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| 今上天皇 | ||
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| 第125代天皇 | ||
| 在位期間:1989年- | ||
| 平成17年(2005年)、サイパン島訪問時、皇后とともに。 | ||
| 在位中の時代 | 平成 | |
| 在位中の年号 | 昭和 平成 |
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| 在位中の首都 | 東京 | |
| 在位中の皇居 | 皇居 | |
| 諱 | 明仁 | |
| 幼称 | 継宮 | |
| 印 | 榮 | |
| 出生 | 1933年12月23日 | |
| 出生場所 | 東京府東京市・宮城内 | |
| 皇子女 | 浩宮徳仁親王 礼宮文仁親王 紀宮清子内親王 |
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| 皇后 | 美智子 | |
| 父親 | 昭和天皇 | |
| 母親 | 香淳皇后 | |
| 日本の皇室 | |
明仁(あきひと、1933年12月23日 - )は、日本の今上天皇(第125代天皇)。
大勲位。昭和天皇と香淳皇后の第一皇子で、幼少時の御称号は継宮(つぐのみや)。お印は榮(えい、桐の別名)。皇室典範に定める敬称は陛下。
目次 |
すでに70代半ばの高齢にもかかわらず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。
歴代の天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。
かつて琉球を征服した島津家(越前島津家・重富島津家当主・薩摩藩国父島津久光、明治維新後玉里島津家当主として10万石、華族令において公爵、島津久光公爵家初代当主)の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。
魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。2000年には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている[1]。 また1992年にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている[2]。
魚類学における業績は各国で評価されている。
この他にも1998年にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。
1970年からチェリスト・清水勝雄に師事してチェロを嗜むほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。
昭和8年(1933年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第五子にして初の皇子誕生とあって、国民的な盛大な祝福を受ける。称号の「継宮」、名前の「明仁」は、昭和天皇による命名であるが、いずれも明治3年1月3日の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宣明治教以宣揚惟神之大道也…」に出典を求め、命名されたものである。
昭和11年(1936年)3月29日、満2歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初は日曜日には宮中に帰っていたが、一ヵ月を過ぎるころから日曜も東宮仮御所で過ごすようになった[3] 。慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後、「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。
昭和19年(1944年)、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後帰京。なお、皇太子は陸海軍少尉に任官、近衛師団に入隊するのが常であり、軍部からも要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。
昭和21年(1946年)10月から昭和25年(1950年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のヴァイニング夫人(en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニング夫人を介して、ダグラス・マッカーサーとも会っている。彼女がやってきたとき、英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否した。このほか学習院初等科時代に、容貌が蚊取り線香の香炉を想起させたこと・色黒だったことから「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。
昭和27年(1952年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が執行された。同日、大勲位に叙され菊花大綬章を授けられる。また、立太子の礼に際しては、都道府県などがこれを祝う言葉を記したアドバルーンを都内上空に浮かべ、立太子を祝った。
昭和28年(1953年)3月30日から10月12日までの半年余りにわたり初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇の名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行なった。後年、平成19年(2007年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行なっている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。
昭和32年(1957年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではない(新田義重の家臣生田隼人を遠祖とする士分の家系である)ことから、皇室内外から猛反対を受けた。「入江相政日記」には「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。常盤会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われる。最終的に昭和33年(1958年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。
昭和34年(1959年)1月14日に納采の儀が、4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の平民の皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行なわれ、国民の心からの祝福を受けた。ふたりの成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。
昭和35年(1960年)2月23日に第1皇子浩宮徳仁親王が誕生。ミッチー・ブームがまだ冷めやらぬ成婚翌年のお世継ぎ誕生は、国民から盛大に祝福された。3月には妹・貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。9月22日から10月7日にかけて美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
昭和38年(1963年)には美智子妃が第二子を流産したあと、静養。育児以外にも、時代の風潮(1960年代は、デモ・学生運動など左翼の全盛期であった)などもあり、妃ともども、苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との明仁親王の発言があったと言われる。
昭和40年(1965年)11月30日、第2皇子礼宮文仁親王が誕生。父・昭和天皇同様、タイをはじめとする東南アジア、及び動植物の宝庫であるマダガスカルとの縁が深く、成婚のおりにはタイのシリントーン王女が式に参列した。
昭和44年(1969年)4月18日、第1皇女紀宮清子内親王が誕生。清子内親王は長く内廷皇族として天皇皇后夫妻の傍らにあって良き相談相手であった。
昭和50年(1975年)、沖縄国際海洋博覧会に際し父も皇太子時代に訪問した沖縄を立太子後はじめて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子夫妻の姿が収録され現在でも図書館などで目にすることができる。
この訪沖についてはいくつかの事件もあった。7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派二人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー二人)から火炎瓶を投げつけられる(ひめゆりの塔事件。火炎瓶を投じる直前の写真が読売新聞に掲載され、ニュースフィルムに火炎瓶を投げつけられ避難する夫妻および関係者の映像が残っている)。同日夜、皇太子は沖縄戦と県民の心情を思う異例の談話を発表している。
なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、千人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子夫妻の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行った(『昭和51年警察白書[4])が、夫妻にけがなどはなく、つつがなく予定を終了した。1976年1月18日の閉会式にも夫妻で訪沖している。
昭和62年(1987年)にも沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇の名代として沖縄を訪れ、10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。
当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。
その後も沖縄の関係は薄まることはなく、即位後には三度目の沖縄訪問(行幸)が行われることとなった。
なお、この1987年の訪沖は同年秋に昭和天皇が病臥するまでは天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から政府は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県をあげての準備が行われていた。警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の警察官が応援のため増派、厳戒態勢が取られたが、無事に予定は終了した。
1989年1月7日昭和天皇の崩御を受け即位。翌8日、元号は平成に改元された。即位後朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となる。この発言では、天皇の地位が憲法に記されたものであることを確認した一方、護憲とも解釈可能なため一部の右翼勢力から非難された。
平成2年(1990年)の即位の大礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行なっており、今上天皇は、関東の地で即位した初めての天皇である。
即位以来、憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。PKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行なっていたが、これは異例のことであり、戦後昭和の頃には考えられなかったと言われている。また、政財界や学識者からの内奏・進講を、父昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克巳・文藝春秋)とも評される。また昭和天皇が敗戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇には見られないものである。
平成11年(1999年)に即位10周年を迎え、政府主催で11月20日に在位10年記念式典が開催、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
即位以来現在に至るまで、旺盛に国内外の訪問を行っている。平成5年(1993年)には昭和天皇の悲願であった沖縄行幸(天皇の訪問)を果たした。このおりには予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも訪れ、このことは平成19年(2007年)になってワイドショーで紹介された。平成15年(2003年)までに47都道府県のすべてを訪問している。
平成14年(2002年)12月、人間ドックに入った際に前立腺癌が発見された。その後、天皇の意向を受け宮内庁が病名を公式発表した。翌年1月18日に、前立腺の全摘出手術を行なったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期すため、皇族が受診する宮内庁病院ではなく、東京大学医学部附属病院に入院して行なわれた。
平成20年(2008年)2月25日、宮内庁は「天皇陛下は定期健診において今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で骨密度が低下しており、このままでは骨粗鬆症に移行する恐れがある」と発表し、公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。しかし、天皇自身は、公務等の見直しは在位二十周年となる平成21年(2009年)以降からと希望しているという。[1]
皇后・美智子との間に3子がいる。