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宍戸亮 /
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現在の長崎県南松浦郡新上五島町仲知地区に生まれる。隠れキリシタンの末裔であるためカトリック教徒であり、母が未婚ということもあって、戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵され、見習い士官として新兵に大砲の撃ち方を教えていた。終戦時は、所属していた西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊の疎開先である熊本市郊外の山奥にいた。戦後、京都大学工学部に入学。在学中は京都カトリック学生連盟の委員長を務めたこともあった。27歳の時に卒業。
その後、教員生活を経て、長崎県議会議員を5期20年務め、長崎市長となった。その間、自民党長崎県連合会幹事長などを務めた。
昭和天皇が重病で余命が長くないと知らされ、国中に自粛ムードが漂っていた1988年12月7日、市長3期目の在任中だった本島は、市議会で共産党議員の昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し、海外の記事や自分の従軍経験から考えて「戦後43年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います…私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」 と答弁。同日の記者会見でも「天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです」と重ねて発言した。その直後に、自民党県連などが発言の撤回を要求したが、本島は自分の良心を裏切ることはできないとして、これを拒否した。これに対し自民党県連は県連顧問から解任し、多数の保守系組織が市長を非難した。また、多数の右翼団体が長崎市に押しかけ、80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」を叫んだ(菊タブー)。
1990年1月18日、警察が警備を緩和したときに、右翼団体『正気塾』の田尻和美が本島を背後から銃撃した[1]が、奇跡的に命を取り留めた(長崎市長銃撃事件も参照)。その後、本島氏は瀕死の重体になったにもかかわらず「犯人を赦す」と述べている。
1991年の選挙では共産党は公認候補を出さずに実質的に本島を支持し、そのほかの革新勢力の協力も得て4選したが、1995年の選挙では多選批判などを受け、自民党の推薦を受けた伊藤一長に敗れ、政界から引退した。2007年に伊藤が銃撃によって死亡した際には「2代にわたり市長が銃撃されるのは異常」とコメント(毎日新聞)した。
2002年、第1回韓日平和交流功績賞、並びに、ドイツの功労勲章一等功労十字章が贈られた。
2002年、過激派との接近が顕著になり、中核派の機関紙『週刊三里塚』巻頭の「闘いの言葉」を執筆している。
1997年、原爆ドームの世界遺産登録をきっかけに書いた論文(「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」、広島平和研究所)[2]で「原爆は落とされるべきだった」「原爆が日本に対する報復としては仕方がなかった」と述べた。また1998年7月、共同通信社の単独インタビューに対し「(原爆は)落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの十五年間にわたる)あまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」と答えた。これは「加害の認識と謝罪の徹底を通して原爆観の落差を埋めること、そして何よりも被爆体験の特権化による『被爆ナショナリズム』の解体にこそある」(川口隆行)[3]ものであり、単純な原爆投下の正当化ではなかったが、当然ながら被爆団体から非難をあびた。
また、2007年に久間章生が「原爆投下は仕方が無かった」と発言して与野党や世論から大きな反発を受けた時も、「日本の戦争責任をもう一度考えるきっかけを与えてくれた」として一定の理解を示すなどしている。
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