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富士重工業 とは?

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富士重工業株式会社(ふじじゅうこうぎょう、FHI)は、日本重工業メーカーのひとつ。「スバルSUBARU)」のブランド名で自動車などを製造している。通称「富士重工」、「富士重(ふじじゅう)」とも。英訳名は、Fuji Heavy Industries Ltd.(英略称はFHI)。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


富士重工業はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  富士重工業株式会社。証券コード7270。 自動車、鉄道*1から航空宇宙産業までを事業範囲とする製造業。富士重工。 自動車のスバル(SUBARU)ブランドや、汎用エンジンのロビンブランドを持つ。 前身は戦前戦中の軍用機で有名な中島飛行機。 *1:2002年に鉄道事業を新潟トランシスに譲渡し、現在は撤退している

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


富士重工業株式会社
Fuji Heavy Industries Ltd.
種類 株式会社
市場情報
東証1部 7270 1960年3月上場
略称 富士重工、富士重
本社所在地 〒160-8316
東京都新宿区西新宿1丁目7番2号
電話番号 03-3347-2111
設立 1953年7月17日
業種 輸送用機器
事業内容 自動車航空機の製造・整備
産業用機器の製造・整備
代表者 代表取締役社長 森郁夫
資本金 1,537億95百万円
売上高 単体1兆188億円
連結1兆5,723億円
(2008年3月期)
総資産 単体8,899億円
連結1兆2,963億円
(2008年3月31日現在)
従業員数 単体11,949名 連結26,478人
(2007年9月30日現在)
決算期 3月31日
主要株主 トヨタ自動車 16.47%
主要子会社 スバル オブ アメリカ
イチタン
外部リンク http://www.fhi.co.jp/
  
富士重工本社(新宿・スバルビル)
富士重工本社(新宿・スバルビル)
スバルビル1階にあるスバルビルショールーム
スバルビル1階にあるスバルビルショールーム

富士重工業株式会社(ふじじゅうこうぎょう、FHI)は、日本重工業メーカーのひとつ。「スバルSUBARU)」のブランド名で自動車などを製造している。通称「富士重工」、「富士重(ふじじゅう)」とも。英訳名は、Fuji Heavy Industries Ltd.(英略称はFHI)。

目次

歴史

1917年5月、海軍機関大尉中島知久平によって群馬県新田郡尾島町(現:群馬県太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった「中島飛行機」(1945年に富士産業と改称)が、富士重工業のルーツである。

軍需から平和産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年に富士重工業を設立、1955年に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。

1958年発売の軽乗用車スバル・360」と、その派生型である1961年発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立し、その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。

富士重工業の誕生まで

中島飛行機

中島 九七式戦闘機
中島 九七式戦闘機
中島 四式戦闘機「疾風」
中島 四式戦闘機「疾風」

「中島飛行機」は、民間機の開発も行ったが、主として太平洋戦争までの陸海軍用機の需要に応え、軍用機およびそのエンジン開発に取り組んだメーカーである。特に1937年に勃発した日中戦争以降、終戦までに陸軍九七式戦闘機一式戦闘機「隼」二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」四式戦闘機「疾風(はやて)」[1]海軍艦上偵察機「彩雲」[2]など多数の著名な軍用機を送り出した。エンジンメーカーとしては、「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された1000馬力級の「」エンジン、大戦後期の「疾風」や局地戦闘機「紫電改」に搭載された「」エンジンなどの航空機用発動機を開発。三菱重工業川崎航空機と並び、航空機製造会社として日本最大規模の存在であった。

企業解体と平和産業への転進

日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに「富士産業[3]」と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ優秀な技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などを作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。

このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製の簡易なスクーターパウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年に「ラビットスクーター」として発売した。「ラビット」は運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、メーカーの屋台骨を支える重要な商品となった。「ラビット」シリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年まで生産された。

また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年にはアメリカ製リアエンジンバスに倣い、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスより更にスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流は続々とリアエンジンへ移行していく。

このようにして平和産業へ転進した富士産業であったが、1950年8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。

富士重工業成立

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発行すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。

同じ頃、1953年保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、アメリカ・「ビーチ・エアクラフトT-34 メンター」の製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社「富士重工業株式会社」が発足[4]

1954年9月、6社が合併契約書に調印。1955年4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に「富士重工業株式会社」としてスタートした(当時の資本金:8億3050万円、従業員:5643名)

旧・中島飛行機の発動機開発の拠点だった荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年には、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの会長でもある石橋正二郎個人が筆頭株主の会社(ブリヂストンの資本系列とはなっていないが銀行は事実上のブリヂストン支配の会社と認定していた)になっており、メインバンクの違いから再合同には参加しなかった。[5]

また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業(現:マキタ沼津)など3社も、のちに富士重工業の関連会社として加わっている。

富士重工は、1966年に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである。[6]

その後の推移と業務提携

レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショック排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。

1968年から1999年まではメインバンク(日本興業銀行/現:みずほコーポレート銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリーパルサーサニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていたが、設計の共同化や部品の共用化などが本格的に行われることはなかった。

1970年代中盤からは、南米オーストラリアを中心としたアジアオセアニア地方、中東ヨーロッパなどにも進出。1970年代以前には年産10万台にはるかに満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし順調に企業規模を拡大した。

しかし、1985年9月プラザ合意以降の急激な円高とアメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。 1987年いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ(SIA)を設立して現地生産も開始した[7] が、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字を抱え、深刻な経営危機が報じられるまでになった。

しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。1990年には日産ディーゼル工業の経営再建に手腕を発揮した河合勇のもとで地道なコスト削減努力が続けられ、WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産30万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。

バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年に放出株全てがゼネラルモータース(GM)に売却された[8]

しかし、GMの業績悪化に伴い2005年10月5日には、GMが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。GMグループのスズキと、軽自動車の部品の共通化などをすすめてきていたが、今後、トヨタ自動車及びトヨタ傘下のダイハツ工業との開発部門の交流や部品共通化によるコスト削減効果が期待される。

軽自動車部門から撤退

2008年4月10日にトヨタ自動車が第三者増資で17%程度まで行い、富士重工業軽自動車部門は、2009年以降段階的に自主生産から撤退し、ダイハツ工業からのOEM供給を行うことを表明した。ブランド名は継続するかどうかは現在のところ不明。

航空機再生産

T-34 メンター
T-34 メンター
富士 T-1
富士 T-1

1953年9月、富士重工業は「ビーチ・エアクラフト」と「T-34 メンター」製造ライセンス契約に調印。1955年10月、国産1号機を完成させ、防衛庁への納入が始まった。 さらに1957年11月、戦後初の国産ジェット機「T-1 練習機(初鷹)」の開発に成功。中等練習機として1963年までに66機を防衛庁(現:防衛省)に納入した。

1965年8月、民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年10月から販売を開始。低翼式の機体を採用したFA-200は低速時の安定性に優れ、アクロバット飛行なども可能な万能機として好評を博し、298機を生産した。

戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発にも参加。主翼桁と尾翼を担当。この経験はのちに、1973年12月、アメリカボーイング社ボーイング747の生産分担契約に実を結び、1974年には新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加。国際分業に大きな役割を果たした。

1974年富士重工業アメリカロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機、FA-300の共同開発を開始。1975年11月に初飛行に成功、1977年から販売を開始した。しかし、その後、ロックウェル社が軽飛行機部門からの撤退したため、計画が頓挫。42機の生産実績に留まった。

自動車技術

メーカーとしての原点を、戦前の航空機メーカー・中島飛行機に持ち、創業期に元航空技術者たちが自動車開発に携わってきたという歴史から、航空機に通じる機能性・合理性優先で、既成概念に囚われないユニークなメカニズムを特徴とする自動車を多く送り出してきた。そのスタンスは日本の自動車メーカーの中でも、特に技術至上主義・技術偏重主義の傾向が強い。

初期の自動車群

1958年 スバル・360
1958年 スバル・360
1966年 スバル・1000
1966年 スバル・1000

その初期の製品は、航空機開発によって培われたデザインポリシーにより、軽量かつ操縦性に優れスペース・ユーティリティをも満たした高度な設計が為され、市場をリードした。1954年に試作されたスバル・1500では、日本製乗用車として初のフル・モノコック構造を採用している。

1958年発売のスバル・360は、「国民車構想[9]の内容に近い水準の自動車を、高度な技術で具現化したもので、「大人4人が乗れる初めての軽自動車」となり、日本人にとって自動車を身近なものにした。

1966年発売のスバル・1000では、縦置き水平対向エンジンによる前輪駆動レイアウトを採用し、以後、四輪駆動車を含む現行主力モデルに至るまでこれを踏襲している。またこの「スバル・1000」では、前輪駆動車にとっての重要部品である「等速ジョイント」の完成形の一つと言えるダブル・オフセット・ジョイント(D.O.J)の開発に成功。1970年代から世界的に盛んとなった小型車の前輪駆動化の潮流に先鞭をつけた。

水平対向エンジンと四輪駆動

水平対向エンジン概念図
水平対向エンジン概念図
EG33型水平対向6気筒エンジン
EG33型水平対向6気筒エンジン

現行の主力モデルでは、水平対向エンジンを車体前方に縦置き搭載して四輪を駆動するSYMMETRICAL AWD(シンメトリカルAWD)構造を特徴としている。水平対向エンジンは、量産型の乗用車用エンジンとしては、2008年現在、富士重工業ポルシェしか採用していない。

水平対向エンジンは、クランクシャフトを軸にピストンを180度開いた位置に配置しているため、直列エンジンV型エンジンに比べ本質的に重心位置が低い。また、向かい合うピストンがお互いの慣性力を打ち消し合うように、それぞれ外に振り出されるため、本質的に直列エンジンV型エンジンより回転バランスに優れる。特に水平対向6気筒では二次振動が(理論上)「0」という完全バランスを得られる。

さらに富士重工業の場合、フロントデフもトランスミッションケース内に収納しているため、軽量でコンパクト、なおかつドライブトレインを上から眺めたとき完全な左右対称となっており、自動車の運動性能向上に有利なレイアウトといえる。また、4気筒エンジン同士の比較では、クランク長が直列エンジンの2/3と短くでき、エンジンとミッションの縦置きレイアウトのため重量を前後に分散することが可能で、車両の前後重量バランスに優れる。

パッシブ・セイフティ(受動安全性)の面からも、前面衝突時にエンジンがフロントバルクヘッド下に潜り込むような形になるため、エンジンがキャビンを変形させる確率が低く、フロントのクラッシュ・ストロークを長く取れる利点がある。

四輪駆動(AWD)乗用車開発

このレイアウトで発売された初のモデルは、1972年レオーネエステートバン1400 4WDで、本格的な量産ラインで生産される自動車としては世界初の四輪駆動乗用車[10]となった。

自動車の運動性能にもたらす四輪駆動の効果に世界中の自動車メーカーが注目する端緒となったドイツアウディ・クワトロの発売は1980年であり、富士重工業は四輪駆動乗用車技術の長さではアウディをも上回る。2008年現在、軽自動車を含む全車種に四輪駆動が展開されているが、特にレガシィフォレスターは全モデルが四輪駆動である。

そのため、四輪駆動システムについても、その初期から様々な試みがなされており、世界の自動車メーカーのベンチマークとなっている技術も数多い。

1972年に乗用車ベース四輪駆動車を実用化して以来、これを活かしてアウトドアを嗜む社員の視点から、ツーリングワゴン、レガシィ・アウトバック等、四輪駆動ステーションワゴン、クロスオーバーSUVといった新規マーケットを開拓した[11]

関連技術

1981年、後輪駆動用トランスファーに、世界で初めて流体式の電磁式油圧多板クラッチを実用化したフルタイムAWDオートマチックを発売。この油圧多板クラッチによる前後輪回転差吸収技術は、現在では派生技術である世界の自動車メーカーのAWD技術のスタンダードとなっている。

また、この電磁式油圧多板クラッチを発展させ、前後不等・可変トルク配分とエンジン出力制御、ABSとの統合制御による高度なアクティブ・セイフティ技術である車両制御システムVDC(Vehicle Dynamics Control System、横滑り防止機構)も実用化している。このVDCは、すでに実用化されている自動運転支援システムADA(Active Driving Assist)や防衛関連事業で培った高度なロボット技術との統合制御による、完全自律運転システムへの発展が期待され研究が続けられている。

なお、2008年6月、このADAから前車との車間計測のために備えていたミリ波レーダーを廃して、2台のCCDステレオカメラで車両周辺の状況を解析・判断、車両制御技術としては世界初となる、車速15km/h以下でのプリクラッシュ・ブレーキ制御や障害物検知、さらに全車追従型クルーズコントロールなどの機能を備えた「eyesight(アイサイト)」システム搭載車を発売。従来の安全技術などと比べ高機能でありながら割安な価格設定で、普及が期待される。

ラリー車技術への応用

インプレッサWRC2006(2006年キプロスラリー)
インプレッサWRC2006(2006年キプロスラリー)

AWDを積極的に自動車の運動性能・操縦性の向上に利用する取り組みでは、1990年からイギリスプロドライブ社とのWRCへの参戦で、エンジン性能向上技術や、2004年まで、前、後、センターデフのフルアクティブ化をはじめとする、膨大な技術的データ蓄積が得られているものと思われる[12]

WRC参戦用ベース車両であるインプレッサの市販型では、WRCからの直接のフィードバックはないものの、1994年に登場したDCCD(ドライバーズコントロールセンターデフ)制御に、2002年、4輪の車輪速センサー、横Gセンサー、スロットルセンサーなどから4輪のグリップバランスを把握して、最適な前後駆動トルクを自動的に配分する「DCCD-AUTO」モードを装備。2004年には新たに、ヨーレートセンサーを加え、さらに前後LSDとの協調制御により、操縦感覚の良さと速さを両立している。

世界ラリー選手権(WRC)では、1995年1996年1997年と日本の自動車メーカーでは唯一、WRCマニュファクチャラーズ・タイトル3連覇を果たしており、1995年、2001年2003年のドライバーズ・タイトルの獲得とあわせ、WRCトップコンテンダーとして、世界各国に多くのファンを持っている。

無段変速機(CVT)の量産化

現在広く使われているスチールベルト式無段変速機を「ジャスティ」向けに日本で初めて導入、改良して「ECVT」の名で量産した(オランダ・ファンドーネ社と共同開発)。小排気量車向けのみが同社車種及びイタリアFIAT社のプントパンダに搭載された。CVTの技術はその後日産自動車にライセンスされ、日本メーカー各社が主にコンパクトカーなどに採用しているJATCO社製「ハイパーCVT」のベースとなったといわれている。

現在のところ、スバルのCVT搭載車は現在では軽自動車のみであるが、軽自動車にCVTを多く採用するメーカーの代表格となっている。2007年現在、スバルの軽自動車はサンバーを除きCVT車を設定している。

その他の技術開発

その企業規模から多くのプラットフォームを持つことができないため、全てのセグメントに応じた車種を提供できない弱点がある。そのため、他メーカーよりも徹底した年次改良を施すことで、既存製品の商品力維持を図っている。

サンバートラック赤帽特装車
サンバートラック赤帽特装車

サンバートラックは、軽トラック・バンで唯一となったリアエンジン方式ならではのトラクション性能と、フル・キャブオーバー型の堅持による最小回転半径の小ささなどで、農家や運送業者など、軽貨物車ユーザーの一部に根強い支持層を持つ。JA向けの特装車両や、軽運送の赤帽用に標準車の耐久性・使い勝手を考慮した特装車両が存在する。軽トラックの四輪駆動は現在では当たり前の装備となっているが、その中で初めて四輪駆動を採用したのもサンバーである(1980年、パートタイム式)。これは愛媛県みかん農家からの登坂力確保の要望がきっかけであった。

電気自動車(EV)の開発については、1960年代後半に国産メーカー各社の開発競争があり、1971年第18回東京モーターショーに、スバル・ff-1 1300Gバンをベースにソニー製燃料電池を採用した「スバル・エレクトロワゴンX-1」を参考出品している。その後、あまり目立った動きはなかったが、突如2002年5月、NEC富士重工業との共同出資による合弁で 「NECラミリオンエナジー」 を設立し、自動車用マンガン系リチウムイオン組電池の開発開始を発表した。

2005年6月、東京電力と共同開発による軽自動車「R1」をベースにしたEV、「R1e」を公開、すでに2007年春から納入を開始している。資本提携関係にあるトヨタからのハイブリッド技術供与もすでに発表されており、今後の推移が注目される。

また、2005年に開発を発表した「水平対向ディーゼルエンジン」が2007年3月、スイスジュネーヴ・モーターショーで公開され、2008年3月ドイツを皮切りにEU各国に向け発売が開始された。世界初の水平対向ディーゼル・ターボエンジンは「EE20」型 と名付けられ、1,800気圧の噴射圧を持つデンソーコモンレール・インジェクター、IHI製可変ノズルターボを装備。1,998ccの排気量から最高出力:150ps/3,600rpm、最大トルク:35.7kg-m/1,800rpmを発生。CO2排出量は148g/kmで、EUの排気ガス規制である「ユーロ4」に対応している。アメリカ日本市場への2010年までの導入を目指し開発が進められている。

ブランド名「スバル」の由来

富士重工業の自動車ブランドである「スバル」=「」とは、元来、プレアデス星団を意味する。日本では古くから六連星(むつらぼし)とも言われ、奈良時代古事記日本書紀[13]平安時代の『枕草子[14]にも記述を確認できる古語である。

「スバル」の商標が初めて使用されたのは1955年富士重工業が自動車市場への参入を狙い開発した乗用車・「スバル・1500」でのことで、富士重工業初代社長・北謙治の命名による。富士重工業が旧・中島飛行機系5社を吸収合併するという形で誕生したことから、この6社を「統べる」=「統合する」との意志が込められている。

また、現在の富士重工業CI(コーポレート・アイデンティティ)である「六連星マーク」は1958年登場のスバル・360にて、富士重工業の社内募集案(プレアデス星団を型取った形)に、スバル・360の基本デザインを担当した社外工業デザイナーの佐々木達三が手を加えたものを採用したのが起源である。以後何度かのデザイン変更が行われ、途中で実際の星座の配列を無視した形となりながらも、星6つ(大1、小5)の基本モチーフは継承され現在に至っている。

富士重工業の代名詞として「スバル」の名が広く定着したことから、一時期「スバル株式会社」への社名変更を計画したが、創業50周年の2003年7月15日をもって、従来の社名のカタカナ書きの頭文字に由来する「フ」マークの社章を自動車ブランド・スバルと同じ「六連星」に変更するにとどまった。

プレアデス星団の語源となったプレイアデスは、ギリシャ神話の神である巨人アトラスと精女プレイオネーとの間に生まれた7姉妹といわれ、長女から順に「マイアエレクトラタイゲタアルキュオネーケラエノアステロペメロペ」と呼ばれている[15]

このうち「マイア」はスバル・450の対北米用の輸出名、および3代目レオーネのスバル発売30周年記念特別仕様車として、「アステロペ」は1987年スウェーデンボルボ社と共同開発した観光バスボルボ・アステローペとして、「エレクトラ」は1994年からSTIが発売を始めたアルミホイールの商品名と、2000年に発売されたインプレッサS201STIバージョンのパイロットモデル名として、「ケラエノ」は1977年、「ケレーノ」として北米向けに発売したスノーモービルの製品名として、「アルキュオネー」は英語読みの「アルシオーネ」で1985年発売のアルシオーネと、1991年発売のアルシオーネSVXに使われている。その他の2名称は現在までのところ富士重工業製品に使用されていない。

一部で谷村新司のヒット曲『』について「元々はこの会社のイメージソングであった」とされるが、これは正しくない[16]富士重工業を意識して製作された歌謡曲は、実際には『我が人生は昴なり』(作詞作曲:石坂まさを、唄:美帆さゆみ)である。作曲家の石坂まさを自身が熱烈なスバルファンであり、「生真面目で人情味あるスバルの姿を唄い上げたもの」と公言している。原作は『我が人生はスバルなり』であったが、発売時には商品イメージを消すためにあえて漢字の「昴」を当てている。

なお、スバルの中国語表記は「速覇陸(速覇陸)」である。

ユーザー層

主力車種である普通車カテゴリーでは、他メーカーより比較的男性ユーザーの割合が多いといわれている。

古くから「スバリスト」と呼ばれる熱心なファンが存在する。前身が航空機メーカー中島飛行機という、他の国産自動車メーカーとは全く違う歩みを持ち、かつてのスバル・360スバル・1000以来の独創的メカニズムや、他メーカーの製品とは異なる乗り味に惹かれ、スバル車を乗り継ぐ人々である。

一方、1989年レガシィ発売以来、インプレッサフォレスターなど、新世代のスバル車の「走り」に惹かれて愛好する層も多い。雑誌『ベストカー』の調査によれば「車好きの間で日本で最も好感度の高いメーカー」としてスバルが圧倒的な第1位となっており、走行性を重視する「クルマ好き」からの支持が厚い。現在では衰退傾向の強いマニュアルトランスミッション(MT)の設定がスバル車では比較的充実していることも影響している。

プレイステーションゲームソフト、「グランツーリスモ」をはじめ、家庭用ゲーム、アーケードゲームを問わず、多くのドライビング・シミュレーションゲームや各種メディアにおけるスバル車の登場頻度は非常に高く、現実の世界ラリー選手権(WRC)でのインプレッサの活躍とも相まって、子供から大人まで世界的な人気がある。

スバル車販売店

正規ディーラーの「スバル店」(全国46社・うち富士重工業出資34社)のほかに、サブディーラー(個人経営店舗)の「スバルショップ」(旧称・スバルスコープ店)があり、また一部のJAでも取り扱っている例もある。

都市部の一部ディーラーではボルボサーブポルシェ輸入車も取り扱っていたこともあったが、サーブは2005年に、ボルボは2006年に販売から撤退した。また、いすゞ自動車の一部ディーラーでも、スバル車を取り扱っている所もある。

また、前述の直営販社を今後、地域別に統括会社を設置し、その他の販社をその傘下にする形で販社統合が実施される予定(出資34社のうち、11程度の統括会社と4程度の独立販社(現状を維持)、それ以外の会社を事業会社とし、経営のスリム化・効率アップを図り、かつ車両販売・アフターサービスの維持のため、販社合併は行わない形とし、現状の販売・アフター体制は継続される)。

生産拠点

スバル自動車部門

航空宇宙部門

産業機器部門

環境技術部門