木曽川 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋木曽川(きそがわ)は、長野県から岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川水系の本流で一級河川。いわゆる木曽三川の一つ。源流部では、「味噌川」(みそがわ)とも呼ばれる。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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| 木曽川 | |
|---|---|
| 水系 | 一級水系 木曽川 |
| 種別 | 一級河川 |
| 延長 | 229 km |
| 水源の標高 | 2,446 m |
| 平均流量 | 169 m³/s (犬山観測所1951年~2002年) |
| 流域面積 | 5,275 km² |
| 水源 | 鉢盛山(長野県) |
| 河口、合流先 | 伊勢湾(三重県) |
| 流域 | 長野県・岐阜県 愛知県・三重県 |
木曽川(きそがわ)は、長野県から岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川水系の本流で一級河川。いわゆる木曽三川の一つ。源流部では、「味噌川」(みそがわ)とも呼ばれる。
目次 |
長野県木曽郡木祖村の鉢盛山 (2,446メートル) 南方を水源とし、南西に流れている。鳥居峠西側を南に向かって流れ御嶽山から流れ来る王滝川を合わせた後、木曽の桟や寝覚の床などの渓谷を形成しながら岐阜県中津川市に入り流れを西に変える。
中津川市より可児市までの間は恵那峡、深沢峡、蘇水峡といった峡谷を形成し、濃尾平野東部に出て美濃加茂市と可児市の境界で飛騨川と合流する。飛騨川合流後の可児市から愛知県犬山市の犬山城付近まで再度渓谷を形成し、これらを総称して「日本ライン」と呼ぶ。
各務原市と愛知県犬山市の境界付近から再度濃尾平野に出、各務原市川島地区で一旦3つの流れに分流し(三派川地区)、国道22号新木曽川橋付近で再度合流する。下流域ではかつて揖斐川、長良川と合流・分流を繰り返し輪中が発達していたが、江戸時代以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離されている。三重県桑名市長島町と木曽岬町との境で伊勢湾に注ぐ。延長229キロメートルは、最上川と並び全国7位の長さ。揖斐川、長良川流域を除く流域面積は5,275平方キロメートル。
揖斐川及び長良川は、河川法上では木曽川水系に包括されている。木曽川水系全体の流域面積は9,100平方キロメートル。全国5位の広さで、長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県にまたがっている。なお、揖斐川と長良川は河口直前で合流するが、木曽川とは別に伊勢湾に注いでいる。
詳細は宝暦治水事件を参照
濃尾平野は濃尾傾動運動という造盆地運動により形成されてきた。この濃尾傾動運動により、濃尾平野下部の基盤は西へ向かうほど沈降しており、沈降の上部に木曽三川が運搬した土砂が堆積することで平野が形成されてきた。1万数千年前までの最終氷期には海面が現在より百数十メートル低く、木曽三川の河口は伊勢湾口付近にあったが、約1万年前になると急激な温暖化により海面が急上昇した。縄文海進期には、海岸線が西は養老山地山麓まで、北は大垣市・岐阜市付近まで進入した。木曽三川が流し込む大量の土砂は河口に細長い三角州を形成し、徐々に海岸線を南進させていった。同時に、木曽三川の流路は、濃尾傾動運動の影響を受けて養老山地側へと偏っていった。こうして平野奥部まで標高がほとんど変わらず、かつ、3つの大河川の流路が狭い地域に集中するという、極めて水害の発生しやすい地理条件が成立した。
平安時代には既に水屋が建設されており、後に輪中が形成されて行き住民は洪水に対抗していった。地元に残る言葉に「四刻八刻十二刻」がある。これは大雨が降った際の木曽三川の洪水到達予測時間の事であり、揖斐川は四刻(8時間)、長良川は八刻(16時間)、木曽川は十二刻(24時間)で洪水が到達することを意味している。いかに流域住民が水害に対して敏感であったかが良く分かる。
木曽川は鎌倉時代以降、その豊富な水量と広大な川幅が軍事拠点として利用された。1221年の承久の乱では後鳥羽上皇率いる朝廷軍が鎌倉幕府軍を木曽川で迎撃。下る戦国時代には豊臣秀吉が美濃・墨俣(現・岐阜県大垣市)に一夜城を築き織田信長の美濃攻略を容易にした。信長は木曽川・長良川河口に浮かぶ長島に拠る一向一揆に大いに苦しめられた。戦国時代末期(1585年)、木曽川は大洪水を起こして流れが変わり、現在の境川の場所を流れていた木曽川は南方へ移動してしまった。豊臣秀吉は新たな流れを美濃尾張の境とし、尾張の葉栗郡、中島郡、海西郡等の一部を美濃に編入した(美濃の羽栗郡、中島郡、海西郡等)。そして江戸幕府を開いた徳川家康は対豊臣秀頼防衛の最前線として尾張を重視。松平忠吉や徳川義直といった実子を置いて清洲城・名古屋城を築城したが、その名古屋城を防衛する為に木曽川は利用され、愛知県犬山市から弥富市までの木曽川左岸48キロメートルに堤防を引堤した。これは御囲堤(おかこいつつみ)と呼ばれ1608年に完成したが、治水施設ではなく軍事施設であり美濃側に堤防を築く事は厳禁であった。美濃側の堤は三尺低くとされたことで、美濃方面はさらに水害の被害を受ける事となった。
このころの伝承として、ヤロカ水という妖怪が木曽川・長良川・揖斐川に出没するという話がある。これは柳田国男の「妖怪談義」に記されているものだが、川から「ヤロカヤロカ」という声が聞こえ、これに「ヨコサバヨコセ」と応えると洪水に呑まれるというものである。実際に1650年(慶安3年)大垣藩領内で3,000人もの死者を出し、木曽三川が海のようになったと言われている濃尾大洪水では、尾張丹羽郡上般若村(現在の愛知県江南市付近)の村民が「ヤロカヤロカ」との声に「ヨコサバヨコセ」と応えて村は洪水で全滅したと伝えられている。実際は暴風雨の音が「ヤロカヤロカ」に聞こえるのではないかと考えられているが、それだけ流域の住民は洪水に対して敏感であったことが窺える。
1753年(宝暦3年)12月、幕府は薩摩藩主・島津重年に対し尾張藩領内の木曽三川分流工事を命令した。外様雄藩の経済力を削ぐ為の施策「御手伝い普請」である。薩摩藩は平田靱負を総奉行として翌1754年(宝暦4年)から1年を掛け、長良川と揖斐川の分流工事を行った。いわゆる宝暦治水事件である。工事に駆り出された薩摩藩士の苦難は並大抵の者では無く、幕府の厳しい監視下で多くの藩士が切腹したり病死した。かくして不完全とは言え、長良川・揖斐川の分流・締切工事は完成した。現在に残る油島千本松原締切堤である。だが、平田は薩摩藩に多大な負債と多くの藩士を死なせた責めを一身に負い、完成後自刃して果てた。彼は現在、治水神社にまつられ、地元住民は今でも平田を始めとする薩摩藩士の遺徳を慕っている。なお、この一件は後に薩摩藩を倒幕に走らせる遠因ともなった。
明治時代に入ると、内務省はヨーロッパより多くのお雇い技術者を招き入れ、全国各地の治水事業に着手した。 木曽川においては課題の分流工事を本格的に推進するべくヨハニス・デ・レーケを迎え、1888年(明治20年)より「木曽・長良・揖斐三大河水利分流計画」に着手した。 具体的には油島を完全に締切り長良川・揖斐川を完全に分流。 木曽川・長良川を背割堤で締め切る他木曽川の流路を立田輪中に、長良川の流路を高須輪中に切り替える事によって完全に木曽三川を分流させる計画を立てた。それまで河口付近では複雑に入り組んでいた木曽三川であったが、この工事によって分流は1893年(明治25年)に完成し、悲願が成就したのである。
大正時代に入ると木曽川水系は豊富な水量と急流が水力発電の好適地として注目された。 木曽川には旧大同電力を率いた福澤桃介が日本初のダム式発電所である大井ダムを1924年(大正13年)に建設したことに始まり、落合ダム・兼山ダム・今渡ダム等を木曽川・王滝川に建設した。 特に、大井ダムと三浦ダム(王滝川)建設工事は日本の土木史に輝く土木工事とされている。 一方飛騨川は松永安左エ門によって水力発電所が建設され、上麻生ダムや川辺ダム等が建設された。 だが、これらは後に国家の電力統制の流れには勝てず、日本発送電株式会社に統合されていく。
戦後の木曽川水系の河川開発は、他の大河川と同様にまず水力発電の開発に始まり、やや遅れて治水とかんがいに焦点を当てた河川開発が起こってそれらが結合した河川総合開発事業になり、人口の増加が顕著になるに従い上水道需要の確保を目指した水資源開発へと移行した。さらに1970年代以降は電力需要の増大に対応するため揚水発電を主軸とした新規電源開発が行われていった。以下はこれらの流れについてそれぞれ説明する。
戦前活発に行われた水力発電事業は太平洋戦争において一時中断を余儀無くされたが、空襲に伴う電力設備破壊などで電力供給が著しく減衰したため停電が頻発。これを解消しかつ早期の経済復興を行うために政府によって電源開発が積極的に推進され、木曽川水系でも早いうちから再開された。
日本発送電は急流で包蔵水力が大きく、余り開発の手が付けられていない飛騨川流域に特に着目した。そして戦前松永安左エ門が構想した「飛騨川流域一貫開発計画」を骨子として飛騨川とその支流である馬瀬川・佐見川にダム式水力発電所の建設計画を検討し、その第一弾として飛騨川上流部の大野郡朝日村地点と支流の秋神川に着目した。ここに比較的規模の大きいコンクリートダムを建設して水力発電を行い、名古屋方面に電力を供給するという計画であった。また、木曽川上流部の王滝川についても三浦ダム完成後さらなる水力発電計画を進め、木曽川本流では戦争で中断した加茂郡八百津町と可児郡御嵩町境の蘇水峡地点でのダム計画を再開した。
ところが日本発送電は戦争に協力した独占資本であると連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より過度経済力集中排除法の対象とされ、解体の方針が決定された。そして1951年(昭和26年)に電力事業再編令によって全国九電力会社に分割・民営化されてしまったのである。木曽川水系については、本流と長野県内支流の発電施設と発電用水利権を福澤桃介が設立した大同電力が保有していたため、その流れをくむ関西電力が継承。飛騨川・長良川・揖斐川については中部電力が発電施設と水利権を継承した。このため同じ水系でありながら、二つの電力会社が全く違う地域(木曽川・王滝川の電力は関西地方、飛騨川・長良川・揖斐川の電力は名古屋)に送電するために電源開発を行うという奇妙な構図となった。これは発電用水利権の所有者は「最初に開発を行った事業者の流れをくむ法人が継承し開発を独占的に行う権利がある」とした一河川一社主義という概念が根底にあるためである。
中部電力は「飛騨川流域一貫水力発電開発計画」を受け継ぎ飛騨川・秋神川の水力発電事業を手掛け、1953年(昭和27年)に朝日ダム(飛騨川)と秋神ダム(秋神川)を完成させた。この両ダムは木曽川水系において三浦ダムに次ぐ高さ80メートル台のハイダムであった。関西電力は王滝川中流部の王滝村二子持地点に三浦ダムに匹敵する規模のダムを計画、さらに中流部の八百津町に日本初の100メートル級ダムである丸山ダムの建設に着手した。だが経済安定本部による木曽川水系の治水計画が発表されるとこれらのダム計画は治水計画に組み込まれ、両電力会社は電気事業者として参加することになり事業主体からは離れることになった(詳細は後述)。
その後電力需要が高度経済成長や人口の増加で急激に増加すると、電力会社による新規電源開発はより出力の大きい火力発電や原子力発電へと移行する(火主水従)が、需要のピークが高まる夏季などに電力を安定的に供給するため火力発電や原子力発電との連携が可能な揚水発電が水力発電では注目され、木曽川水系でも大規模な揚水発電所が計画・建設されることになった。
木曽川水系においての揚水発電の嚆矢(こうし)は1963年(昭和38年)に関西電力が建設した三尾発電所(出力35,500キロワット)であるが、大規模なものは1969年(昭和44年)に完成した高根第一発電所である。これは飛騨川最上流部の大野郡高根村(現在の高山市)に高根第一ダムと高根第二ダムを建設し、出力340,000キロワットの電力を名古屋市や中京工業地帯に供給するというものである。その後1976年(昭和51年)には益田郡金山町(現在の下呂市)の馬瀬川に馬瀬川第一発電所(出力288,000キロワット)が建設され、飛騨川は一大電源地帯へと変貌した。その後は比較的開発の行われていない長良川・揖斐川に目が付けられ、木曽川水系では初となる出力100万キロワット級の揚水発電所・奥美濃発電所が計画された。これは長良川支流板取川の小支流・西ヶ洞谷川上流に川浦(かおれ)ダムを、揖斐川支流根尾川の小支流・根尾東谷川に上大須ダムを建設し、出力150万キロワットの電力を生み出すというものである。奥美濃発電所は1995年(平成7年)に完成し、現在木曽川水系における最大規模の水力発電所として稼働している。
また既存の一般水力発電所の再開発も同時に行われ、新上麻生発電所や新丸山発電所を始め出力5万~6万キロワット台の発電能力が増強された。これもピーク時の電力需要に対応するための開発である。現在は徳山ダムの発電事業として中部電力が出力155,000キロワットの徳山発電所を建設している。なお、上麻生発電所の取水ダムである上麻生ダムは1968年(昭和43年)8月18日に発生した飛騨川バス転落事故において救助活動援助のため、ダム決壊の危険性から普段は絶対行われない洪水時の水門閉鎖を時間限定で行ったというエピソードが残されている。
木曽川は宝暦治水や木曽・長良・揖斐三大河水利分流計画によって長良川・揖斐川と完全に切り離され、以前に比して水害による被害は減少した。とはいえそれでも洪水による被害は後を絶たず、1938年(昭和13年)7月5日の梅雨前線豪雨で木曽川は過去最大の洪水量を記録した。その洪水量は愛知県犬山市地点において毎秒13,200トンという過去に例を見ないものであった。
戦後カスリーン台風やアイオン台風を始め毎年の様に台風や豪雨が襲来、これに戦中の河川改修不備や山間部の乱伐による保水力低下もあいまって全国各地の河川は大小問わず大洪水をもたらし、その被害額は留まるところを知らなかった。こうした風水害が戦後疲弊した日本経済に更なる打撃をもたらすことを懸念した経済安定本部は、利根川・淀川・北上川を始め全国10の主要大河川に対して堤防整備に加えてダムによる洪水調節を図る治水方針を立案した。そして1949年(昭和24年)には諮問機関である治水調査会の答申を得て「河川改訂改修計画」を発表。上記の目的に沿った河川改修を計画した。
木曽川についても対象となり、同年木曽川水系流域計画が発表された。この計画では1938年の洪水を基準としてダムと堤防改修による洪水調節を行うこととし、木曽川本流と飛騨川・長良川・揖斐川流域に多数の治水ダム建設を計画した。当初は既に建設されていた大井ダムや兼山ダムなどの発電専用ダムを転用する計画であったが、何れも洪水調節目的を達成するだけのポテンシャルが無いため既設のダム再開発は断念し、日本発送電が施工を進めていた木曽川中流の丸山ダムを水力発電専用から洪水調節目的を加えた多目的ダムとすることで木曽川中流・下流の治水を図ろうとした。経済安定本部は岐阜県知事を通じて日本発送電に事業主体を建設省にする変更を命じた。これにより丸山ダムは木曽川水系流域計画における治水の要として活用されることになる。
さらに1951年(昭和26年)、第3次吉田内閣は国土復興のために河川を有効に開発して治水のみならず農地開墾のためのかんがいと工業地帯への送電のための電力開発を強力に進めるために今まで別個の事業者が実施していた河川開発を一元化する河川総合開発事業を大規模に遂行し、経済成長を軌道に乗せることを目的に国土総合開発法を成立させ特定地域総合開発計画を発表した。これにより全国22地域がその対象となったが、木曽川水系についても愛知県・岐阜県・長野県の三県にまたがり、建設省(現在の国土交通省)・農林省(現在の農林水産省)・通商産業省(現在の経済産業省)・中部電力・関西電力の五者により治水・かんがい・水力発電の多目的河川開発計画が進められた。その根幹事業として木曽川本流と飛騨川・長良川・揖斐川流域に15基の多目的ダムを建設する計画が立てられたのである。これが木曽特定地域総合開発計画である(愛知用水事業については後述)。
| 一次 支川 (本川) |
二次 支川 |
三次 支川 |
ダム名 | 堤高 (m) |
総貯水 容量 (千m³) |
型式 | 目的 | 沿革 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 木曽川 | 薮原ダム | 50.0 | 9,000 | 重力式 | F・P | 信濃川水系奈良井川の奈良井ダムとの間で導水する計画。一旦立ち消えとなり後に味噌川ダムとして再度計画され、1993年に完成。 | ||
| 木曽川 | 丸山ダム | 98.0 | 59,350 | 重力式 | F・P | 関西電力による発電専用ダムから多目的ダムに目的拡大。1955年完成。 | ||
| 木曽川 | 犬山ダム | 35.0 | 35,150 | 重力式 | F・P | 立ち消えとなり、その後農林省東海農政局により宮田用水などの取水口である犬山頭首工として建設される。 | ||
| 王滝川 | 二子持ダム | 75.0 | 68,500 | 重力式 | F・N・A・P | 愛知用水事業の水源として計画変更され、治水機能を持たない多目的ダム・牧尾ダムとして1961年完成。 | ||
| 飛騨川 | 朝日ダム | 92.0 | 34,400 | 重力式 | F・N・A・P | 中部電力の発電専用ダムに治水とかんがい目的を付加する予定であったが、最終的には発電単独で建設され1953年完成。 | ||
| 飛騨川 | 久田見ダム | 60.0 | 76,000 | 重力式 | F・P | 飛水峡に建設され、水没する上麻生ダム・上麻生発電所の発電目的を付設する予定であったが、水没予定数が200戸を超えるため立ち消え。 | ||
| 飛騨川 | 小坂川 | 落合ダム | 70.0 | 67,250 | 重力式 | F・N・A・P | 出力32,000キロワットの発電能力を有する多目的ダムとして計画されたが、立ち消え。 | |
| 飛騨川 | 馬瀬川 | 岩屋ダム | 70.0 | 24,000 | 重力式 | F・P | 支流和良川の岩瀬ダムとの間で導水する発電計画であったが、一旦立ち消え。1960年代に再度計画され、1976年に1億トン級のダムとして完成。 | |
| 飛騨川 | 馬瀬川 | 和良川 | 岩瀬ダム | 50.0 | 17,500 | 重力式 | F・P | 岩屋ダムとの間で導水する計画であったが立ち消え。その後ダム地点を馬瀬川に移し発電専用の馬瀬川第二ダムとして1976年完成。 |
| 長良川 | 板取川 | 洞戸ダム | 60.0 | 155,550 | 重力式 | F・A・P | 一旦立ち消えとなったが1960年代に板取ダム計画として復活。だが地元の反対が激しく1980年代に計画中止。 | |
| 揖斐川 | 東杉原ダム | 72.0 | 184,000 | 重力式 | F・N・A・P | ダム地点を下流に移し横山ダムとして1964年に完成したが、電源開発によって同地点にダム計画が立てられ日本最大の多目的ダム・徳山ダムとして2008年完成。 | ||
| 揖斐川 | 根尾川 | 黒津ダム | 84.0 | 130,000 | 重力式 | F・N・P | 1950年代には立ち消え。 | |
| 揖斐川 | 根尾川 | 根尾東谷川 | 根尾ダム | 45.0 | 16,000 | 重力式 | F・N・P | 1950年代には立ち消え。その後上流部に1995年上大須ダムが完成。 |
| 揖斐川 | 牧田川 | 一之瀬ダム | 32.0 | 6,710 | 重力式 | F・N・P | 1950年代には立ち消え。 | |
| 信濃川 | 犀川 | 奈良井川 | 奈良井ダム | 30.0 | 9,000 | 重力式 | F・P | 薮原ダムとの間で導水する発電計画であったが一旦立ち消え。その後長野県営の多目的ダムとして1982年完成。 |
(注)目的の略号:F(洪水調節)、N(不特定利水)、A(かんがい)、P(水力発電)
このダム計画はその後変更があり、最終的には木曽川の丸山ダムと揖斐川の横山ダム、王滝川の二子持ダムの三ダム計画に集約され、それぞれ1950年代後半から1960年代には完成を見た。ところが1959年(昭和34年)9月26日、近畿地方から中部地方を伊勢湾台風が襲来し、死者・行方不明者4,645人という戦後最悪の台風被害をもたらした。この台風では長良川・揖斐川流域の水害に加え名古屋市南区を始めとする伊勢湾沿岸地域での高潮が被害をさらに拡大させた。事態を重く見た政府は中曽根康弘を本部長とする「中部日本災害対策本部」を名古屋市に設置し、木曽川水系及び伊勢湾沿岸一帯の治水・防災体制強化を図った。特に被害が甚大であった伊勢湾岸については防潮堤や防潮水門などの強化・建設を進め、これらの防潮施設は1990年代にはほぼ完成した。また長良川・揖斐川流域の治水機能を高めるため堤防の強化を進めると同時にダムによる治水の強化も検討し、横山ダムの洪水調節機能を強化する傍ら徳山ダム(揖斐川)や長良川河口堰(長良川)、板取ダム(板取川)の計画が持ち上ることとなった。
大雨になると洪水の被害を受けやすい濃尾平野であったが、渇水にも悩まされる地域でもあった。古くは1001年(長保3年)に木曽川から大江用水が引かれ、その後宮田用水や木津用水などの用水路が建設され、濃尾平野中部は一大穀倉地帯となった。だが尾張丘陵・知多半島・東濃地域・養老山地一帯は水の便が悪く、特に知多半島は大河川が全くないことから慢性的な水不足に悩まされていた。このためこの一帯ではため池による農業用水補給が行われていたが、それは根本的な解決にはなり得なかった。
戦後に入って、知多半島に水を安定的に供給するための根本解決策として、木曽川から知多半島先端まで農業用水路を整備するという壮大な計画が持ち上がった。これは浜島辰雄によって構想されたものであるが吉田茂によって採用され、やがて木曽特定地域総合開発計画の一環として正式な事業となった。これが愛知用水であるが工事費が莫大なものになることが予想され、政府は世界銀行の融資を仰いだ。1954年(昭和29年)世界銀行の農業調査団一行が来日し、日本各地の農業振興に有用な地域を調査し、融資可能かどうかを調査した。その結果知多半島地域は篠津地域泥炭地開発事業や八郎潟干拓事業などと共に世界銀行の融資を受けることになり、着工に向けて大きく前進した。1955年(昭和30年)10月、事業を運営する特殊法人・愛知用水公団が設立され、1957年(昭和32年)11月に着工した。まず水源として建設省がかつて計画していた王滝川の二子持ダム計画を拡充して牧尾ダムを建設し、関西電力が管理する兼山ダム貯水池に兼山取水口を設けてここから尾張丘陵・知多半島まで水を供給することとした。愛知用水は1961年(昭和36年)に完成し、幹線水路112キロメートル、延べ1,012キロメートルに及ぶ大用水路が渇水に悩まされた地域の恵みとして今なお機能している。
愛知用水の着工に前後し農林省(農林水産省)は濃尾用水の拡充を図るため1951年(昭和26年)「国営濃尾用水土地改良事業」を施工。愛知県犬山市と岐阜県各務原市の境の木曽川に犬山頭首工を建設して用水補給を増強させ、1968年(昭和43年)に完成した。さらに濃尾用水の完成年には西濃地域のかんがい補給を図るため横山ダム(揖斐川)を水源とする「国営西濃用水土地改良事業」が着工され、1984年(昭和59年)岡島頭首工の竣工によって西濃用水が完成。西濃地域に安定した水供給を行った。そして知多半島と同様に慢性的な水不足に悩む東濃地域(岐阜県多治見市・土岐市・瑞浪市・恵那市・中津川市)に水供給するため岐阜県は1976年(昭和51年)に東濃用水を完成させ、関西電力落合ダムに取水口を設けて東濃地域に安定した水供給をもたらした。現在は濃尾用水の改修を目的に2000年(平成12年)から「新濃尾農地防災事業」が行われており、2014年(平成26年)完成予定である。
こうしたかんがい整備が行われる一方で、名古屋市を中心とする中京圏は急速に人口が増加。さらにトヨタ自動車や新日本製鐵など大型工場が進出することで中京工業地帯も拡充。水需要は青天井の勢いとなった。このため従来治水中心に行われていた河川開発は水資源確保が重要な目的となっていった。利根川や淀川で水資源開発を目的とした河川総合開発事業を行っていた水資源開発公団(現在の独立行政法人水資源機構)は1966年(昭和41年)、木曽川水系を水資源開発促進法に基づく水資源開発水系に指定。愛知用水公団を吸収するとともに「木曽川水系水資源開発基本計画」を定めて水資源開発のための河川施設建設を計画した。