便利なキーワード検索サイト ことなびトップページへ
デル株式会社







ことなびTOP  サイトマップ  ことなびとは?



便利!NINJA TOOLS
→FC2検索 用語 Wikipedia YouTube

本田美奈子. とは?

 ページ内リンク   ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事  ↓Yahoo!知恵袋

本田 美奈子.(ほんだ みなこ、1967年(昭和42年)7月31日 - 2005年(平成17年)11月6日)は、日本歌手女優である。2004年(平成16年)、本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.ドット)」をつける改名を行った。本名は工藤 美奈子(くどう みなこ)。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


本田美奈子.はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  →本田美奈子 04年11月に姓名判断で「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」といわれ、名前の最後に「.」をつけて改名した。

出典: 『はてなダイアリー』


ノースウエスト航空 のマイルは、国内航空会社のマイレージと違って無期限!! 格安パックツアーでも
100%マイルが付くのでお得!! 国内往復分15000マイルを貯めて沖縄や北海道へ!!


関連商品

本  本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス―歌がつないだ“いのち”の対話 (CDブック) (CDブック)別ウィンドウで表示

本田 美奈子 /  最安値(新品): ¥ 2,100  最安値(中古): ¥ 1,360 
おすすめ度5.0(全レビューの平均)涙なしでは読めません。どうしても、あの11月5日を思い出してしまいます。岩谷さんとのやり取りが主なものですが、知らない部分があってとても参考になります。テレビの放送を見られなかったので、なおさらです。「なぜ、彼女にこんな運命が?」とやりきれなくなります。新しい境地を見つけた矢先に。付属のCDは歌ややり取りが収録されていますが、できればファンとしては、音がかなり悪い部分でも編集せず、そのまま載せていただければと思いました。CDでは音質の悪いところは編集されて削除されています。美奈子さんの歌声は私たちの心の中でいつまでも生き続けるでしょう。  (Universeelwoordenboek さんのレビュー)

本  天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生別ウィンドウで表示

最安値(新品): ¥ 1,470  最安値(中古): ¥ 119 
おすすめ度5.0(全レビューの平均)本田美奈子さんが38歳の若さで、急性骨髄性白血病で急逝されてから3年が過ぎようとしている。 私はこれまでは、本田美奈子さんのあまり熱心なファンとは言えず、アイドル時代も歌のうまい子だなと想った程度で、ミュージカルやクラシック(クロスオーバー)に取り組んでいるという噂を聞いたときも、“歌うこと”に対する彼女の意欲と熱意に賛嘆しつつも、なかなか聴くチャンスがつかめずに時間が過ぎてしまい、そして悲報に接することになってしまった。 最近やっと気持ちを整理して、彼女の遺してくれた作品に接し、そのあまりの美しさ、特に清純な高音の驚異的な伸びにはしばし言葉を失ってしまった。ありきたりの言葉だが、もっと早く聴かなかったことがあまりに悔やまれる。 ふだんは芸能界や芸能人の内幕をテーマにした書籍などにはあまり関心がないのだが、アイドル系歌手としてのデビューから20年、その間、ポップス、ロックバンド結成と解散、ミュージカル、そしてクラシックへと、常に歌手そしてアーティストとしての新たな可能性に挑戦し続け、そして志半ばにして病に倒れるまで、短くも大きな輝きに満ちて駆け抜けた本田美奈子んの生涯を幾分たりとも知りたくて本書を手に取った。 読み進んで心を打たれるのは、彼女の歌に対するひたむきな心と、人そして人生に対する真摯で愛情に満ちたその生き方である。特に、急性骨髄性白血病と診断されて緊急入院、そして抗がん剤の投与や骨髄穿刺といった過酷な闘病生活の中で、彼女が周りの人々に見せる前向きな明るさや心遣いなどの、強さとそれに支えられた愛情の深さである。自分など、もし彼女と同じ病魔に襲われたなら、はたしてこれほどの強さと愛情でまわりに勇気を与えれるような生き方が出来るのか、はなはだ自信がない(冷や汗)。彼女の、この明るさと勇気と愛情とが、あの清純で伸びやかな美しい歌唱を支える土台であったとは、感動もまたひとしおである。 そして、もうひとつ知ったのは、クラシックを「日本語の歌詞で歌う」ことへの彼女のこだわりである。「私はクラシックと思って歌わない。新しいものとして歌いたい」と語ったと書かれているが、日本人として日本人のために古典の名作に新たな生命を吹き込んで歌いたいという彼女のスタンスを明らかに示していると思う。 とにかく、すべてが前向き、そして勇気とやさしさと愛情に満ちた彼女の生涯だった。いま、改めて彼女が遺してくれた数々の素晴らしい歌に心から「ありがとう」を言いたい。心を込めて。  (ウォッチャー さんのレビュー)

音楽  純~21歳の出会い~ヘイリー・ミーツ・ジャパニーズ・ソングス-デラックス・エディション(初回限定盤)別ウィンドウで表示

ヘイリー /  最安値(新品): ¥ 2,850  最安値(中古): ¥ 2,790 
最近、多くなってきたSHM-CD、高過ぎはしないが、通常盤で十分ではないか。一時期、流行ったアルミニウムの代わりに「金」を蒸着してCDは最近、あまり見ませんね。「良い音」だと言われて買わされてるだけではありませんか? 先入観があれば通常盤より良く聞こえるでしょうね。偽薬でも信じ込めば体に効くように、これも同次元の話では? 内容は一曲目以外は☆五つあげてもいい。一曲目は2005年に亡くなった本田美奈子の歌声を利用(流用)したもので、評価できない。方法が公正ではない。彼女の了解も得ず(現在では当然得られるはずは無い)勝手にduetにしてしまったもので、☆ゼロですね。本田美奈子ファンといてはこんなものは決して作ってくれるな、と言いたい。今後もこのような、擬似duet、擬似共演が出てきては、泣きたくなります。ここまでくると、製作者の「倫理観」の問題でしょう。ただ、曲が美しければいいのか? 音楽関係者は二度とこのような「擬似」作品は作らないで欲しい。   (Universeelwoordenboek さんのレビュー)

DVD  ハート DVD-BOX別ウィンドウで表示

最安値(新品): ¥ 11,844 

DVD  MINAKO/ザ・ヴァージンライヴ IN BUDOKAN [DVD]別ウィンドウで表示

本田美奈子/  最安値(新品): ¥ 2,705  最安値(中古): ¥ 1,650 

DVD  ドラマティック・フラッシュ [DVD]別ウィンドウで表示

本田美奈子/  最安値(新品): ¥ 638  最安値(中古): ¥ 649 




ウィキペディア(Wikipedia)記事


本田美奈子.
基本情報
出生名 工藤美奈子
出生日・地 1967年7月31日東京都板橋区
学歴 堀越高等学校卒業。
出身地 日本 埼玉県朝霞市
死没日・地 2005年11月6日(満38歳没)東京都港区
ジャンル J-POP
ミュージカル
クラシカル・クロスオーバー
職業 歌手
女優
活動期間 1985年 - 2005年
レーベル 東芝EMI
マーキュリー
バンダイ・ミュージックエンタテインメント
マーベラスエンターテイメント
コロムビアミュージックエンタテインメント
事務所 ボンド企画
BMI
共同作業者 岩谷時子
井上鑑
岡野博行
影響 越路吹雪
サラ・ブライトマン
公式サイト 本田美奈子.オフィシャルサイト minako-channel
  

本田 美奈子.(ほんだ みなこ、1967年(昭和42年)7月31日 - 2005年(平成17年)11月6日)は、日本歌手女優である。2004年(平成16年)、本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.ドット)」をつける改名を行った。本名は工藤 美奈子(くどう みなこ)。

1980年代後半を代表するアイドル歌手であり、1990年代以降は主にミュージカルで活躍した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦するなど、活躍した領域の広汎さでは日本の芸能史上出色の存在である。

目次

生涯

アイドル歌手としてデビュー

1967年(昭和42年)7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町(現成増)の成増産院に生まれた。彼女の誕生はラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられた[1]。当時の彼女の家庭は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、生涯の大半をそこで過ごした。歌が好きで歌手になることを夢見ていた母の影響で幼い頃からいつも歌を歌っていた。小学校の卒業文集には「将来の夢は歌手」と書いていた。

中学生の時『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会に進出したがプロダクションからのスカウトは受けなかった[2]。1983年原宿で少女隊のメンバーを探していたボンド企画にスカウトされ芸能界に入った。社長の高杉敬二とはこの後ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることになる。

当初の少女隊のメンバーという構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになった。1984年第8回長崎歌謡祭でグランプリを受賞したことがデビューのきっかけとなった。翌1985年(昭和60年)4月20日東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。同年の数多くの新人賞を受賞した。

1986年(昭和61年)2月5日「1986年のマリリン」をリリースし大ヒットとなった。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。同曲は今もって本田の最も有名な楽曲である。

1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年秋に解散した。

ミュージカルでの活躍

1990年(平成2年)ミュージカルミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年(平成4年)5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。

1994年(平成6年)『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。

1996年(平成8年)『王様と私』にタプチム役で出演。

1997年(平成9年)『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。当時すでに日本初演の際にこの役を演じた島田歌穂が“世界一のエポニーヌ”と称されるほどの評判を得ていたが、本田もそれに劣らぬ評価と人気を獲得した。以後も繰り返しこの役で出演し、エポニーヌは本田の当たり役となった。

1998年(平成10年)エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。

同じく2000年(平成12年)10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。

2002年(平成14年)『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。

クラシカル・クロスオーバーへの進出

2003年(平成15年)5月21日初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。

同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。

2004年(平成16年)地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。

白血病による逝去

風邪に似た症状がなかなか治まらないため、2005年(平成17年)1月に病院の検査を受けたところ急性骨髄性白血病と診断され緊急入院。3回の化学療法による治療の後、5月に臍帯血移植を受け、7月末には一時退院できるまでに回復した。しかしわずか1ヵ月後の8月31日に染色体異常が見つかり9月7日に再入院した。10月には一時退院したものの21日に染色体異常が発見され三度目の入院となった。11月3日に肺に合併症を発し容態が急変、2005年(平成17年)11月6日午前4時38分家族らの見守る中、逝去した。38年と3ヶ月の生涯だった。法名は「釋優聲(しゃく ゆうしょう)」。

音楽

多彩なジャンルでの活躍

演歌への志向

当初は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌だった[1]。所属するボンド企画に演歌歌手を育てた経験がなかったためにアイドルとしてデビューすることになったものの、本人の強い意向で「殺意のバカンス」をデビュー曲とすることになったのはこうした志向によるものと考えられる。

またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌った[3]ほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており[4]、この計画はある程度具体化していたらしい。

この後にもアルバム『JUNCTION』にオリジナル演歌とも見做し得る楽曲を収録したほか、コンサートでは度々演歌の名曲をカバーしていた。結果的に演歌歌手として活動することはついになかったものの、演歌への志向は生涯を通じて本田の歌手活動に大きな影響を与えていたものと思われる。

アイドル歌手として

1985年(昭和60年)4月20日に「殺意のバカンス」でデビューすると新人離れした歌唱力に加え、可憐な容姿も相俟って順調に人気を獲得した。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」(同年9月28日発売)のヒットは本田にこの年の各種歌唱賞の新人賞を数多くもたらした。翌年の2月5日に発売された「1986年のマリリン」は爆発的なヒットとなり、“へそ出しルック”で激しく腰を振って踊る姿は世の中の注目を集めた。こうした演出の意図について、本田自身は「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に惜しくも届かなかったのが悔しくてより強く個性を出そうとした、と語っている[1]

人気の高まりを裏づけるように、同年7月23日発売の「HELP」は公共広告機構のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された[5]。歌へのこだわりが強くドラマや映画への出演には消極的だった本田だが、1987年放送のドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された「Oneway Generation」(同年2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「孤独なハリケーン」(9月9日発売)を歌った。この3曲で本田にとってオリコンランキング最高位である2位を獲得した[6]

この時期の楽曲には秋元康による作詞、筒美京平による作曲のものが圧倒的に多い。秋元は当時本田について、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえて「本田美奈子んというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた[7]

洋楽からの影響

元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた[1]。デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。この年にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」が制作された。

翌1987年にはブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」が制作された。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、このコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてブライアンに送ったところ彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。このシングルの英語版はイギリスをはじめヨーロッパ20ヵ国でリリースされた。

同じ年、ラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作している。このアルバムはアメリカでも発売された。

またこの年の7月にはジャマイカを訪れスライ&ロビーのライブにゲスト参加し、「HEART BREAK」と「EYE言葉はLONELY」(アルバム『Midnight Swing』収録)を歌った。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。

ロックバンドでの活動

本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い1988年1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を忌野清志郎が手がけたことなどは話題となった。

この時期の人気や評価は概ね低調だったが、ロックバンドのリーダーを務めた経験は本田にとってアーティストとしての自己を確立する上で欠かすことのできない過程だったものと思われる。SHOW-YAの提唱で開催されプリンセス・プリンセスなどとともに出演した『NAONのYAON』はこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑とも言える。初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆すべきである。

ミュージカル女優として

ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している[1]。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティー番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。

東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた[8]時も初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。1990年秋に始まったオーディションの選考は数ヵ月にわたり、翌1991年1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた[1][9]

アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。以後も『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。

沖縄戦におけるひめゆり学徒隊の悲劇を描いたミュージカル座制作の『ひめゆり』は東宝制作のもの以外では初の出演であり、ヒロインのキミを熱演した。プログラムに掲載されたメッセージ[10]では「会場に足を運んでくださった方々に、戦争の恐ろしさ、平和でいられる事のありがたさを、少しでも感じて頂けたら嬉しく思います」と述べていた。

シェイクスピアの『十二夜』を原作とするミュージカル『十二夜』ではプロデューサーの酒井がセリフに苦手意識のある彼女のために原作にないネコの役を用意した。本田は自分に割り当てられた役が人ではなかったことにとまどいつつも、言葉を喋らない代わりに人間の会話は理解できるという設定を自分の中で用意して真剣に役作りをした[1]。この作品が制作されたのはすでに本田がクラシックの楽曲を歌い始めていた時期で、彼女のパートはソプラノ的な唱法を想定して作られている。没後の再演では彼女が歌ったナンバーはアンサンブルによる歌唱や器楽演奏に置き換えられていた。

サザンオールスターズの名曲をベースに桑田佳祐による書き下ろしを加えて作られた『クラウディア』は岸谷五朗寺脇康文の主催する演劇ユニット、地球ゴージャスによる初めてのミュージカルで、彼女がそれまで出演してきた作品とはスタッフの顔ぶれも制作手法も異なるものだった。しかし本田は稽古の際のマット運動でむち打ちになるなどのトラブルを起こしながらも、仲間意識を最も大切にする岸谷の方針を共有しつつ役柄を作り上げていった。「可憐であり、けなげであり、強さも持っている」と岸谷が評した[1]ヒロイン、クラウディアの演技が彼女にとって最後のミュージカル出演となった。

『ミス・サイゴン』でエンジニア役として共演した市村正親は、本田の逝去の際に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた[11]。彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の服部克久は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた[12]。『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』の作曲者、クロード=ミッシェル・シェーンベルクは『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、「日本で役を育ててくれた本田美奈子思い出してもらいたい。彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」と述べた[13]

ミュージカル期のスタジオ録音

本田は主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。その中でも特にマーキュリーレコード在籍時に制作された2枚のアルバムが重要である。

ロックバンド時代の前作『豹的 (TARGET)』以来5年ぶりとなるアルバム『JUNCTION』(1994年9月24日発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当した岩谷時子をプロデューサーに迎え制作が進められた。タイトルの通り様々な音楽ジャンルの合流点となることを意図して制作されたこのアルバムはグレゴリオ聖歌を翻案した楽曲で幕を開け、前述の演歌をはじめシャンソンファド、チャールストンに分類され得る楽曲などが収録されている。先行シングルとして発売された「つばさ」(同年5月25日発売)は彼女の代表曲ともいうべき存在としてファンの間で親しまれている。

翌1995年に制作された『晴れ ときどき くもり』(6月25日発売)ではプロデューサーに牧田和男を迎え、山梨鐐平宮沢和史楠瀬誠志郎といったミュージシャンから楽曲提供を受けた。楠瀬とは「Fall in love with you -恋に落ちて-」でデュエットしている。この曲がシングルカットされた(11月6日発売)際のカップリング曲「あなたとI love you」(当時はアルバムに収録されず、後に『LIFE』で初めてアルバム収録となった)では作詞とともに彼女にとって初となる作曲を手がけた。牧田とは強い信頼関係を築き、互いに兄妹のような存在としてその後も交流が続いた。

クラシックへの進出

本田は1996年に出演したテレビ番組の中で「最近初めてオペラの『蝶々夫人』を歌った」と語っている[14]。彼女が初めてクラシックの楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。

前述の通り2000年前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは2002年8月31日に東京オペラシティコンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。クラシックの楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたコロムビアのプロデューサー、岡野博行はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。

コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である岩谷時子が日本語詞を書き下ろし、編曲は井上鑑が担当した。井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている[1]

一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった[1]。収録曲は100曲以上の候補の中から彼女自身の心に響く曲が選ばれ、本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会った。クロスオーバー歌手としてのデビュー作『AVE MARIA』はこうして完成し、2003年5月21日にリリースされた。

翌2004年11月25日には2枚目のアルバム『』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった[15]。こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動は彼女の従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。音楽評論家の伊熊よし子は本田の新たな音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した[15]

ジャズへの見果てぬ夢

本田は2001年にNHK総合テレビで放送されたテレビドラマ『ハート』にアメリカ帰りのジャズ・シンガーという設定の役で出演した。劇中のライブ・シーンで本田はジャズ・ピアニストの西直樹の率いるバンドと共演し、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」(キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの共作でアレサ・フランクリンの歌唱によって知られる)と「I Feel the Earth Move」(キャロル・キングの作でキャロル自ら歌った)の二曲をジャズ風のアレンジで歌った。おそらくこの時の縁がきっかけで西のアルバム『JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ』の収録曲「SWEET MEMORIES」(松田聖子の楽曲)にスキャットで参加した。

芸能レポーターの井上公造は本田の逝去後に寄せたコメントの中で、彼女が40代になったらジャズを歌いたいと語っていたことを明かした[16]

影響関係

ミス・サイゴン』への出演をきっかけに訳詞を担当していた岩谷時子と懇意になった。岩谷は本田の歌手としての力量を高く評価し、かつてマネージャーを務めていた越路吹雪と重ね合わせて見ていたようである。この後本田は前述の「風流風鈴初恋譚」のほか、オリジナル曲としてはファンの間で最も人気のある「つばさ」など、岩谷からの詞の提供を数多く受けるようになる。後にクラシックアルバムを制作するにあたっても日本語詞の多くを岩谷が提供している。

また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことから越路吹雪への強いあこがれを抱くようになった。越路のような表現力を持つ歌手になりたいと語っていた[11]。アルバム『JUNCTION』では越路の代表曲である「愛の讃歌」と「アマリア」をカバーしている。

もう一人本田の歌手活動に大きな影響を及ぼした人物としてサラ・ブライトマンの名が挙げられる。インタビューなどでは度々サラへのあこがれを口にしていた。ミュージカルで大成した後クラシックの楽曲に取り組み、クラシカル・クロスオーバーというジャンルの隆盛をもたらしたサラの存在は、クラシックへの志向を強めていた本田の進路決定に際し道しるべのような役割りを果たしたものと思われる。

歌唱技術

本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。クラシックの楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。

ミス・サイゴン』でキム役をダブルキャストで務めた入絵加奈子は当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している[17]。しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んで見事にこれをこなした。同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』にはファルセットを多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域のスキャットを披露している。

本田は音楽学校などで声楽を学んだ経験はないが、ミュージカルに出演するようになってからは山口琇也や岡崎亮子のレッスンを受けた。特にオペラへの出演経験もある岡崎の指導はクラシカル・クロスオーバーへの進出に大きな影響のあったものと思われる。岡崎は最初に会った時本田のあまりに華奢な体つきに不安になったが、背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したという[1][18]。1994年発表の「つばさ」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがあるが、この伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった[18]

音域は最終的には3オクターブに達していた。これは例えば通奏低音パートも含めて一人で歌った「パッヘルベルのカノン」(アルバム『』所収)に遺憾なく発揮されている。しかも本田はその広い音域を均質な響きで発することができた。『レ・ミゼラブル』での共演以来公私ともに親しくしていた森公美子は、普通の歌手には存在する“チェンジ”と呼ばれる地声と裏声が切り換わるポイントが彼女の場合にはどこにあるかわからないと指摘している[18]

演奏家には何度演奏しても同じように演奏するタイプと、その場の感興に応じて表情を変化させていくタイプがあるが、本田は典型的な後者のタイプだった。一連のクラシックアルバムで編曲を務めた井上鑑は「彼女の場合はまわりが変わると、その変化を反映していくような感性を持っている」と評し、プロデューサーの岡野博行は「毎回歌うたびに、表情もすごく変わる」、「その歌の世界を生き、自分に起きてくる感情をすごく大切にして歌っていた」と語った[1]。本田自身はミュージカルのロングランでもテンションが落ちない理由について「何百回やっても毎回違うからちっとも飽きない」と語っていた[19]

作詞・作曲

「愛が聞こえる」(シングル「勝手にさせて」(1989年5月31日発売)のカップリング)で初の作詞を手がけたのを皮切りに多くの詞を残している。結婚が決まった妹に贈った「あなたとI love you」(シングル「Fall in love with you -恋に落ちて-」(1995年11月6日発売)のカップリング)では作詞とともに初の作曲を手がけた。これを含めて生涯に3曲を作曲している。

人物

人柄

彼女は幼い頃から暮らした朝霞の街を愛し、デビュー後の数年間事務所社長の高杉の自宅に下宿していたほかは朝霞市の実家から仕事に通っていた。帰りが遅くなっても母親の手料理を食べるのが習慣だった。自宅でお気に入りの座椅子に座って窓からけやきの木を眺めるのを好み、近くの緑の多い風景の中を散策するのを楽しみとしていた[20]。気さくな人柄から近隣の住民にも慕われており、後述の通り地元商工会の発案で朝霞駅前に記念碑が建設されたのはその表れでもある。朝霞警察署の一日署長を務めたこともある。

デビュー初期はアイドル歌手として活動したが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人びた歌謡曲の「殺意のバカンス」に変更された。日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど[21]、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる。

その一方で「やっほー」が挨拶代わりの天衣無縫な振る舞いでも知られていた。しかし出演した映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の音楽監督、渋谷森久との出会いをきっかけに落ち着いて人と接するようになっていった[11]。以前の自分自身については「わがままだった」と述懐している。また『ミス・サイゴン』への出演も歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上において大きな転機となった。大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという過程を通じて人との共同作業に喜びを見出すようになっていったようである。生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える[18]

人との絆を大切にする人であったことは毎年正月にわざわざそのための休みをとって2000枚の年賀状を自ら書いていたことにも表れている。メッセージなどの末尾には必ず「心を込めて...」の言葉を添えていた。この言葉は没後に発売されたアルバム『心を込めて...』のタイトルに採用された。ファンを大切にし、いつも「一緒に青春しようね」と呼びかけていた。「青春」は彼女が大切にしていた言葉であり、公式ファンクラブの名称「Blue Spring Club」は「青春クラブ」を訳したものである。

生涯子供を持つことはなかったが、とても子供好きであったことが知られている。『ミス・サイゴン』の楽屋では子役で出演する子供たちを我が子のようにかわいがり、ファンクラブの会合にファンが子供を連れて行くと大喜びしていた。姪や甥には「ママ」と呼ばせて愛情をそそいだという[22]

歌への情熱

『ミス・サイゴン』での事故

ミス・サイゴン』の公演開始から一月ほど経った頃、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。

病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3ヶ月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日に復帰を果たした。

歌に捧げた人生

デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。本田に妹のようにかわいがられていた高杉の娘、河村和奈は「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」とうれしそうに話していたと証言している[18]

アルバム『AVE MARIA』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」と挨拶した。

舞台には歌の神様がいると話し、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた[18]。2004年12月22日のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない開演前の舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している[1][23]

復帰を目指して

白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた[24]。臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。

本田の入院中に恩師の岩谷時子が路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があり、岩谷は本田と同じ病院に運び込まれた。無菌室から出ることができなかった本田は岩谷を励ますため、病室でア・カペラで歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷の病室に届けていた。この録音は三十数曲にも上り、一部はフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介されたほか、2008年2月にはこの二人の対話に焦点を当てたNHKのハイビジョン特集『本田美奈子. 最期のボイスレター 〜歌がつないだ“いのち”の対話〜』が放送された[25]。「アメイジング・グレイス」の録音は2006年7月から1年間公共広告機構(AC)の骨髄バンク支援キャンペーンのテレビ、ラジオのコマーシャルに使用され、2008年3月24日には配信限定で一般にリリースされた。2008年10月25日にはこのハイビジョン特集を元に『本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス』が出版され、付属のCDに「アメイジング・グレイス」を含む4曲が収録された。

38歳の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は前述の『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。

再入院後のある日、見舞いに来た知人がたまたま誕生日だったので居合わせた一同で「ハッピーバースデートゥーユー」を歌った。これが本田の歌った最後の歌となった[22]

手記・歌詞に綴られた言葉

本田は数多く詞を手がけているほか折りにふれ感じたことを手記に残しており[26]、それによりその思想の一端を窺い知ることができる。

自然・平和への愛

自然が人の手により破壊されつつある現状には深い関心を寄せていた。「地球へ」と題する手記では子供の頃に朝霞に残る豊かな自然の中で遊んだ思い出を振り返りながら、人と自然との共生への祈りのような思いを書き綴っている。実生活でも自宅近くに市民農園を借りて野菜を作り、そこで近隣の人たちとの交流を楽しんだり、とれた野菜を仕事仲間と一緒に食べたりと自然とふれ合う暮らしを実践していた。

自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『AVE MARIA』所収)は平和への祈りの歌である。2004年にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ[10]ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながら時を過ごすことの大切さを語りかけている。

小さな幸せ・時

この「小さな幸せ」は晩年の本田が好んで用いていた言葉であり、この言葉をタイトルにした手記も残している。日々の生活の中で当り前のようにそこにある小さな幸せに気づくことが大切だとくり返し述べていた。発病後一時退院を許されていた時に高杉と家の近くを散歩していて、蒸し暑さに不平を言う高杉に風を感じる幸せを教えさとしたというエピソードも伝えられている[1]

そしてこの言葉は「時」という主題への関心と結びついていたようである。最後のオリジナル曲となった「時-forever for ever-」は本田が岩谷に名前の一字をとって「時」というタイトルの詞を書いて欲しい、と発注して生まれたものであり、この歌はアルバムのタイトルトラックになった。このアルバムに収められたドヴォルザークの交響曲に自ら詞をつけた「新世界」や、本田の書き残した言葉を元に作られた追悼曲の「wish」も時を主題とした歌と見做すことができる。このように最晩年に時について歌いたいという強い意志を抱いていたことは、本田の到達点を理解する上で極めて重要な手がかりになると考えられる。

評価

生前の受賞・ランキングなど

本田はデビュー当時から実力派歌手として評価されていたものの、大きな賞やランキングの1位にはあまり縁がなかった。デビューした1985年には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の『日本レコード大賞』(TBS)では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった[27]

オリコンチャートで1位を獲得したこともなく、最高位は「HELP」「Oneway Generation」「孤独なハリケーン」の2位、アイドル時代の彼女の代名詞的な存在である「1986年のマリリン」は3位が最高だった。ただし累計売り上げ枚数ではこの曲が彼女にとって最大の24万枚超を記録している[6]。幾度となく出演した『ザ・ベストテン』でも1位を獲得したことがなかった[28]

日本のポップス歌手にとってステイタス的な存在である『NHK紅白歌合戦』への出場もついになかった。アイドルとして活躍していた当時のNHKにとって“へそ出しルック”で腰を振りながら歌っていたのがマイナス要因になったとも言われている。

本田にとっては『ミス・サイゴン』での熱演を評価されて受賞した1992年度のゴールデン・アロー賞の演劇新人賞が生前に受けた最も大きな表彰といえるかも知れない。なおこのほかの生前の受賞として1987年第4回ベストジーニスト賞一般選出部門、2003年第2回日本ゆかた大賞というファッション関係の賞がある。

突然の逝去が呼び起こした反響

38歳の若さでの急逝は社会に衝撃を以て受け止められた。アルバム『アメイジング・グレイス』は売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破し、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコンTOP10入り(7位)を記録した。『