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日本航空インターナショナル とは?

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株式会社日本航空インターナショナル(にほんこうくうインターナショナル、英語表記Japan Airlines International Co.,Ltd.)は、日本航空会社株式会社日本航空持株会社)の完全子会社であり、日本最大の航空会社である。2006年現在、アジアで1位、世界で10位の規模を誇る航空会社である[1]

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


日本航空インターナショナルはてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  2004年4月1日に発足された日本航空の国際線部門を受け持つ会社。

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


日本航空インターナショナル
Japan Airlines International Co.,Ltd.
IATA
JL
ICAO
JAL
コールサイン
JAPANAIR
設立日 1951年
ハブ空港 成田国際空港
東京国際空港
関西国際空港
大阪国際空港
焦点都市 /
準ハブ空港
中部国際空港
福岡空港
新千歳空港
マイレージサービス JALマイレージバンク
会員ラウンジ サクララウンジ
同盟 ワンワールド
保有機材数 232機
目的地 125都市
親会社 株式会社日本航空
本拠地 東京都品川区
代表者 西松遙
ウェブ: http://www.jal.co.jp/

株式会社日本航空インターナショナル(にほんこうくうインターナショナル、英語表記Japan Airlines International Co.,Ltd.)は、日本航空会社株式会社日本航空持株会社)の完全子会社であり、日本最大の航空会社である。2006年現在、アジアで1位、世界で10位の規模を誇る航空会社である[1]

JALグループ再編の一環として2004年に日本航空株式会社から社名変更し国際線担当会社として発足したが(社名はその再編構想による名残りである)、後に国内線担当の日本航空ジャパンを吸収合併したことにより、JAL便の運行を受け持つ単一の事業会社となった。グループを代表する中核事業会社として、一般には持株会社同様、日本航空日航JAL(ジャル)と通称されることが多い。

目次

歴史

設立

1945年8月の第二次世界大戦における日本の敗戦後、日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止された。しかし、1950年6月にGHQにより日本の航空会社による運行禁止期間の解除の決定が下されことを受けて、1951年1月に国内航空運送事業免許の取得を目指して「日本航空創立準備事務所」が開設された。

ダグラスDC-3(同型機)

同時期に他にも4社が国内航空運送事業免許の申請の意向を見せたが、行政指導により、最も具体性の高い運送事業案を提示していた日本航空に最終的に一本化され、同年3月に国内航空運送事業の免許を申請。その2ヶ月後の同年5月に営業免許を取得したことを受けて、同年8月に「日本航空株式会社」として設立された[2]

日本政府主導による半官半民の体制で、設立当初の本社は東京都中央区銀座(現在銀座日航ホテルがある場所)に置かれ、資本金は1億円であった[3]。なお、この時点においてはあくまで定期運行開始の為の準備期間であり、まだ社有機は1機もない状況であったため社員は代表取締役会長藤山愛一郎以下わずか39名であった。

その後、定期運航開始に向けて、まず同年8月27から29日にかけてフィリピン航空からチャーターしたダグラスDC-3型機で、運航関係者や報道関係者を対象にした試験招待飛行を実施した他、9月には羽田空港大阪福岡札幌などの当初の就航予定地に支所や出張所を開設した。

定期旅客運航開始

マーチン2-0-2「もく星号」と客室乗務員
DH106 コメット

10月25日には、戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカノースウエスト航空から乗員とともにリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港-伊丹空港-板付空港間の定期旅客運航を開始した。その後11月1日より正規ダイヤの運航に移り、羽田空港-千歳空港間の運航も開始するとともに、より大型のダグラスDC-4B型機もノースウエスト航空からリースした。

運行開始時には社員数が162名に増えたものの、当初は国内線の運航のみで、しかも当時日本に乗り入れていた旧連合国陣営の外国航空会社5社による共同設立会社であるJDAC(Japan Domestic Airline Company)との運航委託を条件とした営業免許だったこともあり、JDACの1社であるノースウエスト航空の機材と運航乗務員による委託運航という体制だった。しかし翌1952年4月に、ノースウェスト航空の乗務員が運航していたマーチン2-0-2型機「もく星号」が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあり、10月にノースウェスト航空との運航委託契約が切れるのを待って、新たに購入したダグラスDC-4B型機によって自社運航機材と自社運航乗務員による自主運航を開始した。

また、これに先立つ同年6月には、国内ローカル線用にイギリス製の近距離向けプロペラ機のデハビランド DH.114 ヘロン型機を発注した他、7月には、本格的な国際線運航に向けて、英国海外航空パンアメリカン航空カナダ太平洋航空などの各国のライバル各社に続き、1952年に英国海外航空によって就航したばかりのイギリス製の最新鋭ジェット旅客機であるデハビランドDH106 コメット型機の最新型であるコメットIIを2機発注した。さらに9月にはダグラスDC-4B型機に代わる国際線主力機として、DC-4Bを大型化し客室を与圧化したダグラスDC-6B型機も相次いで発注した。

しかしDH.114 ヘロンは翌1953年8月に公布、施行された日本航空株式会社法(なお、「日本航空株式会社法」の公布に基づき、同年10月には新しい「日本航空株式会社」が誕生した)の規定により、日本航空の運航路線が国際線および国内の幹線のみに限定されることとなったため、自社で運行乗務員の訓練用に使用した後、1954年2月から8月にかけて日本ヘリコプター(現在の全日空)に賃貸し、その後同社に売却することになった。また、先に発注したコメットIIも、その後設計ミスにより空中分解する連続事故を起こし運航が停止となったため、その後多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした。

国際線運行開始

ダグラスDC-6型機(同型機)

1953年11月には同社初で、第二次世界大戦後の日本の航空会社としても初の国際線となる東京(羽田空港) - ホノルル - サンフランシスコ線の運航を、昨年に発注したダグラスDC-6B型機によって開始した。さらに翌年には当時アメリカをはじめとする連合国軍の占領下にあり、「国際線」扱いであった沖縄線(羽田空港-那覇空港間)の運航を開始した。

運航開始当初は、新鋭機を揃えしかも長年の実績があり信頼性の高いパンアメリカン航空やノースウェスト航空、英国海外航空などの諸外国の航空会社との競争に苦戦したものの、1954年2月にはIATAの決定によりこれまでのファーストクラスに合わせてエコノミークラスの設置が許可された上、ニューヨークサンパウロ香港台北など世界の主要都市に相次いで支所や営業所を開設し、海外での営業を強化するなどの地道な営業努力が実を結び、その後1955年度には国際線、国内線とも黒字に転じた。また、新たな国際線機材として当時の最新鋭機種であったダグラスDC-7C型機を導入した他、整備やグランドハンドリングの子会社を次々に設立するなど自社整備体制を充実させ、諸外国の航空会社との競争に対抗してゆくこととなる[4]

なお、機材ラインナップや整備体制が充実し企業としての体制が整ったこの頃より、皇族首相閣僚の海外公式訪問や国内移動の際に日本航空の特別機が頻繁に使用されることになり、1954年8月には、北海道で開かれた国民体育大会開会式から帰京する昭和天皇香淳皇后のために、初の皇族向け特別機が千歳空港-羽田空港間で運航された。これは天皇として史上初の飛行機による移動であった[5]。なお、これ以降も日本航空機による皇族や政府首脳向けの特別機が運行された上、1992年にボーイング747-400型機2機が日本国政府専用機として導入されて以降も度々運航されている。

ボーイング707型機(同型機)

1955年12月には、先にキャンセルしたデハビランド・DH106 コメットII型機に代わるジェット旅客機として、当時アメリカのボーイング社が開発を進めていたボーイング707型機と、ダグラス社が開発を進めていたDC-8型機の2機種を選択し様々な条件を比べた結果、過去に導入実績のあるダグラス社のDC-8型機4機の導入を正式に決定した。なお、当時日本航空および日本政府の外貨準備高がまだまだ低かったこともあり、その購入資金の4分の3はアメリカ輸出入銀行とダグラス社からの借款によって調達した。

なお、太平洋横断路線における最大のライバルであるパンアメリカン航空が一足早く、1959年9月にボーイング707-120型機を太平洋横断路線(東京-サンフランシスコ線)に投入し所要時間を大幅に短縮した上、1便当たりの旅客数も大幅に増加させたものの、日本航空は翌1960年7月までダグラスDC-8が納入されなかったことから、多くの乗客をパンアメリカン航空に奪われ営業的に大打撃を受けてしまった[6]

1960年代

ダグラスDC-8型機(旧々々塗装)
3機の導入が予定されていたコンコルド機の想像模型

しかし1960年8月には、先月に受領したダグラスDC-8-32型機を太平洋路線に投入したことから、急速に太平洋路線の乗客数が回復した。その後もダグラスDC-8シリーズの増強を続け、翌1961年6月には、これまではエールフランス航空との共同運営だった北回りヨーロッパ線の自社運航を同機で開始し、アンカレジ経由で(ノルウェーボードーでのテクニカルランディングを行う場合もあった)パリロンドンコペンハーゲンへの乗り入れを開始した。これ以降、アジアやヨーロッパ、アメリカ各地を中心とした国際線と国内幹線を中心に急速に規模を拡大し、併せて未就航地を含めた世界各国に支店網を展開していく。また、日本の高度経済成長に伴う国内、国際航空貨物の急増に対応してダグラスDC-7FやダグラスDC-8Fなどの貨物専用機を次々と導入し、その路線網を拡充していった。

同時に、1960年代の日本の高度経済成長による国内外路線におけるビジネス旅客の増加や東京オリンピックの開催による海外からの来日客の増加、新幹線の開通や全日空や日本国内航空などによる国内線の競争激化、1964年に予定された海外渡航制限の解除に伴う海外旅行の自由化による旅行客の増加に先駆けて、1961年9月には中距離用ジェット機のコンベア880を受領し東南アジア線と南回りヨーロッパ線に相次いで投入した他、日本で初めての国内線ジェット便として羽田 - 千歳間に投入した。その後1964年1月にはボーイング727を発注し翌年7月に受領し国内線に投入した。

1964年6月には、アメリカ連邦航空局が開発を行っていた超音速旅客機の「US SST」(開発会社はこの時点では未定)を5機仮発注した他、翌1965年にはエールフランス航空やパンアメリカン航空などのライバル各社とともに、先行して開発が進んでいた超音速旅客機のBAC-シュド・アビアシオンコンコルドを3機仮発注した。その後1966年に「US SST」の開発会社がボーイングに決定し、機種名が「ボーイング2707」に決定したことを受け3機追加仮発注し、両機ともに1970年代前半の就航を図ったものの、両機の開発が大幅に遅れた上に、超音速飛行に伴う衝撃波や離着陸時の騒音などの超音速旅客機特有の公害問題の存在が明らかになったこともあり、その後多くの航空会社と同様に両機の発注をキャンセルした[7](なお、ボーイング2707はその開発計画自体がキャンセルされた)。

1965年1月には、1964年の海外渡航制限の解除に伴い、日本初の海外パックツアーブランドである「ジャルパック」を発売し、高度経済成長期以降の日本における海外旅行の増大を後押ししていくことになる。さらに1967年にはアジアの航空会社として初の世界一周路線を実現し、同時に、ニューヨーク-ロンドン間の大西洋横断路線を開設した他、航続距離が増大したダグラスDC-8スーパー62の導入に伴い、東京-サンフランシスコ間の太平洋無着陸横断路線やシベリア上空経由のヨーロッパ直行便(モスクワ経由。開設当初はアエロフロートとの共同運航で、同社のツポレフTu-114に日本航空の運航乗務員と客室乗務員が同乗した)を開設する。また、当時民間機としては世界最大の座席数を誇ったダグラスDC-8スーパー61を導入し近距離国際線や国内幹線に導入するなど、名実ともに世界有数の規模の航空会社となる。

1967年にはアメリカ占領下の沖縄にて、地元資本との合弁により沖縄諸島を結ぶ地域航空会社として南西航空(現在の日本トランスオーシャン航空)を設立し、その後の1972年に実現される沖縄返還後の沖縄諸島の民間航空の発展に備えることになる。1969年には日本国内航空から日本航空機製造YS-11型機1機をウエットリース(乗員込みのリース)し、福岡-釜山線に投入し約1年間運航した。これは唯一の日本の航空会社によるYS-11型機での国際線運航となった。

1970年代

ボーイング747型機

1970年7月には当時の最新鋭機である大型ジェット機のボーイング747を就航させ、これに合わせて新塗装(いわゆる「初代鶴丸塗装」)と新しい客室乗務員の制服も導入した。また、これに先立つ同年3月には、国際線上顧客向けの会員組織であるJALグローバルクラブを発足させた他、1974年10月には、ボーイング747のエコノミークラスの一部を普通運賃個人旅客専用エリアとする、現在のエグゼクティブクラスの先駆けである「タチバナ・エグゼクティブ・キャビン・サービス」を導入するなど、新しいサービスを次々と導入することにより、増加を続ける国際線上顧客のさらなる取り込みを行った。同年には系列ホテルの開発と運営を行う日本航空開発が設立され、ジャカルタの「プレジデントホテル」の運営受託や、パリの「ニッコー・ド・パリ」の運営を皮切りに海外におけるホテル運営を開始する。

併せてこの頃より、高度経済成長期以降の海外旅行の大衆化や、1970年代前半に実施された日本円アメリカドル間の変動相場制導入以降の円高などによる地方発の海外旅行者の増加に伴い、大阪や名古屋、福岡などの地方空港発着の国際線路線網が充実していく。しかし、1960年代後半からこの頃にかけての急激な事業拡大路線が、1972年ニューデリーモスクワなどにおける一連の連続事故を招いたと言う批判もある[8]。また、1970年代前半から中盤にかけて数回に渡り、当時各国で積極的にテロ活動を行っていた日本赤軍などの左翼過激派によるハイジャックの標的になった他、オイルショックによる原油価格高騰による燃料費の高騰と、世界的な不況の影響を受け一時的に経営に打撃を受けた。

日本アジア航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機
成田国際空港の開港時に日本航空が使用していた第1ターミナル

また、1970年の閣議了解を受けた1972年7月の運輸大臣通達により、日本航空は国際線と国内幹線を、全日空が国内幹線とローカル線、近距離チャーター線を、東亜国内航空が国内ローカル線を主に運航するよう定められた。この新たな産業保護政策は、「45/47体制」または「航空憲法」と呼ばれ、以後日本航空を含む航空3社はこれに従い経営を進めていくことになる。これによって国内ローカル線への参入は見送られたものの、1973年10月には先に導入したボーイング747の日本国内路線専用機材「SR」を国内幹線に大量導入した他、最大で300席を超える座席数を持つ大型ワイドボディ機のマクドネル・ダグラスDC-10の導入を進めるなど、国内線における大量輸送時代を他社に先駆け牽引してゆくこととなる。

なお、1972年9月の日本と中華人民共和国との国交樹立(と中華民国との国交断絶)に伴い、後に「ロッキード事件」で逮捕されることになる田中角栄首相の肝いりで締結された「日中航空協定」[9] 内に、「中華人民共和国に乗り入れする航空会社は中華民国に乗り入れてはならない」旨の条文を中華人民共和国政府が入れ込んだことにより中華民国政府が日本との航空路線を断絶させた[10]のを受けて1974年4月に廃止された中華民国路線を運行するために、1975年8月に別会社の日本アジア航空が設立され、同年9月より同社に移管されたダグラスDC-8-53により運航が開始された。数機のダグラスDC-8が追って移管され、以後2008年4月まで35年以上の長きに渡り、日本航空グループの中華民国への路線は日本アジア航空が運航することになる(日本航空の機材や日本航空と日本アジア航空の共通運行機材でも運航していた)。なおこれ以降日本航空グループは、中華人民共和国が主唱し日本政府も追従する「1つの中国」政策に追従して、中華民国をその正式国名ではなく「台湾」と呼んでいる。

1978年5月には千葉県成田市に新東京国際空港(現在の名称は成田国際空港)が開港し、この新空港の第一号機として日本航空(JALカーゴ)のダグラスDC-8−55F貨物機が着陸する。これ以降、これまで羽田空港に発着していた全ての日本航空と日本アジア航空の国際線が新空港に移り、併せて日本航空の新たなハブ空港として機能させるべく、各種整備設備や国際線オペレイションセンター、貨物施設なども設けられた他、同月には空港周辺にホテル日航成田が開業した。

1980年代

1980年代に入り、好調な日本経済の状況により円高が進んだことや、国際線における競争が激化したことに伴い、航空運賃が下がったことなどから日本人の海外渡航が飛躍的に増加した。これに対応してボーイング747の最新型である-300(SUD)と同-300SRの追加発注を相次いで行い、ボーイング747の世界最大のカスタマーとなった。また、1980年9月には日本の航空会社としては始めてのビジネスクラス「エグゼクティブクラス」の導入を行った他、1983年7月にはボーイング747-200LR「エグゼクティブ・エクスプレス」により、これまではパンアメリカン航空のボーイング747SPしか運航していなかった東京-ニューヨーク間の無着陸直行便の運航を開始。1985年には同路線に世界初のファーストクラスとビジネスクラスのみの機材を就航させる他、1982年には、航空会社が発行するクレジットカードとしては日本初の「JALカード」をテスト発行し、翌年4月からは全国での発行を行うなど、収益率の高いビジネス旅客の取り込みを進めた。

ボーイング767型機

これらの積極的な経営拡充を受けて、1984年IATAが発表した1983年度の世界の民間航空会社の輸送実績統計では、旅客と貨物を含めた国際線定期輸送実績で、長年ライバル関係にあったパンアメリカン航空やブリティッシュ・エアウェイズ、エールフランス航空などの各国のフラッグ・キャリアを上回り世界第1位になった[11]。しかし一方で、1982年には機長が故意に墜落させた日本航空羽田沖墜落事故(日本航空350便墜落事故)が発生。さらに1985年8月には、単独機の事故としては世界最大の犠牲者数(520名)を出した日本航空123便墜落事故が発生し、これによる利用客の減少と補償経費の増加などによって一時的に業績が悪化した。

なお、この年に「45/47体制」が廃止されて国内ローカル線への就航も可能になったことにより、これまで全日本空輸東亜国内航空の独擅場で、日本航空には幹線と一部の準幹線の運行しか許されていなかった国内線路線網も、高収益が見込める羽田空港発の路線を中心に飛躍的に拡大され、同年8月には国内線と近距離国際線用の新型機材であるボーイング767型機などの新規導入や、当時世界最大の客席数を誇り、日本航空のみが運航していたボーイング747-300SRの追加導入を行いこれに対応することになった。しかし同時に、これまで国内線と国際線チャーター便の運行だけしかできなかった全日本空輸や東亜国内航空などの後発航空会社にも国際線参入への道が開かれたことで、さらに日本発の国際線における価格競争が進むことになる。

ボーイング747-400型機

また、日本経済の更なる国際化やプラザ合意後の円高の進行に伴い海外渡航者数が増加することに対応するとして、1980年代中盤以降に、系列会社の日航開発(現JALホテルズ)により、ニューヨーク(エセックスハウス)やメキシコシティホテル・ニッコー・メキシコ)、バンコクビバリーヒルズなど世界各地に急速に自社ホテル網が築かれていった他、大阪や福岡、沖縄や北海道など国内にもホテル網を拡大していく。

なお、1951年の設立から長らく半官半民という経営体系であったが、「45/47体制」廃止後の1985年9月には、当時の中曽根康弘首相が進める国営企業や特殊法人民営化推進政策を受けて完全民営化の方針を打ち出し、その後準備期間をへて1987年11月に完全民営化された。民営化後には上記のホテル事業などに加えて教育事業やIT事業、レストラン事業や出版事業の子会社を次々設立するなど、事業の多角化が進んだ。またこの頃、ボーイング747の最新型である747-400型機の大量発注を行った他、ボーイング767型機の納入が進んだことなどを受けて、同年12月を持って長年同社の主力機として運行されていたダグラスDC-8型機(最後まで残ったのはDC-8-61型機)が全機退役した。

1990年代

「リゾッチャカラー」のJALウェイズのボーイング747-300型機
マクドネル・ダグラスMD-11型機

1980年代後半から始まったバブル景気がピークに達した1990年には、先に発注した最新鋭機のボーイング747-400型機を導入すると同時に、新塗装と新型ビジネスクラスを導入した。しかしその後、1991年1月の湾岸戦争勃発に伴う海外渡航者の減少と燃料の高騰、同年のバブル景気の崩壊。1980年代以降の日航開発による海外のホテルなどへの無理な投資や、燃料の先物取引の失敗などの経営判断のミス。過激な労働組合活動に後押しされた人件費の高騰などの様々な悪条件が重なり、1992年度決算では538億円という巨額の経常損失を計上し経営不振に陥った。

しかし、国内外のホテルをはじめとする不動産などの余剰資産の売却や共同運航便やコードシェア便の増加、契約制客室乗務員制度の導入などによる人件費の削減、半官半民時代に国策で運行させられていた中東路線や南回りヨーロッパ線などの不採算路線の廃止やJALウェイズJALエクスプレスなどの低コスト運行を行う子会社を設立し収益性の低い路線の運航を移管するなどのリストラを行った上、1994年にはホノルルや沖縄、オーストラリアなどのリゾート路線向けにリゾッチャなどのキャンペーンを導入し個人旅行客の取り込みに成功した他、円高による海外渡航者の回復などの追い風に後押しされて、1990年代中半には経営状況が急激に回復する。

業績が順調に推移していく反面、1998年8月には、暴力団総会屋関連企業に「観葉植物のリース料」名目で数千万円の利益供与を行っていたとして元役員らが起訴されるなど裏社会との関係が明らかになり、急遽企業行動点検委員会が設置された。しかし同年にも、自社の株主優待券を金券ショップで換金し、総会屋対策の裏金を捻出していたことが東京国税局の税務調査で発覚するなど構造的な腐敗体質が明らかになり、以降は企業コンプライアンスの改善に注力してゆくこととなる。

また、国内外における顧客獲得競争の激化に対応して、1995年6月には日本の航空会社として初のウェブサイトを開設し、1996年7月には国内線の、1997年1月には国際線のオンライン予約サービスを開始した他、マクドネル・ダグラスMD-11型機やボーイング777型機などの最新鋭機の導入を行った。また、新型ビジネスクラス「SEASONS」の導入やエコノミークラスへのパーソナルテレビの導入。1980年代より導入していたマイレージプログラムの本格展開や国際線の正規割引運賃の導入など、順調な業績と競争の激化を受けて新規サービスを導入してゆく。

2000年代

日本航空と日本エアシステムのハイブリッド塗装が施されたエアバスA300-600R型機

その後2000年代入ってからも業績は順調に推移していたものの、無謀ともいえる国際線の拡充や同業他社に比べ高い給与などの放漫経営による多額の累積赤字を抱えていた上に、2001年9月に発生したアメリカ同時多発テロ以降に深刻な経営不振に陥っていた日本航空だが、国内線大手の日本エアシステム(後の日本航空ジャパン)と、2002年に合併を前提とした経営統合を行ってからは大幅に経営体系が変わり、その後以下の形で経営統合と合併が進められた。

  • 2002年10月 - 日本航空(現在の日本航空インターナショナル)と日本エアシステムが株式移転し、持株会社を設立(日本航空システム:JALS)。
  • 2004年4月〜6月 - 日本航空便と日本エアシステム便を、日本航空便に統合。および、これを反映した商号変更(日本航空→日本航空インターナショナル、日本エアシステム→日本航空ジャパン、日本航空システム→日本航空)。
  • 2006年10月 - 日本航空インターナショナル(旧:日本航空)による日本航空ジャパン(旧:日本エアシステム)のとの合併

現在は持株会社である株式会社日本航空の傘下として、日本航空グループの中核をなす航空会社という立場になった。なお、経営統合初期の計画では、貨物事業(国際・国内とも)を「日本航空カーゴ」として分社化する予定だったが、航空協定上問題があることが判明したため、日本航空インターナショナルの事業とした。

JALワンワールド・デザイン機(JA8941)
「空のエコ」特別塗装のボーイング777-200型機

当初は、日本エアシステムとの経営統合とそれに続く同社の合併によって、国内線網の強化や余剰資産の売却などによる収益構造の強化、安定が見込まれたものの、合併以降の社内の対立によるサービス上の混乱や、航空機の整備不良などの相次ぐ不祥事に伴う客離れを起こした上に、「親方日の丸」的体質の日本航空の高コスト、低効率体制を経営統合後もそのまま維持し続けたことや、イラク戦争以降の航空燃料の高騰、SARS渦などのマイナス要因が重なり急速に業績の悪化を招いた。

このため、「聖域なきコスト削減を行う」との合言葉の元に、日本エアシステムとの経営統合、同社の吸収合併に伴う余剰人員や機材の削減、地方発着路線やリゾート路線などの不採算路線の統廃合、乱立する労働組合対策、総合職や客室乗務員の給与削減などの大規模なリストラを進めると同時に、国内線と国際線の双方において新しい機内サービスの導入を進めた。これに併せて、日本発最大の国際線ネットワークを生かした上でワンワールドへ加盟することで国内、国際線の乗り継ぎ利便性を高める他、インドロシア、中華人民共和国などの高需要路線における積極的な増便や、各種割引運賃や世界一周運賃の導入などの顧客に受け入れられやすい運賃体系を次々に導入するなど、様々な新サービスの展開を進めたことを受けて、2007年の第3四半期には国際線旅客数が好調に推移するなど業績が順調に推移した[12]

しかしながら、日本航空の客室乗務員の業界一と言われる高年齢/高賃金や、世界的に見ても高いままのパイロットの給与削減や待遇の改定が、複数存在する反会社側労働組合の圧力を受けてほとんど行われていないことから、「聖域なき」との合言葉とは裏腹の中途半端な経営陣の態度に、株主や社員から非難の声が起きている。

なお、2007年11月に日本政府と中華民国政府の双方が日本-中華民国路線の直接運航を認めることを確認したことを受けて、2008年4月1日には、日本-中華民国路線を運航していた日本航空グループの1社である日本アジア航空による同路線の運航を終了、同社を吸収合併し1975年9月以来、約34年ぶりに日本航空インターナショナルの運行になった。

沿革

斜体のものは日本航空ジャパン=日本エアシステムの事項。更なる詳細は日本エアシステムの記事を参照

  • 1951年(昭和26年)8月1日 - 第二次世界大戦後初の民間航空会社として日本航空が設立される。
  • 1951年(昭和26年)10月25日 - 初の路線となる東京-大阪-福岡線をマーチン202型「もく星」号により開設。
  • 1952年(昭和27年)10月25日 - ダグラスDC-4型により自主運航開始。
  • 1953年(昭和28年)8月1日 - 日本航空株式会社法(昭和28年法律第154号)公布。同日施行。
  • 1953年(昭和28年)10月1日 - 日本航空株式会社法に基づき、旧会社の権利及び義務を承継した特殊会社「日本航空株式会社」を設立。
  • 1954年(昭和29年)2月2日 - 初の国際線となる東京-ウェーキ-ホノルル-サンフランシス