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手塚治虫 とは?

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手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治1928年昭和3年)11月3日 - 1989年平成元年)2月9日)は、日本漫画家アニメーター医学博士血液型A型[1]。 戦後日本においてストーリー漫画を確立した人物とされている。長男に手塚眞、長女に手塚るみ子がいる。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


手塚治虫はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  漫画の神様。(1928-1989) 日本特有のストーリー漫画を確立した。戦後の日本マンガへの功績は計り知れない。 また、日本初の連続テレビアニメを世に送り出すなど、テレビアニメの始祖でもある。一方で、マンガの収入をアニメの制作費に充てて予算を極端に抑えたため、のちのテレビアニメの制作費が長年にわたって低くとどまる原因になったとする説もある。 1928年(昭和3年)11月3日(←「文化の日」!←当時は「明治節」です。なので「明治」から「治」を取って名前がつけられた)、大阪府豊中市岡町生まれ。当時の明治節 ...

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


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手塚 治虫
本名 手塚 治
生誕 1928年11月3日
日本の旗 大阪府豊能郡豊中町(現在の大阪府豊中市
死没 1989年2月9日(満60歳没)
日本の旗 東京都千代田区麹町
国籍 日本
職業 漫画家アニメーター
活動期間 1946年 - 1988年
代表作 ジャングル大帝
鉄腕アトム
リボンの騎士
火の鳥
どろろ
ブラック・ジャック
三つ目がとおる
受賞 第3回小学館漫画賞
(『漫画生物学』『びいこちゃん』)
第1回講談社出版文化賞児童まんが部門(『火の鳥』)
第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞
(『ブラック・ジャック』)
第21回文藝春秋漫画賞
(『ブッダ』『動物つれづれ草』)
第1回講談社漫画賞少年部門
(『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』)
第29回小学館漫画賞
(『陽だまりの樹』)
第10回講談社漫画賞一般部門
(『アドルフに告ぐ』)
第10回日本SF大賞特別賞受賞
第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞、勲三等瑞宝章
公式サイト Tezuka Osamu@World
  
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手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治1928年昭和3年)11月3日 - 1989年平成元年)2月9日)は、日本漫画家アニメーター医学博士血液型A型[1]。 戦後日本においてストーリー漫画を確立した人物とされている。長男に手塚眞、長女に手塚るみ子がいる。

大阪府に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。旧制中学で大戦期を過ごし、大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。

1963年、自作をもとに日本初のTVアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながるTVアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1960年代後半より一時低迷するも、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などにより復活。また『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を手がける。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、その功績から「漫画の神様」と評された。

目次

生涯

出自

手塚治虫、本名治は1928年11月3日大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に、父・手塚粲(ゆたか)と母・文子の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた[2]。父方の曽祖父手塚良仙適塾に学んだ蘭方医であり、1857年東京種痘館(現在の東京大学医学部の前身)を設立したグループの一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれており、福澤諭吉福翁自伝』にも記録が残っている。祖父にあたる手塚太郎は司法官であり、1886年に創立された関西法律学校(現関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任している。

父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回し映写機(パティベイビー)を所有しており、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメ映画を観ることができた[3]。もっとも治虫はこの父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白としても回想している[4](なお治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている[5])。母・文子は陸軍中将の娘で厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで勤める働き振りを示したという[6]。この母は当時としては変わり者で、治虫に漫画本を買い与えただけでなく、登場人物ごとに声音を使い分けて幼少期の治虫に漫画本を読み聞かせていた。幼少期の手塚の家には『のらくろ』シリーズをはじめ200冊もの漫画本があったという[7]。またのちに治虫の実子手塚眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところページの隅にパラパラ漫画を発見し、てっきり治虫によるものだと思っていたら、後で治虫の母が描いたものだったと判明したというエピソードもある[8]

幼少期

1933年、治虫が5歳のときに一家は兵庫県宝塚市に移った。戦前の宝塚は田園風景の中に新興の住宅地が散在し、その中心に宝塚大劇場、宝塚新温泉(現宝塚ファミリーランド)、宝塚ルナパーク(現宝塚動物園)などの施設が立ち並び一種の異空間を形作っていた[9]。このような人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる[10]。父は宝塚ホテルのなかに作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治虫は父に連れられてホテルのレストランで食事をし、母には歌劇団に連れて行ってもらっていた[11]。また手塚家の隣家は宝塚歌劇団の実力者である天津乙女の家であり、歌劇学校に入学したい娘が父兄とともにお百度を踏む光景がよく見られたほか、歌劇団の女性と接する機会も多かった[12]

1935年、池田師範付属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)に入学。体が小さく、また小さい頃から眼鏡をかけていたこともあり学校では「ガジャボイ頭(天然パーマ)」などと言われからかいの対象になった。そのようななかで同級生の石原実という人物と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる[13]。手塚家の広い庭は虫の宝庫であり[14]、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境であった[15]。ペンネームの「治虫」も甲虫のオサムシにちなんで小学4年生のときに作ったものである[16](なお1950年頃までは「治虫」は初期にはそのまま「おさむし」と読ませていた[17])。

治虫は幼いころから見よう見真似で漫画を描くようになり、とくに小学4年生から5年生にかけて懸命に漫画の練習をした[18]。小学5年生の頃ノートに1冊分の漫画を書いて学校に持っていった時には担任の教師に取り上げられ、叱られるものとばかり思っていたらじつは職員室で回し読みされていて、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという[19]。こうして漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなり、誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた[20]。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶と菓子でもてなされ、治虫の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しが振舞われた[21]

青年期と戦争体験

1941年、大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に入学。軍事色の強い厳格な学校であり、手塚は漫画を描いているのを教官に見つかり殴られるなどしている[22]。同年より太平洋戦争が勃発、1944年の夏には体の弱いものが入れられる強制修練所に入れられ、9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され[23]、ここで格納庫の屋根にするスレートを作っていた[24]

1945年3月、北野中学を卒業。6月、勤労奉仕中に監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下され九死に一生を得る[25]。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、のちに「紙の砦」(1974年)や『どついたれ』(1979年-1980年)などの自伝的作品の中に描かれている[26]。この体験以降手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった[27]

1945年7月、手塚は試験を受けて大阪帝国大学附属医学専門部に入学した(なお3月に旧制浪速高等学校を受験し落ちている[28])。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設されたもので、1951年に廃止されている。学制上は旧制医学専門学校と同じであったため旧制中学からの入学が可能であった[29]。なお生前には手塚の経歴は一般に、1944年に浪華高校理乙入学後、1945年に大阪大学医学部入学となっていたが、手塚の死後に出版された小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって初めて事実が明らかにされた[30]。また生年もそれまで1926年だと思われていたのが実際には1928年であったことが死後確認されている[31]。このように手塚が生前に経歴を訂正していなかったことについて桜井哲夫は、当時世間的に認められていなかった漫画家の社会的地位を押し上げるためにも、帝国大学の医学生という身分が必要だったのではないかと分析している[32]

デビュー、赤本の世界へ

終戦後、手塚は戦時中に描き溜めた長編のなかから『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った[33]。これは音沙汰無しに終わったが、その後、となりに住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』学芸部の程野という人物に会い[34]、彼の依頼を受けて同紙に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。『マアチャンの日記帳』は描かれる風俗やタッチに新しさはあるものの、路線としては戦前からある家庭向けの新聞漫画にのっとったものであった[35]。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている[36]。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド(後述するものとは別物)』なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり後2者はどちらも中断に近い形で終わっている[37]

1946年、手塚は酒井七馬が後見役を務める同人誌『まんがマン』の例会を通じて酒井と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる[38]。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を書き溜めていた手塚としては願ってもない話であった[39]。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新宝島』が制作され[40]、1947年1月に出版されると当時としては異例の40万部、一説に80万部を越すベストセラーとなった[41](もっとも手塚は原稿料3000円を受け取ったのみであった[42])。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新宝島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている[43][44](後段#スタイルの革新性も参照)。

ベストセラーとなった『新宝島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった[45]。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げければならなくなった[46]1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中で様々な試みが行なわれた。同年末に描かれた『ロスト・ワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている[47]。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描いており[48]、1950年にはゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。

漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者よりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める[49]。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部付属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得している[50]。このため後に手塚は自伝『僕はマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている[51]

雑誌連載開始

手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社は断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読みきりを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった[52]。同年11月より漫画マニア誌『漫画少年』にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 -)の前身となる『アトム大使』を『少年』に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった[53]。1953年には『少女クラブ』にて『リボンの騎士』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は以後の少女雑誌における物語漫画のさきがけとなった[54]。1954年には『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描きつがれる手塚のライフワークとなっている。

雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった[55]。一方描き下ろし単行本のほうは1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々とリメイクされていった[56]

私生活の面では、1952年に上京しており、1953年に『漫画少年』からの紹介でトキワ荘に入居[57]、その後手塚に続いて寺田ヒロオ藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫らが続々と入居し漫画家の一大メッカとなった。この1953年に手塚は長者番付の画家の部でトップとなっているが、住居が木造2階建て建築のトキワ荘であったため取材に来た記者に驚かれ、以後手塚は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている[58]

劇画との闘い

『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作を連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている[59]。1955年-58年の手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており[60]、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』をはじめたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞の対象作品となった。このほかにも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており[61]、1958年には東映動画の嘱託となってアニメーション映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受け持っている[62]

しかし1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎武内つなよし横山光輝といった売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気の面ではそうした漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた[63]。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新たに登場した劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけていった集会に参加したりした[64]。さらに手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り精神鑑定も受けたという[65]。またすでに1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、次第に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる[66]

1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)『少年サンデー』(小学館)が創刊、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となったが、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』のほうには連載13回分の下書きだけして石ノ森章太郎に『怪傑ハリマオ』の連載をさせている[67]。同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と結婚。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず[68]、結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという[69]

アニメーションへの情熱

1961年、手塚は自身のプロダクションに動画部を設立する。少年期からディズニー映画を愛好していた手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事であった。漫画家になる前の1945年の敗戦の年、手塚は焼け残った松竹座で大作アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このときに自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したという[70]

手塚プロダクション動画部は当初6人のスタッフから始まった[71]。スタッフの給料から制作費まですべて手塚の原稿料で賄い、1年かけて40分のアニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する[72]。動画部は1962年より「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。しかし10名に満たないスタッフではディズニーのようなフルアニメーションを毎週行なうのは不可能であり、必然的に絵の枚数を最低限にするリミテッドアニメの手法を取ることとなった。それでも1本2000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人1日66枚を仕上げる[73]という過酷な労働状況が作られることとなり、作品の評判が挙がるのと反比例してスタッフはどんどんやつれていった。

さらに、作品を1本55万円[74]という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くつけたのは、当時のテレビ劇映画の制作費が50万程度であったことと、それだけ安くすれば他のプロダクションがアニメに手をつけないだろうという考えからであったが[75]、手塚自身が「大失敗だった」[76]と認めるようにこれは大きな誤算となった。『鉄腕アトム』のヒットを受けて低予算のTVアニメが次々と作られていくことになったのである[77]。さらに、当初経営の苦しかった虫プロは『鉄腕アトム』の版権収入などで利益を上げるようになると巨大化し、次第に手塚自身でも制御できない状態になっていた[78]。『鉄腕アトム』の4年間の放映のうち手塚の原作があったのは最初の1年半だけで、スタッフが担当したその後のストーリーは人気を得るために戦いばかり描かれるようになり、手塚が好むアニメーションらしいユーモアが失われていった[79][80]

低迷と復活

アニメ制作に乗り出していて以降も手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーTVアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年-1965年にかけて行なわれている[81]。他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件1965年の出来事である。

1966年、手塚は実験漫画誌『COM』を創刊する。白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので[82]、手塚の『火の鳥』を目玉として、石ノ森章太郎永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった[83]1968年には青年誌『ビッグコミック』『プレイコミック』などが創刊し青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は、安保闘争などの社会的な背景もあり暗く陰惨な内容のものが多かった[84]

一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪ハレンチ学園』のヒットを受け[85]「性教育マンガ」と銘うたれた『アポロの歌』『やけっぱちのマリア』などを発表しているが、しかしこの時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた[86]。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年虫プロが倒産、1971年に経営者を辞していた手塚も1億5千万円と推定される巨額の借金を背負うことになった[87]。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している[88]

1973年に『週刊少年チャンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、編集長の好意で始まったものであった[89]。しかし、連綿と続く戦いで読み手をひきつけようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の短編連作の形は逆に新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった[90]。さらに1974年、『週刊少年マガジン』連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げることになる[91]

晩年

1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』の創刊によって再開。1977年時点で手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は漫画の第一人者、漫画の神様という評価を確かなものにしていった[92]。1980年代になると幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる[93]

1988年、体調の悪化により半蔵門病院に入院、胃癌と判明する。病床でも仕事を続け、昏睡状態に陥るようになってからも意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。このため最期の言葉のようなものは残さなかった[94]1989年2月9日死去。その死によって『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』そして『火の鳥』が未完のまま遺された[95]

作風と功績

スタイルの革新性

上述のように酒井七馬との共作による1946年の『新宝島』は、戦後ストーリー漫画の原点とされているが、その一方でこの作品で手塚が「映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような一種の「神話」も生んだ[96]。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新宝島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である宍戸左行『スピード太郎』と比べても革新的なものとは言えないと指摘し、むしろ物語の展開のほうに「手塚の天分」が見られるとしている[97]。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている[98]。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れ、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新宝島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。いっぽう、野口文雄は中野の説を批判し、『新宝島』の革新性は、それまで主に登場人物の台詞による説明に頼っていた時間や状況の進行を、台詞によらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする[99]

上記のような「構図やコマ割りの革新性」といった誤解が生まれた背景には、1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書が10年近く表現規制がなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのようななかで『新宝島』に触れた衝撃や影響を、藤子不二雄Aなど後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった[100][101]

夏目房之介は赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった。[102]これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし[103]、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった[104]。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった[105]

上記の絵柄の記号化、体系化は、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした[106]。漫画制作にアシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由による。それまで漫画で使われるペンは丸ペンが一般的だった)、スクリーントーンの導入などがある。[107]

手塚のテーマ

17年もの間連載された代表作『鉄腕アトム』をはじめ、手塚は作品の中で異民族間、異文化間での対立や抗争を繰り返しテーマにしている。手塚は戦後間もない頃、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている[108]。もっとも『ジャングル大帝』などにおける「ぶあつい唇、攻撃的なイメージ」といった類型的な黒人観は批判されており、手塚の死後の1990年には「黒人差別をなくす会」により抗議を受けている。これ以後手塚の単行本には差別表現について弁明した但し書きが付けられるようになった[109]。桜井哲夫は『ジャングル大帝』の黒人観を「民族対立をテーマがかたられているとはいえ、黒人のイメージ自体のお粗末さは、同時代に同じような作品が多いにしても、やはり救えないというほかない」と批判している[110]

手塚はこうした異民族、異文化間の対立とともに、戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマとして挙げている[111]。これらのテーマから手塚作品のヒューマニズム的な側面がしばしば強調されることになったが、インタビューではそのことを嫌い「はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と皮肉をこめた発言も残している[112]。別のインタビューではヒューマニズムという側面からの制約がある自身の作風と比べ「つげ(義春)君とか、それから水木(しげる)氏、滝田ゆう、このへんなんか、ほんとに本音だけで描いてるんで、羨ましくてしょうがない」と述べている[113]

夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生の頃によく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、エロス、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている[114]

沼地の横で得体の知れないものがブルブル震えながらぼくを待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、ぼくと物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう(略)何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです(略)女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる(略)常に動いているような楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです(略)で、自分はどうかというと常にパッシブで常にそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです[115]

夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線にこめて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという[116]

手塚が影響を受けたもの

手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、長じて田河水泡のらくろ』、横山隆一フクちゃん』の模写をするようになったが、7歳の頃に出た謝花凡太郎によるミッキーマウス海賊版単行本に夢中になりこの本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年ころまではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回以上観たという。手塚は「尊敬する映画人」として、チャーリー・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙げている[117]

夏目房之介は、「手塚がマンガに持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに文学、演劇、宝塚文化を挙げている。幼少期の手塚の家には文学全集があり、よく外国文学を読み漁っていたという。後に漫画化したドストエフスキー罪と罰』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、とくに『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年頃には関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている[118]。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の宝塚の人工的な風景に由来するものと見ている。[119]

人物

才能と敵愾心

手塚のアシスタントであった石坂啓は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことをテレビ番組で証言している[要出典]。フリーハンドでかなり正確な円を描くことができ、揺れるタクシーの中や飛行機の中でもかなり正確な直線を引いたという[要出典]。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が書けなくなった」と体の衰えを語っている[要出典]。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であることを繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対するコンプレックスがあったとも言われている[120]

漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの妖怪漫画が流行すると『どろろ』などの自作で水木風の点描を用い、大友克洋が注目されると大友風のタッチを取り入れるなど、その時々の流行に敏感に対応した。手塚は競争心・敵愾心が強かったことが知られており、ライバルの作家との様々な逸話が残っている(後段#関連のある漫画家を参照)。

速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。[121]

医学者・手塚治

上述のように手塚は医師免許を持っていたが、実際に医師として患者を診たことは無い(もっとも知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っている)[要出典]。手塚は旧制中学時代、栄養失調状態のまま厳しい教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というまでになった。このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動したため医師を目指したという[要出典]。ただし手塚は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であったことも認めている[要出典]

医師としての専門は外科であり、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』などの作品に活かされている。ただし医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく基礎生物学領域のものであった。

戦後に設立された奈良県立医科大学電子顕微鏡が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なおかつスケッチもできる日本で唯一の研究者となった[要出典]。頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文にまとめ、同大学はお礼の意味を込めて医学博士号を贈った[要出典]。学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシ異形精子細胞の研究)。『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されている。なお、同大学の図書館には、手塚が後に贈ったブラックジャッ