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朝鮮戦争 とは?

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朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、英語Korean War1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦、事実上終結)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


朝鮮戦争はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  概略 韓国では韓国戦争、韓国動乱、六・二五と言う。 1950年6月25日勃発。1953年7月休戦。(7月27日、板門店にて休戦協定調印) 北朝鮮と大韓民国の間で起こった戦争。アメリカ軍(国連軍)と中国の介入があり、一つ間違えれば冷戦が熱戦になる寸前の戦争だった。 戦争中、多くの同胞虐殺が行われ、北緯38度線での南北分断が決定的になった。 年表 1950年06月25日 北朝鮮軍が北緯38度線を突破。戦争勃発 1950年06月28日 北朝鮮、ソウル占領。 1950年06月29日 トルーマン大統 ...

出典: 『はてなダイアリー』


和英辞典

朝鮮戦争 [ちょうせんせんそう] 別ウィンドウで表示  …  (n) Korean war

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


朝鮮戦争

戦争東側陣営西側陣営の戦争。冷戦の前哨戦
年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日
場所朝鮮半島
結果:38度線を境に両軍の間で1953年7月27日に協定が結ばれ休戦状態に至る
交戦勢力
連合国
大韓民国
アメリカ合衆国
イギリス
フランス共和国
カナダ
オランダ王国
ベルギー王国
ルクセンブルク大公国
ギリシア王国
オーストラリア連邦
ニュージーランド
トルコ共和国
タイ王国
フィリピン共和国
コロンビア共和国
エチオピア帝国
南アフリカ連邦
日本(掃海活動etc)
朝鮮民主主義人民共和国
中華人民共和国中国人民志願軍
指揮官
李承晩
ハリー・トルーマン
ダグラス・マッカーサー(1950-)
金日成
毛沢東
彭徳懐
戦力
連合国
98000
253300
15700
7400
5400
7200
5600
400
1000
900
800
4600
1100
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1100
1200
800
1200
135000
1000000(諸説有り)

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、英語Korean War1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦、事実上終結)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。

目次

概説

韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、オーストラリアイギリスベルギーなどの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わった。

なお、日本では「朝鮮戦争」(ちょうせんせんそう)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカではKorean War朝鮮戦争)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。

※本稿では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。

背景

米ソの半島分割占領

1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾。連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると、日本はポツダム宣言に則り朝鮮半島統治権を放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、建国準備委員会を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきた連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。

ヤルタ会談における英米ソ首脳

日本の敗戦による「解放」は「与えられた解放」であった[2]。独立を目指す諸潮流のいずれかが主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった[3]朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[4]

韓国での表記
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各種表記
ハングル 한국전쟁/육이오 사변
漢字 韓國戰爭/六二五 事變
平仮名
(日本語読み仮名)
かんこくせんそう/ろくにご じへん
片仮名
(現地語読み仮名)
ハングクチョンジェン/ユギオ・サビョン
ラテン文字転写 {{{latin}}}
ローマ字転写 Hanguk-jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon
北朝鮮での表記
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各種表記
チョソングル 조국해방전쟁
漢字 祖國解放戰爭
平仮名
(日本語読み仮名)
そこくかいほうせんそう
片仮名
(現地語読み仮名)
チョグッケバンジョンジェン
ラテン文字転写 {{{latin}}}
ローマ字転写 Chogukhaebang chŏnjaeng

朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海大韓民国臨時政府中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ合衆国における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥東亜日報紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは共産主義者だったが、徹底して弾圧された。

朝鮮国内では、少なくとも戦時中の報道による情報だけでは日本の敗戦がそのまま植民地からの解放を意味すると考える余地がなかったにも関らず、玉音放送によって「解放」のニュースがすぐに飛び交った。これに対して朝鮮人の対応は早かった。

国内では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは宋鎮禹湖南財閥をバックに代表的な存在になった。にもかかわらず建国準備委員会は朝鮮において最も広く組織された団体だった。

建国準備委員会は9月6日朝鮮人民共和国の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。李承晩反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。建国準備委員会が、実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする者もいれば、ある日突然当事者とされたことに対応してできた組織であることを強調し実際に朝鮮人民の意思は反映されなかった点を強調する者もいる。どちらにしても、成立期間が短く、また諸外国からは一切承認されていないため、影響力は限定的であった。

李承晩(左)

一方、北緯38度線以北では関東軍の壊走によってソ連進駐が予定よりも早く進んだ。各地で自発的に生まれたと言われている人民委員会は早々にソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも、朝鮮人運動には様々な潮流があったと言われているが詳しいことは分っていない。

このようにして朝鮮国内の足並みが揃いきっていない中に、アメリカに亡命していた李承晩や、重慶亡命していた金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の者たちなど、様々な亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。

その後、信託統治案を巡る左右対立に、米ソの対立も反映され、結果的には、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもソ連が推す金日成がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。

信託統治案

1945年12月には、モスクワでアメリカ・イギリス・ソ連の外相会議が開かれ(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。戦時中のテヘラン会談では、ルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。

ルーズベルトは終戦前に死去し、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は座礁した。

米ソ対立

米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランス領インドシナベトナムホー・チ・ミンらに率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も赤化が目前であった。これらの冷戦の激化は朝鮮半島にも暗い影を落とした。

北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月21日朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。

同年11月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、設立されたばかりの国際連合に提訴したものの、北半部は翌1948年2月8日朝鮮人民軍を創設し、2月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を宣言、アメリカはこれを激しく非難した。

金日成は、3月には南半部への送電を停止(当時、南半部は電力を日本統治時代に日本によって山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件麗水・順天事件)。

分断の固定化と対立

南北の分離独立

1948年8月13日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。

その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者であるヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成した。その後大韓民国では11月国家保安法が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。

同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、毛沢東率いる中国共産党が勝利し、10月1日中華人民共和国が成立した。アメリカは蒋介石率いる中華民国国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。

1950年1月12日、アメリカの国務長官ディーン・アチソンが「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない。」と発言し(アチソンライン)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを「西側陣営の南半部(韓国)放棄」と一方的に受け取った。

アメリカは同月、韓国との間に米韓軍事協定を結んでいた。これは李承晩の日本への復讐(彼は上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕されており、その際拷問を受けた。しかし、後に釈放され、渡米している)に由来する、日本に対する報復的、敵対的行動(竹島領有宣言など)を行い、国家統一、軍の北進を訴える李承晩を押さえ込むもので、韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐ為、僅かな兵力しか許さないというもので、アメリカは北朝鮮の南進については楽観的で、むしろ韓国が北に攻め込むことを恐れていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、僅か5ヵ月後に大間違いであったことに気付かされる。

スターリンによる侵攻容認

これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、毛沢東が南進に積極的であるとスターリンに示したり、また逆にスターリンが積極的であると毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。

中華人民共和国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵略支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵略計画を知らされた事に不満の声もあった。

北朝鮮による侵攻開始

6月25日に、朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、南半部への侵攻を開始した。このことを全く予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は大きなショックを受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けている。

戦争の経過

朝鮮半島を南北に移動する戦線

南北の軍事バランス

詳細は国境会戦_(朝鮮戦争)#作戦計画および戦力配置の概要を参照

開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。

韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6千を有していたが、部内に多数潜入していたスパイ粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機を有するのみであった。

これに対し、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8千、戦車240両、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入されはじめており、これによって優れた練度が維持されていた。

また、戦闘単位当たりの火力にも大きな差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710m(122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525m(105mm榴弾砲M3)と大きく劣っていた。

北朝鮮の奇襲攻撃

詳細は国境会戦_(朝鮮戦争)を参照

1950年6月25日午前4時(韓国時間)、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。

李承晩とダグラス・マッカーサー

一方、アメリカ軍の連絡系統は俊敏に機能し、連合国軍総司令官として日本の占領業務にあたっていたダグラス・マッカーサーが日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、ミズーリ州にいたトルーマン大統領も24日午後10時に報告を受け、国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還した。

しかしトルーマン大統領の目は、当時冷戦の最先端とみなされていたヨーロッパへ常に向いていた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。トルーマン大統領はアメリカ市民の韓国からの退去と、マッカーサーに韓国軍への武器弾薬補給命令、海軍第七艦隊の中華民国への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切れなかった。

6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0の全会一致で採択した。ちなみに拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、この年の1月から中華人民共和国の中国共産党政府の認証問題に抗議し、理事会を欠席していた。決議の後、ソ連代表のヤコブ・マリク国連事務総長トリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンにボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月、「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。

戦時下の韓国国民

この間、韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都水原に遷都、ソウル6月28日に陥落した。このソウル陥落の際、命令系統が混乱した韓国軍は避難民もろとも漢江にかかるを爆破した。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍は士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、韓国軍は建国後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備はアメリカ軍から供給された物が中心であったが軍事協定によって重火器が不足しており、特に戦車を1両も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなった。

ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は何故か突然南進をやめ、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、今をもっても、なぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている(北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していたという一説もあるが、明確な根拠はない)。

アメリカ軍の出動

アメリカ軍兵士

マッカーサーは6月29日に専用機「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。彼も70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に東京へ戻った。彼は本国の陸軍参謀総長に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、B-29を日本から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。

この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど退役し、5年の平和によって多くの兵士は実戦を経験していなかった。

一方の韓国軍は、7月3日蔡秉徳日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。しかし、派遣された米軍先遣隊は7月5日烏山の戦いで敗北した。

国連軍の苦戦

国連軍の艦艇に避難する韓国の避難民

6月27日国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心としてイギリスオーストラリアなども加わった国連軍を結成した(詳しい参戦国は後述する)。朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には国連軍ではなく、多国籍軍の一つである。

しかし、準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や政治犯などを20万人から120万人殺害した(保導連盟事件[5]

この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し[6]離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は解放記念日の8月15日までに統一するつもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。また、北朝鮮軍と左翼勢力は忠北清州や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人を右翼活動の経歴があるなどとして大量虐殺した[6]

仁川上陸作戦

仁川上陸後にソウルで戦う国連軍兵士

詳細は仁川上陸作戦を参照

マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、数度に渡る牽制の後の9月15日仁川に国連軍を上陸させる事に成功した。大きな転換点の1つとなる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)である。これに連動したスレッジハンマー作戦で国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。

度重なる攻勢によって限界に達していた北朝鮮軍は敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還した。この時敗走した北朝鮮兵の残党が韓国内でゲリラ化し、国連軍は悩まされた。

38度線越境と中国人民志願軍参戦

10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。だが10月9日には国連軍も38度線を超えて進撃した。

これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍彭徳懐を司令官とし、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。

10月20日、国連軍は北朝鮮の臨時首都・平壌(※北朝鮮は、1948年 - 1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧、敗走する北朝鮮軍を追い、中国人民志願軍の派遣に気付かずになおも進撃を続けた。先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれた。だが、10月から朝鮮への進入を開始した中国人民志願軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、38度線近くまで潰走した。

初のジェット機同士の空中戦

MiG-15bis
F-86A

また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15が投入され、アメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のF-84F-80との間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。MiG-15は当初、国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84やF-80に対しても有利に戦いを進めていた(俗に言う「ミグ回廊」の形成)が、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機F-86Aを投入した。

初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともありF-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し再び優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。

なお、北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国人民志願軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したといわれている。貧弱な訓練しか受けられないまま参戦したこれら