本田技研工業 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋本田技研工業株式会社(ほんだぎけんこうぎょう、Honda Motor Co., Ltd.)は、日本を拠点とする大手機械工業メーカー。主に「Honda」のブランドでオートバイと自動車、汎用製品を製造している。新規分野としてASIMOのようなロボットや小型飛行機も開発している。創業者の本田宗一郎は経営者・技術者として著名であり、社名は同氏の姓から名づけられた[1]。日本の自動車メーカーとして9番目に設立された。本社は東京都港区南青山二丁目に地上16階地下4階の自社ビルを有する。通称および国内の各証券取引所での表示は「ホンダ」。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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| 種類 | 株式会社 | ||||||||||||
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| 市場情報 |
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| 略称 | ホンダ/Honda | ||||||||||||
| 本社所在地 | 〒107-8556 東京都港区南青山二丁目1番1号 |
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| 電話番号 | 03-3423-1111(本社代表) +44-(0)1280-844000(ホンダ・レーシング・F1チーム) |
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| 設立 | 1948年(昭和23年)9月24日 | ||||||||||||
| 業種 | 輸送用機器 | ||||||||||||
| 事業内容 | 自動車・二輪車・汎用製品・飛行機の製造および販売 | ||||||||||||
| 代表者 | 福井威夫 (代表取締役社長) | ||||||||||||
| 資本金 | 860億67百万円 | ||||||||||||
| 売上高 | 連結:12兆0,028億34百万円 単独:4兆0,880億29百万円 (2008年3月期) |
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| 総資産 | 連結:12兆6,155億43百万円 単独:2兆6,801億11百万円 (2008年3月31日現在) |
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| 従業員数 | 連結:178,960人 単独:26,583人 (2008年3月31日現在) |
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| 決算期 | 3月末日 | ||||||||||||
| 主要株主 | モクスレイ&Co. 6.40% 日本トラスティ・サービス信託銀行(株)(信託口) 4.05% 日本マスタートラスト信託銀行(株)(信託口) 3.90% (2008年3月31日現在) |
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| 主要子会社 | (株)本田技術研究所 100% ホンダエンジニアリング(株) 100% |
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| 関係する人物 | 本田宗一郎(創業者) 藤沢武夫(元取締役最高顧問) |
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| 外部リンク | www.honda.co.jp | ||||||||||||
本田技研工業株式会社(ほんだぎけんこうぎょう、Honda Motor Co., Ltd.)は、日本を拠点とする大手機械工業メーカー。主に「Honda」のブランドでオートバイと自動車、汎用製品を製造している。新規分野としてASIMOのようなロボットや小型飛行機も開発している。創業者の本田宗一郎は経営者・技術者として著名であり、社名は同氏の姓から名づけられた[1]。日本の自動車メーカーとして9番目に設立された。本社は東京都港区南青山二丁目に地上16階地下4階の自社ビルを有する。通称および国内の各証券取引所での表示は「ホンダ」。
ロゴはアルファベット大文字のHONDAを赤色でデザインしたもの。2000年末よりロゴを使用しない場面での社名表記として、ホンダのCI(コーポレートアイデンティティ)に基づくVI(ビジュアル・アイデンティティ)として、ホンダ自身が「コミュニケーションネーム」と呼ぶ表記を用いるようになった。これはアルファベット表記で「Honda」とするもので、ホンダ自身が積極的に用いると共に、報道機関に対し社名の扱いを「Honda」もしくは「ホンダ」の表記を要望している[2]。フランス語やスペイン語などでは、冒頭のHを発音しないため、「オンダ」と呼ばれる事がある。
目次 |
戦前より自動車部品などを製造していた東海精機をトヨタグループに売却した資金を元に、1946年、静岡県浜松市(現・浜松市中区)山下町(後の山下工場)に本田技術研究所として開設され、内燃機関および各種工作機械の製造、ならびに研究を開始。1947年にはA型自転車用補助動力エンジンを開発した。 1948年に本田技研工業株式会社として設立。1949年に藤沢武夫を経営全権として迎え、以降、技術の本田宗一郎と経営の藤沢武夫による二人三脚の経営が始まる。 1963年には後年に「スポーツトラック」とも呼ばれることになるT360(日本初のDOHCエンジン搭載)で四輪自動車業界に参入した。
その後もCVCC、VTEC、VTEC-E、i-VTEC、i-DSI、IMAにといった高い技術開発力を示してきた。1981年に世界初の自動車用ナビゲーション・システムを完成させた。
自動車・二輪車・汎用(発電機、耕運機など)だけでなく、ASIMO(アシモ)に代表される二足歩行ロボットの開発も行っている。このロボットは、ニューヨーク証券取引所の始業ベルを人間以外で初めて鳴らした。
また、2003年末には、宗一郎の念願だった航空機業界への参入への第一歩となる試作機「HondaJet」の初飛行にも成功。2004年2月16日には小型ジェット機用エンジンの事業化で、GEとの提携も発表。
2004年7月には、埼玉県和光市の旧工場跡地にビルを新築、国内本社機能の一部を和光へ移転させた(海外本社機能は港区南青山に所在する)。
また藤沢武夫の「(ホンダの)社長は技術畑出身であるべき」という言葉が今も守られており、現職の福井威夫に至るまで歴代の社長はすべて技術畑出身、そしてエンジン開発部門の技術者であり 本田宗一郎以外の全員が四輪F1もしくは2輪WGPのエンジン開発経験がある。また、本田宗一郎、藤沢武夫の両人とも、子供をホンダに入社させない方針であった。創業初期に重要な役目をになった本田の弟 弁二郎も退社させている。その後、本田の長男本田博俊はホンダのアフターパーツメーカー無限を創業した。
創業者一族による会社の私物化の弊害を恐れる本田の信念が貫かれ、縁故採用は一切行わず、実力本位の採用を行っている。そのため会社の成長の後もいわゆる「大企業病」(会社の硬直化、官僚制化)に冒されることなく今日に至っている。 もっとも、初期の頃は本田と自身の父親が知り合いだった縁で入社した二代目社長の河島喜好のように親戚・口利きで問題なく入社することが出来た。縁故採用を行わないルールを作成したのは、会社がある程度大きくなってからのことであり、縁故採用を行うわけにはいかない本田宗一郎の個人的事情が陰にあった。 中途採用にも積極的であり、初期の自動車開発を進め、F1監督も務めた中村良夫を始め、ASIMO開発の中心者である広瀬真人、SH-AWD等のホンダの駆動力制御の専門である芝端康二も中途採用組である。
本田の思想が反映した事例としては、社長室が無い、重役達は一つのフロアを共有しているという特徴がある。
業界最大手のトヨタ自動車に次いで広告費を費やしているにも関わらず、トヨタを始めとする他社と比較してテレビコマーシャルに芸能人をあまり起用しない傾向があり、CMソングもJ-POPではなくオリジナルのものや洋楽曲が使われるケースが多い。芸能人を起用しない理由としては、安易に芸能人のイメージに頼らない独自路線に加え、テレビコマーシャルに芸能人を起用すると販売不振に陥るというジンクスがあるためだとされている。
労働環境は他の自動車工場より良いといわれる。いい例が連続2交代制勤務。(本田宗一郎を参照)また、従業員の作業服の洗濯も無償で行っている。また、他の自動車工場に比べ女性の進出も多い。
現場主義で知られ、新入社員は工員以外にも、事務職・技術職・また男女の性別を問わずに製作所で半年間の研修をさせている。
主業務は、オートバイ、自動車、汎用製品の製造、販売である。オートバイに関してはシェア世界一であり、世界中のほとんどの地域で販売・運用されている。自動車に関しては、2003年には国内の軽自動車を含めた販売台数で、初めてトヨタ自動車に次いで第2位になったが、トヨタ自動車の更なる躍進や日産自動車の反撃により、その後は再び国内販売3位に後退。2007年暦年ベースの国内販売台数ではスズキ、ダイハツ工業に次いで5位と苦戦を強いられた。
過去に、本田技研工業の自動車の販売網は、特に旧・プリモ店の母体企業に多い、オートバイ・自転車取扱店、マリーン・船外機取扱店、農機具取扱店、地元有力者の商店などでの委託販売形式を採用していた歴史があるが、直営店を持たない委託販売形式が販売拡大の足かせになっているとされる。
軽自動車主体であったスズキも、90年代以降、積極的に登録車市場に製品を投入してきており、上位3社プラスマツダを含む5社の激しい市場争奪戦となっているのが日本市場である。北米では大衆車ブランドのホンダ(Honda)と高級車ブランドのアキュラ(Acura)で展開しており、大衆車で大きなシェアを占める。北米における売上げは、大きな収入源となっている。北米を含む海外では、国内では販売していないATVや船外機、水上オートバイなども取り扱っている。
ホンダの中国展開は、進出競争の激しい各国メーカーの中でも特に成功した部類に入る。1973年に本田宗一郎自ら訪中し、中国展開を決意、二輪車の輸出を始める。1982年には重慶のメーカーと技術提携し、現地での二輪車部品生産皮切りに、1992年には、重慶、広州、天津に合弁企業による二輪車生産工場を設ける。二輪でのある程度の成功を持って本格的な四輪販売へ乗り出すべく、1993年には香港にHonda Motor Chinaを設立。当時輸入車のみではあったが、四輪の中国でのアフターサービスを行った。本格的な四輪生産は1994年の東風汽車(武漢)との合弁で設立した東風本田零部件有限公司に始まる。1998年には広州汽車(広州)と合弁し、それまでの相手だったプジョー撤退後の工場をそのまま受け入れ、アコード、フィットなどの生産を始める。プジョー時代からの従業員を本田流に指導し、高品質の製品が作り出されるようになった。今では広州本田だけで年産24万台に発展し、広州市のパトカーにもホンダ車が使われている。ホンダが2003年から中国河北省のメーカー双環汽車と争っているスポーツ用多目的車(SUV)「CR-V」の外観設計(意匠デザイン)の訴訟では、2006年3月に中国国家知識産権局がホンダ側の意匠権を「全て無効」とする判決を下した。
(2007年4月1日現在)
設立翌年1949年には日米対抗レースにC型モーターサイクルで出場し、優勝するなど当初よりモータースポーツへの志の高い会社とも言える。
1961年5月14日に、ホンダのマシンを駆った高橋国光によりWGPにおいて日本人初の優勝を飾る。WGPでは最高峰のMotoGPクラス(旧GP500クラス)で1966年の初勝利以降、2006年終了時点で通算200勝を達成。
F1には、1964年から1968年に単独チームで参戦し、この期間に2勝を記録。1983年から1992年、2000年から2005年は車体の共同開発を含めたエンジン供給として参戦し、エンジンサプライヤーとして69勝を記録。2006年から再びオールホンダ単独チーム(Honda Racing F1 Team)として参戦し、現在までに1勝を記録。通算72勝(単独チームでは3勝)を達成。社員教育の一環として、社員を3~4年程度チーム専属として派遣。2008年12月金融危機以降の経営環境の変化に伴い、F1から撤退を表明。
アメリカにおいては、1991年より2年間IMSAシリーズのキャメルGTPライトクラスに「アキュラ・スパイスSE90CL」(NSXのエンジンを搭載)で参戦し、ドライバーズ,マニュファクチャラーズの両タイトルを2年連続で獲得。
1994年から2002年まではCARTで通算65勝、2003年からはIRLで通算27勝(2005年終了時点)を達成している。なお、IRLへの参戦は2009年まで継続することを2005年10月16日付で発表した。
2007年より、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)のLMP2クラスへ参戦するチームに、エンジンを供給。
国内においては、1994年から全日本ツーリングカー選手権にシビックフェリオ(1994年〜1995年)及びアコード(1996年〜1997年)で参戦し、1996年から全日本GT選手権及びSUPER GTにNSXで参戦しており、フォーミュラ・ニッポンにも2006年よりエンジン供給している。
社業としてのモータースポーツだけでなく、ユーザーにもモータースポーツを楽しんでもらおうと、シビックやインテグラタイプRによるワンメイクレースを開催している。2004年〜2007年は、「ベルノエキサイティングカップ インテグラワンメイクレース」が各地方シリーズとして開催されている。2008年からは、車両が再度シビックタイプRに変更された。
また、自転車競技においてもマウンテンバイクのダウンヒル競技に独自開発のマシンRN01を投入し、国内のMTBジャパンシリーズやNORBA、世界選手権などで好成績を挙げている。
しかし、様々なレースに積極的に参加する反面、ラリーへの参加はこれまでにない(プライベーターがホンダ車を使うことはある)。
1971年には低公害技術であるCVCC発表。米国でマスキー法という環境規制法が成立しており、その規制開始期限までに規制に対応するエンジンは世界中のメーカーが開発不可能と言われていたほど厳格な規制であった。そのマスキー法の条件をクリアしたのが、当時、日本の中小メーカーだったHondaであり、Hondaの名前を世界に知らしめた。翌年から翌々年にかけてトヨタ、フォード、クライスラー、いすゞに技術供与。
近年は、燃料電池車のFCXの開発、ハイブリッド車のインサイト・シビックハイブリッド・アコードハイブリッドの市販やエタノール燃料開発などの環境を考えた製品開発にも取り組んでいるだけでなく、工場での生産体系や物資輸送体系の見直し、ツインリンクもてぎ内での環境教育施設運営等、多岐に渡っている。
中国内モンゴル自治区通遼市のホルチン沙漠での植林作業を展開し、砂漠緑化活動も毎年行っている。
自転車用原動機を製作したことが社業の始まりとなり、ヒットを記録。その後、原動機付自転車の分野でスーパーカブという空前絶後の大ヒット作を生み、世界のあらゆる地域で使用された。これによって、「スーパーカブのHonda」と知名度を大いに上げ、国際二輪業界において日本のメーカーが覇権を握る下地となった。スーパーカブは全世界通算で6,000万台(2008年4月末時点)が製造され、「世界で最も多く製造されたオートバイ」となっている。
社の業務として「モータースポーツの振興」を挙げるだけあって、スポーツモデルにも力を入れており、二輪ロードレースの世界最高峰カテゴリであるロードレース世界選手権 (MotoGP)や プロダクションレースであるスーパーバイク世界選手権(SBK)での実績をフィードバックしたスポーツモデルが好評である。また、公道走行可能なバイクだけでなく、ロードレーサーやモトクロッサーなどのコンペティションモデルの市販とサポートにも熱心である。
ほとんどの分野、ほとんどの排気量において優秀なモデルを送り出し、オートバイ生産台数世界第1位の座を盤石のものとしている。
2008年からは浜松製作所で生産している中型・大型二輪部門を熊本製作所に順次移管する予定である。熊本製作所に二輪車の新工場を建設し浜松製作所の二輪生産に従事する1,500人は熊本製作所に配置転換される見込み。浜松製作所では自動変速機の生産を強化する。
一時期三ない運動により大打撃を受けたが、近年スズキ、ヤマハ、カワサキといった大手二輪車メーカーらとともに「三ない運動を推進している地域ほど二輪車事故が多発している」と反論を展開するとともに、徳島県内の私立高校と協力して二輪車講習を鈴鹿サーキットで行うなど高校生の交通安全教育に力を注ぎ成果をあげた。
新車販売時に一部他社が設定する寒冷地仕様を設定せず全国共通仕様にする事で基本的に日本全国価格が均一で、地方や季節を選ばずトラブル無く走る事が出来るが、その分他社の乗用車よりもバッテリー等の部品が高い事がある。
環境特性についても、初代シビックを筆頭に優れた量産車を作っているが、ハイブリッドにおいても、1996年に発表したインサイトの燃費は量産車として、いまだ破られていない。 トヨタ系列などのハイブリッドは電気モーターでの走る・止まる(回生)が主体だが、インサイトはエンジン主体である。 また他社のハイブリッドを始め、シビックハイブリッドなどはCVT方式なのに対してインサイトは5MTという設定で燃費36km/lを達成。インサイトは乗車定員2名と、普通乗用車としては実用性に欠ける(スポーツカーなどを除けば、普通乗用車の定員は4人以上が大半)。それだけに「トヨタにハイブリッド一番乗りを奪われたホンダが、燃費スペック世界一を謳うためだけに作った特殊モデル」という批判も存在する。
一方、従来スポーティーなモデルを得意とし、またイメージリーダーとしてきた半面、初代オデッセイ発売までは、RVやステーションワゴン(ライトバン)などの商品ラインナップを持たず、販売側では苦戦を強いられていた。
しかしながら、オデッセイを始めとする一連の“クリエイティブ・ムーバー”シリーズの発売を境にRVにも力を入れている。特にオデッセイは今の日本のミニバンブームの先駆者と言える存在で、セダン並の操縦安定性と運転の楽しさを持ち、1994年10月の登場より4代目となる現在までヒットを続けている。また、いすゞ自動車ブリティッシュ・レイランドからOEM供給を受けるなどRVへの取り組みが遅れていたが、CR-Vの大ヒットにより遅れを一気に挽回した。ワゴンでもアコードワゴンを中心に人気を集め、幅広い商品ラインナップを取り揃えている。
コンパクトカーの分野では、2002年、フィットがトヨタのカローラを販売台数を上回りトップとなり、2003年にも一時追い抜くなど躍進した。現在も月別販売台数で1~6位(2004年1~8月データによる)の成績を維持している。 2006年度、日本国内の省エネ法改正等の車両の省エネ対策の法的強化を受けて、フィットを土台にしたハイブリッド車も開発されていた。
構造的にスポーツモデルに適さないとされていたFF車で、目を見張るほどのスポーツ性を有したインテグラ、シビック、CR-Xなどを送り出した。また最近ではタイプRという快適性を犠牲にし、過酷なサーキット走行までも視野に入れたスポーツモデルをインテグラ、シビック、NSXに設定している。また、アルミを電気溶接する際の莫大な電力消費を補うために、工場敷地内に発電所を備えた栃木製作所高根沢工場(栃木県塩谷郡高根沢町)を新規に建設して送り込んだNSXシリーズは、オールアルミボディを備え、国産スポーツカーの最高峰として君臨していた(鈴鹿製作所に製造移管後、2006年生産終了)。
近年、昔販売されていたS800などのイメージを継承し、ホンダ創立50周年記念車として発売されたS2000は、ホンダでは唯一のFR車である。このS2000は、排気量リッター当たり100PSを越える、2,000ccで250PSを発揮している。しかも、S2000は、他のホンダ車と部品を共用していない(他メーカーの車両と部品を共用している部分はある)独自のプラットフォームであることも魅力である。
北海道の鷹栖町に巨大なテストコースを持ち、そこで熟成され鍛えられたスポーツモデルや4WDモデルも数多い。
2004年10月7日に発売されたレジェンドには新開発の四輪駆動SH-AWDを採用し、また、出力規制の緩和にともない、国産では初めて280PSを超える出力(300PS)が設定された。レジェンドのSH-AWDは、単純な前後の駆動力配分の制御だけでなく、伝達経路内に増速ギヤを設け、より積極的に後輪を駆動することにより旋回性能の向上を図っている。
汎用エンジンを利用した草刈り機や芝刈り機などの農業機械、除雪機、船外機、発電機などを生産している。
過去に乗用管理機の「マイティシリーズ」(1985年発売。当初は強制空冷・単気筒によるガソリンエンジン仕様のみの販売だったが、後にクボタ製の水冷・直列2気筒によるディーゼルエンジンを搭載したディーゼルエンジン仕様が追加された)と小型ディーゼルトラクターの「TXシリーズ」(1989年発売。ちなみに、自社オリジナル開発でありながら当時20馬力以下のクラスとしては初の水冷・直列3気筒・SOHCディーゼルエンジンが搭載されていた)を生産していたことがあり、OEM供給を受けたクボタ製トラクターや三菱農機製の田植機、コンバインとともにホンダブランドで販売していた時期があったが、現在はその分野から撤退して小型機械のみを販売している。
2006年7月25日に小型ジェット機(Very Light Jets:VLJ)市場への参入を表明。ジェット機開発は創始者、本田宗一郎の夢と言われている。これに合わせて6-7人乗りで最大速度483mph、最大航行距離1,226milesの小型ジェット機を発表し、HondaJetと命名した。他社の同クラスのジェット機は機体にエンジンを取り付けているが、HondaJetは主翼の上にエンジンを取り付けている。これによりキャビンスペースが他社より広くなっている。機体も軽合金ではなくF1と同じカーボンの複合材により軽量化していて、独特な主翼の形状と相まって燃費が向上しているのが特徴である。8月にはHonda Aircraft Company, Inc.を設立し、フロリダ州ベロビーチに本社を置くパイパー・ジェット社と業務提携を行う予定。なお現在同市場はセスナ社、およびエクリプス社の独占市場となっている。また、1962年の新聞の求人広告に軽飛行機技術者の応募広告を出したが、この応募に応じたのは、吉野、川本両元社長であったという。このことは福井威夫社長が日経スペシャル カンブリア宮殿で明らかにしている。