旧制中学校 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋旧制中学校(きゅうせいちゅうがっこう)とは、かつての日本で、男子に対して中等教育を行っていた学校の一つである。旧制中学(きゅうせいちゅうがく)と略されることも多い(旧制中等学校との違いに注意)。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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旧制中学校は日本において明治時代から昭和時代前期にかけて学校教育法に基づく現代の中学校や高等学校に代わられるまで存在し、高等普通教育(現在でいう後期中等教育、新制高等学校・中等教育学校後期課程の段階に相当する)を行っていた。
入学資格は尋常小学校(後に国民学校に移行)を卒業していることであり、修業年限は、元々5年であったが、後に1941年(昭和16年)に制定された中等学校令(昭和18年勅令第36号)によって4年に改められた。
1948年4月に現在の高等学校制度が発足すると、旧制中学2年生以下の生徒は暫定的に後身高校の附属(新制)中学校の生徒となり、3年生は後身の高等学校へ進級し、旧制中学卒業者のうち希望者は後身高校へ編入した。
旧制中学校を経ると(中等学校令制定前は4年修了後に)旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。また、旧制中学校2年生を修了すると師範学校への進学が可能であった。
旧制中学校と類似の学校には、女子に対して中等教育を行った高等女学校、小学校卒業者に職業教育を行った実業学校がある(ただし、高等女学校や実業学校からさらに上級学校に進学するには、旧制中学校より制限があった)。
旧制中学校は第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策に従って定められた学校教育法の元で新制の高等学校へ転換され、公立校の多くは共学化された。しかし一部地域(北関東・東北など)では共学化は必ずしも徹底されたわけではなく、さらに私学の大半は男子校のまま新制中学校・高等学校へと移行している。また新制高等学校へ転換時に、近接する旧制中学校・女学校と統合された学校や、生徒・教員の相互交流(入れ替え)を行ったところなどもある。
1947年の学制改革後、旧制中学校の後身となった高等学校は現在も地域の中核校・伝統校として難関・進学校であるとされている場合が多い。しかし、入試改革によって伝統を否定されるような総合選抜制度や学校群制度が導入された地域では殆ど例外なく衰退し、私立高校や近隣の新設校の進学実績が著しく伸びたりした場合に顕著なように(例えば総合選抜では京都府・兵庫県東部・広島県・高知県、学校群では東京都など)、必ずしも旧制中学校を前身とする伝統校が現在においても進学実績で上位にあるというわけではない。
旧制中学校はエリートの登竜門としての役割があり、進学率は非常に低かった[1]。理由として男子は農業・工業等の産業従事や兵役といった事態に際しての即戦力になる者が多く求められていて、旧制中学進学というエリートコースを制限する必要があったからである。
明治時代、中学や高等教育機関に進学する者は華族、士族、地主、そして新しく生まれてきたブルジョアとプチブル階層の出身者にほとんど限定されていた。例えば、唐津中学校ボート部の玄界灘遭難事故の記事(『佐賀新聞』1895年5月2日)によると「死者8人、生存者1人のうち、士族が5人、3人が平民、不詳が1人」となっていた[2]。
大正デモクラシーの時代になると、中学進学が一般市民の間にも広がってきた。第一次世界大戦後、都市住民の子弟の中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校への進学熱は急速に高まってきたが、それでも一般大衆にはまだまだ「高嶺の花」だった[2]。
当時のインテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円ほどなのに、東京の市立中学の入学年次における学費は直接経費だけでも146円19銭もあった。このため、せっかく入学できても中途退学を余儀なくされる者は入学者の1/3にも達した[2]。
この状況を当時の文部省は次のように考えていた。
「半途退学者の中にはその他の事由によるというのが約3分の1近くを占めている。この中には落第して原級に留まっている者も多少含まれているが、然しこの大多数は一定の方針もなく只漫然と入学した者で、父兄にその責任がある。もし世の父兄の考えがもっと着実になって、出鱈目な入学に目覚め、半途退学者の数を減らすことが出来たなら、今日の試験地獄は著しく緩和されるであろう」(『読売新聞』1929年12月10日)
つまり、所得の低い一般庶民の子弟は中学に行くなと考えていたのである[2]。
皮肉なことに、日中戦争による戦時景気で一般庶民でも中学に進学できるようになった。それでも旧制中等教育学校への進学率は13%前後に過ぎず、特に中学入学者についてみると進学率は8%くらいだった。農村からの進学者は地主の子弟が主で、村で1人か2人くらいしかいなかった。農村の二男三男は小学校6年卒あるいは高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出るのが当たり前だった[2]。
反面、旧制中学校に比べ高等女学校の設置数は多く、女子の方が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。社会進出が制限されていた女子の進学をわざわざ制限する必要性が無い上に、いわゆる「良妻賢母」教育は社会の要望に合致していたからだと思われる。
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