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松井秀喜 とは?

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松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、ニューヨーク・ヤンキースに所属するプロ野球選手外野手)。代理人アーン・テレム

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


松井秀喜はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  プロ野球選手。 右投左打、ポジションは外野手。背番号は55番。 1974年6月12日生まれ。石川県能美市出身。186cm、96kg。 愛称は「ゴジラ」。 チームメイトの間や地元ファンでは「ヒデ」「マッツーイ」と呼び親しまれる。ウェブ上では顔に見立てたにしこりというAA(顔文字)で呼ばれることもある。 1974年6月12日、父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。兄・利喜が野球をやっていたため、小学校時代から野球を始める。元は右利きだが、兄に対抗し左打ちに変えた。 1990年、地元の高校野球の名門校、 ...

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


松井 秀喜
Hideki Matsui
ニューヨーク・ヤンキース  No.55

基本情報
国籍 日本
出身地 石川県能美郡根上町(現:能美市
生年月日 1974年6月12日(34歳)
身長
体重
6' 2" =約188cm
230 lb =約104.3kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 外野手
プロ入り 1992年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1993年5月1日
MLB / 2003年3月31日
年俸 $13,000,000(2008年)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、ニューヨーク・ヤンキースに所属するプロ野球選手外野手)。代理人アーン・テレム

目次

経歴

幼少期

1974年6月12日、石川県能美郡根上町(現:能美市)に、父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。兄の影響で11歳から本格的に野球を始めた。右利きの松井が左打者になったのは、この兄たちと野球をしているとき、あまりにも打ちすぎるためにハンデとして左で打つように言われたから、という説が一般的である。一方、当時松井が好きであった掛布雅之の影響で左で打つようになったという話もある。小学生時代には町の少年柔道教室に在籍しており、わんぱく相撲大会で優勝した経験もある。

中学時代

当時は野球をやるか柔道をやるか悩んだが、進学した根上中学校に柔道部がなかったため、野球に専念するようになったという。中学時代の通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。[要出典]ある練習試合で敬遠気味の四球を受けた際、バットを叩きつけ投手を睨み付ける、という不貞腐れた態度をとった。これを見た自軍のコーチが激昂し、試合中にもかかわらず、松井を呼びつけ彼の顔を何度も張った。この経験が後の5打席連続敬遠の際の落ち着いた対応につながったという。中学三年生時の松井の体重は90kgを軽く超えていて、肥満気味の体型だった。星稜高校の山下智茂監督は同校の試験を控えた松井に対し、「うちの野球部に来るなら、体重を80kgまで落としてきなさい」と伝え、入学時には言われたとおりに、10kg以上の減量をしてきたという。

高校時代

1990年星稜高等学校に入学。当初は地元の石川県立小松明峰高等学校に進学し、星稜を倒したいと思っていたが、星稜高校の山下智茂監督からの熱烈な勧誘や、中学野球部の監督やコーチに薦められて星稜に進学することに決めた。星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・サード」で出場してヒットを放った。1年生から4番打者を務め、(5番は3年生の村松有人だった)夏の甲子園では3打数0安打でチームは初戦敗退。ちなみに、この大会には中村紀洋や、イチローも出場したが、いずれも初戦で敗れている。秋は北信越大会で敗れ、選抜出場を逃す。

1991年、高校2年夏の甲子園では、3回戦の竜ヶ崎一戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。もちろん部内では圧倒的だった。新チームでは山下監督にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下監督が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという。

1992年、高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場ラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにも関わらず、松井は初戦の宮古戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。2回戦の堀越戦で難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話は有名である。しかし、準々決勝の天理戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。この年に、全国的に有名になった松井は星稜高校のほぼ全校生徒からサインを求められ、さらに生徒が他の人物に譲るために複数枚のサインを欲した。その要望に松井は拒否することもなく全て応えていたが、それを見た教員達が心配して「松井君のサインは1人5枚まで」と生徒および学校関係者に通達したという。

同年、夏の甲子園は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾の馬淵史郎監督は試合後、『(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』とコメントしている。

高校通算打率は.450、本塁打は60本(ホームランボールは60個全部は揃っていないという)。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。

同年11月ドラフト会議巨人阪神中日ダイエーの4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。

松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄で、「確定」のくじを引くと親指を立て満面の笑みを見せた。当時の松井は阪神入りを熱望していたが、ドラフト会議直後に長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという[要出典]。なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。

巨人時代

入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。新人ながら球界全体を考慮したスケールの大きい発言に、同席した人々は驚きを隠せなかったという。

プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発し、ファンの度肝を抜く。川上哲治青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛した。テイクバックが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、という評価だった。高校時代は三塁手であり、入団時は原辰徳を始め内野手の衰えもあり、引き続き三塁を守ると思われたが、長嶋監督は外野手へとコンバートした。長嶋は「あの程度の三塁手はごまんといますよ、それよりも100m11秒台の俊足、遠投110mの強肩をもっと活かしてみたいと思い外野手とします」と説明した。松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励した。

1993年オープン戦に7番で出場するも、プロの投球に手こずり三振と凡打の山を築き、公式戦開幕は二軍で迎えた。しかし、イースタン・リーグの開幕戦で新人の伊藤智仁からホームランを放つなど、12試合で.375、4本塁打の活躍を見せ、5月1日の対ヤクルト戦(東京ドーム)に7番レフトで一軍デビューを果たした。初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の2塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日の試合では、9回裏に高津臣吾から内角の直球(ヤクルトの野村克也監督が松井が内角球に強いという話を確かめるために高津に投げさせたという、もう1つの説で当時の高津はストレートで勝負する癖が合ったためおまえのストレートは左の強打者にはこんなもんだと示したかったため投げさした。)をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、8月下旬に再び一軍に昇格するとヒットを連発し、セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った。

1994年、開幕戦で2本塁打。中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなど20本塁打を記録してチームの日本一に貢献。オールスターではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。日本シリーズで西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。オフに石川県の実家に帰宅した際、父・昌雄は彼がマスコミを一瞥し片手を上げる仕草に驕りを感じたという。そして、「自分を主観的に評価してはいけない。世間の人々は野球という君のごく一部の面を評価しているだけで、君という人間全てを評価しているわけではない。それなのに、今日の君のマスコミへの対応には明らかに傲慢さを感じました。お父さんには分かります。謙虚さを失った君の姿は周囲から見て醜く映るだけではないか」と諭した。松井は「確かに僕は日本一に貢献できたことで得意満面だったから、父の言った通りだと思います。あのような言いづらいことを言わせてしまった事を申し訳なくも思うし、また感謝している」と話している。

1995年、22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の横浜戦でレギュラーシーズンでは初の4番を打った。1995年頃、フジテレビ系の子供番組ポンキッキーズの企画で、室内練習場にて野球少年と対決した。結果は、1人目はファーストゴロ、2人目はライトスタンド上段への本塁打だった。

1996年、自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。リーグ最終戦まで山崎武司本塁打王を争っていたが、最終戦の中日戦では、すべての打席で敬遠されてタイトルを逃した。それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録である。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。

1997年4月27日広島戦で通算100本塁打を達成。ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初の2年連続1本差でタイトルを逃すことになる。

1998年は左ヒザの具合が思わしくないままシーズンを過ごし、その影響でプロ生活最大のスランプに悩まされる。開幕戦は4番を打ったものの、スランプの影響で清原和博に4番の座を奪われる。4月は打率.190、2本塁打に終わった。5月は月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻し、その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。また、本塁打王、打点王最高出塁率のタイトルを獲得。オールスターでは4試合連続本塁打(新記録)を放つ。

1999年5月下旬の東京ドームでの阪神戦でダレル・メイ投手からデッドボール(二塁走者の清水隆行の三盗阻止のためと思われる)を受け、怒りの表情を出して即バットを放り投げ、メイに2、3歩歩み寄った際、球審に止められてその場でうずくまり、これより球場全体が一瞬どよめいた。試合後『あれは絶対故意に違いない』とコメント。その後試合ではサヨナラ三塁打を放った。6月5日横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。7月のオールスターで代打出場した際にわき腹を痛め、連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。以後8月中旬までは連続試合出場のために1イニングだけ守備固めとして出場する。ケガの影響が響いてロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶりの快挙だった。また巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。

2000年7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となる。

2001年4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。9月27日に自身初の1試合3本塁打を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙である。

2002年FA権獲得が目前に迫り、球団からは7年総額56億円という破格の長期大型契約の話が持ちかけられるが、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円で契約した。7月9日に通算300本塁打を達成。同日にFA権を取得。オールスター前までは打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多、史上8人目の50本塁打を記録する。セリーグでは1985年ランディ・バース以来17年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となった。本塁打における最強のライバルでもあるペタジーニに9本差をつけた50本目のホームランは2002年の本拠地最終戦のヤクルト戦(東京ドーム)で記録。最終打席は一度キャッチャーへのファールフライを打ったところ捕手米野智人が落球。次の投球で本塁打を放った。7・8月と2か月連続で月間MVPを受賞。9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。三冠王目前だったが、首位打者争いでは福留孝介にタイトルを譲った。打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得する。

同年のシーズン終了後、FA権を行使してアメリカメジャーリーグニューヨーク・ヤンキースと3年2,100万ドルで契約。巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。本人はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言していたが、裏切り者だと考えるジャイアンツファンはほとんどいなく、日本球界全体で松井の成功を祈っていた。寧ろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対し同情する声が少なくなかった。球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカへの流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか…」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。

松井は長年ジャイアンツの精神的支柱であり、また、松井より後に入団してきた選手たち(特に仁志敏久清水隆行、高橋由伸、二岡智宏)の目標となり、当然選手会長も務めていた。伝統である「ジャイアンツの4番は日本の4番」ともなり、他球団のファンでありながら松井を応援しているプロ野球ファンも多く、甲子園での阪神戦でも愛される数少ないジャイアンツ選手の1人であった。ジャイアンツの近年の低迷・人気の陰りは松井がヤンキースへ移籍したことだと考えるジャイアンツファンが圧倒的多数である。松井在籍時の10年間巨人はリーグ優勝4回(うち日本一3回)だったが、松井が抜けた2003年以降、4年間にわたってリーグ優勝から遠ざかった。球団の人気、巨人戦のテレビ観戦視聴率、球場への観客動員数もそれぞれ低下し、また、松井清原と共にMKT砲と呼ばれた高橋由伸選手が怪我や故障に苦しみ始め、長嶋全盛期の頃の選手が次々と他球団へ移籍もしくは現役引退し、以前に増して露骨な戦力補強が繰り返されるようになった。これらの出来事は、いかに巨人にとって松井の存在が大きかったかを物語っている。

ジャイアンツ時代の契約更新は、必ず毎年12月24日に行ったことで「クリスマス更改」と呼ばれた。大物選手は下交渉をシーズン中から行うのが慣例のため、球団との交渉時間よりもインタビューの方が長いほどで、松井はきれいに一発更改が続いていた。また、松井自身があまり金額に拘りを持っていなかった事も理由のひとつだという。その後、ヤンキースに移籍してからも契約更改を保留をしたことは一度もない。更に巨人時代には更改の記者会見時にくす玉を割ったり、おもちゃのバズーカ砲を発射するなど、何らかのパフォーマンスをする事がお約束となっていた。松井はマスコミには「この日(クリスマスイブ)あたりは、1人でヒマなんですよ。忙しくなれるようにしたいです」と笑いながら言っている。

ヤンキース時代

ヤンキースでの背番号55
  • この節の日付は現地時間。

2003年、ニューヨーク・ヤンキースに入団。3月31日公式戦開幕試合トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。4月8日の本拠地開幕戦ミネソタ・ツインズ戦ではジョー・メイズ投手から第1号満塁本塁打。4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。オールスター出場後の後半開幕戦でもサヨナラ本塁打を放った。勝負強いバッティングでヤンキースの新人としては67年ぶりの100打点以上を記録した。7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票で選出され、新人としては歴代19人目のオールスター先発出場を果たした。日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く快挙となった。新人として、ヤンキースの選手として、21世紀になって大リーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となった。通常は162試合だが、雨天引き分けによる再試合があったため。地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランで先制点。ワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるバックスクリーンに飛び込む先制3ランを放った。

2004年、東京ドームで開催されたヤンキースと巨人の親善試合に出場、巨人の投手が松井に四球を与えるとファンからからブーイングが起こった。日米通算350本塁打を達成。8月7日、対トロント・ブルージェイズ戦で2打席連続本塁打を放ち、メジャーリーグ移籍後初の2打席連続本塁打となった。9月30日、対ミネソタ・ツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。シーズン優勝を決めた試合で同点本塁打を放ち30本塁打目を記録。最終的にメジャーで自己最高となる31本塁打を記録した。ポストシーズンでは、アメリカンリーグ優勝決定シリーズでMVP候補になるほど打撃面で貢献したが、投手陣が最後に崩れ3勝4敗で逆転負けを喫した。

2005年、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥ったが、シーズンを終えてみるとメジャーでは自己最高となる打率.305、116打点を記録。打率はリーグ7位で打点は8位。9月8日、日米通算400本塁打を達成。シーズンオフにヤンキースと4年5,200万ドルで契約を延長。

2006年、3月に開催されたワールド・ベースボール・クラシック日本代表の4番として期待されていたが出場を辞退した。この際、「王貞治殿」と宛名を書いた便箋15枚の手紙を書き送り、王監督に辞退の理由を説明した。日本は結果的に優勝したが、松井の出場辞退、とりわけ辞退に至る経緯を巡っては、メジャーリーグ選手会などの一部で[1]批判と疑問の声が上がった[2]5月11日、レッドソックス戦の1回表の守備機会の際、マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際に手首を故障、途中交代。巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。即日の検査の結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌日の早朝にマンハッタンのコロンビア・プレスビタリアン病院で手術が行われ無事に成功した。懸命なリハビリの末に現地時間2006年9月12日、怪我から124日ぶりに対タンパベイ・デビルレイズヤンキー・スタジアムに8番・指名打者で先発出場。4打数4安打、1打点の活躍で鮮やかな復活を遂げた。ヤンキースは2年連続でポストシーズン1回戦で敗退した。

2007年、開幕から4試合目の4月7日、オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退いた。翌日4月8日のオリオールズ戦は欠場、同日よりDL入りとなった。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。故障は順調に回復、DL入りの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。5月6日、本拠地での対シアトル・マリナーズ戦で日米通算2000本安打を達成、名球会入りも果たした。当初は外野手のエラーと記録されたが、後にツーベースに訂正された。直後判定に両チーム乱闘が起こった。試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、周囲を笑わせた。「ひょっとして」と考えた球団トレーナーが保管しており、試合後に本人に渡されていた。日米通算2000本安打は日本人メジャーリーガーとしては、イチローに次いで2人目。8月2日、7月のアメリカン・リーグ月間MVPに選出される。出場28試合で打率.345、28打点の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。2003年6月に月間新人MVPを受賞しているが、月間MVPは初受賞。8月5日、ヤンキースタジアムでのロイヤルズ戦で、メジャー通算100号本塁打を達成。夏場の活躍とは裏腹に、終盤からプレーオフにかけては右膝の故障に苦しみ、目立った成績をあげられなかった。シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受け、無事に成功した。オフにはトレード候補として名前が上がり、ストーブリーグの目玉候補の一人としてサンフランシスコ・ジャイアンツなど具体的な球団名とともに日米で盛んに報じられたが、実現せず残留となった。打点を多く叩き出すスタイルのため、この年にはチーム内で「パックマン」という愛称がついたことがある[3]。ゲームのキャラクターのように打点を呑み込んでいく連想からという。

2008年3月26日、25歳の日本人女性(富山県出身)元OLとアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した[4]。野球では監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。開幕は「8番・DH」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は首位打者に立つなど活躍した。ところが6月後半から古傷の左膝が悪化し6月23日付で故障者リスト入りした。球団首脳からは再三手術勧告があったが拒否し、2ヶ月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・DH」として出場をつづけたが、万全には程遠く打撃は低迷。9月後半は再び欠場し、21日のヤンキー・スタジアム最終試合の先発出場(「8番・DH」)を最後にシーズンを終えた。直後の22日、左膝の内視鏡手術に踏み切った。

人物・エピソード

元来は父親譲りの熱狂的な阪神ファンで、掛布雅之真弓明信の大ファンであったため、元巨人の選手にもかかわらず阪神ファンからの印象も悪くない。ドラフト会議で巨人が交渉権を得た時に、周りにいた友人たちは松井が阪神ファンと知っていたことから歓声も拍手も出来ずに静まり返ってしまった。後に阪神へ移籍した広澤克実が掛布の背番号であった31番をつけた時には、「その番号は僕が付けたい番号」と縦じまの31番に対する憧れをみせていた。

高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。

他人の悪口を言わない、ということが松井の信条の一つである。中学二年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語り、その後松井が他人を非難した、と語る人はなく、逸話もない。

巨人時代は日本を代表する長距離打者。メジャーリーグ移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評したが、度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしている。ニックネームは「ゴジラ」。英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、ヒデキ・ゴジラ・マッツイー(Hideki "Godzilla" Matsui)と呼ばれることもある。ヤンキースの公式サイトにあるファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれ、ヤンキースのチームメートは「mats」と呼ぶことが多いが、ジョー・ジラルディ監督は「matty」、巨人時代の原監督は「ゴジ」と呼んでいた。

背番号は巨人・ヤンキースを通して一貫して55番を付けている。巨人に入団当時、本人は高校時代に付けていた5を希望していたが、当時は在籍していた岡崎郁選手が付けていた。たまたま55が空いていたため55になったという説もある。巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでの王貞治の記録にあやかって付けられたもの。ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」と言う発言をしていたが、たまたまその時にヤンキースで55番をつけている選手がいなかった為、ヤンキースでも55番をつける事ができた。松井がヤンキースに移籍した後の巨人では2008年シーズン終了時まで誰も55番を付ける選手がおらず、事実上「暫定欠番」という扱いになっていた。しかし2009年シーズンから2008年度ドラフト会議で巨人に1巡目で指名された大田泰示が付けることになった。球団の期待の表れといえる。

監督からの信頼、強い精神力が求められる連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、日本で1250試合、大リーグで518試合(メジャーリーグでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数える。『きめ細かい体調管理による安定したフィジカルコンディションがその要因』と言われていたが、2006年の骨折後に『初めて体重計を買った』や、2007年のプレーオフ敗退時の『体調を整えるって大変なことだな。若いときはそんなこと考えもしなかったけど』という本人のコメントから、生来の身体の頑丈さが出場を続けられた一番の理由のようである。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話すなど、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも代打や代走、守備交代で僅かな時間でも出場し、2006年の骨折まで記録を維持した。骨折翌年の2007年シーズン初頭には「もう、連続試合出場記録が途切れたわけだから」というトーリ監督の提案を受け入れ、完全休養日をとるようになっている。2008年初頭にはスポーツ紙に「もう一度全試合出場」を目標としてあげるなど、依然として強いこだわりを持っているが、同年は休養を入れながらの出場となった上、夏には3年連続となるDL入りをしそのまま戦線離脱するなど、怪我がちとなって以降は目標の達成も困難となっている。

2004年12月26日に発生したインドネシアスマトラ島沖地震の際には義援金として5000万円を、2007年3月25日に発生した能登半島地震の際には1000万円を寄付した。ジャイアンツ時代から天災やテロでの被害者・被害地への義援金を一度に数千万出資している。ベトナムの孤児として暮らす10人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。

本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にも拘らず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」が取り上げられた。

広岡勲広報やスポーツ紙の記者などマスコミとの関係は非常に親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は、毎年の恒例行事となっている。その際、松井は投手を務める。記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。

巨人の4番を長らく務めた松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は落合博満であり、2000年に初めて四番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている。[5]

仲の良いチームメイトは主将のデレク・ジーター。選手として、人間としてジーターを尊敬しているといい、ジーターも松井に対し「マツイをサブキャプテンにするのは面白いアイディアだね」と2005年に発言している(もっとも、実際に副キャプテンのポジションは存在しない)。またジョー・トーリ前監督については、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた。トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。

審判に空振りをとられ、腑に落ちない表情の松井が三振に倒れたことにジョニー・デイモンが猛抗議をし、退場を宣告されたことがある。2006年に故障でチームを離脱した際には、首脳陣・チームメイトが口を揃えて「彼の代わりは存在しない」「松井ほどナイスガイはいない」と発言した。地元記者からの信頼も厚く、移籍初年度には、全米野球記者協会(Baseball Writers' Association of America)NY支部が取材に最も協力的だった選手を表彰する「グッドガイ賞」に輝いている。

ジャイアンツ時代から有名女優、タレントなどとの密会がすっぱ抜かれることも多く、女性関係の話題には事欠かない。独身時代は原田徳子草野満代松たか子早坂好恵酒井美紀戸田菜穂らとの交際が報じられた。特に、かねてから噂のあった戸田とは2005年に父・松井昌雄が結婚の可能性を示唆するなど極めて親密な仲だったが、翌年破局に終わった。

書籍「不動心」のタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄に会った際、2つあった候補の中から「不動心」を選んでもらったという。その時に長嶋は、特に何も語らず「これ」と一言述べただけですぐに決められたという。

煙草・ギャンブルは全くしない上、酒もかなりの下戸。巨人時代から花粉症に悩まされており、そのせいか近年キャンプからシーズン開幕直後にかけては調子を崩すことが多い。

第85代・第86代内閣総理大臣森喜朗は松井の実家の隣の集落出身である。同じ根上町立浜小学校の卒業生でもあり、森は松井の後援会名誉会長を務めている。

2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢の演奏による松井応援歌『栄光(ひかり)の道』(宮川彬良作曲、詞は一般公募による)が初演された。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・岩城宏之の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。

長嶋監督はドラフトで松井の入団が決まったところから、三年間で彼を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと。また、長嶋がナイター試合終了後に松井の携帯電話に連絡をしたら、松井が息を切らせながら電話に出ることから、深夜に関わらず彼がトレーニングをしていることを確認でき安心していたという。長嶋は松井について「多くの選手は最初は一生懸命に練習するが、少し結果が出るとすぐに手を緩めたがるものだが、松井君は結果に関係なく常に何年か先の自分の姿を想像して、長い目で物事を見つめながら練習できる、数少ない選手ですね。だから好不調に関係なく、いつも自分に厳しい練習を課していました」と評している。松井は「長嶋監督に褒められたことは一度もありません。どんなに結果を出したつもりでも、お前はそのくらい当然だろう、といわないばかりの態度でした」と振り返っている。

個人よりもチーム

松井は常に自分の成績よりもチームの成績にこだわっている。2001年5月23日のヤクルト戦東京ドームでは、単打が出ればサイクルヒット達成という状況の8回第5打席でヒットを打つが、個人記録よりもチームの勝利を選び一塁ベースを蹴って二塁に進んだ。ヤンキース1年目のキャンプ中に監督のトーリが「エンドランのサインを出してもいいか?」と訊ねたところ、松井は「何でもします」と答えた。日本では50本を記録するほどのホームラン打者だったがメジャー移籍以降、ホームランが少ないことに対してもトーリは「チームのためにヒット量産に移行した」と発言している。

松井と東スポ・アダルトビデオ

東京スポーツの愛読者であるほか、アダルトビデオ(AV)鑑賞が趣味であることを公言しており、AVに造詣が深いことで知られる。東スポお薦めのAV(松井曰く「バイアグラAV」)を松井に贈呈する様子が東スポの一面を飾ったこともある[6]。なお東スポからAVを受け取る様子を紙面で紹介されたのは、スポーツ選手としては松井が史上初である(2008年現在も松井と小堀佑介の2人のみ)。2007年には、東京スポーツとソフト・オン・デマンドが共催した「AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜」の特別審査員も務めており、その際に好みの作品として「ストーリーのしっかりした単体女優物」を挙げている。

渡米した2003年春のキャンプ中に、ヤンキースの歴史上初めてNYの番記者たちを食事に招待し、食事後には松井が所蔵しているAVを番記者たちにプレゼントした。このことは、マスコミを忌避する選手も少なくない中、松井の誠実な人柄を印象付け、以後の番記者との信頼関係につながったという[7]

しかし2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになっており、東スポ紙上でも北海道日本ハムファイターズ中田翔を「二代目下ネタ王」として後継者に指名した[8]。また2008年には結婚したこともあり、「保有していたAVを全て処分した」とインタビューで語るなど[9]、最近はAVから一定の距離を置く姿勢を示している。ただ、同郷の友人たちからは「いや、最初だけでしょ」とAV封印を否定されている[10]

プレースタイル

打撃

内角に強く、高めや内角の球をライト方向へ引っ張っての弾道ホームランの飛距離や打球の速度はメジャーでも全体10位以内に入るほどのパワーを誇った。 バントはまずしないが、同様の意味をもつ進塁打の数は多い。巨人時代は毎年のように100四球を超えていることから選球眼にも優れている。

守備・走塁

捕球・送球や状況判断は堅実。ただし、クッションボールの処理にもたつく場面が多々見られる。2008年は膝の故障から指名打者での出場が多くなってきている。巨人時代から100m走を11秒8と足は速い方だが、トップスピードに乗るまで時間がかかるタイプの為、内野安打・盗塁は少ない。近年は膝の故障のために全力疾走が多少困難になっている。

タイトル・表彰・記録

日本プロ野球

メジャーリーグ

  • 月間MVP:1回(2007年7月)
  • 週間MVP:3回(2003年6月、2004年5月、2005年6月)
  • 月間新人MVP:1回(2003年6月)
  • オールスター出場:2回(2003年、2004年)
    • シーズン新人最多出場:163(2003年)
    • リーグチャンピオンシップシリーズ最多安打:14(2004年)※タイ記録。
    • リーグチャンピオンシップシリーズ最多塁打:28(2004年)※タイ記録。
    • リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多安打:5(2004年第3戦)※タイ記録。
    • リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多得点:5(2004年第3戦)※タイ記録。

日米通算記録

  • 日米通算1768試合連続出場(1993年8月22日 - 2006年5月11日)
  • 日米通算2000本安打達成(2007年5月6日、日本時間7日)

年度別打撃成績
































O
P
S
1993 巨人 57 203 184 27 41 9 0 11 83 27 1 0 0 0 17 0 2 50 1 .223 .296 .451 .747
1994 130 569 503 70 148 23 4 20 239 66 6 3 1 4 57 1 4 101 12 .294 .368 .475 .843
1995 131 569 501 76 142 31 1 22 241 80 9 7 2 2 62 1 2 93 12 .283 .363 .481 .845
1996 130 569 487 97 153 34 1 38 303 99 7 2 0 7 71 1 4 98 5 .314 .401 .622 1.023
1997 135 596 484 93 144 18 0 37 273 103 9 3 0 6 100 10 6 84 5 .298 .419 .564 .983
1998 135 603 487 103 142 24 3 34 274 100 3 5 0 4 104 2 8 101 7 .292 .421 .563 .984
1999 135 573 471 100 143 24 2 42 297 95 0 4 0 6 93 3 2 99 3 .304 .416 .631 1.047
2000 135 590 474 116 150 32 1 42 310 108 5 2 0 7 106 5 2 108 1 .316 .438 .654 1.092
2001 140 611 481 107 160 23 3 36 297 104 3 3 0 7 120 6 3 96 9 .333 .463 .617 1.080
2002 140 623 500 112 167 27 1 50 346 107 3 4 0 3 114 17 6 104 4 .334 .461 .692 1.153
2003 NYY 163 695 623 82 179 42 1 16 271 106 2 2 0 6 63 5 3 86 25 .287 .353 .435 .788
2004 162 680 584 109 174 34 2 31 305 108 3 0 0 5 88 2 3 103 11 .298 .390 .522 .912
2005 162 703 629 108 192 45 3 23 312 116 2 2 0 8 63 7 3 78 16 .305 .367 .496 .863
2006 51 201 172 32 52 9 0 8 85 29 1 0 0 2 27 2 0 23 6 .302 .393 .494 .887