木更津 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋木更津 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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木更津市(きさらづし)は、千葉県中西部に位置する都市。東京湾に面し房総半島中部の上総地方における代表的な市の一つである。業務核都市、国際会議観光都市に認定されている。2002年には当市を舞台にしたテレビドラマ『木更津キャッツアイ』が放映され話題となる。
目次 |
房総半島の中西部、東京湾岸(内房)に面しており、県庁所在地である千葉市から南西約30kmに位置する。東京都心から南東に30~40kmに位置しており、東京圏の範囲に含まれる。但し、東京都心と木更津市との間に東京湾を挟む為、移動距離はこれよりも長くなる。東京湾北側を周回した場合の移動距離は70~80km程度であり、東京湾アクアラインを利用した場合は45km程度である。
市域は東西に長く広がっており、市の東部は山地、西部は平地と地形の性質が異なる。市中西部(木更津地区、清川地区)は東京湾に面しており、東京湾へ流れ込む複数の河川により沖積平野が形成する。また、東京湾臨海地区は木更津港南岸から君津市、富津市に掛けて工業用埋立地となっている。市北部(岩根地区、金田地区、中郷地区)では泥層を主とする田園地帯が広がり、木更津駅から千葉方面に向かって走る列車の車窓からはハス田が確認できる。市南部(波岡地区、鎌足地区)を中心に洪積台地が形成され、住宅地として整備されている。特に鎌足地区ではかずさアカデミアパーク構想における研究開発拠点としての整備が行われている。市東部(富来田地区)は、小櫃川流域では田園地帯を形成し、房総半島内陸部の特徴として見られる房総丘陵の山林が広がっている。
市の主な河川として、県内では利根川に次いで2番目に長く総延長88kmの小櫃川がある。小櫃川は君津市、袖ケ浦市、木更津市の3市を貫流し、市内では東部から北部にかけて流れ下り東京湾へと注いでいる。また、小櫃川河口付近では1,400ha程の盤洲干潟が形成されている。市内には特に高い山が無く、最も高い場所でも標高200m程度である。
中心市街地は旧木更津町の範囲に相当する木更津地区に形成されており、木更津地区には市役所や木更津警察署、木更津消防本部、木更津図書館などの公共施設、および市の中心駅である木更津駅や重要港湾の木更津港が存在する。市の玄関口に該当する木更津駅前および木更津港を中心に商店街を形成するが、バブル崩壊による経済構造の変化に伴い駅前商店街は活性から衰退傾向に転化する。その代わりに1990年代以降、東京湾アクアラインに代表される高速道路網の整備により、主要交通機関が鉄道とフェリーから自動車へと変化し、館山自動車道や東京湾アクアライン連絡道に接続する国道16号沿いに郊外型の店舗が集中する。
市制が開始された当初はおよそ3万人の人口であった。市制開始以降は近隣の町村との合併により人口増加を続け、1971年に富来田町と合併した時点で人口が86,335人となる。1960年代に入ると県内では内房地域の市町村を中心に、海岸線を埋め立て工業地として整備し、重化学工業メーカーが多数進出する。木更津市においても関連企業の転勤者およびその家族が転入し人口が著しく増加する。1976年には人口10万人を突破し県内で9番目の10万人都市となる。1985年には人口12万人まで増加した、2000年代に入っても、人口は増加傾向である。
総数 [単位: 人]
各年10月1日現在
| 木更津市と全国の年齢別人口分布図(比較) | 木更津市の年齢・男女別人口分布図 | ||||||||||||||||||
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■紫色は木更津市
■緑色は日本全国 |
■青色は男性
■赤色は女性 |
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| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |||||||||||||||||||
人口統計やマスタープランの策定などにおいて、市内を市制施行以前の町村区分で大まかに地域区分し、各地域の特色を示す事がある。また、1889年の町村制が施行される以前の区分は、そのまま大字として残る。
難読・異読地名 [6]
吾妻(あづま)、犬成(いんなり)、茅野(かやの)、祇園(ぎおん)、畔戸(くろと)、下内橋(げないばし)、幸町(さいわいちょう)、新田(しんでん)、築地(つきじ)、真里(まり)、真里谷(まりやつ)、望陀(もうだ)
| 地区 | 大字・町名 |
|---|---|
| 木更津地区 | 木更津、新田、幸町、中央、東中央、貝渕、吾妻、富士見、新宿、請西、請西東、請西南、文京、真舟、大和、桜井、桜井新町、桜町、太田、東太田 |
| 岩根地区 | 万石、高砂、久津間、岩根、西岩根、江川、中里、高柳、本郷、坂戸市場、若葉町 |
| 清川地区 | 椿、笹子、犬成、日の出町、中尾、菅生、祇園、清川、永井作、長須賀、朝日、伊豆島、清見台、清見台東、清見台南、ほたる野 |
| 波岡地区 | 畑沢、畑沢南、港南台、小浜、大久保、上烏田、八幡台、中烏田、下烏田、羽鳥野 |
| 鎌足地区 | 矢那、かずさ鎌足、草敷 |
| 金田地区 | 中野、牛込、中島、瓜倉、畔戸 |
| 中郷地区 | 大寺、下望陀、上望陀、有吉、牛袋、牛袋野、曽根、井尻、十日市場 |
| 富来田地区 | 真里谷、真里、下内橋、戸国、茅野、茅野七曲、山本七曲、大稲、田川、佐野、下郡、下宮田、根岸、上根岸 |
| 埋立地 他 | 潮見、潮浜、木材港、新港、築地、北浜町、中の島、海ほたる(中島地先) |
| 年月日 | 現木更津市市域に関連する行政区域変遷 |
| 1889年(明治22)4月1日 | 明治憲法下による町村制の実施により、望陀郡50村、周淮郡6村から1町9村が発足する 望陀郡(1町8村)木更津町、真舟村、清川村、巖根村、鎌足村、金田村、中郷村、馬来田村、富岡村 |
| 1933年(昭和8)4月1日 | 君津郡真舟村が木更津町に編入される |
| 1942年(昭和17)11月3日 | 木更津町、清川村、巖根村、波岡村が合併し市制開始。木更津市が成立する |
| 1954年(昭和29)11月3日 | 君津郡鎌足村が木更津市に編入される |
| 1955年(昭和30)2月11日 | 君津郡金田村が木更津市に編入される |
| 1955年(昭和30)3月1日 | 君津郡中郷村が木更津市に編入される |
| 1955年(昭和30)3月31日 | 富岡村の一部(田川、佐野、下郡、根岸、上根岸)と馬来田村が合併し富来田町が成立する |
| 1971年(昭和46)9月10日 | 君津郡富来田町が木更津市に編入される |
東京圏への一極集中を打開し大都市問題を解決する目的の為、東京圏近郊都市の中から地域の広域中心都市となるべき都市を業務核都市として指定し、東京都の持つ業務機能や商業、医療等といった諸機能を請負い、担うための整備・育成を行う。「第4次首都圏基本計画」(1986年6月決定)により、千葉県では千葉市、成田市・千葉ニュータウン、木更津市の3地域が業務核都市として位置付けられる。「第5次首都圏基本計画」(1999年3月)では新たに「分散型ネットワーク構想」が方針に盛り込まれ、柏市を含めた4地域について広域連携拠点としての整備を進める。
1992年3月には木更津業務核都市基本構想が策定され承認を受ける。その概要は次の通り。
市の財政について[10]、歳入減と歳出増と状況として悪化の傾向をたどっている。歳入減の要因として住民税や固定資産税による税収の減少が挙げられ、歳出増の要因には市の高齢者人口の割合の増加による扶助費の増加が挙げられる。
一時期と比較し、東京湾横断道路建設やかずさアカデミアパーク整備のような大規模公共事業が少なくなり、歳出に占める公共事業費の割合は減少しているとは言え、このまま従来型の財政運用方法を改善しなくては市の財政が破綻し、財政再建団体に転落する可能性がある事が懸念されている。その為、市では財政政策として行政改革5か年プランを策定し、歳出削減および歳入の確保を目指して財政の健全化を図っている。
財政力指数は0.83でここ5年間で微増ではあるが連続して伸びを見せており、全国市町村平均(0.53)および県内市町村平均(0.77)を上回る。定員適正化計画に基づく人員削減、給与の適正化および緊急事業の選択と集中化により、行政の効率化と財政の健全化を図る。
経常収支比率は91.0%であり、全国市町村平均(90.3)および県内市町村平均(90.1)をわずかに上回る。児童手当等の扶助費および廃棄物中間処理の全面委託化による物件費が増となったため、前年度と比較すると+2.6ポイント増加している。
ラスパイレス指数は99.9であり、100を下回るとは言え全国市平均(97.9)、全国市町村平均(93.9)を大きく上回る。これは初任給基準が高く前職経験年数を加算された新規職員および勤続年数の長く給与設定が高めの高齢職員が人員分布に多いこと等が要因として挙げられる。
警察
消防
市議会は市民の中から選挙により選出された議員によって構成されている。議員の任期は4年。議員定数は木更津市議会議員定数条例に基づき30名と定められている。地方自治法第91条で議員定数として定める事のできる上限数は、人口10~20万人の市に該当する木更津市の場合、34名迄である。
| 会派名 | 代表者 | 議席 |
|---|---|---|
| 市政会 | 滝口敏夫 | 11 |
| 正栄会 | 前田清治 | 7 |
| 新栄会 | 野田芳久 | 3 |
| 公明党 | 西勝義 | 4 |
| (無会派) | - | 3 |
| 計 | 28 | |
(2007年5月現在)
木更津市新田に千葉地方裁判所および千葉家庭裁判所それぞれの木更津支部が設置されており、千葉地方裁判所 木更津支部には簡易裁判所が設置されている。千葉地方裁判所 木更津支部は内房地域を管轄しており、管内で発生した民事訴訟、刑事訴訟の合議事件を取り扱う。千葉家庭裁判所 木更津支部では家事審判および少年審判を取り扱う。
司法機関
木更津市の経済状況は、戦後の高度成長と共に急成長し、最盛期には37万人の商圏人口を持つ商業都市として形成されていくが、日本国内で1990年代初頭に起きた「バブル崩壊」[11]により好況から不況へと暗転する。
太平洋戦争中は軍関連の施設が存在したこともあり、その施設関係者と工員が移住したことによって人口が増加し、木更津は軍都として発展する。戦後の高度経済成長期には千葉県の内房地域が京葉工業地域として発展する経緯の中、市の臨海部では埋立が行われ木更津港が工業港として整備され、隣の君津市には八幡製鉄(現新日本製鉄)の君津製鉄所が誘致される。君津市と接する波岡地区を中心に宅地整備が行われ、製鉄所関係者およびその家族が移住し人口が著しく増加する。人口増加を契機に経済活動が活発になり、木更津駅前には大手販売店であるそごうやダイエー、西友などが進出し、木更津市を中心とする木更津商圏が形成され、県南地域の商業都市として発展する。
1980年代に入ると、千葉県で千葉新産業三角構想が策定され木更津市はかずさアカデミアパーク構想の母都市(他に君津市、袖ヶ浦市、富津市を含む)に位置付けられる。この構想により鎌足地区の丘陵地帯では研究開発拠点の整備が行われ、民間を中心とする研究機関の誘致活動が行われる。また、国の政策として首都圏の大都市問題緩和を目的とする木更津業務核都市構想が計画される。歴史的経緯に明治維新期に木更津県県庁が存在した事、県南部の経済の中心として認識されている事、かずさアカデミアパーク構想等により、木更津市は業務核都市に位置付けられ整備が行われる。その一環として東京湾横断道路建設が計画に含まれる。
東京湾横断道路建設にあたり、当初の事業計画では対岸の川崎市や横浜市、東京など京浜地区との交通の便が良くなる事で人の交流や物流が頻繁となって経済活動に好影響を与えると予想され、住宅購入者の増加や企業進出の増加などが見込まれていた。ところが実際に開通してみると事業計画の予想とは正反対の結果に働き、考えられていた地域振興や発展には繋がらず、逆に経済活動が混迷する事になる。
当初アクアラインの交通量は2万5千台/日と予想していたが、実際に開通した結果は1万台/日と予想を大きく下回る。[12]期待されていた東京のベッドタウンとしての需要がほとんど発生せず、人口増加や産業発展を見越して計画されていたかずさアカデミアパークや宅地造成地には売れ残りの区画が目立つ状態であり、小売業においては京浜地区の小売業者との競争を否応無しに強いられることになり、物量の面や商圏地域の魅力等の要因により購買客の流出が顕著となり、商圏人口が37万人から12万人に低下、商圏の吸引力低下により商業中心都市から準商業中心都市に格下げられる。[13][14]結果、木更津市は対岸の京浜地区と県南部の通過点となり、流出面が顕著となったストロー効果が発生する。
また、バブル崩壊による国内の景気低迷の影響により、東京湾横断道路完成を見越して上昇傾向にあった駅前商店街の地価は、1991年のピークを境に著しく下落。1999年から2003年にかけて東京圏における地価下落率の1位[15]となる。また商業地域への影響は大きく、日本長期信用銀行の破綻によるそごうグループに対する金融支援の行き詰まりが要因で2000年7月木更津そごうが撤退、そごうがテナントとなっていた駅前の西口再開発ビル(アインスビル)を運営していた第三セクターもキーテナントを失ったことによって翌年に倒産し、連鎖するように駅東口に出店していたダイエーも閉店する。木更津そごうやダイエーのような駅前の中心的存在であった大型店舗が相次いで撤退した事により、集客力を失った駅前商店街では閉店する店舗が続出し、閑散としたシャッター通りへと変貌する。
現状の活動として、行政では1998年に議決された木更津市基本構想において産業発展と国際交流が課題として挙げられており、交通網の整備と物流の強化、雇用の確保と人口増加、市民生活の充実、経済活動の活性化を目標とした基本計画を策定し実施している。また、駅前の中心的な建物であったアインスビルにはそごう撤退後、8階の空フロアに市民の企業活動支援を目的としたチャレンジセンター(チャレンジセンター Let's木更津)や、情報通信環境を備えた共同利用型のテレワークセンターを開設し地域活性化に向けた活動が行われ、2004年4月にアクア木更津という新名称で再オープンした。
産業別就業者数の総数は61,106人であり、全体の比率の中では第3次産業が7割近くを占めている。また、分類別で就業者数上位5位を挙げるとサービス業 16,596人(27.2 %)、卸売・小売業 13,977人(22.9 %)、製造業 8,692人(14.2 %)、建設業 7,918人(13.0 %)、運輸・通信業 4,631人(7.6 %)の順に多い。[16]
市内の産業別事業社数上位5位は卸売・小売業 2,533(47.8 %)、サービス業 1,532(28.9 %)、建設業 584(11.0 %)、製造業 248(4.7 %)、不動産業 150(2.8 %)である。
産業別従事者数(平成12年10月1日現在)
事業所数(個人、会社総数)(平成13年10月1日現在)
木更津市の農業は稲作が中心であり、小櫃川流域を中心に水田が広がっている。一部では野菜や施設園芸といった都市近郊型農業に従事している農家も見られる。現在の農業情勢としては減少傾向[17]にあり、消費者ニーズに対応した農業経営への転換、従事者の高齢化、後継者問題などの諸問題を抱えている状況である。
農家数・耕地面積(平成17年2月1日現在)[18]
東京湾内の海岸線が埋め立てられ工業地化する中、木更津市の海岸線では遠浅の砂泥干潟が形成いることから、浅海漁場として海苔養殖や貝類養殖が行われている。特に海苔の養殖については全国でも有数の産地であり、富津市と共に江戸前海苔の産地として認知されている。
あさり・乾燥海苔生産状況(平成17年度)[19]
木更津市は古くより南房総の物流拠点として発展し商業中心都市として商圏を形成するに至るが、バブル崩壊による不景気が影響し商店数の減少[20]が見られる他、近隣都市の商業施設の増加や消費者ニーズの多様化などの要因が重なり、地元購買力や顧客吸引力の低下が見られる。東京湾アクアライン完成以前は市の玄関口にあたる木更津駅から木更津港にかけて商業地が集中していたが、以降は郊外に店舗が集まる郊外型への転換が見られ、木更津駅前を中心とする中心商業地の空洞化が顕著となる。
商業統計(平成16年6月1日現在)[21]
木更津市は京葉工業地域[22]に含まれており、木更津港は重要港湾に指定され工業港として発展する。隣接する君津市に新日本製鐵所が立地する関係により、市内には関連の企業が立地する。鎌足地区をかずさアカデミアパークとして研究開発型企業の誘致を進めているが、誘致は難航し使用されていない区画も見受けられる状況である。
工業(製造業)統計(平成16年12月31日現在)[21]
木更津と言う地名の由来について、如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているというのが通説である(下記の伝承の項参照)。木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年/正平8年)に記