日本共産党 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋日本共産党(にほんきょうさんとう、英:Japanese Communist Party,JCP)は、日本の政党である。2008年現在日本の国会に議席のある政党では、いちばん結成が古い党である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 日本共産党 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
筆坂 秀世 /
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| 幹部会委員長 | 志位和夫 |
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| 書記局長 | 市田忠義 |
| 成立年月日 | 1922年7月15日 (合法化は1945年) |
| 本部所在地 | 東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目26番7号 |
| 衆議院議員 | 9 /480 (2006年1月20日現在) |
| 参議院議員 | 7 /242 (2007年7月30日現在) |
| 党員・党友数 | 党員約40万4,000 (内、党費納入者推定26万1,900[1]) (2006年1月現在) |
| 政党交付金 | (制度に反対し受給拒否、2008年現在) |
| 政治的思想・立場 | 左派 革新 共産主義 |
| ウェブサイト | 日本共産党中央委員会 |
| シンボル | 歯車を通した稲穂を乗せた4枚の赤旗 |
| 国際組織 | なし |
日本共産党本部 |
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共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
日本共産党(にほんきょうさんとう、英:Japanese Communist Party,JCP)は、日本の政党である。2008年現在日本の国会に議席のある政党では、いちばん結成が古い党である。
目次 |
公式の文書及び機関紙『しんぶん赤旗』紙面や公式サイトでの自称は「日本共産党」としている一方、日本マスメディアでは「共産党」との略称がほとんどである。英称のJapanese Communist Partyの頭文字によるJCP(略称)という表記もある。
数多く存在する他の「(日本)共産党」と特に区別するため「日本共産党(不破派)」「日本共産党(志位派)」の表記などもあるが、特殊な事例に限られる(他の「日本共産党」一覧はCategory:日本共産党諸派参照)。
「日共」あるいは党本部ビルの最寄駅に因んで「代々木」などの俗称もある。これらは、党及び支持者、マスコミなどで用られていた時代もある。合法化される以前、組織内隠語として使われていた言葉である。現在はもっぱら党に批判的な勢力が用いており、党員及び支持者がこれらの俗称を公に使うことはない。
「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。
2008年現在の国会に議席をもつ党派では日本で最も歴史が長い。「合わせられた4枚の赤旗の上に稲穂と歯車」がシンボルマークである。
日本共産党の2007年7月末現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員7名である。地方議員数は2006年5月3日時点で3,403人と、第一党の地方議会勢力となっている。(自民党所属の地方議員(特に市町村)は無所属で会派を組んでいることも多い。)※後述。また、十数人の党員首長を抱えている。※後述
党員約40万人、機関紙「しんぶん赤旗」発行部数約173万部、支部を職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)置く、などのように、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。
ただし、「綱領を読了した党員が34.2%」(日本共産党第24回党大会決議、2006年1月)「選挙戦への活動参加は、多くの党組織で6割から7割台にとどまった」(同大会第4回中央委員会総会での幹部会報告、2005年10月)という実態もある。
既に死亡した党員について遺族が届け出忘れ・事務処理の遅れなどで党員として集計していたりする場合もある。さらには、本人からの離党の届け・未結集の党員などについて、支部からの要請にもかかわらず、所轄する地区委員会が離党としての処理を行なわず、数年間に渡り引き続き党員として集計され続けている例も多く確認されている。
また、党費納入の率を上げるように促す文書がしばしば出されたり、選挙のときに全党員の決起を呼びかける文書(行動への参加、全党員の日刊紙購読の訴え)が出されるなどの事例が見られることから、「40万人」とされる党員のうち、全てが積極的に党員としての政治活動・選挙活動を行っているわけではない[2]。
日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人寄付によって成り立っている。一般的に、日本の議員は政治資金面で、党よりも自己の収入や政治献金に多く依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤としているが、日本共産党議員の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として企業献金を受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。
政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを唯一拒否している。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられた政党交付金は他党に配分される事態になっている。
その政治資金の大半は機関紙発行の資金として運用している。特に機関紙『しんぶん赤旗』は、独自の編集方針で定評があり、非党員の支持者・中立者の読者も多く抱える。現在は読者数の後退に苦しんでおり、同党自身「『しんぶん赤旗』の読者数は、1990年に286万人だったのが、現在、199万人余になっている。」(同党第22回党大会決議、2000年11月)としている。
日本共産党は、2004年1月13日から1月17日にかけて第23回党大会を開催し、綱領の全面的な改定を決定した。
日本の現状規定は、次の通りである。「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」。これを踏まえ、当面の主張として、(1)大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止を財源とした社会保障の充実。(2)対米従属を批判し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。特に軍事同盟・軍事ブロックからの離脱を目指す。(3)憲法改定を許さず民主主義の徹底を図る、という3点を挙げている。
1960年代までは、対米従属の自衛隊は解消し、対米従属解消後に改憲を視野に入れた自衛のための組織を持つという、いわゆる「中立自衛」政策をとっていたが、1994年の第20回大会で、現行の憲法9条(非軍備・非戦)を将来にわたっての保持を主張することを明示した。その後、現在の同党の自衛隊政策案は、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という『段階的解消論』に立っている。
22回大会では、(1)(2)の段階で万が一急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定している。いわば廃止を目指しつつも国民が望めば自衛隊を存続し、必要があれば「活用」する、というのが同党の現在の政策案である。この政策は同じ護憲政党であっても自衛隊容認から転じて「非武装の日本を目指す」(2006年)との政策に戻った社会民主党とは逆である。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられた[3]。
2005年のスマトラ沖地震、2008年の四川大地震の際には人道支援による自衛隊派遣を容認する発言を幹部会委員長志位和夫が行った。[4]
2007年6月に陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し、公表した(情報保全隊の市民活動監視問題を参照されたし)。
複数政党と諸団体による「民主連合政府」を政権構想として掲げており、早期の単独政権は目指していない[5]。従来の見解では、民主連合政府は過渡的な政権で、「民族民主統一戦線の政府」によって「革命の政府」を樹立するのを最終目標としていた。しかし、2004年1月の綱領改定で、革命政府を目指すという部分を削除した。
党の準綱領的な方針である『自由と民主主義の宣言』では、「3つの自由」として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由を将来に渡って堅持することを公約している。特に、(2)市民的政治的自由では、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由、信教の自由、学問の自由、団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護、(以上、自由、自由権、人権も参照のこと)と発展、また少数民族、個人生活の自由の擁護や国定哲学の否定を謳っている。
天皇制に関しては戦前の絶対主義的天皇制からの現憲法での根本的転換がなされたとして、また「護憲」の立場から憲法の条文どおりの象徴天皇制を容認している。ただし、天皇制自体については現在においても「世襲制は平等に反する」「封建制の遺物」と否定的であり、政権政党となった場合、国民の合意に基づき天皇制を廃止するのが最終目標としている。
国会開会式への天皇の出席や皇室外交についても、「憲法違反」として認めておらず、中止を主張している。このため国会議員団は国会開会式に参加しない。
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と地区委員会等の承認を経て、党員になることができる。入党手続きの前に「党を知る会」が開かれ、党についての説明と、意思確認が行なわれる事が多い。入党に際し掛かる費用は「入党費」(300円)である。
反社会的活動に従事する者や、また国家権力によるスパイ活動を防止するため、警察官・自衛隊員・公安調査官及び各機関の関係者の入党は認めない。関係の切れた元職員の党員は存在する。規約により、他党に所属しつつ入党(重党籍)することは出来ない。他党の元党員が入党することは可能ではあるが、通常の入党手続き(地区委員会の承認)とは異なり「都道府県委員会または中央委員会の承認を受ける」とされている。
党員は基本的には「支部」に所属して活動する。義務である党費は「実収入の1パーセント」(規約第46条)である。しんぶん赤旗の日刊紙を「読むこと」(「購読する」ではない)も、規約上の規定は無いものの一種の努力目標(「4つの大切」[6])となっている。かつては規約で義務化されていた。
「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)と言った党籍長期継続に対する表彰制度がある。著名な50年党員として俳優の花沢徳衛などがいる。党の主要な役職に就いたり、公職の選挙に立候補しない限り、党員であることを積極的に公表する人は極めて少ない。
職場、居住地域、学園などに、3人以上の党員で「支部」を形成(労働運動、女性運動などの専従者・役員は支部の代わりに「グループ」を形成)。かつて「支部」は「細胞」と呼ばれていた。支部は「党の基礎組織」とし、支部 - 地区 - 都道府県 - 中央の形で縦割りに組織している。各級は党会議あるいは総会により、指導機関である「委員会」(支部は「支部長」の場合もある)を選出する。
現在の日本共産党規約[8]では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。かつては上意下達的な指揮命令権が確立されており地域の実情が考慮されていない傾向が強かった。その傾向により活動や自治体運営のうえで障害が発生する事もあったため、近年ではその反省からか「指導」はかなり控えめになっている。
日本共産党はいわゆる「査問」の存在を否定しているが、かつて「査問」に付され党を除名されたり、後年離党した査問経験者が、その経験談を著作やウェブサイト上で公開し、告発している[10][11]。最も著名な例1972年の「新日和見主義事件」では、査問の対象者は長期間一室に監禁され、家族への連絡も許されなかったなどの証言もあり、「重大な人権侵害」との指摘がある。
日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。
代々木駅・北参道駅に近い東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目の東日本旅客鉄道中央本線沿いにある。地上8階・地下2階の「2期棟」(2005年完成)と、地上11階・地下1階の「1期棟」(2002年完成)で構成され、延べ床面積は約16000m²で、延べ床面積では日本の政党本部ビルでは最大規模である[12]。総工費は85億円で、多くは党員・支持者からによる寄付や無利子借入金による。
「日本共産党中央委員会」を掲げ、中央委員会の諸機関が入居しており、中央委員会総会が開催できる500人収容可能の「大会議室」を有する。一方で、党大会は収容人数の問題から行わず、またしんぶん赤旗編集局は向かいの別のビルに入居している。
この他エントランスホールは8時から20時まで自由に出入りできるようにするなど、一部が一般に開放されている点が特徴。本部見学も行われている。なおこの場所は、元々映画館であった建物を党の合法化以降使用し始めたものであり、後に改築・建て増しを繰り返し、8棟のビルからなる本部となった。本部内は「平成日本のよふけ」で放送された。
静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2kmの山中にある。科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党学校」などが開かれる他、党大会が付属大講堂で開催される。そのため、宿泊施設も存在する。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。
都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。
日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、党員・後援会員以外の人も購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生党員向けの『学生新聞』も発行されていた。
『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。
かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあり、1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」している。
なお、1989年の消費税導入当初には新聞などの広告に「日本共産党は消費税廃止を主張していますが、流通取り扱い上価格は税込みとします」という文言が入っていた。
都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。
同党は新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力している。同党の事務所で販売や定期購読の申し込みを受け付けている。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。
かつては小中学生向けの『少年少女新聞』や雑誌としては『文化評論』『あすの農村』『労働運動』などもあったが、休刊もしくは廃刊している。
1922年7月15日、堺利彦、山川均、荒畑寒村といった日本社会党の元党員を中心に日本共産党が設立された(9月創立説もある)。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。 しかし創設当時から、治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。これはかなり異質である。
11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから綱領として「日本共産党綱領草案」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。
当時の絶対主義的天皇制に反対し日本を民主国家にすることを目標としたため、日本共産党は繰り返し政府から弾圧を受け、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に解党された。堺や山川らは共産党運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。また、後に日本革新党を結党する赤松など、国家社会主義等の右翼に転向する者もいた。
その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が制定された。この二つは後の共産党の運動に大きな影響を与える事になる。
1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された。佐野学、徳田球一らが幹部となっている。1927年には「27年テーゼ」がコミンテルンから通告される。これにより、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用することになる。この理論は、山川や福本和夫の理論を否定するものであったため、労農派と論争が起こり、両者は決裂することになる。この対立は1938年の人民戦線事件で労農派が消滅するまで続いた。(日本民主革命論争・日本資本主義論争)。
当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。幹部であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二や宮本百合子らのプロレタリア文学活動にも多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受け、党はダメージを受けた。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。
当時の指導部内では革命近しの気運が高まっていた。そのため1930年には川崎武装メーデー事件、東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件等の暴発事件を起こしている。
1931年8月1日、反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。
1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とするステートメントを出している。このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1932年には「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。軍隊内部への浸透を図ったものだったが、この計画は弾圧を受けて失敗に終わった。
1932年5月、コミンテルンにて32年テーゼが決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制と規定し、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由、労働者・農民の政府のための人民革命」を中心スローガンとするものであった。
しかし同月、全協の活動家である宮上則武が「超スパイ(プロヴァカートル、挑発者)」としてリンチされ、一命を取り留めたが除名されるという事件が起こる。8月15日、朝鮮人活動家の尹基協が「スパイ」容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。この頃から内部でのスパイ狩りが始まり出した。
10月には熱海で極秘裏に全国代表者会議が開催されたが、当局により代表者達が逮捕されている。(熱海事件)また同日、赤色ギャング事件が発生。多くの活動家が逮捕された。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。この動機を現在の日本共産党は、政府と特別高等警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。また、それらの協力者や工作員のが主要幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、共産党の社会的信用の失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとしている。実際にスパイであったことを公判で「自白」して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。
さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。
12月、中央委員である宮本顕治らが「スパイ」容疑のある人物2人を監禁し、取り調べていた際に、1人が死亡する事件が発生した(スパイ査問事件)。特高警察はこの事件を「党内部の派閥抗争によるリンチ殺人」とでっちあげた。その後、党内に潜入していたスパイの手引きにより、宮本らを始めとする活動家は逮捕され、また世間にも事件は大きく報道された。
党内の動揺はいよいよ激しくなり、1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルンでも人民戦線戦術が提唱された。モスクワから帰国した日本共産党幹部によって「人民戦線運動」が呼びかけられたが、大きな広がりにはならなかった。
日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。
その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも弾圧の対象となった[13]また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。
1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
その後も国民の生活困窮を背景に党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では35議席を獲得した。
米ソの冷戦が激化し、中国で中国共産党が勝利し朝鮮半島での緊張が高まると、米国は、「日本を中立・非武装化して中国をアジアの拠点とする」というそれまでの戦略を転換させ、日本を「反共の砦」と位置づけるようになる。反共・封じ込め政策に基づくいわゆる「逆コース」である。このため日本の朝鮮戦争(1950年)の出撃基地化、日米安保条約の締結(1951年)、「戦犯」の復帰、警察予備隊(のちの自衛隊、1950年)の創設がおこなわれ、共産主義者とその同調者とされたものにレッドパージがかけられた。1950年にマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止を指令。日本共産党は中央委員会を解体し、幹部だった徳田球一らは非合法活動に移行。中国に渡航して「北京機関」とよばれる機関がつくられた。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。
この頃、中国共産党勝利により、武装闘争による革命という路線を普遍化しようとしていたスターリンと毛沢東らは、コミンフォルムを通じて、当時の日本共産党の「占領下での革命」論(平和革命論)を批判。このコミンフォルム論評の評価をめぐり、党内で意見が別れた。さらに後にソ連・中国が徳田らの主流派を支持する形で他の反主流派を批判するキャンペーンを展開し、資金などの応援もしたため、占領軍による弾圧とあいまって、日本共産党は分裂・混乱に陥った。
党は、徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。また1950年には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
主流派は1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「軍事方針」を採択。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。徳田を中心とした主流派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。この1950年代の同党の分裂と混乱を、同党自身は「五〇年問題」(50年問題)・「五〇年分裂」(50年分裂)と呼んでいる。
1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。6全協とその後の総括・宮本路線などのソフトイメージで武闘路線を放棄したと言われている現在も、敵の出方論を主張しているという理由から公安警察や公安調査庁により“調査活動”が現在も続けられている。特に警察は日本共産党幹部宅盗聴事件、アジトからの隠しカメラを用いた党本部監視、果ては菅生事件など、明るみに出ただけでも複数の非合法な手