東海村JCO臨界事故 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェイシーオーりんかいじこ)は、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村で、JCO(株式会社ジェー・シー・オー)(住友金属鉱山の子会社)の核燃料加工施設が起こした臨界事故。被曝による死者2名を出した原子力事故である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料サイクル開発機構の高速増殖実験炉「常陽」向けの燃料加工の工程中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。この反応は約20時間持続した。これにより、至近距離で致死量の中性子線を浴びた作業員3人中、2人が死亡した。
事故は、製品であるウラン溶液(硝酸ウラニル)を均質化する工程で発生した。溶液は本来、中性子が外に抜けやすいよう細長く作られた(形状制限された)「貯塔」で均質化を行う事になっていた。しかし、「沈殿槽」と呼ばれる、ずんぐりした形状で周囲を冷却水のジャケットに包まれた装置を使用したために、発生した中性子による反応の確率が高くなり、臨界状態に至った。
午前10時35分に、転換試験棟で警報が鳴り、午前11時15分に、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁(当時)にもたらされた。そして11時52分には、被曝した三人を搬送するため、国立水戸病院に向けて救急車が出発した。東海村による屋内退避を呼びかける広報が始まったのは、12時30分からである[1]。
国際原子力事象評価尺度はレベル4で、周辺の多数の住民が緊急避難を強いられた。テレビでは当時の内閣総理大臣・小渕恵三が周辺住民に向かって外出しないようにと呼びかけた。現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民への屋内退避/換気装置停止呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸-常陸大子・常陸太田間の運転見合わせ、陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。以上の措置は全て日本で初めてである。10km圏内の屋内退避勧告の発表は午後10時半、解除されたのは翌日午後4時半だった。
JCO のわずか400m北側には常磐自動車道の東海パーキングエリアがあり、ここの利用者も危険にさらされていた。行楽シーズンの昼間であり、常磐自動車道を閉鎖するまでには大勢の観光客が出入りしていたはずだが、この利用者に対する健康調査はおこなわれなかった。
事故原因は、旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料加工(UF6をUO2粉末に再転換)の中間工程を担うJCOの杜撰な作業工程管理である。JCOが常陽用の燃料を加工するにあたり、国の管理規定に沿う正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用しており、例えば、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用した手順だったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いた手順に改変されていた。事故当日はこの裏マニュアルをも改悪した手順で作業がなされていた。具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈が低く内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。
その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等が大量に放射された。これは制御不能の原子炉が出現したようなものである。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」(チェレンコフ光)と語った。「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない。」(社長・工場長談)とJCO関係者らが「決死隊」を作り、数回に分けて内部に突入して冷却水を抜き、連鎖反応を止めることにより事故は終息した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った午前6時半だった。水抜き作業等で被曝した人は計18人、その後のホウ酸水注入で被曝した人は6人だった[2]。
この事故では3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント[3]以上の多量の放射線を浴びた。そのため、ヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下放医研)へ搬送された後、2名は造血細胞の移植の関係から東大病院などに転院し、集中治療がなされた。
16~20グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員O(放医研→東大病院)は、造血細胞の移植に失敗、事故から83日後の12月21日に死亡した。この線量は、核爆発時の爆心に匹敵する線量とされる。
6.0~10グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員S(放医研→東京大学医科学研究所付属病院→東大病院)は、造血細胞の移植が一定の成果をあげ、一時は警察の本事故捜査員への証言を行うまでに回復した。しかしその後、容態が急変、事故から211日後の翌年4月27日に死亡した。
O・Sの死因はいずれも、放射線被曝による多臓器不全である。短時間のうちに全身への8グレイ以上の被曝をした場合には、最新の医療でもほとんど手の施しようがない。特に国内では、このような大量の放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、治療に当たった医師団も毎日のように発生する新しい症状に、試行錯誤をしながらの治療だったと証言している。また、最高線量の被曝をした作業員の場合は、細胞の遺伝子が強力な放射線によってズタズタになっていて、細胞の再生すら不可能だったとも言われている。
推定1~4.5グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員Y(転院なし)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄の治療を受け、回復。12月20日に放医研を退院した。
また臨界状態を収束させるための作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆け付けた救急隊員3人の2次被曝が起こった。さらに周辺住民への中性子線等の被曝も起こった。
この事故では、同時に会社側の刑事責任も問われた。事故から約1年後の2000年10月16日には茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長の越島建三を労働安全衛生法違反容疑で書類送検、翌11月1日には水戸地検が越島所長の他、加藤裕正同社製造部長、小川弘行計画グループ長、渡辺弘製造グループ職場長、竹村健司計画グループ主任、その他製造グループ副長の6名を業務上過失致死罪、法人としてのJCOと越島所長を原子炉等規制法違反及び労働安全衛生法違反罪でそれぞれ起訴した。なお、製造グループ副長は現場責任を問われたが、現場に居て被曝し、労災認定された。
2003年3月3日、6名に執行猶予付き有罪判決、JCOに罰金100万円の判決がそれぞれ言い渡された。水戸地裁は、「臨界事故を起こした背景には、長年にわたって杜撰な安全管理体制下にあった会社の企業活動において発生したものであり、その安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない」とし、さらに、「臨界に関する全体的な教育訓練はほとんど実施されておらず極めて悪質」と判断した。
この事故の結果、JCOは加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。管理側の事故隠し体制が明らかになり、原子力不信を招いた事件としても知られる。2003年3月3日の水戸地裁の判決はJCO側の敗訴だった。裁判の過程で科学技術庁の安全審査体制、及び発注者である旧動燃の要求の正当性に強い疑問が提示されている。
この事故は国際的にも有名になり、同年10月12日に水戸芸術館にて開催が予定されていたソプラノ歌手バーバラ・ボニーの水戸リサイタルが中止された原因とされている[4]。また、農産物への風評被害があったとして東海村の農家がJCOに損害賠償を請求した[5]。
小渕首相は事故翌日の10月1日に内閣改造を行う予定だったが、事故を受けて延期。10月5日に改造を行った。
日本の原子力産業で初めて死者が出たことや、核物質に対する理解が乏しかった1940年代から1950年代に頻発したものと同じ臨界事故であることなどから、各マスコミも「安全神話が崩れた」などとさかんに報道した。
この事故を受けて、保安規定の遵守状況の国による確認、定期検査、主務大臣または原子力安全委員会への申告制度(いわゆる内部告発)が導入された。
当時の陸上自衛隊は災害派遣要請に基づき対処を行った。その後、同年12月に原子力災害対策特別措置法が制定されたことを受け自衛隊法を改正、自衛隊の行動区分において「災害派遣」とは自然災害による派遣と定義づけ、原子力事故に起因する災害派遣は新たに「原子力災害派遣」を設け、別個のものとして対処することとなった。
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