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東京箱根間往復大学駅伝競走 とは?

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東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)とは1月23日に行われる関東地方大学対抗の駅伝大会である。通称箱根駅伝(はこねえきでん)。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


東京箱根間往復大学駅伝競走はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  「箱根駅伝」の正式名称。

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)とは1月23日に行われる関東地方大学対抗の駅伝大会である。通称箱根駅伝(はこねえきでん)。

目次

概要

出雲駅伝全日本大学駅伝とともに男子の3大大学駅伝のひとつに数えられており、また前出の2大会に続く3大駅伝の最終戦となっている。関東地区では正月の恒例イベントとして定着しており、高い人気を誇っている。当駅伝出場者からオリンピック世界陸上等に出場を果たした選手も少なくない。詳しくは箱根駅伝の人物一覧を参照。

東京都千代田区大手町読売新聞東京本社前から鶴見戸塚平塚小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までの往復コース。往路108.0km、復路109.9km、計217.9km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。

1920年2月14日に第1回大会が行われた。第1回大会は、当初アメリカ大陸横断駅伝を実施するための日本代表選考会という位置づけがあったといわれている。第二次大戦中に一時中断され、1947年に復活した。1956年32回大会から、現在の1月2・3日の開催となった。

関東学連に加盟している大学に参加資格があるが、5年や10年ごとの記念大会では関東以外の大学が招待されることもある。最近では2004年の第80回記念大会で、特別に日本学連選抜チーム(この大会にすでに出場権を得ている大学以外から選抜した)がオープン参加で出場した。また、2007年大会から学連選抜も順位が記録されることになった。もし学連選抜が10位以内に入ればシード校は10校から9校に減り、代わりに翌年の予選会からの出場校は9校から10校に増えることになる。

テレビ放送の全国生中継が開始されて以降、正月の風物詩として人気・知名度が格段に向上した(詳細については#報道・広報についてを参照の事)。

大会運営

主催

共催

後援

特別協賛

協賛

協力

  • 陸上競技社

運営協力

表彰

  • 総合優勝校には賞状、優勝カップ、メダル、優勝旗を授与。優勝校監督には記念品を授与。
  • 準優勝校、3位校には賞状、カップ、メダルを授与。
  • 総合4位から10位までは賞状とトロフィーを授与(かつてシード権が9位までの時は入賞も8位までだった)。
  • 往路優勝校、復路優勝校には賞状とトロフィーと副賞を授与。なお、往路優勝校に関しては往路ゴール後に箱根町から提供される地元の名産寄木細工のトロフィーが授与されている。
  • 区間賞者には賞状とトロフィーを授与。
  • 最優秀選手には金栗四三杯を授与。

金栗四三杯

「日本マラソンの父」と評された金栗四三の功績を讃えるため、2004年(第80回大会)に新設された最優秀選手賞。最も優秀な記録を出した選手に授与される。

年度 受賞者/所属大学 受賞理由
2004年 80 鐘ケ江幸治 日本学連選抜
筑波大学
5区・区間賞
2005年 81 今井正人 順天堂大学 5区・区間新記録
2006年 82 今井正人 順天堂大学 5区・区間賞
2007年 83 佐藤悠基 東海大学 1区・区間新記録
今井正人 順天堂大学 5区・区間新記録
2008年 84 篠藤淳 中央学院大学 9区・区間新記録

出場資格

1955年第31回大会以前

参加希望校の内、関東学連が承認した全てのチーム

1956年第32回大会

出場校を15チームに限定し、出場全チームを当該同年度秋季の予選会にて選考

1957年第33回大会~1970年第46回大会

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム

  1. 前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  2. 他の出場校については当該同年度秋季に行われる予選会に参加し、その予選会上位5チーム

※第40回の記念大会時は例年の15校の他に特例として関西と九州から各1校を招待。

1971年第47回大会~2002年第78回大会

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム

  1. 前年度の総合順位9位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  2. 他の出場校については当該同年度秋季(第68回大会から10月下旬)に行われる予選会に参加し、その予選会上位6チーム

※第50、60、70回の記念大会時は特例として20チームで実施。増加分の決定方法は年度により異なるので後述の沿革を参照の事。

2003年第79回大会以後

以下の4種類の方法で選んだ合計20チームとする事に変更

  1. 前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  2. 予選会タイムの上位6チーム
  3. 予選会タイムの7位以降については、予選会タイムに関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)のポイント(順位・エントリー数をタイムに換算)を加算した上での上位3チーム(インカレポイントの詳細計算については外部リンクなどを参照。また後述の駅伝偏重とインカレポイントも参照)
  4. なお、以上の本大会出場校以外のチームから選ばれた関東学連選抜1チームが参加する(第80回の記念大会は関東学連選抜に代わり日本学連選抜で参加した)。また学連選抜チームは当初はオープン参加扱いだったために個人記録の公式記録しかつけられず総合順位の公式記録はつけられなかったが、2007年の第83回大会からは総合順位も公式に認められることになった。また学連選抜チームがシード権を獲得出来る総合順位で10位以内に入った場合、翌年のシード枠が1つ減り予選会からの出場枠が1つ増える。
  5. 2009年の第85回大会は出場校を3校増やす。これは第85回記念大会に伴う措置で、シード校9校(前項の規定の基づき、2008年の第84回大会で関東学連選抜が第4位に入り、2009年のシード枠が1つ減ったため)と予選会から選考した13校に関東学連選抜チームを加えた23チームで争われる。予選会選考方式は成績上位10校に自動的に出場権を与え、残り3校についてはインカレポイントを加味して選考する[1][2]
    尚、この措置は2009年の第85回記念大会に限るもので、86回大会以後は20校に戻すこととしている。

備考

予選会について

予選競走に出るには、その年の1月から予選会応募締め切り日までの公式記録で10000m走35分以内か5000m走17分以内のどちらかを作った選手を補欠も含めて10人以上揃えなければならない(以前はこのような出場資格はなかったが、参加校の増加で予選会の段階である程度出場校を絞り込む必要が出てきたことからこのような資格が設けられた)。

一般論としては予選に出るということは本大会の約2ヵ月半前に一度チームや個人としての体調やコンディションのピークを構築(ピーキング)する必要がある為、チームとして年間を通しての調整面でシード校に比べて不利になる。

シード校について

シード(予選免除権。前年の本選で総合10位以内入賞が条件)校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームは未だ発生していない(出雲駅伝では発生例あり)。

沿革

  • 1920年 第1回大会として2月中旬に実施。明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校(現=筑波大学)の4校が出場。
    • 第一回開催に当たって、東京帝国大学や中央大学、法政大学、立教大学、日本大学、東京農業大学、東洋大学、専修大学など多くの大学・旧制専門学校・師範学校などに対して参加を呼びかけるが10人の選手を出場させる状況にある学校が少なく、最終的に第1回はこの4校となった。
  • 1921年 第2回大会に東京農業大学、法政大学、中央大学が初出場。明治大学が初優勝。
  • 1922年 第3回大会に東大農学部実科、日本歯科大学、日本大学が初出場。早稲田大学が初優勝。
  • 1925年 第6回大会の後日、日本大学が3区走者をエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、順位成績取消は免れたものの、翌年の大会参加を辞退。
  • 1926年 第7回大会で中央大学が初優勝。
  • 1927年 第8回大会は大正天皇崩御の影響で初めて4月に開催。そのため参加校は5校のみとなった。
  • 1928年 第9回大会に関西大学を特別招待。
  • 1931年 第12回大会に再び関西大学を招待。
  • 1932年 第13回大会に引き続き関西大学を招待。慶應義塾大学が初優勝。
  • 1933年 第14回大会に東洋大学、拓殖大学が初出場。
  • 1934年 第15回大会に専修大学、立教大学が初出場。
  • 1935年 第16回大会で日本大学が初優勝。
  • 1936年 第17回大会に横浜専門学校が初出場。
  • 1937年 日本大学が戦前初の3連覇をし当時の大会規約により優勝旗が授与された(大戦により混乱で紛失し竿だけが大学内に保管されている)。日本大学は翌1938年も優勝し、戦前唯一の4連覇を達成している。
  • 1938年 第19回大会で2着の明治大学が6区選手の資格疑義により失格となり、以下順位が繰り上がる。失格の理由は、当該選手が夜間部に在籍する学生で二重登録に当たるというもの。
  • 1939年 第20回大会で専修大学が初優勝。
  • 1941年 第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を実施(歴代大会には含めない)。
  • 1942年 戦時命令により日本学連が解体する。
  • 1943年 戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。青山学院大学が初出場。
  • 1944年 戦況激化により再び箱根駅伝は以後3年間中断。
  • 1947年 駅伝大会を復活し、第23回大会として開催。神奈川師範学校が初出場。読売新聞社が共催に入るが「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」とのGHQからの指導があり、後援となる。
  • 1948年 同年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン)とした。
  • 1949年 第25回大会で史上初の途中棄権(神奈川師範学校:現在の横浜国立大学)。日本体育専門学校が初出場(現在の日体大、以降現在まで連続出場)。中央大学の5区の選手がゴール手前で倒れこみ、関係者がゴールまで引っ張り込んだが失格とならなかった。この件について中央大学と審判長にルール違反ではないかとの非難が殺到する。報知新聞社が後援につく。
  • 1950年 前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。
  • 1951年 駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定(不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。
  • 1952年 第28回大会に成蹊大学が初出場。
  • 1953年 NHKラジオによる全国放送が開始。
  • 1954年 第30回大会に横浜市立大学が初出場。
  • 1955年 同年11月に初めての予選会(第10回関東学生10マイル兼第32回箱根駅伝予選会)を実施。シード校制度未導入の為、予選参加19校の中から上位15校が本大会に出場。また同年より交通事情を考慮し期日を新春2日、3日に変更。
  • 1956年 第32回大会に東京学芸大学が初出場。
  • 1957年 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。国士舘大学が初出場。同じく予選会を突破していた順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となった為、神奈川大学が繰り上がりで出場。
  • 1958年 第34回大会に前年本大会欠場に泣いた順天堂大学が晴れて初出場(以降現在まで連続出場)。横浜市立大学が途中棄権。
  • 1959年 第35回大会に埼玉大学が初出場。予選会6位ではあったが平均タイムで規定タイムをクリアしたため、特例で出場が認められる。この大会のみ16校が出場。
  • 1961年 第37回大会に防衛大学校が初出場。
  • 1964年 第40回を記念して立命館大学と福岡大学を招待し全17校にて実施。中央大学が史上初の6連覇を達成。
  • 1965年 予選会の会場が千葉市の検見川ロードレースコースに変更。
  • 1966年 第42回大会に復路スタートを全校一斉スタートに変更。順天堂大学が初優勝。
  • 1967年 第43回大会に亜細亜大学、駒澤大学が初出場。
  • 1968年 第44回大会に大東文化大学が初出場。
  • 1969年 第45回大会で日本体育大学が初優勝。
  • 1971年 第47回大会よりシード権枠を9校に変更。予選会の会場が八王子市内の富士森競技場付属コースに変更。
  • 1973年 第49回大会より自衛隊車両が大会関係車両として登場。日本体育大学が5連覇を達成。東海大学が初出場。
  • 1974年 第50回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させる為にシード9校以外で過去に優勝した5校を招待参加とし、残り枠6を予選通過校とした。
  • 1975年 第51回大会で大東文化大学が初優勝。
  • 1976年 第52回大会より復路スタートで上位数チームを時差スタートに変更。青山学院大学が途中棄権。
  • 1977年 予選会の会場が大井埠頭周回コースに変更。
  • 1983年 第59回大会の模様をテレビ東京が初めてテレビ中継を行う(ダイジェスト版で、最後のゴールのみ生放送)。
  • 1984年 第60回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させる為にシード9校以外で過去に優勝した3校を招待参加とし、残り枠8を予選通過校とした。東京大学が初出場。同様に国立大の東京学芸大学が23年ぶりに登場。
  • 1987年 第63回大会より日本テレビによる生中継放送が開始。山梨学院大学が初出場。
  • 1989年 第65回大会に留学生選手が初めて箱根路に登場。順天堂大学が4連覇を達成。
  • 1990年 第66回大会より伴走車(監督車)が交通事情により廃止。
  • 1992年 第68回大会で山梨学院大学が初優勝。
  • 1994年 第70回を記念して例年より5校多い11校を予選通過とし20校にて実施。まず予選通過の9校が選出され、中央学院大学、関東学院大学が初出場。後日特例として慶應義塾大学、筑波大学の出場も決まる。
  • 1995年 第71回大会で順天堂大学が途中棄権。
  • 1996年 第72回大会で史上初の2校(神奈川大学、山梨学院大学)途中棄権。
  • 1997年 第73回大会で神奈川大学が初優勝。前年途中棄権からの優勝、予選会突破からの優勝は初めての快挙。初出場から61年目での優勝も記録。監督会議にて給水の必要性が議論され、以後14キロ過ぎに給水ポイントを設置することが決まる。
  • 1998年 第74回大会に帝京大学が初出場。
  • 1999年 第75回大会10区のコースを日本橋経由に変更、最長区間(23km)になる。
  • 2000年 第76回大会より5区と6区のコースが一部変更。駒澤大学が初優勝。元の東海道を通るコースになる。予選会の会場が国営昭和記念公園に変更。
  • 2001年 第77回大会に國學院大學、平成国際大学が初出場。東海大学が途中棄権。
  • 2002年 第78回大会で法政大学が途中棄権(史上最短の途中棄権)。
  • 2003年 第79回大会から前年度成績上位校によるシード校枠を10校に変更し予選通過校も同時に9校とし、更に学連選抜1チームをオープン参加として加えて20チームとした。エントリー人数が16人に拡大。運営管理車の導入など大幅な変更。第80回を記念し、1回限定で予選会を箱根町の要望により芦ノ湖畔コースで開催。また年末にかけてシンポジウムやトークショーなどの記念行事が行われる。
  • 2004年 第80回を記念して同年のみ関東学連選抜に変り全日本学連選抜チームをオープン参加とした。城西大学が初出場。国士舘大学が10年ぶり出場。この大会で陸上自衛隊第1師団からの車両・要員支援が終了。読売新聞社が共催に復帰。この年行なわれた第81回大会予選会からコースが陸上自衛隊立川駐屯地立川市街地→国営昭和記念公園のルートに変更された。
  • 2005年 第81回大会に際し距離を再計測し、全区間の距離を変更(ルート自体は変更せず)。表彰式を東京ドームホテルで公開して開催。箱根駅伝ミュージアムが往路ゴール脇に完成。予選会での外国人枠は2人までに限定。実際に走るのは1人のみ。第81回大会は明治大学が14年ぶり出場、駒澤大学が平成初の4連覇を達成。
  • 2006年 第82回大会より中距離ランナー、マラソンランナーの育成を目的に、往路小田原中継所の位置を東京寄りに変更。4区が20kmを切るコース(18.5km)、5区が最長区間(23.4km)になる。亜細亜大学が初優勝。
  • 2007年 長年オープン参加だった関東学連選抜が正式参加。
  • 2008年 第84回大会で史上初の3校(順天堂大学〈5区〉、大東文化大学〈9区〉、東海大学〈10区〉)途中棄権。関東学連選抜が4位となりシード枠を1校分減らしたため、第85回大会の予選会枠が1校増えることになる。
  • 2009年 第85回を記念してこの回のみ出場校を3校増やし、関東学連選抜を含めた23チームが参加。シード校9校と選抜チーム以外の13校を予選会で選考。上武大学が初出場[3]。青山学院大学が過去最長となる33年ぶりの出場。東京大学大学院の選手が関東学連選抜メンバーとして初エントリー。

歴代出場校順位成績

箱根駅伝の記録一覧#歴代出場校順位成績を参照

歴代本戦出場校一覧

箱根駅伝の記録一覧#歴代本戦出場校一覧を参照

コースの特徴

箱根駅伝のコースマップ
  • コース途中の括弧書きは主な経由地、及び固定TVカメラ設置地点。通過道路名は国道・主要道以外は割愛する。応援の際はパンフレットなどで詳しいルートを参照されたい。
  • 各区間には給水ポイントがある。これは近年、チーム間で給水の必要性が議論され始めた末に設けられたものである(後述)。ただしテーブルに置かれたボトルなどを取るのではなく、控え部員が伴走しながら渡す。
  • 往路戸塚中継所までは交通規制解除の関係上、トップが通過してから10分経過を以って未通過チームの選手をスタートさせる(繰り上げスタート)。これ以降の中継所はトップ通過から同様に20分で繰り上げスタートとなる。この場合、襷は母校のものではなく大会本部が用意した「繰り上げ襷」を使用する。ただし、往路小田原中継所(4区→5区)と復路鶴見中継所(9区→10区)からの繰り上げスタートの場合のみ、母校の襷(予備)を使うことができる。また往路でトップ到着10分を経過した後に到着したチームは、復路では午前8時10分(JST、以下同)に繰上げての一斉スタートとなる。繰り上げ(一斉)スタートとなったチームの総合順位は、見た目のタイム+繰上げ分の時間差を加算して算出される。

往路(1月2日)

東京・大手町→箱根・芦ノ湖 5区間/108.0km

1区(21.4km)

区間記録保持者:佐藤悠基(東海大学 2年) 1時間01分06秒(第83回大会・2007年)

東京・大手町読売新聞東京本社前(往路スタート)→(田町)→(国道15号)→(新八ツ山橋)→(京浜急行電鉄空港線蒲田踏切)→(六郷橋)→鶴見中継所

  • 大手町・読売新聞東京本社前を午前8時に一斉スタート。スピードランナーや準エースクラスの投入が多い区間だが集団になれば牽制などでスローペースになったり、それほど大きくばらけない傾向にある。そのため鶴見中継所に多数の選手が殺到することが見られる。また、スタート直後に飛び出して逃げ切りを狙う学校もあり、各校の戦術が現れる区間の1つである。
  • この区間で重要なのは「次につなげること(先頭の見える位置でたすきを渡すこと)」である。その為ブレーキを避けようとして近年はペースが上がらないことが多い。
  • コース上の大きなアップダウンは新八ツ山橋と六郷橋のみ。この付近における選手同士の駆け引きも見もの。特に六郷橋付近では下りを利用してスパートをかける選手も多い。

2区(23.2km)

区間記録保持者:メクボ・ジョブ・モグス(山梨学院大学 3年) 1時間06分23秒(第84回大会・2008年)

鶴見中継所→(横浜駅前)→(国道1号)→(権太坂)→戸塚中継所

  • 2002年から最長距離区間ではなくなったが、それでも「花の2区」と呼ばれ続けているエース区間。箱根に限らず2区はその後の流れを決める重要な区間に上げられることが多いが各校のエース級の選手はほぼ均等な力を持っているため差が広がりにくく、この区間の結果が総合優勝争いに直結することはほとんどない。
  • 鶴見中継所から横浜駅前を経由して保土ヶ谷までは標高がほぼ0の平坦なコースであり、差はほとんどつかない。
  • 保土ヶ谷駅から権太坂までと、戸塚中継所手前残り3km地点の急勾配をいかに攻略するかが最大のポイント。鶴見中継所では例年差がそれほどつかない為、ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間でもある。エースの結果如何で後の流れが決まってくるとも言われる。
  • このコースでは前半ペースを上げ過ぎると権太坂と中継所手前の後半の登りで力尽き、ブレーキが掛かることがある。好タイム記録のためにはこの登りにいかに余力を残して臨むかがポイントとなり、1999年の第75回大会では三代直樹は残り3kmの上りを快走した。

3区(21.5km)

区間記録保持者:佐藤悠基(東海大学 1年) 1時間02分12秒(第82回大会・2006年)

戸塚中継所→湘南新道→(藤沢)→国道134号→(茅ヶ崎)→(湘南大橋)→平塚中継所

  • 遊行寺の坂を下り、浜須賀交差点を右折すると湘南海岸に出る。全体的に海風を味方につけて、高速レースをものにしたい。また、地元大学の応援団が集結するのもこの区間。
  • 従来はこの3区はつなぎの区間とされてきたが、近年は2区と3区をセットで考えることが多い。その為2区の流れを持続・もしくは躓きを取り返すために力のある選手を置くチームも多く、最近はこの区間でもごぼう抜きが見られるようになった。4区が最短区間に変更となったことで、更に重要度が増している。
  • 東京から小田原までのコースは東海道線と接近している為、ファンは勿論、出場校の走り終えた選手やコーチ、監督、付き添いなどが電車を使って移動することが多い。従って、大会開催中は移動の車中で選手や監督などに遭遇することもある。

4区(18.5km)

区間記録保持者:村上康則(順天堂大学 4年) 55分20秒(第82回大会・2006年)

平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所

  • 区間距離が大会唯一20kmを切る最も短い区間。2006年の第82回大会にて、往路の小田原中継所が2.5km東京寄りに変更となった。
  • 平塚中継所から11.8kmの国府津駅入口までアップダウンが激しく、スピードが出にくい。ゆえに4区よりも3区にスピードランナーを置く学校も多く、この区間はチームの10番手の選手を起用する傾向になりつつある。
  • これらのことから、他の区間よりも区間距離が短い割りに1kmに平均3分以上かけて走る選手がほとんどである。1km平均3分を切って走った選手は区間記録を持つ村上(1km平均2分59秒46)と2008年の第84回大会で55分24秒を記録した国士舘大学4年の阿宗高広(平均2分59秒68)しかいない。
  • 4区短縮の背景には、中距離で活躍する選手にも箱根に出場する機会を与えたいと言う関東学連の意向がある。
  • 晴れた日には、選手の前方に富士山の雄大な姿を望むことができる。

5区(23.4km)

区間記録保持者:今井正人(順天堂大学 4年) 1時間18分05秒(第83回大会・2007年)

新・小田原→旧・小田原→(箱根登山鉄道箱根湯本駅前)→(函嶺洞門)→(大平台ヘアピンカーブ)→(宮ノ下富士屋ホテル前)→(小涌園ユネッサン前)→(恵明学園前)→(芦の湯)→(国道1号線最高点)→(元箱根)→箱根・芦ノ湖(往路ゴール)

  • 俗に「山上り」と呼ばれる最長区間。標高差864mをおよそ20kmで駆け上がるため相当な脚力とスタミナが要求されるほか、向き不向きが最も如実に表れる区間。さらに2006年の第82回大会から距離が長くなり、全区間最長となった。勿論、全区間の中で最難関でもある。近年ではこの5区での逆転劇がしばしば起きている。また特殊な区間ゆえに大差がつきやすく、今後5区を走れる選手を置くことが総合結果にも直結してくる可能性がある。
  • 山上りが注目される区間ではあるが、反対に最高点を過ぎた残り4kmの下りが勝負といういわれ方もされる。事実上りと下りでは使用する筋肉が異なるので向き不向きがあり、またいきなり筋肉にかかる負荷が極端に変わる事から寒さも災いして中には下りで痙攣を起こして立ち止まる選手もいる。
  • 小涌園手前には箱根登山鉄道の踏切があるが、選手が通過する際には列車を踏切の直前で止めるという協力的な措置がとられている。
  • 5区および6区は非常に気温の低い山中を走る。平地とは温度差があるため5区6区を走る選手の中にはタンクトップではなく袖のあるユニフォームを着用することが少なからずある。
  • 2004年の第80回記念大会の金栗四三杯創設以来、5区で区間賞を取った選手が同賞を4大会連続で受賞している。

復路(1月3日)

箱根・芦ノ湖→東京・大手町 5区間/109.9km

6区(20.8km)

区間記録保持者:金子宣隆(大東文化大学 3年) 58分21秒(第77回大会・2001年)

箱根・芦ノ湖(復路スタート)→(国道1号)→(芦の湯)→(小涌園ユネッサン前)→(箱根登山鉄道大平台駅前)→(大平台ヘアピンカーブ)→(函嶺洞門)→(箱根湯本駅前)→小田原中継所

  • 旧5区の裏返し区間で、「山下り」区間と呼ばれる。下りは予想以上にひざに負担がかかるため、箱根湯本駅前過ぎからの残り3kmの平坦な道は、選手にとって上り坂に感じるといわれ、ここから1分以上の差をつけられることもある。5区の距離延長と同時に6区の距離短縮も検討されたが、中継所の問題などから見送られた。
  • 区間記録は2000年の第76回大会からコース変更後のもの(東海道杉並木を通るコース→元箱根を通るコースに変更。距離は変更前と変わらず)。変更前の1999年の第75回大会に中澤晃(神奈川大学)が58分06秒という記録を出している。
  • 朝8時台のスタートということもあり気温も低く、体温低下を防ぐため長袖のユニフォームで走る選手が多い。また、近年アームウォーマーを用いて体温調節をする選手も増えてきている。

7区(21.3km)

区間記録保持者:佐藤悠基(東海大学 3年) 1時間02分35秒(第84回大会・2008年)

小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所

  • ほぼ旧4区の裏返し区間。10区間中最も走りやすい区間と言われるが、前半の小刻みなアップダウンのほかに山から海に出る際の大幅な気温の変動に注意したい。
  • 大磯には道の中央に松並木がある。この松並木、冬が来る前に地元の方々によって藁を幹の周りに巻くなどの手入れがなされている。近年はこの木を地元学校の総合学習に生かすこともあると言う。

8区(21.5km)

区間記録保持者:古田哲弘(山梨学院大学 1年) 1時間04分05秒(第73回大会・1997年)

平塚中継所→(湘南大橋)→(茅ヶ崎)→(浜須賀交差点)→湘南新道→(藤沢)→国道1号→戸塚中継所

  • 3区の裏返し区間。前半はフラットで走りやすいが、藤沢を越えると通称「遊行寺の坂」が待ち構えるタフなコース。ここでどれだけ力のあるランナーを置けるかが逆転・シード権獲得への鍵となる。
  • この区間は太平洋側気候内陸性気候の境目にあたるため特にスタート時とゴール時の気温差が激しく、なおかつ日差しが強いと遊行寺の坂付近で脱水症状を起こしやすい。ここでブレーキを起こすと後の2区間に大きな影響を及ぼすこともあるため、体調管理も重要な区間と言える。
  • この区間は当日のエントリー変更が多いことでも知られる。多い年には3分の2近くが入れ替わる。
  • 区間記録は現在のコースで最も古いものである。

9区(23.2km)

区間記録保持者:篠藤淳(中央学院大学 4年) 1時間08分01秒(第84回大会・2008年)

戸塚中継所→(権太坂)→(横浜駅前)→国道15号→鶴見中継所

  • 2区の裏返し区間で、復路のエース区間。各校のキャプテンが集うことが多い。下り主体のレイアウトだが、長い区間なのできっちりとしたペース配分が必要。
  • 例年、横浜駅前には大勢の駅伝ファンが押し寄せる。
  • 鶴見中継所の手前は他の中継所と異なり引き込み口からリレーゾーンまで数百メートルの直線があるため、9区のランナーが繰り上げスタート直前に引き込み口に入ってきても繰り上げスタートに間に合わなかった場合、次走者(アンカー)がすぐそこに見えているにも関わらず襷をつなげず次走者がスタートしてしまう光景が過去に幾度も見られる。
  • この区間での成績が総合成績に最も影響するといっても過言ではない。事実、この区間は逆転が非常に多く、近年では1999年(第75回大会)の順天堂大学、2003年(第79回大会)の駒澤大学、2006年(第82回大会)の亜細亜大学、2008年(第84回大会)の駒澤大学がいずれも9区での逆転に成功し、総合優勝を成し遂げている。

10区(23.1km)

区間記録保持者:松瀬元太(順天堂大学 4年) 1時間08分59秒(第83回大会・2007年)

鶴見中継所→(六郷橋)→(京急空港線蒲田踏切)→(新八ツ山橋)→(田町)→(日本橋)→東京・大手町読売新聞社前(復路ゴール)

  • 日本橋経由のコースになったのは1999年の第75回大会から。コース全体はほとんどフラットだが、時折ビル風が選手を襲うこともある。また最終区間であり、沿道の観衆も増えることからプレッシャーが一層かかる区間。ここ数年で各チームとも準エースクラスを配するようになり、選手層の厚さが問われる区間になりつつある。
  • コース中には京急蒲田駅に隣接する蒲田踏切がありランナーの通過が予想される時間に電車の行き先を変更する、列車の発車は京急職員の代用手信号によって許可されるなどの措置が取られる(2007年の第83回大会から)。万一止められてしまっても止まっていた時間はロスタイムとして大会本部で計測され、差し引かれる。現在、この区間の立体交差化事業が実施されている。2008年の第84回大会では東海大の選手が踏み切り内の線路につまづいて足を痛め、その後20km過ぎで棄権に至るというアクシデントが発生した。

出場チームの取り組み~1年間の流れ~

  • 3月頃まではハーフマラソンなどのロードレースに出て刺激を受ける選手も多い。そのうちに少しずつスピード練習を取り入れていくが、急激な練習の変化で肉離れなどが起きやすいとも言われる。近年はこの時期に合宿を組む大学も現れている。
  • 春の目標は5月中旬の関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)である。参加標準記録があり種目毎のエントリー人数も限りがあるので、それまでは各大学などで行われる記録会で標準記録を突破する必要がある。日本体育大学、東海大学、順天堂大学などが主催して大学内で行う長距離記録会が有名で箱根出場大学や一部の実業団選手、高校生も出場する(この標準記録も有効期限内のものでなければいけない。大体至近2年ぐらいであることが多いようである)。予選会出場校はこの関東インカレの結果によってアドバンテージポイントが決定されるため、長距離部門以外の種目の結果も重要になってくる。6月中旬には全日本大学駅伝の関東地区予選会が開催され、シード校を除く多くの大学が顔を合わせる。7月上旬の日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)が上半期の締めくくりとなるが、出場の敷居は関東インカレよりも更に高い。なお日本インカレはここ数年開催時期が頻繁に変わっているが、これは箱根駅伝に重きを置く関東の大学の意向が反映されているとも言われる。しかし開催時期が夏合宿中の9月上旬の年ほど大学によってエントリーに差が出やすく結果的に関東インカレよりもレベルの低いメンバーしか集まらないこともあり、後述される駅伝偏重に繋がる批判の矢面に挙げられている。
  • 一部のトップ選手の場合には日本選手権など世界陸上オリンピックへの出場を目指して実業団選手と走ることもある。また近年は関東学連による海外遠征に参加する選手もいる。
  • 大学によって時期のずれはあるが、試験の終わる7月下旬からが夏合宿となる。長期間の合宿を組むところや、何回かに分けて練習場所を変えるところもある。また選手の状態に合わせてAグループとBグループに分け、全く別の場所で行うところもあり練習のスタイルも異なる。しかし月間で1000キロを超えることは珍しくなく、徹底した走りこみを行うことが特徴である。合宿の場所は北海道東北地方長野県などの高地や避暑地などが多い。また、前出の世界大会などに出場する選手はチームを離れて別メニューとなることが多い。4年生の場合には就職活動卒業論文などと並行しながら行っている。また教員免許をとる選手の場合には夏、または秋以降に教育実習もある為にチームを離れることも多く、コンディションづくりも容易ではない。
  • 下半期になると各大学のスタイルは記録会にほとんど出ないところ、予選会突破を目指すところ、出雲駅伝や全日本大学駅伝を目指すところというように分かれてくる。特に駅伝では未経験者を試しに使ったり、様々なオーダーを試す使い方をする。9月頃からは再び頻繁に記録会がある。
  • 予選会に出る大学にとっては10月中旬の本番までに最高の状態にピーキングを持っていかなければならない。従って予選会を突破することが最優先の為、本番の準備(特に5区、6区の山の区間)が遅れがちになる傾向にある。
  • 全日本大学駅伝のあとから短期の合宿を組むところもある。候補としては伊豆大島房総半島など温暖なところがあげられる。
  • 11月下旬に各地で開催されるハーフマラソンや記録会が事実上メンバー選考の舞台となることが多い。エースクラスはともかく、当落線上の選手達にとってはここが正念場である。多くの大学が一堂に会するので、次第に大学間の力関係も浮き上がってくる。ここでの選手記録上位校がスポーツ新聞などの「下馬評」で上位校として取り上げられることが多い。
  • 12月10日(第82回大会は2005年12月9日)までに出場校(チーム)は計16名のエントリーを関東学生陸上競技連盟に提出する。この16人がすなわち箱根駅伝本番への出場権を得た選手と言える。これ以外の選手は付き添いなど、裏方として本番までを過ごす。なお、当日午後から出場校の監督コーチマネージャーがマスコミ向けに記者会見を行う。
  • 12月29日にエントリーした16人の区間エントリーを行う。16人を10人と6人に分け、10人を1区から10区までの区間毎に、残りの6人を補欠選手として登録する。区間エントリーの詳細については後述。
  • 1月2日午前7時に往路のエントリー変更を締め切る。
  • 1月3日午前7時に復路のエントリー変更を締め切る。

区間エントリーの方法

  • 区間エントリーは1区から10区までにエントリーされた選手と補欠選手とに大別される。そして選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。既に区間毎に配置された選手は、その区間しか走ることが出来ない。逆に補欠選手は当日のエントリー変更でどの区間にも入ることが出来る。言わばジョーカー的な意味合いを持つ。つまり往路、復路のエントリー変更とは区間毎の選手と補欠選手間での変更のことで区間毎の選手を変えることは出来ない(例えば、2区に補欠から選手を入れることは出来るが、2区と4区の走者を変えることは出来ない)。また、区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることが出来ない。従って当て馬的な要素もある。
  • 傾向としては往路での変更は比較的少なく、復路で何人かを変えてくることが多い。また各校のエースが集う2区の変更が最も少ないようだ。逆に言えば補欠選手になるのはエースとまでは行かないもののそれに準じる選手や力がありながら調子が上がらない選手、全くの無名選手…などが考えられる。近年ではいずれかの区間を走るべき確実な力のある(かつ調子のよい)選手をあえて補欠登録して、往路の結果を見ながら復路のいずれかの区間に投入する作戦を取る大学も見られるようになった。優勝を狙うチームはライバル視するチームの配置を読んだ上で自チームのそれを考える必要がある。逆に予選会を勝ちあがってきたチームや苦戦が予想されるチームの中は往路重視の布陣を敷いてくることが多い。選手層が薄く後半区間での巻き返しが難しい為、エースクラスを序盤に配置することで落ち込みを避けるのが狙いである。またどのチームも特殊区間である5区、6区については候補を複数用意していることが多い。これは他の区間とは違い、コースの特殊性故に突発的なアクシデントなどによる急な抜擢が難しい(起用しても適性がない選手が走ることになる為、結果は芳しくないことが多い)為である。
  • 4区以外の9区間が20キロ超という長丁場であることを考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である(ほとんどの主要駅伝では医師の診断書が必要である)。また、なかなか調子が上がらない選手の様子をぎりぎりまで見るという点でも補欠温存が出来るのは非常に大きい。
  • 現行の16人エントリーになったのは第79回大会から。背景にはここ数年で体調不良によるブレーキや怪我による途中棄権などが相次いだことで、主役である選手の健康を最優先した主催者側の配慮と言えよう。
  • 2006年の第82回大会までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、2007年の第83回大会より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。従って補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた。但し往路・復路の当日エントリー変更は従来通り4人までの変更に限られる。

エピソード

箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである。その為に様々なエピソードが生まれた。

黎明期

元々箱根駅伝はアメリカ大陸横断の為の予選会という位置づけで創設された。その為にロッキー山脈越えを想定し、コースの中に山がある箱根のコースが選ばれたのである。

黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をしたあとで午後からスタートすることもあった。この為に途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかった。実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走した為に事なきを得た。

当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。しかし前述のように選手を心配した地元の人たちが松明を持って伴走するなど協力があったので、結局は全チームが無事に走り終えることとなった。

選手の代わりに襷をもらった人力車夫が走ったこともある(この人物の正体は今も不明だが、快走した模様)。因みにこのチームは翌年の出場を辞退せざるを得なくなった。

勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずりこんだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった。なお箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績がよく掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある模様である。このようにかつての成績については資料によって若干の違いが見受けられる。

戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。

戦後

大学進学が現在ほど一般的ではなかった時代は1チームを組むこと自体が難しかった。その為戦後すぐの頃までは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技でも短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方でラグビースキーの選手が登場した例も多かったという。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、中には高校時代も陸上競技以外の部活動に入っていた選手もいる。また1970年代頃までは実業団経由で入ってきた選手も多かった。

かつては戸塚中継所の近くにある東海道線横須賀線の踏切(戸塚大踏切)を通るコースが設定されたが開かずの踏切だったため、状況によっては長時間の立ち往生を余儀なくされた。当時は踏切での足止めによるタイムロスが計算されず業を煮やした選手が踏切上で立往生した貨物列車のすき間を掻い潜ったり列車が来ない合間を見計らって踏切を突破したり、また実際にここでの足止めがもとで優勝を逃したというケースもあり「あの時以来横須賀線には乗らない」選手もいた。しかし1953年、当時首相の座にあった吉田茂が自分の別荘へ帰る際にこの区間が渋滞することに激怒、同区間の交通渋滞対策が急遽実施されることとなり国道1号不動坂交差点から戸塚大坂上(現在の戸塚中継所付近)に通じる道路(通称「ワンマン道路」)が作られ、これによって結果として戸塚大踏切での足止めが解消された。

1960年代から1970年代にかけては体育系学部を擁する大学が台頭してきたが、この頃は学生運動の時期と重なりそれが好成績にも影響しているとの説もある。

選手にアクシデントがあった場合には控え選手を乗せた伴走車を前の中継所まで引き返させ、そこからの再スタートをとる方法が存在した。現在は交通への影響や選手の安全上、認められていない。またこの伴走車には各校の応援団が大挙して乗り込み、選手に声援を送っていた。現行のルールでは行為が発覚した時点で失格となることが考えられる。

近年

表彰式では総合優勝校に優勝旗が授与されるが、前年優勝校が大学に置いたままにしていた為に慌てて取りに帰り、表彰式の開始時刻が遅れたことがあった。

テレビ中継が始まった頃からPRの目的でユニフォームを変更する大学も見られた。繰上げの襷の色が早稲田大学の襷の色に見えるという理由で白と黄色のツートンカラーに変わった。

1987年の第63回大会には最終10区を走っていた順天堂大学のランナーが突然興奮して飛び出してきたファンと接触し転倒するも動揺することなく走り続け、優勝のテープを切ってゴール(尚、この年にはテレビ放送の全国中継が開始されており、その影響が招いた事件だとも言われている)。

これまでごくまれに悪天候(=降雪)下で開催されたことがあるがこの為に交通手段が影響を受け、選手や関係者が到着できずにあわや失格の危機に瀕した事例もある。

緊張のあまり襷をせずに走り出して、慌てて戻ってきた選手もいた。

箱根山中で箱根登山鉄道の踏切に駅伝の隊列が引っかかり、止むを得ず選手を先に行かせて交通車両が後から追いかけるハプニングもあった。その為選手の後姿が放映された珍しい出来事でもある。

大会を支えているのは関東学生陸上競技連盟に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣される(過去には末續慎吾為末大なども走路員としてスタッフに加わった)。このことからも分かるように箱根駅伝は実は単に長距離選手だけで行われているのではなく、多くの裏方に支えられている。その裏方とは種目は違えど、一緒に汗を流すチームメイトでもある。

2007年の第83回大会の予選会では、本選出場権獲得校が前年度シード落ちの9校と全て一致するという珍事が発生した。このようなことは過去予選会から箱根駅伝に出場する大学が6校だった時代には1980年に行われた第57回大会予選会と1985年に行われた第62回大会予選会、1987年に行われた第64回大会予選会で起こっている。

沿道で配られる読売新聞社と報知新聞社の応援小旗には懸賞応募券が付いている。これは使い終わった小旗を観客が沿道に捨てるのを防ぐための工夫である。ちなみに2007年の懸賞は1等から8等まであり、1等は「箱根ホテル小涌園 宿泊招待券」だった

一度大学を卒業した人が箱根を走りたいと言う思いだけで有力校に再入学し、箱根を走った選手がいた。

大会・運営そのもの以外の箱根駅伝にまつわる話

※報道に関するエピソードは当該節(報道に関するエピソード)を参照の事。

本番間近の頃、大学近くで万引き犯を見つけた専大の太田選手が「俺は絶対に箱根駅伝を走るんだ。どこまでもおいかけてやる」と犯人を取り押さえ逮捕に貢献。この選手は実際に本番で走ったが腹痛で区間最下位に終わり「前を行く選手までは捕まえられなかった」と新聞のネタにされたものの、一連の善行で知名度が上がりその本番では「沿道から名前で呼んで応援してもらえて、とても嬉しかった」と喜んだ。

2005年3月に芦ノ湖畔に箱根駅伝を題材にした箱根駅伝ミュージアムがオープンした。スポーツを題材にした博物館は多いが、1つの行事として(例えばプロ野球日本シリーズオールスターゲームサッカー天皇杯、あるいは中央競馬における東京優駿<日本ダービー>というカテゴリーとして)博物館化されることは極めて珍しい。運営は富士屋ホテルが行っている。

箱根駅伝が抱える問題

一連の問題については2005年暮れになって発行された『駅伝がマラソンをダメにした』(生島淳・著:光文社新書)の中でも触れられているが、これは主に箱根駅伝についての問題点を指摘している。

箱根駅伝をめぐる問題は最近の人気沸騰によって、逆に多くの問題が浮き彫りにされてきた。以下に主要な議論をまとめる。なおこれらを解決すべく、関東学連に設けられた「駅伝対策委員会」の存在に期待が集まる。

過去の問題

戦前から終戦直後にかけては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった。その為に他種目の選手が多用されたことは前述の通りである。従ってレースも10校以下で行われることが多かった。

モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長の頃。全国的な知名度はまだ少なかったがコース沿線地域での人気は高かった為、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は2002年の第78回大会まで続いた。

留学生

テレビ放送開始と共に登場してきた山梨学院大学は出場3年目にしてアフリカ人留学生の選手を呼び入れた。主催者側の判断により箱根駅伝を外国人選手が走ることが出来るようになり、その圧倒的な走りで新風を巻き起こした。1980年代後半からレース全体のスピードアップが進んだことにも、留学生の登場が大きく影響している。その一方で留学生起用に対しては、現在でも賛否両論が多い。既に全国高等学校駅伝競走大会全日本実業団対抗駅伝大会では外国人選手の起用制限事項(1チームあたりのエントリー数、起用区間の制限など)があるが箱根駅伝でも2006年の82回大会からは制限事項を設けると言う話もあり、実際に2005年秋の予選会ではエントリーは2人、出場は1人となっている。制限事項を設けることは国際化の流れに逆行するという意見の一方で外国人選手と日本人選手との能力差が大きい場合もあり、その不公平感解消の為にも制限は当然とする考え方(国内大会に“助っ人外国人”を用いてよいのかという意見)も存在し現在進行形で議論が進んでいる。現在は留学生をチームのメンバーとして使うことはルールでは禁止されておらず、出場は各チームの判断に委ねられる。

なお、白人・アジア系留学生が選手として選ばれ出場した例は皆無である。

途中棄権

これまでの途中棄権校

  • 第25回(1949年) - 神奈川師範(3区)
  • 第34回(1958年) - 横浜市立大(9区)
  • 第52回(1976年) - 青山学院大(10区)
  • 第71回(1995年) - 順天堂大(10区)
  • 第72回(1996年) - 神奈川大(4区)、山梨学院大(4区)=2校
  • 第77回(2001年) - 東海大(2区)
  • 第78回(2002年) - 法政大(2区)
  • 第84回(2008年) - 順天堂大(5区)、大東文化大(9区)、東海大(10区)=3校

(以上延べ11校)

1970年代までの50回以上行われた大会の中で僅か3件しかなかった途中棄権が、1995年以降の14年間で8件も起きている。特に2008年の第84回大会では3校が途中棄権、1996年の第72回大会では2校が途中棄権している。また、2001年の第77回大会には東海大学が、翌2002年の第78回大会には法政大学が共に2区という早い段階で途中棄権している。その他にも棄権には至らないものの故障や体調不良によるブレーキの事例が例年続いている。チーム競技である駅伝の特性上、体調を崩していても故障を起こしても選手は「襷をつなぎたい」と思うが故に指揮官としてもなかなか止められないという側面もあるが、場合によっては選手生命にも影響を及ぼしかねないため今後の重要課題となっている。

2003年の第79回大会からはエントリー数の増加に際し本番までのチームマネジメントに余裕を与えるよう配慮がなされたが、成績が良かったりチームのまとめ役だったりすると体調が悪くても本人の責任感もある上、監督としてもチーム事情ゆえ出場させてしまうという問題は変わっていない。2008年の第84回大会では順天堂大学、大東文化大学、東海大学の3校が途中棄権するという史上初の事態が生じた。同一校で2度の途中棄権(順天堂大学、東海大学)も史上初。前年優勝校による途中棄権は1996年の第72回大会の山梨学院大学に続き2校目である。特に脱水症状による途中棄権やブレーキが増えている傾向にあり、既に大会関係者やファン、メディアなど各方面から改善を求める声がみられる。

途中棄権については「競技実施要項」において、「競技者が競技中に故障などによって走行困難となり、歩行、立ち止まり、横臥の行動に移った場合、本人がなおその競技続行の意思を持っていても、運営管理車に同乗の競技運営委員、走路管理員、監督またはコーチの三者合意により競技を中止させる。競技の中止は競技運営委員が赤旗をあげ、走者にマイクで通告することによって示す」と規定されている。

なお途中棄権した区間以降の区間にエントリーした選手について、かつては個人記録および一部のチーム記録(往路で途中棄権した場合は復路のチーム記録のみ)が公認されたことがあり1996年の第72回大会では往路4区で途中棄権した神奈川大学が7区と9区で区間賞を獲得しているが現在のルールではオープン参加扱いとなり、記録は非公認となる。

駅伝偏重とインカレポイント

大学経営策の一環として箱根駅伝にPR効果を期待する大学が増えている。その為「陸上競技部」と称しながら実際には長距離部門を中心に運営している大学や、挙句の果てには「駅伝部」を称する大学も見られ、「トラック&フィールドの軽視」「駅伝偏重」が問題視されている。予選会に出場する大学の中には予選会に全力を傾ける為、インカレへの出場に消極的になりがちな大学もある。駅伝競技に限ったことではないが合宿や遠征などで長期に授業を欠席する・それが許される状況が発生しているチームの存在もささやかれていて、「学生の本分」の観点からの指摘もされている。次第に大きくなる箱根人気によって一連の流れが全体的に加速傾向にあり、箱根駅伝が大学側のスポーツ選手の受け入れ体制に与えている影響が強くなっており学生でもある選手のスカウトの激化に疑問や警笛を鳴らす声もある。

予選会の成績に関東インカレのポイントを導入した背景には上記の「駅伝偏重」対策が大きく影響している。主催者側も箱根駅伝を「世界に通じる陸上競技者の育成」としており、その原点に立ち返る意味で導入した。しかしこのポイント制の恩恵を受ける大学は限られる為にかえって不公平だとする声もあり、加えて「競走成績以外の要素で順位が入れ替わる」ことを疑問視する声は多い。実際にインカレポイントでの逆転が続いている為、実施の見直し論など現状では最も大きな論議の的になっている。制度導入も水面下で進められていたとはいえ、その年のインカレが終わった後で発表されたことを含め導入までの経緯に不透明な部分もあった。予選会敗退校の悲哀を伝える映像づくりというマスコミ報道の影響で、予選会直後に視聴者やファンの間で議論を呼ぶ傾向が強い。

このシステムは導入時から物議を醸しており現在も議論が続いている。関東学連も導入後5年を経過した2007年を機にシステムの再構築も考える可能性を残している。一方で廃止論などに対して沢木啓祐は「たまたま同じ大学が悲劇の対象になっているだけ」という見方を示し、既に導入から5年経過しており各大学とも対策を練っていると廃止論は一蹴。青葉昌幸も「出場枠増にも様々な経緯があるだけに、そのような事情を知らないで(落選したチームが)かわいそうだと言われても困る」とコメントしている。総じて学連側は見直し論については当初の予定通り検討、2008年の第84回大会の予選会よりポイント方式が変更されたものの廃止には否定的な見方を示している。

しかし陸上競技の中で駅伝、とりわけ箱根駅伝を年間の最大目標に挙げ、トラック&フィールドには目をくれず駅伝偏重に走る大学は後を絶たない。未出場校は出場によるPR効果を期待し、常連校は箱根駅伝での優勝や上位争いに走る傾向はなお続いている。

選抜チーム

2003年の第79回大会から参加が認められるようになった選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手を、各校最大2名までの枠内で選抜される。このようなチーム編成については一部で議論が見受けられる。2004年の第80回の記念大会では日本学生選抜としての参加だったこともあり、見事に6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多く「予選会で次点に泣いたチームをもう1校出す方が良かった」と揶揄する声も聞かれている。しかし日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が、最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習したのに比べて、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショ