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品川 隆幸 /
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東大阪市(ひがしおおさかし)は、大阪府の東部の市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。将来は政令指定都市への移行及び、八尾市や柏原市などとの市町村合併の構想もあるがまだ計画にまでは至っていない。
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大阪平野の東部に位置する。市域の大半は平坦な低地で、河川の多くは天井川である。そのため1976年(昭和51年)の大東水害では大きな被害を蒙った。 一方で市東部は生駒山系の山々が連なっており、豊富な自然が残されている。 主な河川には、長瀬川・恩智川・玉串川・第二寝屋川などがある。
歴代市長の一覧を見ても明らかなように、東大阪市では保革対立は顕著で、元大阪府議会議長だった保守系の辰巳佐太郎が3市合併後の最初の市長となるが、革新系の伏見格之助がそれに代わった。
この時期、東大阪市に革新市政が誕生したのは、東京都において日本共産党・日本社会党の支持を受けた美濃部亮吉の東京都知事当選後におきた、全国的な革新高揚の流れを受けてであった。そして翌年、大阪府でも日本共産党推薦・革新系の憲法学者黒田了一が大阪府知事に当選した。東大阪市には革新の風が大阪府よりも1年早く吹いたといえる。
しかし、伏見市長は部落解放同盟等の後援団体からの推薦による市職員採用を行い、市民からの不評を買った。また、支持層である不安定就労者、障害者、高齢者に対する重福祉政策を実施した。この結果財政支出は増大し、折からの円高不況やオイルショックによる市税収入落ち込みにより、財政再建団体目前まで追い込まれたが、投資予算の抑制、正規職員採用の削減、給与水準の削減、市税増収策を取り財政は危機的状況を回避することができた。
しかし、市民の間には税負担がなく給付のみを受ける「ただ乗り」市民への重福祉政策に反感が広がった。特に、市内に古くから住む農業、不動産賃貸業などを営む土地所有者、企業経営者(特に中堅企業経営者)、サラリーマン層などの中堅所得層は、伏見革新市政に対する不満を抱くようになった。
1982年(昭和57年)の市長選で伏見の与党だった共産党と社会党が同和問題をめぐって激しく対立。伏見が社会党よりのスタンスを取ったため、共産党は市政与党から離脱した。そして伏見市政の乱脈な行政運営を徹底批判した上で、伏見とは別の候補を擁立した(伏見市政との絶縁宣言)。職員労働組合も、東大阪市職労から社会党系の自治労東大阪が分離独立した。
その革新分裂の間隙を縫うように自由民主党大阪府議会議員であった北川謙次が保守系および反伏見の中堅所得者層の支持を得て立候補。革新系両候補とも北川謙次の前に敗退して、東大阪市の革新市政は終止符が打たれた。その後、北川、清水行雄と約16年の保守市政が続いた。
市政運営としては保守系与党に支えられて比較的安定が続いた。清水は自治労東大阪<東大阪市職労から分裂、社会党系>幹部を重用して、東大阪市職労の力を削いだことで、北川が目指したトップ・ダウン型の市政運営に成功した。このほか、職員定員の800人削減を提唱して前倒しで達成、一般会計から多額の持ち出しをしていた国民健康保険特別会計の再建を行った。さらに、21世紀を目指した市政8大プロジェクトを発表し、その一つである下水道整備事業によって、数百年間にわたって河内地域の住民を苦しめていた治水問題を解決した。これら一連の施策は、一定の成功を収めたと言えよう。
第一次臨調までは、地方公務員の給与水準は民間より低いうえ、衛星都市はどこも人口流入によって行政需要が拡大する一方だったために人手不足となり職員確保に苦慮した。
ところが、昭和40年代に入ると、国の勧告もあり給与水準は上がっていった。伏見市長は、最大の後援団体である労働組合である東大阪市職労の意向を反映して市政運営を行い、労組の要求に応じて臨時職員や嘱託職員を正規職員としたほか、後援団体の推薦により職員を採用した。そのため、他の市町村と比較して予算に対して職員給与の占める比率が高くなり、財政的な負担となった。一方で、給与水準の向上は職員の質を高め、早慶、帝大卒業生等の優秀な人材が確保できたが、「課長中卒、係長高卒、ヒラ大卒」という状況が生じた。
1974年(昭和49年)のオイルショックと財政状況悪化により、正規職員の採用は5年間にわたって見送られた(毎年の正規職員採用が復活するのは、1985年(昭和60年)以降である)。これにより、職員の年齢構成が歪み、瓢箪型となった(2008年現在、中間管理職を担うべき人材が不足している)。また、2007年以降の団塊の世代の大量退職による退職金支払いが、財政不安要因となっている。
保守系市長は、労組の影響を排した労務管理を行った。職員削減により、人口当たりの職員数は同規模自治体を下回るなど効率化が図られたほか、給与引き下げにより、国家公務員を100としたラスパイレス指数も、最高時123から98まで下がった(これにより、職員のモラルが低下したとの評価もある[要出典])。しかし清水市政時代には、再び後援団体推薦による職員採用が行われ、職員の質の低下が問題となった。長尾市長は、コンプライアンス(法令遵守)の仕組みを工夫し、採用試験受験者の得点を公開する制度を作った。これにより、正規職員採用においては不正が行えなくなった。しかし、その後就任した松見市長は後援団体推薦により、非常勤職員の大量採用を行うなどの問題を引き起こした。
清水市政第2期目には、市長や一部与党議員推薦による職員不正採用疑惑、下水道工事入札疑惑、老人施設用地買収疑惑、新中央病院の指定薬局を後援会員が経営しているなど疑惑があり、これらの問題は連日新聞やテレビで放映され、取材先になった後援会関係者が自殺するという事件も発生した。清水の一連の疑惑は司直の手に委ねられることとなった。
しかし結果は関係者が逮捕されたのみにとどまり、真相はうやむやのままに終わるかに見えたが、捜査が終わったことを知った清水は、大失言をする。
「大阪府警は日光の猿みたいに、今頃反省していることでっしゃろ」と発言したのである。大阪府警は疑惑以外の法律違反(勤務実態のない愛人に対する厚生年金受給資格授与、住民実態のない愛人の住民基本台帳登録容疑)を理由に清水は逮捕され、獄中で辞職することになった。そして、自ら制定した職員倫理条例に基づき「在職中の犯罪」を理由として退職金を返還する最初の例となった。
前記のことから清水市政への批判が強まった。出直し市長選では、共産党員で元市議の長尾淳三が、共産党の推薦と新社会党の支持を受けて立候補し、東大阪市職員団体自治労東大阪や公明党などの推薦を受けた松見正宣を破り当選し、16年ぶりに革新市政が復活した。
長尾は、長年の懸案だった同和行政の諸問題を終わらせるため、同和事業の一般事業化への移行を推進。また、市役所改革を行なって、法令遵守(行政コンプライアンス)を確保するように努めた。また、一部議員と癒着した職員のモラルを改善しようとした。今までやや忘れがちになってきた経済・不況対策(中小企業対策)を掲げ、今までの市政とは全く違うということを内外にアピールするなどしたが、市議会運営は困難な状態であった。これは、市議会議員の多くが野党であったことに加えて、与党であるべき共産党にも長尾に非協力的な議員がいるなどしたためであった。さらに、それを見た職員は反市長的な態度をとり、その結果は職員の人事異動にさえ支障をきたした。また、市役所改革(構造改革)を進めようとする長尾に対して自治労東大阪<民主党系>(東大阪市職労から分裂)が反発した。市議会は多数野党の反対により連日空転を続け、予算や議案は全く通らず、市民生活への影響も出た。
長尾市政を倒したのは、前回の選挙で苦杯をなめた松見正宣であった。自由民主党衆議院議員の西野あきらの支持と、公明党、創価学会、保守党、民主党、連合大阪、部落解放同盟、自治労東大阪、大韓民国民団などの幅広い後援に支えられての当選であった。
ただ、東大阪市ではこの時点ですでに自民党は分裂していた。いわゆる塩川・西野戦争である。元財務大臣で元衆議院議員の塩川正十郎と西野あきらは選挙地盤が競合しており、小選挙区制ではライバル関係に有った。市長選挙でも塩川陣営と自由民主党大阪府連東大阪支部は、市議会議員だった東口貞男を擁立して市長選挙を戦った。従って、松見正宣の支持母体である自由民主党は一枚岩では無かったのである。また、長尾を支持していた共産党なども野党として存在していた。
だが大きく見ると、自民党、公明党、リベラル(民主党)という、共産党と一部自民党(塩川系)を排除したオール与党体制で安定した議会運営が可能であった。
しかし、松見市長は地方自治体や議会での活動経験を持たなかったほか、職員や議員を信用せず、ブレーンは外部のコンサルタントに頼り、議会運営では批判的な議員の質問に満足に答えない場合などがあり、不誠実な態度との批判もあった。松見市政は職員や議員との間に感情的な対立を孕み、多数与党のメリットを生かしきれなかったとの評価もあった。
松見は、緊喫の問題である財政健全化の問題についての取り組みには積極的ではなく、人権問題や環境問題などに積極的であった(長尾市政で解消に向かっていた同和行政が復活した)。そんな時に生じたのが市職員の不透明な採用問題である。これは特定団体の推薦を受けた者を、無試験で臨時職員に採用した問題だった。
また、創価学会や大韓民国民団、朝鮮総連などとの関係を「不透明な関係」とする批判もあった。このような松見市政に対して、塩川・西野戦争で内部対立が続いていた自由民主党の一部が、自由民主党市政刷新クラブを立ち上げて与党の立場を離脱した。刷新クラブは市政に批判的な市民と連携して行政訴訟を起こすなど、議会内外で松見市政を批判した。
2006年7月2日、市長選挙と市会議員の補欠選挙が行われた。市長への立候補者は、現職の松見正宣(自民・民主・公明推薦)、前職の長尾淳三(共産推薦)、府議で新人の西野茂の3候補だった。西野は衆議院議員の西野あきらの実弟であるが、西野あきらは現職の松見を支援していた。投票の結果、前職の長尾が返り咲き当選を果たした。
松見の基礎票は自民、公明、民主支持者であり圧倒的な強みを見せていた。それにも関わらず敗れた原因は、選挙直前の自民党入党であると言われている。また、行政運営や施策が不安定なため、保守系無党派層が西野でなく長尾にまで流れたことも響いた。
そのほか、松見陣営の戦略ミスもあった。市長選挙直前の6月に国の税制改正(住民税や国保料の支払い大幅増加)が行われ住民負担が大幅に増えたほか、隣の大阪市などで公務員や同和の問題が噴出(飛鳥会事件等)したことで、同じ問題を抱える東大阪市がどう対処するかに注目が集まっていた。しかし現職の松見陣営と市役所側は有効な対策を示さず、市役所の前には住民税などの大幅な増額に怒る市民が詰めかけ市民の不満があったことを長尾陣営はとらえた。長尾は自ら役所の前に出向き、これらの問題を解決するために必要な処方箋「市役所(構造)改革プラン」(公務員の不正採用撤廃とモラル改善、これらの腐敗を生む元凶の同和行政完全終結)と「ロードマップ」(政策実現への道筋)を具体的に示し、他2候補との差別化を図っていく。加えて「上下水道庁舎建設などの不要不急な公共事業を中止するなど税金の無駄をなくす」「福祉・教育・雇用予算の拡充(特養老人ホーム建設など)」というような中・低所得者向けの政策も用意するなどした。選挙戦の最終盤には、これらの訴えが市民に急速に浸透したことや、共産党の組織票を固めきったことで勝利した。
保守政党の敵失などにより誕生した第二次長尾市政だったが、議会側は相変わらず嫌悪感を示し、議会では市側が提出した議案の否決や修正が繰り返されたほか、辞職勧告決議が2度可決された。また、副市長や教育長が不在となっていた。但し、長尾市長は議員の挑発や駆け引きには一切応じない方針を採り、加えて市役所事務方も「議会の反発は毎度のこと」と全く意に介せず、業務も平常であった。
行政運営は、一期目よりかなり安定しているといわれた。持論の同和終結に向け大きく舵を切った(職員削減や同和補助金カットなど)ほか、今まで全く手をつけられなかった大阪朝鮮高級学校の土地明け渡し問題についても、明け渡しを提訴するなどメスを入れた。
2007年9月3日、自民、公明、一部のリベラル派により、長尾市長に対する不信任決議案が賛成38、反対10で可決された。同年10月28日に執行された出直し市長選挙に市民の信任を再び問うたが長尾は落選し、自民、公明推薦で前市議会議長の野田義和が当選した。
市長選挙の前月に執行された市議会議員選挙で(定数が50から46に減少したにも関わらず)共産党の議席は4から9へと倍増した。これに危機感を強めたのか、当初から自民党は野田支持で結束。そこに公明党の固い組織票が加わり長尾を振り切った。長尾は「西日本唯一の共産党員市長」の座を守れなかった。
日本有数の中小企業の密集地であり、高い技術を持った零細工場が多数集まっている。面積に対する工場の割合では全国1位、また工場の数も政令指定都市を除くと1位である。しかし近年は減少傾向にあり、工場跡地に新たに住宅が建てられるケースが多い。 隣市の八尾市同様に、この地域においても、江戸時代には旧大和川川床などにおける木綿栽培が行われ、大阪の中心、船場に近いという地の利があり、木綿を加工するための小規模な工業が発展していた。明治維新で家内的な木綿工業は一気に壊滅したが、残された技術が、現在の当地を支える原動力になっていった。生産機械のための機械作りやその部品作りである。 2002年12月に東大阪宇宙開発協同組合を設立し人工衛星の開発を進めるなど、技術力は高い(近畿大学には研究用の小規模の物ながら原子炉まである)。
1958年、日本で初めての回転寿司店である元禄寿司が開店した町でもある(旧布施市:現在の近鉄布施駅付近)。
当地を創業の地として産まれ、全国区に育っていった企業は数多い。 しかしながら、そのまま当地域を拠点とし続けている企業は少ない。
比較的発展していた3市が合併して誕生した市であるので、中心的な役割を果たす駅は特定できない。
乗降人員では布施駅が最も多く、近鉄百貨店を中心に商業圏が広がっている。また、時刻表も布施駅を代表駅としている。
東大阪市役所の最寄り駅は荒本駅である。
南北方向には大阪府道2号大阪中央環状線、国道170号(大阪外環状線)、東西方向には中央大通と呼ばれる国道308号があり市内の大動脈となっている。 しかし、その他の道路は東西南北すべての方向において貧弱である。