斎藤寅次郎 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋斎藤 寅次郎(さいとう とらじろう、1905年1月30日 - 1982年5月1日)は、映画監督。本名寅二郎。秋田県由利郡矢島町出身。喜劇映画を非常に得意とし、しばしば喜劇の神様と称される。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 斎藤寅次郎 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
斎藤寅次郎 /
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8人兄弟の2男に生まれる。一年に一度、活動写真が回ってくるので、夢中になってみていた。
1919年、高等小学校卒業後、上京して親戚(祖父の弟)の家系の医院に住み込み書生となり、明治薬学校に通う。だが、イタズラ好きな性格から、追い出され、浅草の医院に勤務しながら、学校に通う。だが、浅草六区がすぐそばであったため、活動写真を夢中で見るようになる。
星製薬で宣伝の映写技師を応募していたため、入社。マキノ映画が作った宣伝映画をもち、全国を巡業する。やがて、「映画を作る側」になりたくなり、長崎巡業中に退社。旅費節約をかねて、当時開催された「長崎・東京マラソン」で東京へ戻った。
1923年に、親戚で美術家の斎藤佳三(上野美術学校の講師で、松竹蒲田撮影所の美術部長でもあった)の紹介で、松竹に監督志望で入社。当初は時代劇の助監督となり、1925年「桂五郎と幾松」でデビュー。1927年、清水宏と共同で初の喜劇作品「不景気征伐」を監督。1928年には単独で「浮気征伐」を監督。以降、松竹蒲田撮影所で、城戸四郎が開拓した、ナンセンス喜劇を多数演出。渡辺篤や、「和製チャップリン」といわれた小倉繁らを、多く起用した。
1937年に城戸が撮影所長から社長に就任し、新任所長は喜劇のことがわからない人物であったため、打診があった東宝へ移籍。榎本健一、古川ロッパ、エンタツ・アチャコ、柳家金語楼、川田晴久などの錚々たるコメディアンたちの出演する喜劇を監督。のちにサラリーマン喜劇を多数監督した松林宗恵は、東宝時代の斎藤の助監督であった。
戦後は、新東宝、東映、大映などで多数の喜劇映画を撮り、早撮りで知られた。また、美空ひばりの映画初登場作品「のど自慢狂時代」(1949)以来、ひばり映画も多数監督。また、伴淳三郎が「アジャパー」でブレイクしたのも、斎藤監督作品であった。晩年はフリーで活動していた。
先鋭的なギャグに満ちていたと評される蒲田時代の無声作品は、現在極めて少数しか残されていない。
趣味はマラソンで、監督を辞めた後は、日本中・世界中のマラソンに参加していた。死後、瑞宝章の勲四等に叙せられた。
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