇
在位期間:1846年3月10日-1867年1月30日
孝明天皇
在位中の時代 江戸時代
在位中の年号 弘化
嘉永
安政
万延
文久
元治
慶応
在位中の首都 平安京(京都
在位中の皇居 京都御所
統仁
幼称 煕宮
出生 1831年7月22日
出生場所 平安京(京都
死没 1867年1月30日
陵墓 後月輪東山陵
皇子女 順子内親王
富貴宮
妙香華院
明治天皇
寿万宮
理宮
女御 九条夙子
父親 仁孝天皇
母親 藤原雅子

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日1831年7月22日) ‐ 慶応2年12月25日1867年1月30日))は、江戸時代末期の天皇(121代、在位:弘化3年2月13日1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日)。統仁(おさひと)。幼称は煕宮(ひろのみや)。

在位中の徳川将軍は、12代徳川家慶・13代徳川家定・14代徳川家茂・15代徳川慶喜である。

目次

系譜

仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政凞の娘で仁孝女御(後、中宮)の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子[1]

女御
  • 九条夙子(英照皇太后)(1834-1897)
    • 第一皇女:順子内親王(1850-1852)
    • 第二皇女:富貴宮(1858-1859)
    • 養子:睦仁親王(明治天皇

典侍

  • 坊城伸子(1830-1850)
    • 第一皇子:妙香華院(1850)
  • 中山慶子(三位局)(1835-1907)
    • 第二皇子:睦仁親王(明治天皇)(1852-1912)
  • 堀河紀子(1837-1910)
    • 第三皇女:寿万宮(1859-1861)
    • 第四皇女:理宮(1861-1862)
  • 今城重子(1828-1901)
  • 今城尚子
養子

系図

 
(114)中御門天皇
 
(115)桜町天皇
 
(117)後桜町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(116)桃園天皇
 
(118)後桃園天皇
 
 
 
 
閑院宮
直仁親王
 
典仁親王
(慶光院)
 
美仁親王
閑院宮へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(119)光格天皇
 
(120)仁孝天皇
 
(121)孝明天皇
 
(122)明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輔平
鷹司基輝養子
 
 
親子内親王
(和宮、徳川家茂夫人)
 
 


略歴

幼名は煕宮。天保11年(1840年)に立太子。弘化3年(1846年)の父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設した。

嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを受けて下関戦争薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が荒れ狂った。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩松平容保への信任は特に厚かったと言われる。

しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった。もっとも、遺品として時計[2]が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない。

翌・慶応2年(1866年)12月25日、義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして崩御享年37(満35歳没) 。死因は天然痘と診断された。

在位中の元号

諡号・追号

孝明天皇漢風諡号が贈られた。を持つ最後の天皇(明治以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。

霊廟・陵墓

孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれた。ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。

平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年皇紀2600年)に平安京最後の天皇として合祀された。

仮御所

安政元年(1855年)に内裏が焼失した際には、翌年の再建までの間に聖護院門跡や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。

崩御にまつわる論争

崩御に至るまでの経緯

慶應2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱する。天皇の持病であるを長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記よれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(日常の健康管理を行う主治医格)であった高階経由が拝診して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日、典医筆頭のひとりで、高階経由の前任で執匙を務めていた山本隨が治療に参加、15日には伊良子光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が行われた。

12月16日(1月21日)、山本隨・高階経由・伊良子光順と、高階経由の息子・高階経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。

執匙の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかったため、経験豊富な西尾兼道・久野恭(いずれも小児科医)を召集して[3]拝診に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。

これ以後、天脈拝診(実際に天皇の体に触れて診察すること)の資格を持つ13人に、西尾兼道と久野恭の2人を加えた15人の典医たちを下記の3班に分けて、24時間体制での治療が始まった。

  • 第1班
    • 筆頭:藤木篤平 (従四位上 典薬権助兼伊勢守)
    • 執匙:高階経由 (従四位下 典薬少允兼安芸守)
      • 山本正文 (従五位上 図書頭兼安房守)
      • 高階経支 (従五位下 丹後守)
      • 高階経徳 (正六位下 筑前介)
  • 第2班
    • 筆頭:山本隨 (従四位下 典薬大允兼大学助兼大和守、後に恭隨と改名)
      • 河原実徳 (正五位下 典薬少属兼伊予守)
      • 西尾兼道 (従五位上 土佐守、本来は小児科医だが痘瘡治療経験豊富のため召集)
      • 大町淳信 (従五位下 弾正大弼兼周防守)
      • 久野恭 (正六位下 出羽介、本来は小児科医だが痘瘡治療経験豊富のため召集)
  • 第3班
    • 筆頭:藤木静顕 (従五位上 近江守)
      • 伊良子光順 (従五位上 織部正兼陸奥守)
      • 福井登 (従五位上 主計助兼豊後守、後に貞憲と改名)
      • 三角有紀 (正六位下 摂津介)
      • 伊良子光信 (従六位上 阿波介)

孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』においては、典医たちは、天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。これによれば、発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。

しかし、前述の伊良子光順の日記においては、翌25日の記録には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと壮絶な天皇の病状が記されている。それでも天皇の喪は秘され、実際には命日となった25日にも、福井登の名前で「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の報告書が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。

毒殺説

孝明天皇は前述の通り長年のあいだ悪性の痔に悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の中山忠能日記にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚」(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。

その後明治維新を過ぎると、世の中には皇国史観が形成され、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の暗殺説を論ずる事は長く封印された。しかし1909年明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇毒殺をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また、1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の婦人科医・佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[4]

そして、第二次世界大戦に日本が敗北し言論に対するタブーが霧散すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、『孝明天皇は病死か毒殺か』『孝明天皇と中川宮』などの論文を発表したねずまさしである。ねずは、典医たちが発表した「御容態書」のとおり天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も前述の佐伯と同様に、岩倉具視首謀・堀河紀子実行説を唱えた。

1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、ねずと同じく毒物による中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[5]

これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説というべき勢力を保っていた。

毒殺説に対する反論

しかし、1989年平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が、これに真っ向から反論する2つの論文を発表する。

『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、

  • 12月19日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと
  • 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
  • 中山慶子の12月23日付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する典医たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること

などから、典医たちの「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと結論付けた。

また原口は、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では倒幕の意思を持っていなかったことを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。

原口説登場後の学界

原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反論を加え、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく、結論を見るには至っていない。

しかし原口説の発表以降、毒殺説から原口説支持に転向する研究者が相次ぎ、毒殺から病死へと多数説が逆転する大きなきっかけとなった。現在でも原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証はほとんど試みられていない。

ただ、前述の通り毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を出ることはできず、物理的に証明するものが存在しないのも事実である。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち孝明天皇の遺骸の法医学的な調査をもってするほかはないが、宮内庁による管理のもと、天皇陵への学術調査が事実上禁じられている現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。

その他諸説

毒殺以外では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたという説もみられ、「宮家の侍医が深夜呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。しかし、原因不明の難病ならばまだしも、刺された事が明らかな状況でわざわざ典医以外の医者を呼ぶ事は不自然であるなど、毒殺説に比してあまりに荒唐無稽でオカルト的内容であり、歴史研究者の間ではほとんど取るに足らないものとされている。

孝明天皇を演じた人物

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ ただし夙子は、明治に入って皇太后となるまでは正式な皇后ではなく「准后」(皇后に準ずる身分)であった。
  2. ^ アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンより贈られたウォルサム社製。
  3. ^ 中山慶子が宮中から父の忠能に宛てた手紙にも、「御匙高階痘は餘り手かけ不申由西尾久野へも御薬なと相談にて上候由」(執匙の高階はあまり痘瘡を手がけた経験がないそうで、お薬は西尾や久野にも相談した上で差し上げているとのことです)と記されている。
  4. ^ 京都府医師会 編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)1301頁
  5. ^ 伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。


先代:
仁孝天皇
天皇
第121代: 1846 ‐ 1867
次代:
明治天皇

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