明仁(あきひと、1933年12月23日 - )は、日本の今上天皇(第125代天皇)。
大勲位。昭和天皇と香淳皇后の第一皇子で、幼少時の御称号は継宮(つぐのみや)。お印は榮(えい、桐の別名)。皇室典範に定める敬称は陛下。
人物
すでに70代半ばの高齢にもかかわらず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。
歴代の天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。
かつて琉球を征服した島津家(越前島津家・重富島津家当主・薩摩藩国父島津久光、明治維新後玉里島津家当主として10万石、華族令において公爵、島津久光公爵家初代当主)の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。
魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。2000年には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている[1]。 また1992年にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている[2]。
魚類学における業績は各国で評価されている。
この他にも1998年にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。
1970年からチェリスト・清水勝雄に師事してチェロを嗜むほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。
略歴
幼少時代
昭和8年(1933年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第五子にして初の皇子誕生とあって、国民的な盛大な祝福を受ける。称号の「継宮」、名前の「明仁」は、昭和天皇による命名であるが、いずれも明治3年1月3日の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宣明治教以宣揚惟神之大道也…」に出典を求め、命名されたものである。
昭和11年(1936年)3月29日、満2歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初は日曜日には宮中に帰っていたが、一ヵ月を過ぎるころから日曜も東宮仮御所で過ごすようになった[3] 。慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後、「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。
昭和19年(1944年)、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後帰京。なお、皇太子は陸海軍少尉に任官、近衛師団に入隊するのが常であり、軍部からも要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。
昭和21年(1946年)10月から昭和25年(1950年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のヴァイニング夫人(en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニング夫人を介して、ダグラス・マッカーサーとも会っている。彼女がやってきたとき、英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否した。このほか学習院初等科時代に、容貌が蚊取り線香の香炉を想起させたこと・色黒だったことから「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。
皇太子時代
昭和27年(1952年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が執行された。同日、大勲位に叙され菊花大綬章を授けられる。また、立太子の礼に際しては、都道府県などがこれを祝う言葉を記したアドバルーンを都内上空に浮かべ、立太子を祝った。
昭和28年(1953年)3月30日から10月12日までの半年余りにわたり初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇の名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行なった。後年、平成19年(2007年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行なっている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。
昭和32年(1957年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではない(新田義重の家臣生田隼人を遠祖とする士分の家系である)ことから、皇室内外から猛反対を受けた。「入江相政日記」には「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。常盤会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われる。最終的に昭和33年(1958年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。
昭和34年(1959年)1月14日に納采の儀が、4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の平民の皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行なわれ、国民の心からの祝福を受けた。ふたりの成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。
昭和35年(1960年)2月23日に第1皇子浩宮徳仁親王が誕生。ミッチー・ブームがまだ冷めやらぬ成婚翌年のお世継ぎ誕生は、国民から盛大に祝福された。3月には妹・貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。9月22日から10月7日にかけて美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
昭和38年(1963年)には美智子妃が第二子を流産したあと、静養。育児以外にも、時代の風潮(1960年代は、デモ・学生運動など左翼の全盛期であった)などもあり、妃ともども、苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との明仁親王の発言があったと言われる。
昭和40年(1965年)11月30日、第2皇子礼宮文仁親王が誕生。父・昭和天皇同様、タイをはじめとする東南アジア、及び動植物の宝庫であるマダガスカルとの縁が深く、成婚のおりにはタイのシリントーン王女が式に参列した。
昭和44年(1969年)4月18日、第1皇女紀宮清子内親王が誕生。清子内親王は長く内廷皇族として天皇皇后夫妻の傍らにあって良き相談相手であった。
沖縄訪問に際して
昭和50年(1975年)、沖縄国際海洋博覧会に際し父も皇太子時代に訪問した沖縄を立太子後はじめて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子夫妻の姿が収録され現在でも図書館などで目にすることができる。
この訪沖についてはいくつかの事件もあった。7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派二人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー二人)から火炎瓶を投げつけられる(ひめゆりの塔事件。火炎瓶を投じる直前の写真が読売新聞に掲載され、ニュースフィルムに火炎瓶を投げつけられ避難する夫妻および関係者の映像が残っている)。同日夜、皇太子は沖縄戦と県民の心情を思う異例の談話を発表している。
なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、千人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子夫妻の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行った(『昭和51年警察白書[4])が、夫妻にけがなどはなく、つつがなく予定を終了した。1976年1月18日の閉会式にも夫妻で訪沖している。
昭和62年(1987年)にも沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇の名代として沖縄を訪れ、10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。
当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。
その後も沖縄の関係は薄まることはなく、即位後には三度目の沖縄訪問(行幸)が行われることとなった。
なお、この1987年の訪沖は同年秋に昭和天皇が病臥するまでは天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から政府は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県をあげての準備が行われていた。警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の警察官が応援のため増派、厳戒態勢が取られたが、無事に予定は終了した。
即位以降
1989年1月7日昭和天皇の崩御を受け即位。翌8日、元号は平成に改元された。即位後朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となる。この発言では、天皇の地位が憲法に記されたものであることを確認した一方、護憲とも解釈可能なため一部の右翼勢力から非難された。
平成2年(1990年)の即位の大礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行なっており、今上天皇は、関東の地で即位した初めての天皇である。
即位以来、憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。PKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行なっていたが、これは異例のことであり、戦後昭和の頃には考えられなかったと言われている。また、政財界や学識者からの内奏・進講を、父昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克巳・文藝春秋)とも評される。また昭和天皇が敗戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇には見られないものである。
平成11年(1999年)に即位10周年を迎え、政府主催で11月20日に在位10年記念式典が開催、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
即位以来現在に至るまで、旺盛に国内外の訪問を行っている。平成5年(1993年)には昭和天皇の悲願であった沖縄行幸(天皇の訪問)を果たした。このおりには予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも訪れ、このことは平成19年(2007年)になってワイドショーで紹介された。平成15年(2003年)までに47都道府県のすべてを訪問している。
病との闘い
平成7年(1995年)、大腸のポリープを摘出。
平成14年(2002年)12月、人間ドックに入った際に前立腺癌が発見された。その後、天皇の意向を受け宮内庁が病名を公式発表した。翌年1月18日に、前立腺の全摘出手術を行なったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期すため、皇族が受診する宮内庁病院ではなく、東京大学医学部附属病院に入院して行なわれた。
平成20年(2008年)2月25日、宮内庁は「天皇陛下は定期健診において今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で骨密度が低下しており、このままでは骨粗鬆症に移行する恐れがある」と発表し、公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。しかし、天皇自身は、公務等の見直しは在位二十周年となる平成21年(2009年)以降からと希望しているという。[1]
外遊歴(平成以降)
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 中華人民共和国
- この訪問は「天安門事件の打消しのために企画された」と言われ、またこれ以降中華人民共和国国内の反日運動が強まったとの見地から、行なうべきでなかったとの批判が強い。関連して、中華人民共和国側が天皇に金印を授けようとして側近があわてて断り事なきを得る、事前には訪中は天皇の意思であるという吹聴がなされた、などのエピソードが伝わる。もっとも、天皇自身は中華人民共和国が反日を強めるまでは、この訪問を御製に詠むなどしていた。中華人民共和国からはその後2008年、北京オリンピック開会式に天皇の訪中の要請がなされたが、断っている。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)
- 2002年(平成14年)
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
皇子女
皇后・美智子との間に3子がいる。
逸話
誕生
- 第五子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生まれなつた」(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などには前述の歌を未だに記憶しており、歌うことができる者もいるほどである。
- 誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。
少年時代
- 幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。
- 学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。
- 戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
- 疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
- 敗戦時の玉音放送の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
- その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
- 一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。
- 学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。一般の学者と議論を白熱させ、論に敗れた後「次は負けない」という趣旨の手紙を相手の学者に送ったというエピソードが伝わる。ちなみにこの学者とは今日まで交流が続いているという。[要出典]
- 学習院時代には馬術部に所属し、高校2年生の秋以降は主将として活躍した。昭和26年(1951年)1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。
皇太子時代
- 昭和27年(1952年)、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては記念切手が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。
- 昭和28年(1953年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために3月30日から10月12日まで外遊。この前年に、日本は独立を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。
- 出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した[5]。特にNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。
- 客船プレジデント・ウイルソン号(アメリカンプレジデント社、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船は三島由紀夫もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として碁盤と碁石も積まれていたほどである。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、アメリカからイギリスへの旅路では報道陣や乗り合わせた中国人の女性二人と麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。
- 欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
- 英国では、第二次世界大戦で敵対した記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたものの、女王との対面まで長時間待たされた。また、女王は握手はしたものの視線は交わさなかった。[5]
- また、長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず学習院大学政治学科を中退。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁のウェブサイトに拠る)としている。もっともその後も聴講生として大学には残った。学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は昭和31年(1956年)3月に政治学士となり、39年5ヵ月後の平成7年(1995年)8月村山改造内閣で初入閣し今上天皇たる明仁から文部大臣の認証を受けている。
- 結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて帝王学の教授を受けたと言われる。
- 諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。
- 「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。
- 昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。
- 1960年にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思われての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている[6]。
即位後
- 即位の際には明治神宮から御本社大神輿が渡御した。
- 1992年にアメリカ41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、大統領とマイケル・アマコスト日本駐箚アメリカ合衆国大使とダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北ネタをジョークにするなどして話題を呼んだ。
- 全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。
- 平成3年(1991年)、雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を床に膝を着いて見舞った。
- 平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生から2週間後の1月31日に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、海外の新聞にも大きく取り上げられ反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。
- 平成12年(2000年)に噴火した三宅島へ、島民の帰島がかなった平成18年(2006年)には火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず三宅島を慰問。島民を励ました。
- 平成13年(2001年)のアメリカ同時多発テロに際してジェームズ・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。
- 平成16年(2004年)、新潟県中越地震のときには自衛隊のヘリコプターで被災地を見舞った。平成19年(2007年)の新潟県中越沖地震に際しては現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取りやめた。平成20年(2008年)9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった旧山古志村(現長岡市)を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[7]。
- 平成17年(2005年)の台風14号で大きな被害を受けた宮崎県、鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
- 平成19年(2007年)の能登半島地震にさいしては慰問は実現されていないが「元気になってください」と言葉を寄せた。
- 平成19年10月29日から31日まで福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸し、29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は朝から交通規制が敷かれ夕方まで渋滞した。しかし警備は最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌30日には同地震により最大の被害を受けた玄界島も慰問した。
- 平成14年(2002年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ[8]。会見においても、その人柄を回想していた。
- 明仁陛下は多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。あるミュージシャンとの会話でデーモン小暮閣下の話題が出たおり「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードがデーモンがパーソナリティーを勤めるラジオ番組で紹介されたことがある。もっとも、デーモンが大相撲や日本文化に造詣が深いことを考慮すれば、天皇に名が知られていてもそれほど不思議ではない。
- 上記のデーモン小暮閣下の件でも判るように、今上天皇は芸能音楽やスポーツ界の事情にも通じており、芸能音楽やスポーツ界関係者を招いた皇居でのお茶会や赤坂御苑での園遊会を催された際には、出席した各関係者に詳しい質問をされる。その為、天皇に質問された出席者は「陛下が自分のことについてこちらがドキッとするほどお詳しいので恐縮に堪えません」などと記者団に感想を述べることが多い。
- 時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が明仁天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。
- 平成19年(2007年)の佐賀県行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に君が代を歌い始めた際には、その場に足を止め皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。
人物に関するもの
- 自動車愛好家であり、プリンス自動車(現:日産自動車)のスカイラインとデイムラーのSOHCの2台を愛用した。ちなみにプリンス自動車は明仁親王の立太子を記念して社名をプリンスと改めたものである。
- 独身時代には愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。軽井沢において学友の所有するアルファロメオを運転したこともある。このほかアコード、レジェンドクーペ、ホンダのインテグラなど運転したことがあるとされる車種は非常に多い。
- 軽井沢までドライブした際には護衛としてパトカーに乗車した警察官が随伴したが、随伴する警察官の乗車するパトカーは性能に劣るセダンであったため、性能差からついていくのに必死の思いであったという。
- 通算9台のプリンスを乗用に用いた。かつての御料車がプリンス製の日産・プリンスロイヤルだったのはその縁である。
- 自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するプリンス・スカイライン・スポーツと対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。
- 現在でもビートルをまれに運転することがあるという。2007年には高齢者講習を受講し、紅葉マークを取得したと伝わる。
- 公務においてもタコグラフの製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。
- 鉄道に関する関心も深く、学習院大学時代の論文はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。御料車も存在する。もっとも、特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、一般の車両のグリーン車などをお召し列車として使用することが多い。
- カナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。
- 学生時代(学習院高等科3年の試験が終わった日)学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座にいきたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、三人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶応ボーイ四人と出会い、慶応ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し皆で、お金を出し合い一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友が警察と皇室関係者にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。これが有名な『銀ブラ事件』である。
- 結婚のパレードは民間放送開始から五年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。
- 皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。
- 同じく皇太子時代、インドネシアからの打診を受けてコイの品種改良を行ない、ヒレナガニシキゴイを誕生させている。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。ただし、現在の靖国神社の南部利昭宮司には「靖国のことはくれぐれもよろしくお願いいたします」と述べている。
- 幼少時は豆腐料理を好物とした。成人してからは中華料理を好んだ。
発言
- 「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられるお方」
- 昭和33年(1958年)11月27日、正田美智子が婚約記者会見にて発言した皇太子評。流行語にもなった。
- 「天皇の歴史というものを知ることによって、自分自身の中に皇族はどうあるべきかということが次第に形作られてくるのではないか」