服部良一 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日 - 1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している。)。大阪府大阪市平野区出身。ジャズの都で音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が、太左衛門橋南ぎわ、カフェー赤玉のまん前にある「角屋」というレストランの支店に少年音楽隊を結成した。1923年9月1日、音楽隊の入隊式が行われたその中に服部良一少年がいた。彼の音楽人生がここに始まったのである。奇しくも関東大震災の起こったその日であった。
1907年(明治40年)10月1日、服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、学校を卒業後は商人になるためと、昼は働き夜は商業学校に通うという日々を送る。しかしそんな日々に嫌気のさした彼は姉の勧めで、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。しかしその2年後に、第一次大戦後の不景気もあって音楽隊は解散してしまう。
1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに服部は見いだされ、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受ける。ちなみにこのころ、朝比奈隆も彼から指導を受けている。オーケストラの傍らジャズ喫茶でピアノを弾いていた。昭和に入ると服部は、レコード会社の仕事をするようになった。1929年(昭和4年)頃、コッカレコードでサクソフォーンと編曲を担当した。そして、タイヘイレコードの専属となった。1931年(昭和6年)頃には大阪コロムビアで街頭演歌師出身の作曲家鳥取春陽のジャズ演歌の編曲の仕事をした。1933年(昭和8年)2月、服部はディック・ミネの助言もあり、上京して菊地博がリーダーを務める人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドリーダーにサクソフォン奏者として加わった。翌1934年(昭和9年)2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。
1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。入社第一回作品が淡谷のり子が歌う『おしゃれ娘』だった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲みアルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りをはたす。その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。
その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。だが、太平洋戦争が始まると服部の音楽個性であるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。よく「服部良一は軍歌(戦時歌謡)を1曲も作らなかった」と紹介されるが誤りである。これは服部本人が軍歌作曲に対し消極的であったことや、その類が不得手であったことなど様々な理由から、これといったヒット曲は無く、量も他の作曲家と比べると少ないことから、そう言われるようになった。1944年(昭和19年)、上海に渡り(これは軍歌作曲の依頼から逃げるためだったという説がある)ジャズの活動の場を求めた。李香蘭と上海交響楽団とともに、『夜来香』をシンフォニック・ジャズにした『夜来香幻想曲』を発表した。
第二次世界大戦後は、戦前に実験済みだったブギのリズムを取り入れ(『荒城の月ブギ』を編曲)、笠置シヅ子の『東京ブギウギ』などをヒットさせた。彼女は「ブギの女王」と呼ばれた。服部と笠置のコンビはすでに戦前(1938年)、紙恭輔に招かれ服部が副指揮者、のち総指揮者をつとめた松竹楽劇団時代から始まっていた。笠置の肉体的な躍動溢れる歌唱は、敗戦に打ちひしがれた日本の国民の虚脱感を吹き飛ばす爆発音だった。戦後には息を吹き返した作品もあった。たとえば、二葉あき子が歌った『夜のプラットホーム』(1939年に淡谷のり子が吹込んだが、「出征兵士の士気を殺ぐ」という理由で発禁処分)、霧島昇が歌った『夢去りぬ』がヒットしたのである。ビクターでは灰田勝彦が歌った『東京の屋根の下』など甘く洒落た曲もある。また服部は東宝映画の主題歌でのヒットも多い。戦後の息吹を伝えた『青い山脈』を作曲。東京芸大出身のクラシックの正統派藤山一郎が格調高く溌剌と歌唱し、日本の国民的な流行歌になった。
古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムをいかし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。また、日本レコード大賞の創設にも尽力した。
1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。
息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。
2005年、宝塚歌劇花組公演『ASIAN WINDS!』では、この服部良一の代表的な曲が扱われる。
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