学生運動 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋学生運動(がくせいうんどう)は、学生によって展開される、政治的・社会的な活動である。その目的は学校の改革から、社会変革、果ては政治革命まで様々であるが、左翼思想に基づく場合が多い。日本で最も高揚した学生運動は、1960年の安保闘争と、1960年代末から1970年にかけての全共闘運動・大学闘争である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 学生運動 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
小阪 修平 /
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学生運動の起源は、中世ドイツにおける大学自治権要求運動である。学生は、社会批判への認識をもちやすい、また政治活動をしやすいという属性があり、近代において社会変革の大きな勢力の一つとなった。
日本の学生運動は、大正デモクラシーの時期に始まり、戦後になって盛んになった。運動の中心となるのは活動家と呼ばれる学生であり、彼らは学生全体からみれば少数であるのが常である。活動家の多くは政治党派の学生組織に属しているか、その共鳴者(シンパ)が多いが、政治党派とは距離を置き運動を担っている学生も存在する(ノンセクトラジカル)。運動内容は時代や個別学校によって様々なものがあるが、代表的なものとして、反戦運動、学費値上げ反対運動、学生会館の自治要求、反差別への取り組みなどがある。
日常的に彼ら活動家は、自治会や様々なサークル(社研など)を拠点にして討論や学習をし、自前のビラ(アジビラ)やポスター、立て看板(タテカン)をせっせと作り、授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張をアピールする。時には校内で集会や講演会、学習会などのイベントを開く。運動は日常的には地道なものであり、地味なものである。しかし運動がまれに盛り上がるときもある。普段は大学問題や政治問題に関心のない一般学生も運動に加わり、全学的に運動が高揚する場合である。そうなればデモや授業ボイコット(ストライキ)、大衆団交、果てはバリケードによる建物占拠などが行われる。
学生運動がそのような盛り上がりをもっともみせたのは、1960年の安保闘争、1968年 - 1970年の全共闘運動大学紛争の時期であったが、それ以降は下火となっている。原因としては、社会が豊かになったことでの政治離れ、内ゲバなど暴力的な運動への忌避、などがあげられる。
日本では、明治時代から旧制高校などで校長排斥運動や同盟休校が度々起きていた。
第一次世界大戦直後の1918年12月東京帝国大学に新人会設立。1918年京都帝国大学に労学会設立(2代目)。1919年2月21日早稲田大学に民人同盟会設立。以下主な流れ。普選運動(1919年1月学生が活動→1920年5月10日第14回衆議院議員総選挙と不況で衰退)。労働運動・農民運動。学連(1922年11月7日設立)。軍事教練反対運動(1923年5月10日軍事研究団事件→1924年11月12日全国学生軍事教育反対同盟結成→11月~1月社研解散命令&反対運動→1925年1月10日軍事教育案可決→10月三高進化会解散→12月1日京都学連事件)。自治擁護運動(1926年5月29日文相内訓五ヶ条→1926年6月28日全日本学生自由擁護同盟結成)。
第二次世界大戦中は完全に解体されていた学生運動は戦後すぐに復活した。多くの大学で大学民主化運動が行われ、その高揚を背景に1946年に全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。全学連は当初は日本共産党(日共)の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていた。しかし、1955年のいわゆる「六全協」(日本共産党第6回全国協議会)で、共産党が現場の運動家を半ば置き去りにする形で大幅な路線変更を行ったことを契機として徐々に距離を置くようになり、共産党から除名された学生達が中心となった新左翼ブントが、全学連を握った。
国民的な議論となった1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(安保闘争/安保紛争)では、この全学連(安保全学連・ブント全学連)が運動の中心を担った。この闘争の最中、東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。
安保闘争後、ブントは四分五裂、全学連も分裂し、学生運動も下火となる。
1960年も半ばになるとベトナム戦争反対などの運動を通して、再び学生運動が盛んになってきた。早稲田大学や慶應義塾大学などで学園紛争が起り始める(第1次早大闘争)。また新たに結成された三派全学連は、羽田闘争を皮切りに街頭で数々の武装闘争を繰り広げた。その戦いに多くの学生が参加し、ヘルメットにゲバ棒というスタイルが学生運動の定番になっていく。三派全学連は再び統一されたブント(第2次ブント)、そのブントをしのぐ勢力を誇る中核派などがヘゲモニーを握っていた。これら新左翼三派や革マル派など5流13派と呼ばれる新左翼党派が、様々な色のヘルメットを被って自派を差別化し、学生運動での勢力を競い合った。新左翼系の学生達と日共系の学生達、そして新左翼同士でも暴力的な対立があったものの、街頭で各学園で学生運動は高揚していく。それはこの時期、世界的な現象として現れたスチューデント・パワーに呼応していた。
1968年(昭和43年)頃から東大闘争、全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。全共闘は、それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり、党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生達が数多く運動に参加した。彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。東京大学で始まった全共闘運動は1969年(昭和44年)には燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学や私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。
街頭闘争でも1968年、1969年の国際反戦デーでは全国で投石や火炎ビンなどによる闘争が繰り広げられ、首都東京はさながら市街戦状態、また三里塚や沖縄デーなどでも、学生達は激しく機動隊とぶつかり合った。
1968年10月、日本大学経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動した機動隊員が重さ約16kgのコンクリートの塊を校舎の4階から落とされ頭に直撃させられ、隊員がその日の内に死亡する事件が発生した。この時代、大学進学率は10%台であり、大学生はエリートであったため、警察も彼らの未来を潰さないよう、出来る限り穏便に事件を解決しようとしていた。しかし、警察は死亡者が出た事で方針を転換、少人数の集会でも数倍の人数で一気に征圧するなど、強硬手段を執るようになる(ちなみに、このコンクリートで機動隊員を殺害した容疑者は何人かいたが、全員が「その場にいた証拠がない」として無罪となり、現在も真相は明らかになっていない)。
こうした学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、大阪では大阪府高連を中心に高校生によるキャンパスのバリケード封鎖が行われている。運動は、生徒会などを取り巻く環境の改革運動、服装自由化運動や制服廃止運動、教育課程や教育方法の改善運動を派生させたこともあった。浪人生においても、東京や大阪のような大都市では活発な運動が展開され、全国浪人共闘会議(浪共闘)が結成された。
なお、1969年にこれらの学生運動に対抗する形で相次いで誕生した民族派系(右翼系)の日本学生同盟(後の青年民族派)や創価学会系の新学生同盟などの、左翼系でない学生団体もこの頃出現した。
1970年頃までは、このような学生運動に共感を持つ一般市民も存在していた。機動隊に追われた学生をかくまって食事を与えたりする市民や、学生のデモに暴力を振るう機動隊に対して抗議や非難の声を挙げる群衆もいた。こうした行動の背景には「学生は世の中をよくするために身を挺して立ち上がっている」という意識や、学生運動を「若者のエネルギーの発露」としてそれを許容する空気が広く存在したことが挙げられる。権力側も一部には学生運動をする学生たちを「左翼の国士」と見るような風潮もあった。しかし内ゲバや武装のエスカレートなどで市民の支持は徐々に失われていく。1960年代の新左翼党派の再編過程、路線対立の過程で暴力的衝突は日常と化していた。
また、日本の経済が発展し日本人の生活水準が高くなったことや、1972年の沖縄返還や日中国交正常化により学生運動の動機が乏しくなると、急速に学生運動は下火になっていった。
一方、学生側には分派が生まれ、党派闘争が発生し、1970年以降は殺し合いに発展していく。1971年、法政大学での中核派による海老原殺人事件と、それにたいする革マル派の報復から、両派は凄惨な内ゲバを繰り広げ、ここに革労協と革マル派の間での内ゲバも加わり、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延した。これら内ゲバや、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装のエスカレート、連合赤軍でのリンチ事件などが発覚し、更に日本社会が豊かになるに連れ学生たちは潮をひくように学生運動から遠のいていった。
1980年代以降は学生運動が存在するのは、ごく一部の大学のみとなり、それもごく一部の新左翼党派に属する学生に限られた運動となっている場合がほとんどで、大部分の学生とは無縁の存在になっている。
1968年医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入したのを皮切りに東大紛争、東大安田講堂事件へとつながる。
1990年代は中核派の拠点校として、バリケードストライキを頻発させていた。旧志全寮自治会は中核派が握っていた。また専門課程キャンパスには、民学同がいたが壊滅。
1960年後半はアナキスト革命連合の拠点。1969年、大学解体闘争で実力部隊の中枢が全員逮捕。
2005年まで革マル派が自治会を掌握していたものの、大学職員への暴行事件を切っ掛けとして自治会の公認を取り消し。
1990年代まで豊中に中核派が存在。
全学自治会を解放派が握る。1970年代後半、学費値上げ阻止闘争の大衆団交で「学生運動初、値上げ決定後に白紙撤回」を勝ちとった。しかし、1981年の分裂により学内多数派が滝口弘人らのグループにつくことで弱体化し、1996年に内ゲバ殺人事件に絡む機動隊の強制突入により全学自治会は潰される。二部の自治会はノンセクト系。
革労協の拠点校。1990年代、革労協のボックスが撤去。
1968年6月2日の九州大学電算センターファントム墜落事故を契機に学生運動が激化。1969年5月20日からは全学的に無期限スト、バリケード封鎖が行われ、10月14日には機動隊により封鎖が解除される事態となった。
全学の学生自治会として同学会があり、その他、各学部自治会、寮自治会がある(学部自治会はない学部も)。60年安保闘争時は共産主義者同盟(ブント)が同学会を掌握。1965 - 1972年は民青が同学会のヘゲモニーを奪い、京大闘争はブント、中核派、解放派など新左翼各派のほか、京大パルチザンなどと呼ばれたノンセクトグループが担う。72年、赤ヘル系セクトとノンセクト連合軍が同学会を民青から奪還。以後、主に教養、法、理、教育の自治会を民青が、文、経、農、医と熊野寮、吉田寮の自治会を赤ヘル系ノンセクトが維持。工学部は1976年に自治会崩壊。教養の自治会を赤ヘルノンセクト側は、同学会を民青は、それぞれ「でっち上げ」などと批判していた。また、経済学部自治会は、1980年代ニューアカブームを牽引した浅田彰や、東京芸大の毛利嘉孝らを輩出。 また、特に1977年まで続いた竹本処分粉砕闘争で同学会は、最大動員1000人という、新左翼斜陽の時代としては異例の組織力を誇り、週刊誌に「人民の海に浮かぶガラパゴス」と呼ばれた。
1980年代に入ると、吉田寮の廃寮問題が起こり、1980年代を通して最大の闘争課題となるが、最終的に事実上の廃寮決定撤回を勝ち取る。70年代、1980年代の赤ヘルノンセクトは、一橋大学の鵜飼哲、神戸大学の市田良彦、筑波大学の鬼界彰夫、京都大学の伊藤公雄などの学者や、HIV訴訟の徳永信一、少年実名報道裁判の金井塚康弘、在外被爆者訴訟の足立修一、反権力人権基金の多田謡子(故人)など人権派弁護士を多数輩出した。
中核派は、1970年代なかばから対権力・対革マル戦争に注力して京大から召還していたが、1981年に熊野寮を足がかりに再登場。当初は黒ヘルを被ってノンセクトとして登場した。83年の三里塚3・8分裂を期に、熱田派を支援する赤ヘルノンセクトと、北原派を支援する中核派系(熊野寮自治会と農学部自治会)という対立軸を形成し、84年4月、熊野寮自治会の同じメンバーが黒ヘルを白ヘルを被り直して中核派として公然登場を実現した。その後、90年初頭まで、教養部を完全に制圧して、教養部では他の政治勢力の活動を許さず、不抜の拠点を維持した。なお、農学部自治会は、80年代の終わりごろ崩壊。 1990年代に入ると、民青系の力が落ち、赤ヘルノンセクトは運動スタイルをやや和らげたこともあり、基盤を広げる。教育学部自治会がノンポリ化、農学部自治会をノンセクトなどで再建、理学部自治会評議会が民青系からノンセクトになった。1997年には赤ヘルノンセクトの主導で、副学長制導入問題にかんして、竹本処分以来20年ぶりの総長断交を500人の結集で勝ち取った。一方、民青系は自治会基盤を実質的に失い、同学会、赤ヘル批判もほぼまったくできなくなった。
ただし、団塊ジュニア世代が卒業し始めた90年代後半以降、全共闘運動など新左翼の従来のスタイルを活動家学生ですら知らない場合もある時代となり、赤ヘル系の運動も、もはや自分たちが赤ヘルだという意識は薄い。
かつては京都大学熊野寮自治会は中核派と密接な関係があった。しかし現在、歴史的遺産として、中核派のボックスは熊野寮に存在するが、多数の留学生の受け入れや、内部学生の意識が大きく変化したことによって、熊野寮自治会は寮生の意見調整の場として、本来の自治会機能を取り戻しており、あらゆる暴力的政治組織に加担することはなくなった。
1960年代半ばの学費値上げ反対闘争は沈滞していた学生運動に活を入れた。1970年代は新聞会を解放派が握っていた。1977年に全学ストライキ。
日向派の最大拠点だったが、現在は絶滅。
1968年 - 1969年の全共闘時代は解放派が主流だった。1980年代まで、ノンセクトがいて新聞会や文連を握っていたが、後に消滅した。新聞会は1970年代に休部(のち1996年に復活)に追い込まれている。
1960年末、学費値上げ反対闘争がおこり、1969年はバリケード封鎖のまま越年、一つの学部の教授会が2分裂するなど、紛争は1971年秋まで続いた。この間、1969年9月18日に学生運動史上初めての内ゲバの死者がでた芝浦工大事件が起る。これは大宮校舎のバリケード内で仮眠中の埼玉大経済学部自治会の委員長であり、中核派系全学連の中執だった滝沢紀昭が「埼大反戦連合」を名のる勢力によって襲撃され、墜落死した事件。この事件を契機に全共闘運動から離れた活動家は多い。1970年代以降、第4インターの唯一の拠点として大宮校舎、工学部、芝工大寮を握っていた。1980年代芝工大寮が廃寮。現在、学生運動は壊滅。
1970年代まで生田キャンパスの文連と文化祭実行委員会を革マルが握っていたが、1979年、解放派が革マルを襲撃、革マル派学生が二人死亡した。その後も学術文化会の名前で細々と活動を継続中。
1970年代、管理型大学の見本としてあったが、ノンセクトによる学生運動が他大の支援を受けつつ活発化、1980年に反処連(ノンセクト)と社会学類等の全処連(社青同協会反主流派)による、開学初の集会と学内デモが行われた。全処連のリーダーだった福嶋浩彦(後に日本社会党公認で我孫子市議→市長)は、無期停学処分を受けた。
1960年代に、いわゆる安保闘争に加えて、完成した学生会館の自主管理闘争、学費値上反対闘争が起こり、ストライキなどの結果、いずれも学生側の勝利に終わった。これに危機感を抱いた大学の理事者側が、弱腰と見られた教授会の上部組織として「常置委員会」の設置を発表。これを「大学自治」の危機と捉えた学生側は「全学中央会議(全中闘)」を結成。「昼間部自治会」とサークル組織であった「学友会」は、闘争に関する権限を全共闘に集約し、全面対決となった。
1969年に全学ストライキからバリケード封鎖、機動隊導入による排除と大学当局によるロックアウトという事態となり、半年間の中断を経て授業を再開したものの、文化系のサークル活動は壊滅状態で、学内はブント系各派(おもに2派)、革マル派、サークルを母体としたノンセクト派、社青同協会派、民青同盟が入り乱れて一触即発状態が長く続いた。(やがて社青同協会派は自然衰退し、革マル派は多摩移転直前に撤退した。)
1978年の文系4学部の多摩キャンパス移転が近づくと、他大学では衰退期に入っていた学生運動が、移転後のサークル室の確保、下宿や通学の見通しの情報不足、遠隔地(後楽園キャンパス)に残る理工学部のサークル活動への不安などの要素もあって、再び盛り上がることになる。この運動は、学友会の再建運動(1979年に紛争後初めての中央委員会が開催された)、白門祭の復活(それまでは自治組織壊滅により「大学祭」として大学当局主導で行われていたが、セクト間のトラブルでしばしば中止になっていたものを学生主体の「学園祭」として再開。)へと続いた。しかしやがて、多摩キャンパスでの学生生活が落ち着くにしたがって、他大学と同様、学生運動は徐々に衰退していった。
1968年に始まった青学大全共闘による学生闘争はブント(共産主義者同盟)を中心として行われた。正門から学友会本部のある大学学生会館(七号館)周辺までバリケードが築かれたが、1969年には全国初の機動隊導入によるバリケード排除が実施され、解体後ブントの分派である叛旗派などが勢力を維持していたが、1980年代に入ると急速にその力を失った。
1960年代後半は解放派の拠点だった。1970年以降、解放派は日就寮襲撃事件で影響力が低下、中核派が進出した。1990年代まで、中核派と解放派、ノンセクトが共存し、民青と対立していた。1990年代半ばに民青の自治会を中核・ノンセクト連合が奪還した。
1960年代後半は解放派が第1社自、第2社自、文連などを押さえ全共闘の主流派だった。1970年代は「セクトのデパート」と呼ばれ、中核、革マル、解放、第4インター、フロント、プロ青同、L学同、人民連帯、赤軍プロ革、社青同協会派、民学同新時代派、民青がごった煮状態で共存していた。1977年、経自再建(のち崩壊)。1979年、反移転・学費闘争。
1970年代は自治会を社青同協会反主流派が握り、バリストも行われていた。
全共闘時代、「セクトのデパート」と呼ばれていた。最大勢力の中核派、一時は『中核派』を凌ぐ勢いがあった解放派、ML、フロント、革マル派、武装蜂起準備委員会が活動していた。1970年代以降は、中核派が他党派を放逐し、一文・一法・一経・経営・二部教養の自治会を掌握、支配権を確立した。ノンセクトは共存し一社や府中寮の自治会を握り、活発な活動を行ってきたが、時に中核派の意に沿わないとして放逐されることもある。多摩移転後の一社自は全国唯一のノンセクト自治会だったが、1990年代半ばに非公認化となる。市ヶ谷の自治団体を握っていた中核派も2000年代に入ると経営学部自治会が非公認になり、学生会館の取り壊しも手伝ってかその勢力を大きく落とした。
2006年には学生運動に対する一斉検挙が行われた。
1960年代は学友会、育励会、文連を中核派が握っていたが、解放派と社青同太田派がヘゲモニーを握った。第1次羽田闘争では、解放派の出撃拠点だった。1970年代前半に太田派から分派した人民の力派の拠点となり、さらに人民の力派から除名されたグループの学生組織であるL学同が1970年代を通じて学友会、育励会を握っていた。1980年代に入り壊滅状態となった。
1970年代前半に崩壊し、その後再建された学生会及び学苑会(二部の全学自治会)は中執=解放派、営自・二文自=竹内ブント、商自=人民連帯、社研=L学同の明大4派共闘。また反勝共反原理首都圏学生共闘に集うノンセクトや赤色戦線などがいた。1975年春には、和泉校舎の学館に迷い込んだ新入生が革マル派のスパイと誤認され、解放派に暴行を受ける事件が起こった。1982年頃、明大生協(8号館)闘争の折、明大4派共闘は、対立したノンセクトや赤色戦線を明治から実力で放逐。1990年代に入り、解放派の最大拠点校となり、「全人民解放の砦」と謳われた。竹内ブントは二文自、また地下サークル連合をアナキストが握っていた。2000年代になって、当局より解放派は放逐された。
警察の発砲を受け、トラックに積載した廃油が発火。 新山は全身やけどの重傷を負うが、そのまま手錠をかけられ空港署に約6時間放置された後、警察病院に搬送。 その後、数次にわたる皮膚の再生手術を受けたが同年6月13日、24歳で死亡した。
1970年代までサークル連合のノンセクトと文化祭実行委員会を握る革マルが共存。1980年代に入り中核派が進出。
全国的に学生運動が低迷していた1960年代半ばに起った早大闘争は、後の全共闘運動爆発の先駆けとなる。第2次早大闘争で革マル派は解放派やノンセクトを放逐し、早大を完全に支配した。ちなみに、当時文連・委員長だった社青同解放派の林が、ジャックナイフを携帯している事実を察知した革マル派は、林を取り囲み恫喝。暴力的挑発で、ナイフを抜くように仕向けた。革マル派は、この「林ジャックナイフ事件」を錦の御旗として、解放派へのテロを路線化。さらに文連執行部選挙当日には、同派の候補者に負傷を負わせた上で秩父の山中に放置するという手段で、文連執行部を乗っ取っていったのである。これに力を得た革マル派は、以降テルミド-ル的支配でノンセクト活動家にも屈服を強要した。以後、早大は革マル派の最大拠点校となった。 一方、法学部自治会を中心とした民青同盟とは、いわゆる「ボス交」による「クロス承認」を続け、他方では原理研や勝共連合などの右翼活動は黙認。成田闘争や狭山裁判を戦う新左翼各派の活動への弾圧を徹底した。大学当局も、革マル派と民青の泣き別れ的なバランス構造を利用して急進主義運動の拡大を防いだ、という分析もある。
革マル派による川口大三郎虐殺に抗議して多くの学生が立ち上がった1972~1973年には、各派の勢力が再度拡大。革マル派は、半年間にわたって一般学生達の砲火を浴び続け窮地に追い込まれたが、最終的にはお家芸の「恐怖政治」で早大生達の怒りを封じ込めた。客観的に見れば、この局面でも当局と警察が革マル派に加勢した形となり、学生達の自発的な運動の高まりを抑え込んでいったのである。しかし、その中で影響力を拡大していった第四インターは、1975年頃から一・二文を中心に公然と再登場。革マル派に下宿を襲われたり、「殲滅」宣言による暴力的敵対を受け、同時に岩山鉄塔防衛戦や第5ゲート突入戦、横堀要塞戦など、開港阻止を掲げた成田闘争で相当数の検挙者を出しながらも、並行的に学内活動を推進。朴正煕政権が在日韓国人留学生をスパイにでっち上げた「学園浸透間諜団事件」で、早稲田大学出身の崔然淑(Choi Yeon Sook) が逮捕されたこともあり、その糾弾闘争でも学内のノンセクト支援活動家達や共産同・戦旗派(荒派)とともに、クラスオルグ等の情宣活動や高田早苗銅像前でのハンスト闘争などを展開。自らの”先輩”が拘束されたことに抗議するこの運動は、多くの早大生の注目と支持を集めた。そのために、革マル派もハンストのテントを襲撃するなどの公然とした敵対ができず、個々の活動家に対して陰で暴力的恫喝を加えたり、第四インターの活動家数名の実名を挙げ、放逐や殲滅を宣言するビラを配るにとどまった。また、この運動に寄せられた学生たちの支援カンパを基に、崔然淑に接見するために2名の学友をソウルに派遣することもできたのである。そして、1978年3月26日の開港阻止決戦・管制塔占拠へと向かう成田闘争の高まり中で、横堀要塞建設現地闘争団、2月横堀要塞戦・戦闘団、開港阻止決戦現地闘争団、さらに管制塔突入グループでも早大のメンバーがその一翼を担い、学内では政経、商、教育、法、社学などの各学部にも陣容を拡大。多くのメンバーとシンパを獲得したのである。
しかしその後この党派は「レイプ事件」を引き起こし自滅の道をたどる。
古参現闘を含む4名が引き起こしたいわゆる「ABCD事件」は、左翼党派として許されざる事態であったことは事実。Gender問題に無頓着かつ無防備であった第四インターナショナル日本支部は、この問題を巡って複数のグループに分化し、国際統一書記局から「支部」資格を剥奪された。現在は2グループが、オブザーバ組織として統一書記局に参加している。しかしこの問題は革マル派の暴力支配の中から、再度急進主義大衆運動を蘇生させんと闘った早大学生運動の歴史とは無縁である。
1980年代は学校当局と革マル派の蜜月時代が続く。1990年代以降、早稲田祭の中止や各自治会の非公認化など革マル派と大学の対立が激化。2000年代は革マルが拠点としていた学館、ノンセクトの拠点だった地下部室が閉鎖された。
第一期 授業ボイコット~食費値上げ反対共闘会議
ICUにおける学生運動は、湯浅学長退任後の1961年頃から段階を経て顕在化し始めた。1963年には最高裁によるポポロ事件判決の同日に一度目の授業ボイコットが行われた。初期の段階においては授業ボイコット、およびハンガーストライキなどの手法が主に用いられたが、次第に過激化し、1965年12月16日には学生が「食費値上げ反対共闘会議」を名乗り、本館を占拠、バリケードを構築するにいたった。61年から75年までの全期間を通じ、すわりこみ、履修登録拒否などの運動も散発的に行われ続けた。
第二期 能研テスト採用および受検料値上げ撤回要求運動
1967年の段階で、運動の争点は「能研テスト採用および受検料値上げ撤回」に移り、2月10日には再度約60名の学生によって本館が占拠された。実質的に休校状態に陥ったICUは、新たに完成した理学館および教会堂において授業を再開した(3月10日)が、これにも断続的妨害が加えられた。同日をもって中心的学生10名に対して除籍を勧告、最終的に処分者は63名にまで及んだ。
同年4月10日、ついに機動隊が突入し、本館は解放された。
第三期 三項目闘争
この騒乱の後も、続いて三項目(ガードマン体制即時撤廃、教授会議事録全面公開、能研処分白紙撤回)要求を争点として全共闘が結成され(1969年2月27日)、依然不安定な状態が続いていた。5月14日にはD館が占拠されたが、10月20日に再度機動隊が出動、解放された。10月25日には教育区域として指定された区画の周囲に鉄の板が設置され、断絶の象徴となった(70年4月19日に除去)。カリフォルニア大学からの留学生や、一部教員も加わった全共闘による運動は1970年5月19日の解散まで続けられた。学生運動の火種はくすぶり続けるものの、幾度かの波を経て少しずつ下降線をたどっていった。
第四期 学費値上げ阻止、11.17公示撤回要求運動
1974年が始まってすぐに、学費の値上げおよび順次引き上げが採用され、これを不服として同年1月16日に「学費値上げ阻止、11.17公示撤回」共闘会議が結成された。2月21日に実力行使に移行し、本館、理学館、図書館、体育館を占拠した。3月6日には封鎖を解除した。4月1日には学費が増額された。1975年には一部の学生が本館および理学館を占拠したが、2月4日から6日までの2日間でしかなく、ICUにおける学生運動の終焉を感じさせるものであった。