松島パークホテル とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋松島パークホテル(まつしまパークホテル)は、大正時代から約半世紀に渡って、日本三景・松島のランドマークの1つとして親しまれたホテル。所在地は、現在の住所では宮城県宮城郡松島町松島浪打浜にあたり、JR仙石線・松島海岸駅からすぐの、松島湾に面した松島海岸公園グリーン広場[1]の北端である(観欄亭とマリンピア松島水族館の間)[2]。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ウィキペディア(Wikipedia)記事松島パークホテル(まつしまパークホテル)は、大正時代から約半世紀に渡って、日本三景・松島のランドマークの1つとして親しまれたホテル。所在地は、現在の住所では宮城県宮城郡松島町松島浪打浜にあたり、JR仙石線・松島海岸駅からすぐの、松島湾に面した松島海岸公園グリーン広場[1]の北端である(観欄亭とマリンピア松島水族館の間)[2]。
概要松島パークホテルは、松島への外国人観光客誘致のために、東北地方初のリゾートホテルとして、3年半の期間と費用5万円をかけて[3]建設され、1913年(大正2年)8月15日に開業した。設計はチェコの建築家ヤン・レツルで、外観[4][5][6]は中央の4階建ての塔屋を挟んで、地下1階、地上2階建ての入母屋造の宿泊棟が一方が北東、一方が南東に延びるL字型に配列されており、松島湾に面していた[7]。 松島パークホテルは、当時の宮城県知事・寺田祐之により進められた「松島公園」構想[8](松島湾の島々を含む広大な地域を公園として観光地化するもの)のシンボル的な建造物であり、竣工したホテルを見た寺田知事が広島県知事として転任(1913年)した際、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設計者としてレツルを起用するきっかけとなった。 戦時中は大日本帝国海軍、終戦後は進駐軍(米軍)に接収されたが、1952年に返還されると、周囲には1950年に再開館した松島水族館(1927年開館、戦時中閉館)に加えて動物園(松島ニューパークホテル跡地と見られる)が新設され、松島観光の中心地の1つとなった。しかし、1969年に火災で建物の一部が焼失したことで解体され、隣接していた動物園も閉鎖された。なお、松島水族館(現・マリンピア松島水族館)は現在も営業を続けているものの、移転話があがっている。 現在、跡地は松島公園グリーン広場として再整備され[9]、松島カキ祭り(例年2月の第1土・日)などが開催されている。 沿革
作品の舞台実際に松島パークホテルで発生した殺人事件を元に、映画が1960年(昭和35年)頃に制作された。また、昭和30年代後半にテレビで事件のドキュメンタリー番組が放送された。 松島ニューパークホテル松島パークホテルの南側隣接地に設置された外国人客向けホテル[10]。基本設計を高橋貞太郎、実施設計を吉田五十八が担当した。総予算46万5千円で1937年(昭和12年)12月に着工し、1939年(昭和14年)8月に開業した。開業から半年も経っていない1940年(昭和15年)1月22日、失火により焼失した。 第12回国際オリンピック競技大会(1940年開催予定)の東京市への招致活動において、1939年に松島での外国人宿泊が予定されていたため建設された。なお、1940年の開催が決まった東京オリンピックは、日中戦争の影響から中止になった。 脚注
関連項目
外部リンク
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